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1日目


​「……あう……あう、ごめんね、デンジくん……。いきなり空から降ってわいて、こんな……迷惑だよね……」


​ 都内の高層マンションの一室,

広々としたリビングのソファの隅っこで、私は小さく縮こまっていた。着ているのはデンジくんから借りた大きめのTシャツ。私のサイズだとワンピースみたいになってしまう。情けない話ではあるが、これしか着るものがないのである。その理由については後述。


​「迷惑じゃねえよ。言ったろ」


​ キッチンから低い声が響く。

 コーヒーのいい香りと共に戻ってきたのは、大人びた男性──26歳になったデンジくんだった。


​ 表情に落ち着きがある。もう、昔みたいにやたらにベロを出して歩いたりしない。昔の面影はあるけれど、どことなく顔つきが精悍になっていて、声にだって重みがある。私が知っている「16歳のクソガキ」は、もうどこにもいない。目の前にいるのは、大人の色気を纏った、立派な男性。なんだが居心地が悪い。デンジくんそのものもそうだけど、彼シャツをしてることとか、一方的に迷惑をかけておうちに上がり込んでいることとか、全部全部。


​「ほら、ココア。アンタ、甘いの好きだったろ」

「あ、ありがとう……。ごめんね、ほんとに……」


​ 私が恐縮してカップを受け取ろうとすると、彼の手が私の指先に触れた。ゴツゴツとした厚くて温かい手。私の手なんて、簡単に包み込まれてしまいそう。多分私が知っている16歳のデンジくんのそれとさほど変わりはないはずなのだけれど、何故だかそう思う。


​「ちっせ」


​ デンジくんがポツリと呟いた。


​「んえ」

「手が。こんな小さかったっけな」


​ 彼は眩しいものを見るように目を細めて愛おしそうに、そしてどこか痛ましそうに、私の指先を見つめてくるので、なおさら居心地が悪くなる。











​ 時間の悪魔との交戦中、何かの力を使われて深い穴に落ちたと思ったら、10年後の世界に飛ばされていた。何が何だか分からず、ひたすらおろおろして路頭に迷っていた私を、偶然通りかかったデンジくんが拾ってくれたのだ。


「副隊長?」


 大雨の中で傘を取り落とした彼は、まるで死人でも見たかのような顔をしてた。


 そういう訳でボロボロになっていた私のスーツや電子機器の類はデンジくんに預けている。ひとまずは彼経由で公安にもっていってもらって、それで色々検査してもらうらしい。


​──彼によれば、私はこっちの世界において、「行方不明」ということになっているそうで。でも彼の反応を見ていると何となく分かる。たぶん私、この世界じゃもう死んでるんだろうなって。随分豪華な内装の彼の部屋には、私の痕跡が一つもない。たとえ10年後であっても、私が生きているのなら、少しくらいは遊びに来た名残が残っていても良さそうなものだけれど。

 だっていくら時間が経っているっていったって、私がデンジくんに一切構わなくなっているってことは絶対にないだろうし。


 だって、ここには写真のひとつさえ無いのだ。それになにも根拠はそれだけじゃない。デンジくんの視線は、懐かしい友人に会ったというより、幽霊か幻を見ているような、縋るような熱を帯びているのが分かってしまう、から。……くるしい。


​「あの、デンジくん。私、何か手伝おうか? 掃除とか、料理とか……」

「いらねえ。座ってていい」

「でも、居候だし。えっと、お財布持ってないから、奢ってあげるって言うのはむりだけど……お料理くらいはするよ?」

「いいって言ってんだろ」


​ そうは言われたってなにもしないというのは心苦しい。ずっとソワソワしている私に、デンジくんは少し強い口調で遮った。驚いてビクリと肩を揺らす。わ。何か地雷ふんだかな。

 彼は「悪ぃ」とバツが悪そうに頭をかき、私の隣にドサリと腰を下ろす。


​「アンタは、何もしなくていいんだよ」

「そういう訳には……」

「ただそこに座って、息して、生きてりゃそれでいいの。俺が全部やるから」

「んう。」


​ 彼の腕がソファの背もたれに回される。

 包囲されるような圧迫感と、少しの不安感。……なんだか重たいような。


「初々しいな」

「ほえ?」

「今のアンタだよ。幼い。昔思ってたより、ずっと。……すげえ、可愛い」

「わ! なんだねその口の利き方は、年上に向かって」

「今は俺のが年上だろ」


​ デンジくんの顔が近づく。昔のミルクくささとは違う大人の男の人の匂いがして、思わず顔が熱くなった。


​「わ!わ!わ!からかわないでよ! 生まれ年的には私の方が年上なんだからね!?」

「今の俺から見たら、アンタなんてちっせー女にしか見えねえよ」


​ 大きな手が私の頬に触れる。


「……やっぱり、悪魔との契約は切れてるか。こっちじゃもう生きてねえのもいるだろうしな」

「さ、触っただけで分かるの……?」

「まぁな」


 そうなんだ。

 彼の手つきは壊れ物を扱うように慎重で。それを見て、何となく察するものがある。この世界の「私」は、きっと酷い死に方をしたんだろう。分からないけど……なんとなくだけれど、そんな感じがする。


​「んん……んんんん。えっと、デンジくん」

「ん」

「立派に、なったね?」


​ 彼の手に、自分の手を重ねた。


​「昔は漢字も読めなかったのに。こんないい部屋に住んで、コーヒーも淹れられるようになって、すごいよ! えらいえらい!」


​ 私の手を握り返される。その手の甲に額を押し付けた。むずかゆい感じ。

 

「なあ。……もう少しだけ、ここにいてくれよ」

「う、む。言われなくても行く先ないし、しばらくはニートするよんっ」

「元の世界に戻る方法とか、悪魔の情報とか。俺が全部探すから。それまでどこにも行くな」

「お、おお? おお……」


​ 悪いからいいよ、とは言えない雰囲気である。彼はまるで目を離したら私が消えてしまうと思っているみたいだ。するりと伸びてきた手が私の腰を抱き寄せて、膝の上に私を乗せた。暴れたいけれどやっぱりそれが出来るような空気ではない。大人しく抱きすくめられて、肩に顎を載せられる。


​「……あう、デンジくん、重くない……?」

「軽すぎ。もっと食え。肉、一番いいやつ買ってあるから」

「のわわ……んんん……なんかむずがゆいよぅ……」

「はあ? なんで」

「…………きょり、かん。へんだってぇ……」

「変じゃねーって。こんなもんだろ」

「やーん見ないうちにデンジくんの純情が失われてるっ!」


​ 26歳のデンジくんの胸板はむかしのそれと何ら変わらないはずなのに岩のように硬くて温かい。私はその鼓動を聞きながら、申し訳なさと、少しの幸福感に包まれて目を閉じる。にゃーーー照れくさい。これまでどんな女の変遷をたどってきたのか実に気になる次第である。……うそ、やっぱあんまり知りたくない。どうせろくでもないだろうし。


​「……いい匂いする」

「ぎゃ」


​ 首筋に鼻を埋められ、深く吸い込まれる。


​「今日はずっとこうしてる。文句ねえよな?」

「ないわけない!」

「あっそ。それでも吸うけど」

「聞いた意味! んぎゃあああああ」


​ もう仕方がないので、彼の首に腕を回し、お返しとばかりに頭を撫でた。

 髪の感触だけは16歳の頃と変わらず、少しゴワゴワしている。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


​2日目


​ ふかふかのキングサイズベッドで目が覚めて、隣がもぬけの殻になっていることに気がついた。


「あ、寝坊した!」


 慌てて枕元の時計を見ると、時刻はもうお昼の11時を回っている。


​「わあ、やっちゃった……。んむむむむむむむ、居候の身分でお昼近くまで爆睡とか、私の神経どうなってんの」


​ 公安時代の万年睡眠不足が染み付いているせいか、こんなに質のいい寝具で寝かされると、泥のように眠ってしまうらしい。のそりとベッドから起き上がると、サイドテーブルにメモが置かれていて。


​『仕事行ってくる。冷蔵庫のもの適当に食ってて。外には絶対に出ないように』


​ ミミズがのたうち回ったような字……ではなく、少し角ばっているけれど、しっかりとした大人の筆跡。

 漢字も使われてる。「冷蔵庫」とか、昔のデンジくんなら絶対書けなかったのに。


​「『絶対に出るな』って、過保護だなあ。……うーむ。でもまあ、たぶんだけど……いきなり死んだはずの人間が街うろついて、知り合いとかにあったら、パニックになるもんね」


​ まあ、確定したわけじゃないにしてもだ。それだけ念を押すってことは、それ相応の理由があるんだろう。違和感がないわけじゃないけど気付かないふりをして、伸びをしながらリビングへと向かう。


 改めて見渡してみると、デンジくんの家は本当にすごい。

 都内の一等地にあるタワーマンション。モニター?みたいなのもなんかすっごくきれいだし、ソファもL字で高級感がある。窓から見える景色は、私が知っている東京よりもビルがニョキニョキ増えていて、空が狭い。床にはチリ一つ落ちていないし、家具もモデルルームみたいに統一されている。


​「んー、とりあえず。家主がいない間に家宅捜索と行きますか」


​ 探検、探検。ちょっとだけワクワクする。

 相変わらず着続けていいるぶかぶかのTシャツの裾をパタパタさせながら、広いリビングを歩き回った。

​ まずはキッチン。

 巨大な冷蔵庫。業務用かってくらい大きい。綺麗に整理整頓された棚には、高級そうなハムやチーズ、見たこともないラベルのドレッシング。そして何より──


​「わぁ、 ビールある。 しかもプレモルだぁ……」


​ お高いやつではありませんか。一番上の棚に、黄金色の缶がずらりと鎮座しているのを見つけて、少しびっくりする。悪魔との契約で内臓がダメになっちゃってるから飲めないけど、少しだけウキウキ。いいねっ、一緒に飲みたいな、デンジくんとお酒。


「……あのこ、ビールとか、飲むようになったんだ」


 苦いって嫌がりそうなもんだけどなぁ。成長にすこしだけうるり。


 それにしても。キッチンを振り返って、思った。生活感がなさすぎる。調味料の減り具合とかを見るに自炊はしているみたいだけど、なんというか……「誰かを招く」ことを想定していない部屋だ。スリッパも一足しかなかったし。


​「彼女とかいないのかなぁ。あんなにイイ男になったのに」


​ まあ私みたいな正体不明の女を家に住ませられる時点でいないんだろうけどもさ。とにもかくにもそれをチェックするために、早速洗面所に行ってみる。

 棚には男性用の整髪料と、髭剃り。それと、なぜか未開封の女性用スキンケアセットが箱ごと置いてあった。『最高級保湿成分配合』なんて書いてある。


​「うあ。これ、まさかとは思うけど私のために買ってきてくれたのかな。申し訳ないなあ、なんか……」


​ 昨日の今日で用意したにしては手際が良すぎる気もするけど。


 申し訳なさそうな顔付きで鏡に映る自分は、昨日までの私と何も変わらない。でも、周りの世界だけが10年進んでる。不思議な感覚だ。浦島太郎ってこんな気分だったのかな?あんま気持ちいいもんじゃないね。

​ 一通り探検を終えて、リビングのソファにダイブする。ふかふかでふわふわで気持ちいい。

 脱力したら、ふふとタバコが吸いたくなった。


​「んううう。タバコも取り上げられちゃったしなぁ」


​ 口寂しい。デンジくんはタバコ吸うのかな。ローテーブルの引き出しをそっと開けてみる。別に盗みたい訳じゃないけど、ちょっとだけ確認してみたかった。


 中に入っていたのは、数冊の通帳と、印鑑。それと――一枚の、古ぼけた写真だった。


​「……あ」


​ 思わず息が止まる。

 いつかの飲み会の写真だ。みんなでピースして、私がベロベロに酔っ払ってて、アキくんが迷惑そうな顔をしてて、姫野先輩も居て。写真の縁はボロボロで、何度も何度も指でなぞったみたいに、私の顔の部分だけ色が薄くなっていた。胸がぎゅっと締め付けられる。

 こんな大事に持ってるなんて。あのおバカなデンジくんが。姫野先輩が死んで、私が死んで、アキくんも……多分、死んで。彼はこの広い部屋で、たった一人で、この写真を眺めていたんだろうか。


​「……よし」


​ パン、と自分の頬を叩いて立ち上がった。しんみりしてる場合じゃない。居候させてもらってるんだ、せめて掃除くらいして、恩返ししなきゃ。


 決まれば、まずは換気だ換気! 淀んだ空気を入れ替えよう。


​「よいしょっと……あれ?」


​ ベランダに出るための大きな掃き出し窓に手をかける。

 動かない。鍵は開けたはずなのに、戸が開かないのだ。よく見ると、サッシのレールの部分に金属製のストッパーのようなものがガッチリと噛ませてある。


​「なにこれ、チャイルドロック? デンジくんってば用心深いなぁ」


​ まあ、高層階だしね。落下防止かな。酔っぱらってうっかり外出たらマジで落下死しそうな感じの家だし。

 じゃあ、玄関から廊下の空気でも入れようか。私はペタペタと廊下を歩き、重厚な玄関扉のサムターンを回そうとして――


​「ん? これも回んない?」


​ カチャ、カチャ。金属が噛み合う硬い音がするだけで、ノブはピクリとも動かない。

 内側から開けられない鍵?最近の高級マンションは電子制御とかで、勝手にロックがかかる仕組みなのかな。オートロック的な?

 壁にあるパネルを操作してみるけれど、『操作権限がありません』という無慈悲な文字が浮かぶだけ。


​「ハイテクすぎてわかんないよー」


​ とりあえず扉をドンドンと叩いてみた。

 シーン、と静まり返った廊下に虚しい音が響く。……まあ、多分だけど。私が間違って外に出ないように、厳重にロックして行ってくれたんだろう。うっかり者の先輩への、配慮ってやつだ。


​「ま、いっか」


 ひとまずそれ以上は深く考えないことにした。



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3日目


​ カチャ、カチャリ。

 何度回しても玄関のドアノブは回らなかった。


​「また。昨日の夜、空けといてねってお願いしたのに……電子ロック、かかってる」


​ 青ざめた顔のまま重厚な鉄の扉を見つめてみるけれど、何も変わらない。


 ここに来て、3日だ。初日は「疲れてるだろうからゆっくりしてて」と言われて、素直に従った。

 2日目は、まあいいかと思った。勘違いかなあ、って。


 そして3日目。


 私は一歩もこの玄関から外に出ていない。

​ こまごまとした窓ははめ殺しで、換気用のわずかな隙間しか開かないようになっている。ベランダに出る窓には子供の転落防止用みたいなロックが厳重にかけられていて、私の力じゃビクともしない。


​「んんんんん……、……。……たぶん、だけど。閉じ込められてる、よね。これ」


​ 部屋は快適だ。冷蔵庫には食材が満タンだし、面白そうなゲームも映画も揃っている。でもこの閉塞感は流石に苦しい。

 飼育ケースに入れられたハムスターになった気分だ。


 とはいってもどうしようも無いので、私は1日玄関先に座り込んで待ってみることにした。傍らにはデンジくんが部屋に置いていた小難しい部屋を抱えて。へー。カズオ・イシグロだって。日本人の作家さんなのかな?んん?デンジくん、難しい本を読むようになったんだなあ。馬鹿だからコンテキストとか全然理解できないけど。

​ そうしてしばらく本を読んでいるうちに、電子ロックが解除される『ピロリン』という軽快な音が聞こえた。


​「ただいまー。……ん、玄関で何してんの」


​ 入ってきたのは買い物袋を提げたデンジくん。大人の余裕たっぷりの笑み。でも、その目は私の足元――外靴を履こうとしていた形跡――を捉えて、一瞬だけスッと細められたのが分かった。こわ。


​「あ、おかえり。あのね、ちょっと散歩に行こうかなって思ったんだけど、玄関ロックが空いてなかったの」

「散歩? なんで?」


​ デンジくんは私の言葉を鼻で笑い飛ばして、靴箱に私の靴を押し込んだ。奥の方に、隠すみたいに。


「あうっ、あ、え?」


 そして自然な動作で私の腰を抱き寄せ、リビングへと連行する。


​「外は暑いし空気悪いし悪魔もウヨウヨしてる。……ここにいれば安全で快適だろ?」

「え? えっ、と、ええと、そ、そうだけど……。でも、私、元の世界に戻る手がかりを探さないと」

「それは俺がやるって言ってんじゃん、だから」

「そ、そういう訳にはいかないよう」


​ 彼は私をソファに座らせて買ってきたケーキの箱を開ける。流石に今日は膝の上には載せないらしい。良かった。


​「ほら、今日は駅前の高いとこのケーキ買ってきたんだ。アンタ、こういうの好きだろ?」


​ まるでぐずる子供をあやすような手つき。イチゴの乗ったショートケーキ。美味しそう。今の私が小さな子供か、あるいはペット扱いのような接し方をされていなかったら、喜んで食べたんだろうけど。


​「それはまあ、好きだけど……えっと。デンジくん。私、外に出たい、なあ」


​ 輝かしいケーキを無視して、彼を見上げた。


「なんか、ちょっと、コンビニとか行きたいん、だけど。……ずっとおうちに居たら、息苦しいし……」


​ デンジくんの手が止まった。

 部屋の空気が一瞬で張り詰める。ゆっくりとナイフを置く。そうして私の方を向き、ソファに手をついて私を閉じ込めた。


「……外に出て、どうすんの?」

「あ、え」

「コンビニに行く途中で車に轢かれるかもしれない。ビルの看板が落ちてくるかもしれない。……また、悪魔に殺されるかもしれない」


​ あ。瞳孔が開いている。こわい。何言ってるの、と返事をしようとして、唇が動かないことに気が付いた。


​「……俺はさ。アンタが死んだ時、何もできなかった」


​ 彼の手が私の頬に触れる。震えている。こんどはあっちが、小さな子供みたい。


​「奇跡だかなんだか知ったこっちゃねぇけど、二度目のチャンスなんだ。なのにみすみす死ぬかもしれない場所にアンタを出せるわけねえだろ」

​「うえええ……でもさあ、一応私はキミの上司ですよ? 元、ではあるけど……自分の身くらい……」

「黙って俺の言うこと聞けよ」


 低い声に思わずビクリと身体が竦む。デンジくんはハッとした顔をして、すぐにギュッと私を抱きしめた。骨が軋むほど強く。痛いくらいに強く。


​「ごめん。……ごめんな、怖い声出して」


​ 耳元で囁かれる声は切実だった。


​「ここにいてくれ。俺の目の届く範囲にいてくれよ」

「あ、っと……」

「何でもするから。アンタが欲しいもの、全部俺が持ってくるから。……だから、外に出たいなんて」

 縋るような声色に、私は何も言えなくなる。しばらく黙りこんでいると、デンジくんは取り繕って明るい顔で笑った。


​「さ、さっさと座ってケーキ食おうぜ。あーんってするから」

「う、ん……」


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4日目


​ 目が覚めると隣はもうもぬけの殻だった。サイドテーブルには『朝飯、冷蔵庫にあるから』という書き置きと、淹れたてのコーヒーが入った保温マグが置かれている。


​「んー……几帳面になったもんですなぁ」


​ 大きく伸びをしてキングサイズのベッドから這い出す。ここに来て4日目。私の生活リズムは、ある程度ズレた状態のままで規則正しくなり始めている。リビングに行くと自動掃除機(ルンバとか言ってた)が静かに床を這い回っていて、なんか今の私ってこいつ以下だよなぁ、と思った。だって私、掃除もまともに出来てないもんな、今のところ。


 窓の外は今日も快晴だ。

 地上35階から見下ろす東京の街はまるでジオラマみたいに小さくて現実感がない。私は窓ガラスに手を当てる。冷たい。昨日の夜こっそり確認したけれど、やっぱりこの窓は開かない。強化ガラスで出来ているみたいだから、ちょっと椅子を叩きつけたくらいじゃヒビも入らないだろう。


​「まー、眺めはいいし。悪くはないんだけどさー……」


​ 独り言を呟いて冷蔵庫を開けた。中には、タッパーに入った彩り豊かなサラダと、高級そうなサンドイッチ。デンジくんが作ったのか、あるいは買い置きなのかは分からないが、とにかく私の為に用意しておいてくれたものだ。至れり尽くせり。16歳の頃の彼からは想像もつかないほどの甲斐性。その完璧さが今の私には少しだけ薄気味悪い。


​ サンドイッチを齧りながらリビングの巨大なテレビのリモコンを手に取った。今のうちに情報を集めなきゃ。私が死んだとされる「10年前の事件」のこと。皆はどうしてるんだろう……というか、何があったんだろう。それに、今の公安の状況とかも知っておきたいし。

 そして、元の世界に戻るための「時間の悪魔」の手がかりも。ボタンに書かれた文字を読みながら、なんとなくでピッ、と電源を入れる。


​『――次は、お天気コーナーです』


​ 流れてきたのは能天気な朝のワイドショー。すぐにチャンネルを変えた。ニュースが見たい。公安関連の報道とか、悪魔の被害状況とか。


『このとろとろのチーズが』

『今日のどっきりは!アイドルの鞄の中を』

『今回釣りを教えてくれる名人はこちらの——』


「うむ?」


 何かが変だ。チャンネルを変えても、変えても、映るのはバラエティ番組か、映画の再放送か、見ても毒にも薬にもならないような番組ばかり。


​「あれれ? ニュースチャンネルは?」


​ 番組表ボタンを押した。すると、画面に『視聴制限がかかっています』という無機質な文字が表示される。


​「ほ?」


​ パスワード入力画面。

 まさか。いや、でも、まさか。慌ててダイニングに置いてあるパソコンを起動した。10年遅れの知識を総動員して、ブラウザを開こうとする。


『インターネット接続が制限されています』


 検索アプリを開く。


『キッズモードで動作中』


​「っ、冗談でしょ?」


 なんだこれ。危ないからとか、そういう口実じゃ言い訳が効かないぞ、こればっかりは。だって、だって、こんなのって、おかしい。情報規制なんて、一体なんのために?

​ そうしてしばらく家中のメディア類を漁っているうち、ガチャリ、と電子ロックが開く音がした。時刻は18時。


​「ただいま、副隊長。いい子にしてた?」


​ スーツ姿のデンジくんが入ってくる。手には有名なパティスリーの紙袋。またケーキを買ってきたらしい。


​「あ……お、かえり。早かったね」

「おう。アンタが待ってると思ったら、仕事なんかしてらんねえよ」

「んん……」


​ 彼はネクタイを緩めながら私の隣に座り、当然のように肩を抱き寄せてくる。タバコと血の残り香。彼が外の世界で戦ってきた証拠。なんだか懐かしい気持ちになる匂い。まだ、たったの四日しか経っていないのに。


​「あの……デンジくん」

「ん?」

「テレビ、ちょっと、変みたいなんだけど」


​ 努めて軽く、世間話のように切り出してみる。まさか情報規制しているのか、なんて直球に聞けるはずもなく。


​「ニュース見ようと思ったら、なんか制限かかっててさ。パスワード、教えてくれない?」


​ デンジくんの手がピタリと止まった。ゆっくりと私の方を向き、作り物みたいに綺麗な笑顔を浮かべてくる。こわい。不気味な顔だ。


​「見なくてもいーじゃん、別に」

「え?」

「暗いニュースばっかだぜ? 悪魔が人を殺したとか、政治家が汚職したとか。アンタはそんなの見なくていいよ」

「……そんなこと、ないと思うけど……わたし、こっち来たばっかで、何も分からなくて……いろいろ、世の中のこと知っておかないと」

「俺が知ってるからいい」


​ 肩を抱く腕に力がこもる。


​「アンタは楽しいもんだけ見てりゃいいんだよ。映画とか、動物の番組とかさ。そのために全部設定しといてやったんだから」


​ 悪びれる様子もない。むしろ「やってあげた」という善意すら感じる口調なのが、余計に怖かった。


​「……あの、デンジくん。私をどうするつもりなの?」

「あ?どうもしねえよ。ただ守ってるだけだろ。外の情報なんて、毒にしかならねぇし」

「う……あ……」

​「ほら、これ。着てみろよ」


​ 気を逸らすようにあからさまに声色を変えたデンジくんが紙袋から取り出したのは、淡いブルーのルームウェアだった。シルクのような手触り。明らかに高価なものだ。どう見ても外に出るための服ではない。


​「ほら、可愛い。絶対似合う」

「えっとね……気持ちは、凄く嬉しいけど……でも私、外に出るための自分の服が欲しいな。いつまでもTシャツ借りっぱなしじゃ悪いし、下着とかも……」

「下着ならタンスに入ってる」

「え」


​ 言われて恐る恐る寝室のチェストを開けると、そこには新品の下着がズラリと並んでいた。手に取って完璧に把握されたラインナップだ。いつの間に? この、4日の間に……仕事中に買いに行ったの?それって——。


​ 背後からデンジくんに抱きすくめられる。怖くて振りほどけない。だって今の私は悪魔との契約も切れていて、武器だって何にも持ってなくて、伝手もなくって、連絡手段だって、なくって。

 デンジくんは私の服を公安の研究施設に渡したって言ってたけど、それだって、ほんとかどうかも分からなくて……。ああ、いや、でも、まって。


「……あ」


 ちがう、なんで、なんで気付かなかった?

 だって私が丸4日もここに居ること自体、異常事態じゃないか。本当なら、公安の人間か誰かが、私の身体を検査しに来ても、いいはずじゃないか。なのに誰も来ない、誰一人会いに来ない。もしデンジ君以外、誰も私がここに居ることを知らなかったら?そしたら、そしたら、誰も、私の存在を、知らなくて。デンジくんが私をどう扱っても、だれも、気付くことも、なくって。

 

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 デンジくんは、私の味方じゃないかもしれない。


 

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5日目


​ 5日目の朝。今日は少しだけ早めに起きた。

 ちゃんと私と一緒に朝ごはんを食べてお見送りされたデンジくんは、いつも通り、いや、いつも以上に機嫌よく「行ってきます」と家を出て行った。


 残された私は、広すぎるリビングで一人、膝を抱えている。


​「……私、死んじゃったのかぁ」


​ 改めて口にすると現実味が重くのしかかってくる。でもどうやって? 誰に?そして、私が死んだ後、アキくんやパワーちゃん、他の4課のみんなはどうなったの?……マキマさんは?隊長は?


 デンジくんは何も教えてくれない。


​「ちゃんと、聞かなきゃ。……今のままだと問題が多すぎる」


​ 怖いけれど知らなきゃいけない。私はかつて彼の上司で、保護者代わりだったんだから。震える足を叩いて無理やり奮い立たせる。


 定時になって帰ってきたデンジくんからは、漂う鉄錆の匂いが漂っている。今日の戦闘はそれなりに激しかったのかスーツにはべっとりと返り血がついているのに、シャワーを浴びて出てきた彼の体には、擦り傷ひとつ残っていなかった。彼はチェンソーマンで、不死身の存在だから。生身の人間である私とは生き物のつくりが違う。

 見た目が一緒だからあまり自覚しないけれど……それって、改めて考えたら、恐ろしい事かもしれない。


​「どした? 飯食わねえの」


​ ダイニングテーブルで向かい合いながら、デンジくんが不思議そうに首をかしげた。膝の上で拳を握りしめて、震える声を必死に抑え込む。


​「ううん。食べるよ」

「そ。今日の肉、いいヤツだからな。ちゃんと食って肉つけろよ」

「良いお肉なのはずっとじゃん……」

「そん中でも輪をかけていーやつなんだって」


​ こうしていると、普通のデンジくん、なんだけどなぁ。口に入れたステーキの味が分からない。こわい。だってどこに地雷があるか、少しも検討が付かないんだもん。


​「あのさ、デンジくん」

「ん?」

「昨日……言ってたよね。私のこと、守ってる、って。……この世界の私って、本当に、死んじゃってるの?」


 デンジくんのナイフが皿に当たる音がした。それだけで空気が一変する。あ、やっぱり地雷だった。これ以上言葉を続ければ神経を逆なですることを分かっていて、それでも無理やり言葉を続ける。


​「知りたい、の。何があったのか。私が死んだんだとしたら、そのあと……みんながどうなったのか、とか」

「……」

「アキくんは? パワーちゃんは? ……まさか、みんな——」


​ ――ダンッ!!

​ テーブルが揺れた。デンジくんが、持っていたナイフをテーブルに突き立てたからだ。厚い無垢材の天板に、深々と刃が食い込んでいる。


​「あ、う」

「ん。飯が不味くなる」


 低い声。怒鳴っているわけじゃない。昨日のような感情の爆発でもない。ただただ、冷たく、底冷えするような声。何を考えているのかも分からないような。けれど顔だけは取り繕ったように笑って、私のことを見つめている。


​「アンタはいい子だよな? 余計なこと探るなって」

「で、でも……心配で……」

「心配? 誰の? アキの? パワーの?」


​ 彼は鼻で笑った。自嘲のような、侮蔑のような。


​「いねえよ」

「……あ、え」

「アキも、パワーも、マキマさんも。……みんないねえ。死んだ。俺が殺したようなもんだ」

「あ、う」


 アキくんが、死んだ? あの子が?私が、彼を一人残して死んで……彼もまた、死んじゃったの?でも……殺したような、って、どういう。


​「満足か? これが聞きたかったんだろ」


​ デンジくんは突き立てたナイフを引き抜くと、それを乱暴に皿の上に放り投げた。ガシャン、と不快な音が響く。


「……ごめ、なさ……」

「謝んな」


​ 彼は立ち上がり、私の横へ回ると、椅子の背もたれに両手をついて私を囲い込む。


 逃げ場がない。血の匂いこそ消えているけれど、今の彼は、返り血を浴びて帰ってきた時よりもずっと恐ろしい。身動きが取れなくて、でもデンジくんの顔を見ることも出来なくて、俯いて唇を噛んだ。


​「いいか、よく聞け」


​ 耳元で、低く囁かれる。


​「アンタにはもう、俺しかいねえんだよ」

「ぁ……」

「帰る場所も、会いたい奴も、もうこの世のどこにもねえの。はは、俺といっしょ」


 私の髪を指で絡め取り、くん、と軽く引っ張って私に顔を上げさせる。痛いと思うより先に、至近距離で目が合ってしまったことへの恐怖が勝る。昨日のような子供の目じゃない。自分の所有物が、勝手な意思を持って動こうとしたことに苛立つ支配者の目だ。どうして、どうして。


​「余計なことすんなよ。優しくしてやりてえんだからさ」


​ ポン、と頭を軽く叩かれる。可愛がるような、それでいて警告を含んだ手つきで。


​「ほら、冷める」


​ デンジくんは自分の席に戻り、何事もなかったかのように食事を再開した。震える手で無理やりフォークを握り直す。

 喉が詰まって、何も通らない。



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6日目


​ 目が覚めても隣のシーツは温かかった。デンジくんはまだ寝ている。規則正しい寝息が、背中越しに聞こえてくる。


 今日は土曜日だか日曜日だか、とにかく仕事は休みの日らしい。昨日の夜、彼が「明日もずっと一緒にいられる」と、子どものように喜んでいたのを思い出す。


​「……う」


​ ひとまず静かに瞼を閉じた。あの時彼が言った言葉が、頭の中で何度も反芻される。アキくんも、パワーちゃんも、マキマさんも、みんな死んだって。


 誰もいない、らしい。この世界には。にわかには信じられないけれど、深入りしても最悪なことしかなさそうだから、いまのところは思考を保留しておく。


​ デンジくんを起こさないようにゆっくりと身体を起こし、そのままソファへと移動した。この部屋の空気は張り詰めるほど静かで、穏やかな感じがする。


​「体冷えるぞ」

「ひゃわ!」

「っはは、かわいー反応すんじゃん」


​ さっきまで寝息を立てていたくせにどうやって気がつくのか。後ろから抱きすくめられる。デンジくんが大きなブランケットを私に巻き付けてきたのだ。彼はそのままソファの背もたれに顎を乗せ、私の髪に鼻を埋めている。

 大人の男の人の安心するような体温。


 ……考えてみれば、16歳の子供の時に一緒にお昼寝してたのの延長で毎晩一緒に寝てるけれども、それだって全然良くないことじゃないか。おっきいベットだし寝てる間は肌が触れ合わないから平気だって思ってたけど……はあ。


​「……おはよう、デンジくん」

「ん。おはよう」


​ 彼は何にも気にしてなさそうなそぶりでテレビの電源をつけた。映し出されるのは相変わらず能天気なバラエティ番組。テレビの中では人々が笑っている。何一つ理解できないまま、ただぼーっと見つめてみる。


 2007年のテレビ。流行りの芸能人。……しらない。今流行ってるお洋服。……わかんない。花より団子、って、流行りの漫画らしいけど。総理大臣の阿部さんって誰だよ。たった10年しか違わないのに、わたし、なんにもわかんない……。


​「全部変わっちゃった」


​ その事実を繰り返す。一気に吹っ飛ばされた10年の間に、私だけが取り残されて、みんなは先に行ってしまった。悪魔と戦ってたら、死ぬより酷い目にあうことなんて良くあること。みんなにしても、デビルハンターとしてはよくある結末だ。頭では理解している。

 けれど、こんなにも急に、その現実に一人で向き合わされるなんて。ちょーっと酷なんじゃなかろうか、実際さ。


​「アキくんは、最期、何を考えていたんだろう」


​ 口にしてからあっと思ったけど、もう遅かった。案の定、私の言葉にデンジくんの動きがピタリと止まった。背中から伝わる彼の体温が一瞬で冷えていくのがわかる。


​「飯食おう」

「あ……う、ん」


​ キッチンへと向かっていったデンジくんの背中を見つめたまま動けない。テレビは相変わらず面白くもなんともないことを垂れ流していて、こんなものずっと見てたら脳みそが腐りそうだなぁと思った。あるいは、もう腐っているのかもしれないけど。こてんと横に倒れ込む。キッチンから卵を割り混ぜる音が聞こえてくる。


「なにつくってるの?」

「フレンチトースト」

「……手伝う?」

「いい。指怪我したら可哀想だろ」


 知ってる反応が返ってきた。でもそんな、五歳相手にしてるんじゃあるまいしさあ。

 それならいっそ本当に困らせてやろうと思って、ブランケットをはむはむ噛んでみる。けれどお皿を片手に戻ってきたデンジくんは、そんな現場を見ても「かわいー」と笑っただけだったのでまた敗北感。


「ほら、そんなもん食べても美味しくねぇだろ。ほら、あーん」

「う……あーん」

​「よしよし。アンタ、やっぱ甘いもん食ってるときが一番可愛いな」

「……ん」


​ 微笑むと、彼は嬉しそうに頭を撫でた。彼の目に映る私は、もう先輩でも指導者でもなんでもないんだろうなあ、と思う。

​ 午後はソファでデンジくんがゲームをするのをただ眺めていた。画面が昔に比べて圧倒的に綺麗で、見ているだけでも目がチカチカして、疲れる。

 彼は横にいる私に時折話しかけてくる。


「一緒にやろーぜ、なあ」

「いいよお……ルール、分かんないし。お姉さん見てるだけでお目目が疲れちゃう」

「子供の癖に年増みてぇなこと言うなって」

「子供じゃないもん……私が何歳だと思ってんの?」

「子供だろ。まだ」

「子供じゃないってば!」

「子供だろ」


 声を張り上げてから気が付く。こちらを振り向いているデンジくんと目が合う。デンジくんは私みたいに態々声を張り上げたり怒鳴ったりしなくても十分に迫力があって、圧があって。


「……う、ん」

「だよな、うん。それでいい」


 思わず俯いて唇を噛むと、優しく頭を撫でられて、屈辱的。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

7日目


 今日も今日とてデンジくんはニコニコしながら「留守番頼むな」と言って仕事に行こうとしている。私はといえば、昨日一日ぼーっとしてひたすら眠ったことで、少しだけ元々の元気を取り戻したみたい。


​ 玄関の前で、両手を広げて立ちふさがった。


​「どけって。遅刻する」

「どかない。 今日という今日は絶対どかない」

「あ゛ー……どうしたんだよ、昨日はしおらしかったのに」

「冷静に考えたら、やっぱり、変だなって思ったの!」


​ 目尻を釣り上げて精一杯の抗議の眼差しを向けた。激怒モードだ。彼が16歳の頃には、すこぶる効き目が良かったやつ。この姿を見せれば、昔の彼なら「げっ、怒らせると昼飯抜きにされる」とビビって言うことを聞いたはずだ。私は彼の保護者で、上司で、教育係なんだから。……いや、まあ、この場合昼飯抜きにされる可能性があるのは私の方ではあるんだけど。


​「だって、一週間だよ? 一週間も軟禁なんて流石に度が過ぎてる。 私はペットじゃないの。自分の足で歩けるし、自分の身くらい守れるの」

「はぁ」

「ため息つかないで! ここを出る方法を教えてくれるまで、ここから動かないからね。 デンジくんが遅刻しようが知ったこっちゃ……」

​「いい加減にしろよ」


​ それはこっちのセリフで──そう言おうとした次の瞬間に、空気が凍りついた。

 デンジくんの拳がけたたましい音ともに私の顔の横の壁に叩きつけられたからだ。

 壁紙が裂け、石膏ボードが砕ける音が耳元で炸裂する。


​「ひっ」


​ 悲鳴を上げて、その場にすくみ上がることしかできなくなる。ゆっくりと歩み寄られて、顔を覗き込まれる。こわい。こんなデンジくんの顔は、多分、はじめてみた。こっちに来てからも、来る前も。額の血管が浮き上がり、瞳孔が極限まで開いている。こわい、こんな顔、見たことない、なかった、のに。だってデンジくんは、感情を露わにして、こんな、威嚇するような怒り方をする子じゃない。ちがう。ちがう──


​「自分の身が守れる? お前が?」


​ 低い地を這うような声。彼は私の肩を乱暴に掴み、グイッと顔を近づけた。圧倒的な体格差が私に覆いかぶさる。


​「守れなかったから、この世界のアンタは死んだんだろうが。ちょっと考えたら分かるだろ」

「それ、それはっ。わか、わか、ない、けろっ」

「分かってねぇなら口挟むなよ!」

「ひぅ」


​ 鼓膜が破れそうな怒号。


​「自分がどんな目に遭ったかも知らないくせに。どんな死に方をしたのかも知らねぇくせに…… 俺がどんな気持ちで、アンタの骨をかき集めたと思ってんだ」

​「ほ、ほ、ほね。あ、あ」

​「守れるわけねえだろ、アンタは弱いんだよ。死んだんだ、くたばったんだよ」


​ 吐息が顔にかかるほどの距離で唸った。怒りというより、傷ついた獣の悲鳴に近い声で。


​「……ご、ごめ、なさ……」


 怖い。

 デンジくんが、本当に、怖い。おかしい。だって、もう、悪魔相手にだって、怖いなんて思わないのに、わたし。本能がこの事態の異常さに悲鳴を上げている。


​「外に出たい? 好きに生きさせろ? は、よく言うぜ」


​ デンジくんは、座り込んだ私の胸ぐらを掴んで引き寄せた。


​「アンタの命はもうアンタのモンじゃねえんだよ。俺が拾ったんだ。俺が飯食わせて、俺が飼ってる。だから、アンタのもんじゃない」

「や、や、やだっ、そんなの、やだっ……」

「実際そうなんだから仕方ねぇだろ」


​ めちゃめちゃな言い分だ。……めちゃめちゃな、言い分のはずだ。真っ赤な瞳が光ってる。それを見ているだけで、恐怖で涙が溢れてくきてとまらない。ああ、ちがう、いやだ、そんな。泣いて被害者ぶりたい訳じゃないのに。

 

「あ……ひぅ、ひっ……」


​ 本格的に震えて泣き出すと、デンジくんの荒い呼吸が少しずつ落ち着いてきた。壁に開いた穴と怯える私を見て、彼はハッとしたように表情を緩める。


​「……あー、クソ。……やりすぎた」


​ 彼はしゃがみ込み、震える私を力いっぱい抱きしめてくる。その手が震えていて、彼も怯えているんだな、と思う。だからって、こんなこと、していいわけじゃない、けど。


​「怖がらせて悪かった。でも、分かってくれよ」


​ 背中に回された腕は逃げられないように強くて、でも驚くほど温かかい。そう思う。そう錯覚してしまう。昂った神経が安心感を求めて頭の中をぐるぐるしている。逃げ先が欲しい。でもこの温もりは、私のことを混乱させている張本人のものなのに、それすらまともに区別できない。


​「俺、もう二度とあんな思いしたくない、から。アンタがいなくなるくらいなら、嫌われた方がマシだ」

「こ、わい、このやりかた、やだ、こわい、っ……」

「うん。怖くていい。……俺が怖いなら、俺の側から離れるな。そしたら怒んねぇし、怖い思いもさせねねぇから」


​ 彼は私の髪をゴシゴシと乱暴に撫でた。


​「いい子にしてりゃ、何もしねえよ。甘いもん食わせて、欲しいもんなんでも買ってやる。だから」


​ だから外には出るな。耳元で囁かれる脅迫じみた愛の言葉。


​「はい、は?」

「は、い、わかった……」


 頷くと、彼は満足そうに私の額にキスをした。


​「よし。……いってくる。夜には帰るから」


​ ガチャリと電子ロックがかかる音。

 重たい鉄の扉が閉まる。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

8日目


​ 朝の光がカーテンの隙間から差し込んでも布団から出られずにいた。頭が重い。目が痛い。


 昨日の夜、デンジくんが帰ってきてからも、私は「体調が悪い」と嘘をついて寝室に引きこもっていた。嘘じゃない。恐怖で胃がひっくり返りそうだったから、あながち間違いでもないはずだ。

​ リビングの方から足音が近づいてくる。ドス、ドス、という重たい音。一昨日までは頼りになる男の人の足音くらいに思っていたのに、今はそれが猛獣の足音にしか聞こえない。


​「……副隊長。起きてるか?」


​ がちゃり、寝室の重い扉が開く音と同時に、低く少し掠れた声が響く。思わず布団を頭まで被り、ダンゴムシのように身を固くした。


​「まだ寝てんのか。飯できたぞ」


​ ベッドが沈み込む感覚。彼が縁に座ったのだ。彼は彼で、昨日私に怒鳴ったことをそれなりに後悔しているらしかった。布団の上から、大きな手が私の肩に置かれる。


​「……ッ!」


​ 反射的に体が跳ねた。自分でも情けないくらい、分かりやすい拒絶反応だ。沈黙が落ちて、デンジくんの手がピタリと止まる。


​「副隊長」


​ 彼の声色がスッと温度を下げた。怒らせた?……それとも、悲しませたかもしれない。……馬鹿馬鹿しいことに、私はまだ、彼のことを心のどこかで庇護対象だと感じているのかも知れなくて。もしデンジくんが私の振舞で傷付くのであれば、その方が、ずっとずっとつらいと思ってしまう。


 おずおずと布団から顔を出して、無理やり、へらりと笑ってみせる。


​「お、おはよう……デンジくん……」


​ それでもどうしても、声が震えてしまうのだけは隠せなかった。私の顔を見たデンジくんは少し目を見開いた。自分でも酷い顔なのはわかってる。今頃瞼は泣き腫らしてパンパンになってるし、白目は充血してるに違いないから。


​「酷え顔」


​ 苦笑いをして、手を伸ばしてきた。思わずギュッと目を瞑って首をすくめてしまうけれど、触れたのは驚くほど優しい指先で。腫れた瞼を、親指の腹でそっと撫でられる。


​「昨日は、怖がらせすぎたよな。悪かった。……昨日は、ちょっと虫の居所が悪かったんだ」


​ うそばっかり。だって一緒にご飯食べてる時はあんなに上機嫌だったじゃん。彼は私の頬を包み込み、覗き込むように見つめてくる。


​「でも、分かってくれただろ? 俺がどれだけ本気か」

「う、ん……」

「ならいい。ほら、顔洗ってこい。ふわふわのタオル用意しとくから」


​ 彼の態度は、昨日とは打って変わって穏やかだった。




​ リビングに行くと、昨日破壊された壁には、即席でポスターが貼られていた。よく知らない映画のポスターだ。穴を隠すための応急処置。それを見るたびに、昨日の轟音が脳内で再生され、心臓が縮み上がる。

​ テーブルにはフレンチトーストとサラダ、そしてホットコーヒー。いつも通りの、完璧な朝食。一体誰の真似なんだろう。彼にこの朝食の摂り方を教えたのは、誰なんだろう。


​「いただきます」

「おう」


​ フォークを手に取り、小さく切ったパンを口に運んだ。味がしない。砂を噛んでいるみたいだ。デンジくんは、自分の食事には手を付けず、コーヒーを啜りながらじっと私を見ていた。観察されている、そう直感的に思う。ちゃんと食べているか。反抗的な目をしていないか。逃げ出そうとしていないか。見られている。全ての仕草を。


​「……美味しいか?」

「美味しい、よ」


​ ぎこちのない声で答えると、デンジくんは満足そうに頷いた。


​「そっか。……はは、ほら、口についてる」


​ デンジくんが手を伸ばしてくる。咄嗟にサッと身を引いてしまった。椅子がガタッ、と音を立てる。


​「……あ」


 やってしまった、と思うのと同時に、デンジくんの手が空中で止まる。彼の目がスゥッと細められたのが、分かる。


​「……避けんのかよ」

「ご、ごめん! 違うの、その、虫がいるかと思って……!」

「下手な言い訳」


​ 彼は椅子から立ち上がり、私の元へ回り込んできた。大きな影が私を覆って、どこにも逃げ場はない。


​「……じっとしてろ」


​ これは命令だ。本能がそうさせるのか、石になったように固まって動けなくなった。デンジくんの親指が、私の唇の端をぬぐう。


 ザラリとした感触。


「あ」


 そして、そのまま唇を割り、口の中に入ってくる、男性的な指。


​「……ん、ぅ……」

「さっきからすげぇ怯えてんなぁ、アンタ」


​ 彼は私の口内を弄りながら、楽しそうに、でもどこか寂しそうに笑った。ぐにぐにと舌を押されて、摘ままれて、きもちわるい。やだ。こんなスキンシップ、やだ。


​「震えて、涙目になって。小動物みてえ」


​ 指が抜かれる。銀色の糸が引く。


​「でも、その方がいいんだって」

「ぁ……あ゛!?!?」


 悲鳴を上げたときには遅かった。指先で摘まみだした舌を食べるみたいに、噛みつくようなキスをされる。


「ん゛!!!ん゛ん゛ん゛んんん゛!!!!!!!!」


 死に物狂いで抵抗しようとしても、両手でがっちり顔を抑えられているせいで逃げられない。胸を殴っても足で蹴ってもびくりともしなくて、それどころかむしろ絡めとるみたいに舌を吸われて、目からぼろぼろ涙がこぼれる。

 いやだ、いやだ、いやだ、デンジくんとこんなことしたくない!!!ぞりぞりと舌を撫でられて嗚咽が漏れる。片手で後頭部を掴んで恋人つなぎで手を握られて、がたがた骨が震える。


「いや゛!!!!いや゛っ゛いや゛!!!」

「んな嫌がるこたねーだろ……流石のデンジくんでも傷付くんだけど」

「だ、だって、わた、わたしたち、そ、そな、ちがっ、ちが」

「昔はそうだったかも知んねーけど、今はこれが正解なんだって」


 ちゅう、と名残惜しそうに唇をついばまれる。いやだ、こんなの、だって、れっきとした性暴力じゃないか。純粋なショックと悲しさで涙があふれて止まらない。

​ 

​「変な気起こして暴れられるより、怖がって俺の言うこと聞いてる方がお互いのためだろ?」

「はっ、はっ、は、は、やだ、やだぁっ……!」

「そうそう、その調子で俺にびびってろ。そしたら逃げ出す気も失せるだろうし」


​ 支配者の論理だ。愛とか信頼とか、そんな甘っちょろいものじゃない。恐怖による統治。彼は、私が自分を怖がっていることを認識した上で、それを「よし」としたのだ。

 昔のデンジくんは、そんなこと、しなかったのに。


「……なー。やっぱ、分かってねぇよな」

「ふ、ふ、あ……?」

「俺はアンタのこと、めちゃめちゃ女として見てるって。はは……あんだけベタベタされて、恋人みたいに抱きしめられて、今更そんなつもりじゃなかったは無理あんだろ」

「あ、あ、あ? や、やあっ……」

「ほら、出勤するからお見送り」


 まだ泣いている私の手を取って無理やり玄関に引っ張られる。ジャケットを着て、革靴を履いて。いつもの出勤風景。デンジくんは完璧な男性で、私はまるでそのお嫁さんみたい。……お嫁さんってなんだ。こんな16歳の見た目の男の子のお嫁さんになって、どうしろっていうの。


​「ひっ、ひっ……は、あ、あ……行っ、いっ、て、らっしゃい……」

「おう。いい子にしてろよ?」


​ 彼は私の腰を引き寄せ、有無を言わさず唇を重ねた。所有を示すようなキス。私は抵抗できず、ただされるがままに受け入れることしかできない。身が固まって、何も出来なかった。


​「昨日みたいに変なこと考えるなよ? ……俺、仕事中もずっとこখানেのカメラ見てっからな」

「かめ、ら?」


​ カメラ?そんなもの、どこに?私が青ざめて視線を泳がせると、彼はくすりと笑う。


​「っはは、うそうそ。カメラは置いてない。でも、それくらいのつもりでいろってこと」


​ 嘘か本当か分からない。今の彼なら、本当に部屋中に隠しカメラを仕掛けていてもおかしくないから。

 玄関の重たい扉が開く。


​「じゃあな。……大人しく待ってろよ」

「う、う、ぅぅ……」

「返事は」

「やだ、やだ、も、こんなのっ、やだぁ……」

「なあ。今ここでアンタのこと犯してもいいんだぜ」


 ひ、と喉が詰まる。それが脅しではないことは容易に想像が出来てしまうから。パジャマの裾を握りしめて、必死になって上ずった声を絞り出した。


「い、って、らっしゃい」

「ん。今日もいつもの時間に帰るから」


 今すぐここから逃げたい。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


9日目


 発想の転換。転換?……転換ってことにしておこう。


 昨日は一日デンジくんが帰ってきた後に何をされるのか気が気じゃなかったけど、実際のところ乱暴をされるようなことはなかったのでひとまずは安心した。

 多分……多分、キスをしたのも脅しの一種でしかなくて、デンジくんにとっては壁を殴るのと変わりないことなんじゃないか、と無理やり解釈する。(それはそれで問題があるというのは言わない約束)


 だって、だって、まともに直視したら辛すぎるもん、全部。私を監禁して飼いならそうとしているという事実だけでも苦しかったけど、そこに性……ごにょごにょ、的な要素が入ってきたら、いよいよ笑い話にならない。

 ……そんな性暴力をふるうような子だと、思いたくない、し。



 なんにしたってずっとビクビクしていても嫌な気持ちになるので、開き直ってみることにした。嘘か誠かはさておいて、デンジくんがカメラで見ているというのなら、いっそ私に幻滅するくらい変なことをしてやる。


「ゴメン!と笑いか〜け〜てー、走りよる〜まな〜ざーしにー、majiでkoiしちゃいそ〜な〜やくそーくの5秒前〜」


 何が2007年だい、こちとら1997年のピチピチキャリアウーマンだい。広末涼子の歌を歌いながら、ウキウキと妙ちくりんなダンスをして家中を闊歩してみる。時々「そばかす」を歌ってみたり、緋村剣心のモノマネをしてデンジくんに変な女アピールをしてみたりしながら。

 そういうわけで、お昼の間はずっとそんなことをして時間を潰した。そうして午後になって、虚しくて虚しくて死にたくなったから辞めた。



 お昼にはデンジくんの作り置きのロコモコ丼を食べた。

 ここのキッチンはIH?だとかで、よく分からない家電揃いで、本当に操作方法がよく分からないので、あんまり触らないようにしている。いつかは私が料理をする日も来るのだろうか?分からない。包丁はデンジくんがどこかに隠してしまったので、果たしてどこにあるのやら。


 どうしてもお料理がしたい時にはこれを使え、そういって渡されたのは先端の丸い子供包丁で、手に持つ度にバカバカしくなるので、それも一度も使っていない。


「あ、でも、そういえば」


 ロコモコ丼を食べながらカーテンを見上げて、ぼんやり思い出したことを口にしてみる。


「昔のデビルハンターの友達、カーテンで縄作って首吊ったんだっけ……」


 別段、それを実行する気もないのだけれど。もしもデンジくんがこの独り言を聞いていたら面白いなあ、と思う。




 デンジくんが用意してくれた本は、あんまり読む気にならない。ゲームだとか映画の類も、画面が綺麗すぎて目がチカチカして、疲れる。そういう訳で暇になるので、夕方頃になると玄関口に行って体育座りでデンジくんの帰りを待つことにしている。


「ん、たーだいま。よーちよちよちよち、今日もいい子にして待ってたか?」

「赤ちゃん扱いしないでってばぁ……」

「へへ」


 そうするとデンジくんは嬉しそうな顔をするして私の頭を撫でるので、良かったね、と思う。彼は体育座りの私をお姫様抱っこして、そのまま幸せそうな顔でソファーに運ぶのだ。


「あ。デンジくん、それ……」

「……ん?」


 いつも通りにソファーに転がされたあと、不意にデンジくんが持っている模造紙のロールのようなものが気になったので指さすと、彼は少しだけ目を逸らして「まあな」とだけ言い、家中のカーテンを外し始めた。


 そうして気がついた時には、家中の遮光カーテンがロールスクリーンに代替されていた。


 ばかみたいだ。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈


10日目


 気分が落ち込んでいる。多分、昨日無理やりに現実逃避をした反動で。

 日中はずっとひとりで放置されているせいか、無理やり内省の時間を取らされているような感じだ。そういうわけで一日ずっと嫌なことばっかり思い出していた。


 ロールスクリーンを意味もなくあげたり下げたりしながら、ぼーっと窓の外の景色を見続けている。昨日の今日で、家の中を監視されてることは確定したようなものだ。あるいは偶然の一致?……まさか。そう捉えられるほど頭ん中お花畑じゃない。カメラがないのが本当だったとしても、何らかしらの手段で見られていることは確実だろう。


「ぅ……ひっく、ひっく、うえええん……寂しい、寂しいよぅ……」


 嫌がらせにお部屋の真ん中で大声を上げて泣いた。無理やり着せられたようなネグリジェのままで、赤ちゃんみたいにわんわん泣きじゃくって見せた。

 もし彼が慌てて帰ってきたら、面白いなあと思って。



 けれども期待は裏切られるもので、待てど暮らせど彼は帰ってこなかった。時計の針がきっちり回って、18時になった頃、きっちりいつもの時間通りに彼は姿を見せた。ほんの少しだけ慌てた様子で。


「ただいま。いい子にしてたか?」


 私といえば少し拗ね気味で、昨日までと違って玄関先ではなくリビングのソファーの上で待機している。こんなふうに管理するなら私が泣いてたらちょっと早上がりしてこいよ~……って、こういう当たり方をしている自分にも自己嫌悪だ。率直に言って今、かなり死にたい。


「……ん」

「うそ。なんか落ち込んでる?」

「そんなことない」

「嘘つくなって。おいで、日中寂しかったんだろ」

「そんなことないもん……」


 ああ、もう、いやだなあ。

 これじゃあまるで私が本当に子供みたいだ。小さくなる私の背中を撫でる彼の手は確かに16歳のままで、本当は26歳のはずなんだけど、すごく、複雑な気持ち。


「……わかった。おいで、副隊長」

「え……う、ん……」


 そう言って言われるがままに手を引かれて連れていかれたのは、彼の大きなベットの上だった。ふかふかのお布団の上に転がされて、恐る恐るデンジくんの顔を見上げる。


 彼はサイドテーブルの引き出しから、紙袋のようなものを取り出した。


「たらーん」

​「なに、それ」


​ 中取り出したのは、白くて、先端が丸い、マイクのような形をした機械。


​「プレゼント。アンタ、寂しがって泣いてたからさ」

「マイク……?」

「はは、マイク、な」


​ デンジくんは面白そうに喉を鳴らすと、コンセントを繋ぎスイッチを入れた。ブブブブブ……という低いモーター音が響き、先端が激しく振動し始める。


​「肩こりとかに使うんだよ、これ。……ま、知らねーよな」


​ 10年前にはなかったものなのか、私が疎いだけなのか。キョトンとする私を見て、デンジくんの瞳が昏く粘着質な光を帯びる。


​「肩こり……?」

「そう。……でも、大人はもっといいことに使うんだって。俺もあんま詳しくねーけど、副隊長が寂しくなることもあるかなーと思って買っといた」


​ 彼は私のネグリジェの裾を無造作に捲り上げた。


​「ちょ、ちょっと、デンジくん……?」

「じっとしてろよ」


​ 冷たい機械の先端が肌に押し当てられる。ゾクリ、と背筋に電流が走った。私の知っているマッサージ機なんて生易しいものじゃない、暴力的な振動だ。なんか、なんか、これ、多分、ちがう。普通のヤツじゃない。


​「あ、ひっ……!?」

「体震えてる。……ここ、女は大抵弱いもんな」

「まっ、て、やだ、なんか、わかんないけどっ……ッ!」


​ 逃げようとする腰を、彼の太い腕が容赦なく押さえつける。まんまるい先端が少しづつ下がって、子宮を押して、尾骨を震わせて、やがて突起にたどり着き──






​「 ぁ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ッ゙♡♡♡!??!?」

「はいはい、暴れすぎ。大人しくしろって……当てにくいだろ」

「やだやだやだやだいくっッ゙♡♡なにごれッ゙ごわい♡♡♡やめてェ゙やめ゙てッ゙ッ゙♡♡♡!!!」


​ 脳みそが揺らされるような快感と恐怖。私の悲鳴なんて気にも留めず、デンジくんはただ愛おしそうに、私の崩れた顔を見下ろしていた。私の喉元を抑えて、膝で太ももを押さえ込んで、無理やりソレをおしあててくる。こわ、いこわい、こわい!!!全身で暴れても暴れてもちっとも敵わない。


「ごれやめてぇ゙ッ゙♡♡♡!!!ごれやだ!!!ごれ゙本当にヤダぁッ゙♡♡♡♡♡!!!!ああああ゙♡♡♡♡♡♡」

​「おー、上手に噴いたな、っと……だから暴れ、んな、って」

「ごわいっごわいこわいこわい゙♡♡♡こわいよ゙ぉ゙ッ゙♡♡♡♡♡゙」


​ 視界が白くチカチカする。ふいた……ふいた、なにを??恐る恐る下を見下ろすと、シーツの上に盛大なグレーのシミが出来ていた。なにこれ、なに、これ。分かっているはずなのに脳が理解を拒む。


​「は、ぁ……ぁ、あ……ッ♡♡♡??」


​ 喉の奥から、空気が漏れるような情けない音が漏れた。

 目の焦点が合わない。天井の照明がぼやけて、ぐにゃりと曲がって見える。腰から下の感覚がなくて、自分がどういう格好でベッドに転がっているのかも分からなかった。


​「すげ。こんなになっちゃった」


​ デンジくんの声が、どこか遠く、水の中にいるみたいに聞こえる。ネグリジェの中身──下着のクロッチをずらして、人差し指と中指で簡単に秘部を広げられてしまう。ちゅく、ちゅく、と浅く入口を抜き差しされて、おもちゃみたいに弄ばれて。粘膜がこすれる湿った音とともに、指が2本、最奥まで侵入してくる。


​「ひ、あッ……!」


​ 腰が跳ねた。いや、跳ねようとしたけれど、デンジくんの太ももが私の足を完全に押さえ込んでいるせいで、ビクンと痙攣することしかできない。

 熱い。中が、焼けるように熱い。

 さっきの機械の振動で、感覚が麻痺しているはずなのに、異物感だけが鮮明に脳に突き刺さる。


「ひっくっ、ひっく……やだ……やだ……」

「ん……ほら、そんなに泣くなよ」


 彼は私の顔を覗き込むと、汗で張り付いた前髪を優しく払ってくれた。その手つきは、さっきまで私を玩具のように扱っていたとは思えないほど穏やかで、それが余計に怖かった。


​「はは……。副隊長、ヨダレ出てる」

「あ……ぅ……」


​ 指摘されて口元を拭おうとしたけれど、手がぴくりとも動かない。


「俺が居なくて寂しい時は、これ使っていーから」

「あ゛♡♡!!!ひっぐ、ひぎゅっ゛♡さい、さいていっ、きらい、ぎらい゛っ゛♡♡!!!」

「へーへー、アンタがここにいてくれるんなら、最低で結構」


 カチャカチャと、片手でベルトのバックルを外す音がする。.ᐟ


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


11日目


 昨日の夜のことは思い出したくない。

 快楽と恐怖の濁流に流されて、私は最後、自分が何を口走っていたのかも覚えていない。ただ、デンジくんがすごく嬉しそうだったことと、頭が真っ白になる瞬間の、スパークするような感覚だけが焼き付いている。

 泣き疲れた。もう怒る元気も怯える元気もない。昨日の夜、そういう感情ごと徹底的にたたき潰されたから。


​「ん、起きた?」


​ 頭上から声が降ってくる。目を開けると、デンジくんが私を覗き込んでいた。いつの間に起きていたんだろう。彼はもう着替えを済ませていて、上機嫌に私の髪を指で梳いている。


​「おはよ。昨日はよく眠れたか?」


​ よく眠れた、なんてものじゃない。気絶して泥のように眠っていた。それだけだ。何か言い返そうとしたけれど、喉が枯れていて、掠れた音しか出なかった。


​「あ、う……」

「はは、声ガラガラじゃん。……昨日、あんだけ叫べばそうなるか」

「ううう……」


​ 悪びれる様子もなくサイドテーブルにあった水の入ったグラスを私の口元に運んでくれる。ストローが刺さっている。至れり尽くせりだ。私はそれを拒否する気力もなく、赤ちゃんみたいにそれを吸った。いよいよゴリゴリに尊厳が削られていくような気がする。


​「いい子」


​ 頭を撫でられる。

 悔しい、と思う感情すら、なんだか薄い膜の向こう側にあるみたいに遠い。シーツの下で体を動かそうとすると、下半身に違和感があった。ベタつくような、でも綺麗に拭き取られているような、不思議な感覚。


​「飯の前に風呂入るか。昨日の夜に拭いたけどまだ気持ち悪いだろ」

「ひ、とりで、はいれる……」

「無理すんなって。足、ガクガクだろ? トイレ行くのも一苦労だと思うぜ」


​ 布団をめくって、軽々と抱き上げられた。お姫様抱っこ。抵抗しようと腕を突っ張ろうとしたけれど、本当に力が入らなくて、彼の首にだらりと腕を回すことしかできない。ネグリジェの裾から覗く自分の足には、点々とグロテスクな赤いキスマークが残っていた。まるで所有印のように。

 昨日何をされたのか思い出して泣きだしたいような気持になるから、だまってぎゅっと目を瞑った。



 浴室に運ばれる。

 真っ白なバスタブにお湯が張られていて、いい匂いがした。ラベンダーの入浴剤の匂いだ。デンジくんは私を丁寧に服を脱がせると、壊れ物を扱うような手つきで、私をお湯の中に沈めた。


​「……あ」

「熱くないか?」

「だいじょうぶ」


​ 温かいお湯が酷使された体に染み渡る。


​「副隊長、こんなに痩せてたっけ?……もっと食わせねーと」

「デンジくんの、ごはん、おおい……」

「んなことねーよ。ちゃんと食って、肉つけねーと。抱き心地が悪くなんだろ」


​ 背中から、腕、そして胸へ。私は、されるがままに身体を指で現れる。歯を噛んで、必死に声を漏らさないように耐えた。

 10年前、私が彼の上司だった頃、こんな未来を誰が想像したかな?公安の地下に未来の悪魔っていうけったくその悪い奴がいたけど、そいつがこの現状を知っていたら、腹を抱えて笑っていたはず。


​「デンジくん」

「ん?」

「タバコ吸いたい」


​ ふと口をついて出た。アキくんが吸っていた銘柄と同じ奴。だって私にたばこを教えてくれたのも、姫野先輩だったから。あの匂い。この甘ったるくて頭が溶けそうな空間から逃げるには、あの煙が必要な気がする。ここに来てから一本も吸っていない。ニコチンが切れているというより、精神的な支柱が欲しかった。


​ デンジくんの手がピタリと止まる。

 背中越しに、空気が冷えるのがわかった。


​「だめ、健康に悪い」

「一本だけ。一本吸ったら、また大人しくしてるから」


​ 出来る限り哀れっぽい顔を作って、濡れた目でカレのことを見上げる。きっとこの顔をされるのに弱いはずだから。


​「……しゃーねえ。一本だけ、な」


​ 彼は浴室の棚から、どこで調達したのか、私があの頃吸っていた銘柄の箱を取り出した。準備がいい。よすぎる。私の嗜好品すら彼の管理下にあるということか。一本取り出し、私の口にくわえさせる。そして、オイルライターで火を灯した。


​ カチン、ジュボ。懐かしい音。チリ、と先端が燃える。深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに、あの頃の空気を満たすために。


​「……ッ、げほっ、げほっ! うぇ……」


​ そうして、むせた。

 思い切りむせ返って、涙が出た。喉が焼け付くように痛い。たった10日ほど吸っていないかっただけなのに、体が煙を拒絶したみたいに。それとも、このタバコの味が、私の記憶の中にある味と違っているのか。


​「はは、ダッセ。もう吸えなくなってんじゃん」


​ デンジくんは笑って、私の口からタバコを取り上げると、それを握りつぶして水の中に捨てた。ジュッという短い音と共に、火が消える。灰が、お湯の中に黒く広がっていくみたいだ。


​「体に悪いことすんなって。ただでさえ体ン中ボロボロなんだからさあ」


​ 濡れた指で私の顎を持ち上げ、無理やり視線を絡ませる。


「アンタには俺がいれば十分だろ?」


 水に濡れてふやけたタバコの残骸が、まるで私の過去の死体みたいに湯船に浮いている。あれは私だ。1997年の私は、今ここで死んで、2007年のデンジくんの所有物として生まれ変わらされたみたい。


​「……うん」


​ 小さく頷いた。そうするしかなかった。デンジくんは満足そうに目を細め、また優しく私の体を洗い始める。


​「よし。風呂上がったら飯にしようぜ。今日はオムライス作ってやるから」

「ケチャップで、字、書いていい?」

「もちろん」


​ 彼が笑う。

 私も、つられて力なく笑った。今日からタバコをやめることになったらしい。


 ……まあ、いいか。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


​12日目


​ 朝から、雨が降っていた。ような気がする。

 遮光ロールスクリーンの向こうの天気なんて分からないけれど、私の心の中はずっと土砂降りだった。起き上がる気力がない。デンジくんのベッドの真ん中で、私はダンゴムシみたいに小さく丸まっていた。


 メンタルにいよいよ不調をきたしたらしい。

 理由もないのに涙腺が壊れてしまったみたいだ。悲しいとか、悔しいとか、そういう明確な感情の形を成す前に、ただただ水分が目から溢れてくる。


​「……ぅ、うぅ……ひぐ、ぅ……」


 自分でも情けないくらい、弱々しい泣き声が漏れる。みんなに会いたい。でも、もういない。ここから出たい。でも、ドアは開かない。私はもう、どうしたらいいのか分からない。心も体も、水を含んだティッシュみたいにぐずぐずになって、形を保てそうになかった。


​「よしよし。そんなに泣くなって」


​ 背後から大きく温かい質量が覆いかぶさってきた。デンジくん。彼は私の背中にぴたりと体を密着させ、お腹に回した腕で、優しく、でも逃げられないように私を抱きしめて。


​「ぺしょぺしょじゃん。何がそんなに辛いんだよ、隣に俺が居んのにさあ」

「……ちが、う……こわい、の……わたし、どうなっちゃうの……」

「どうにもなんねーよ。ずっとここにいて、俺に愛されるだけ」


​ やわらかな舌が私の濡れた頬に唇を這わせ、涙をひとつひとつ、丁寧に舐め取っていく。熱い。舌の感触も、吐息も、全部が火傷しそうに熱い。


​「元気出ること、しようか」


​ その言葉の合図とともにネグリジェが捲り上げられた。抵抗する力なんて、指一本分も残っていない。私はただ、「あ……」と声を漏らすことしかできなくて、それで。


 まるで蛇が絡み合うように、私たちはシーツの上で一つになる。こればっかり。ばかみたい。もうやだ、そうやって伸ばした腕さえ絡めとられる。


​「ん、……っ、ぁ……」

「可愛い。泣き顔もすげー可愛い」


​ デンジくんは私の弱りきった心につけ込むように、甘い言葉を注ぎ込んでくる。優しいキス。優しい愛撫。十分に受け入れる準備なんて全くできていない私の中に、彼がゆっくりと入ってくる。


​「ぁ、う……くるし、い……」

「力抜けって。大丈夫、すぐ馴染むから」

​ 

 物理的に空っぽだった私の中身が、彼という存在で埋め尽くされていく。苦しいはずなのに、それがどこか、空いた穴を塞いでもらっているような安堵感に変わっていくのが怖かった。


​「……すき、副隊長……」


​ 聞きたくない、何にも聞きたくない。こんなに甘い毒みたいな言葉を、彼の口からは。


​「すき。大好き。……こんなに可愛いアンタを独り占めできて、世界一幸せ」

「やめて、やめて。でん、じく……あたま、おかしく、なる……」


​ わざとだ。わざとやっているんだ。甘い言葉をかけられるほどに、私の頭がおかしくなっていくのを、彼は深く理解している。ぐちゅぐちゅという水音がいやらしく響いて止まらない。私の涙と、汗と、愛液が混ざり合って、接触している肌の隙間がヌルヌルと滑る。今の頭のおかしい私の中だと、頭のおかしい私よ境界線が曖昧になる。どこからが私で、どこからが彼なのか。


​「ぅ、あ、あぁ……っ、ひぐッ、んんッ……♡」

「そう、いい声。もっと聞かせて」


​ 激しいピストンじゃない。ねっとり私の弱点を擦り上げるような厭な腰使い。脳みそが砂糖漬けにされていくみたいだ。現実の辛さも、未来への不安も、全部この快楽の泥の中に溶かされてしまうのかと思うと、怖くて怖くてたまらない。


​「すき、すき……愛してる……なあ、あんたもそうだろ?」

「あ、あ……わたし、も……?」

「そう。アンタも俺が好きなんだよ。……俺がいなきゃダメなんだよ」


​ 弱った心に、彼の言葉が染み込んでくる。終わっても、彼は離れてくれなかった。繋がったまま、向き合って抱き合って、また涙を舐め取られる。


​「可愛い。とろとろじゃん」

「……うぅ……」

「まだ足りねーよな」


​ 甘い地獄だ。砂糖漬けにされるみたいな。デンジくんの腕の中は、温かくて、粘着質で、底なし沼みたいに心地いい。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

13日目


​ 目が覚めた時、最初に感じたのは強烈な吐き気だった。

隣にデンジくんはいなかった。今日は平日だ。彼はもう仕事に行ったのだろう。重たい静寂が支配する部屋の中で、私はシーツを握りしめたまま、荒い呼吸を繰り返す。


 部屋中が栗の花の匂いで充満している。……昨日のこと。朝から晩まで、獣のように貪り合い、私の思考をドロドロに溶かした交尾の痕跡。それがこの部屋の空気の粒子一つ一つにこびりついていて、息をするたびに肺が汚れそうな錯覚に陥る。


​「……おええ」


​ 胃液がせり上がってくるのを抑えられない。

 口元を押さえ、よろめきながらベッドを降りた。立ち上がった瞬間、太ももの間から、とろり、と何かが垂れる感触がある。それさえおぞましい。


​「ッ……!!」


​ 寒気がした。

 昨日の記憶が、暴力的な鮮明さで蘇る。

『すき、大好きだ』

『俺がいるだろ?』

『ずっと俺の中にいろよ』

​ 甘い言葉。粘着質な愛撫。そして、私自身が彼にすがりつき、「離さないで」と懇願したあの一瞬。

 

 ……完全に、情緒が、終わってる。いや、こんな異常な状況に十数日も置かれていて、まともでいろという方が無理な話だろう。

 昨日はあんなに、彼の体温だけが世界の救いのように感じていたのに。彼と繋がっていることだけが安心だったのに。一夜明けた今の私は、デンジくんのことが怖くて、気持ち悪くて、そしてどうしようもないほど嫌いでたまらない。自分でも頭がおかしくなったんじゃないかと思う。むしろそうじゃなきゃ困る。正気で、こんなこと、出来るはずがないから。


​ 逃げるようにバスルームへ駆け込んだ。シャワーを最大出力にして、熱いお湯を頭からかぶり、昨日の記憶ごと洗い流そうとした。けれども、表面を洗っただけではこの不快感は消えない。


​ ​浴室の床にしゃがみ込み、震える指を、自身の秘部に伸ばした。


​「……ぁ、ぐ、ッ……」


​ 昨日酷使された粘膜がヒリヒリと痛む。それでも指を曲げ、奥を掻き出すように動かす。必死になって。白濁した液体が、お湯に混じって流れ落ちていく。


​「きもちわるい」


​ ポツリと言葉が漏れた。何度掻き出しても、まだ出てくる。まるで私の体液そのものが彼の色に塗り替えられてしまったみたいに。

​ 昨日は、これを幸せだと思った。満たされていると錯覚した。でも今は、それがただの汚らわしい液体に見える。はは。7個も歳下の、未成年の顔をした男の子にレイプされて、なにが幸せだよ……。


​ 爪が当たって痛い。でもやめられない。

 綺麗にしたい。元の関係性に戻りたい。

 1997年の、ただの上司と部下で、仲のいい友達で、姉と弟みたいな健全な関係性でいられた頃に。


「……ばか、ばか、ばか、私のばか……」


 滑稽だ。本当に。

​ シャワーの音に紛れて、乾いた笑いが漏れた。

​ 私は一体何をやっているんだろう。かつては彼の指針になろうと、あーだこーだって頑張ってたのに。そしてその頃から、2週間と経っていないのに。


 今はこうして、全裸で浴室の床にうずくまり、未成年の顔をした後輩に犯された痕跡を、必死になって指で掻き出しているなんて。16歳の姿をした青年に監禁されて、子供扱いされて、好き放題にされて。あまつさえ、昨日は自分から「抱いて」なんてねだったりして。


​ 状況が馬鹿馬鹿しすぎて、涙も出ない。

 私の人生、どこで間違えた?あの時デンジくんの母親になろうと足掻いたこと?それとも、それとも……。必死になって考えたところで答えは出ない。


​ 結局一時間近く浴室に籠もっていた。指がふやけて白くなるまで、執拗に中を洗い続けた。それでも、完全に綺麗になった気はしなかった。物理的な汚れは落ちても、魂に染み付いた罪悪感だけは、どれだけ洗っても落ちないのだと思い知らされただけだった。



​ 風呂から上がりリビングに戻る。シーツは洗濯機に放り込んだ。あの匂いがする場所で寝るのは御免だった。


​ 新しい下着と服を身に着け、ソファの端に座り込んだ。ロールスクリーンは下りたままだ。昼なのか夜なのかも分からない薄暗い部屋で、膝を抱えて、ただじっと壁のシミを見つめていた。虚無だ。それしかない。昨日の「幸福な中毒状態」から覚めた反動で心の中が砂漠のように乾ききっている。


​ デンジくんは帰ってきたらなんて言うだろう。

 『寂しかったか?』と聞くだろうか。それとも、全身を洗った私を見て、『また可愛がってやる』と笑うだろうか。想像するだけで背筋がゾッとする。怖い。昨日はあんなに恋しかったのに、変だな私。




​ ガチャリ。

​ 思考を断ち切るように、電子ロックの音が響いた。心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねる。重たい扉が開く音。革靴が床を踏む音。


​「ただいまー」


​ デンジくんの声だ。明るい。機嫌が良さそうだ。昨日の余韻を引きずっているのだろう。対して私はソファの上で体を強張らせた。逃げたい。でも逃げ場なんてない。


​「……副隊長? なんだよ、電気もつけねえで」


​ リビングの照明がつけられる。突然の明るさに目を細めると、そこにはコンビニの袋を提げたデンジくんが立っていた。いつもの人懐っこい笑顔。こんなあどけない子供との性行為に及んだという事実が、たまらなくくるしい。


​「ん? ……なんか、サッパリした?」

「あ……」

​「一人で風呂入ったのか。石鹸の匂い」


​ 彼は私の隣に座り込んで、当然のように肩に手を回してきた。その手が触れた瞬間、反射的に体がビクッと跳ねてしまう。しまったと思った時にはもう遅い。デンジくんの目がそっと細められる。


​「ハハ。ビビってる」


​ 声のトーンが落ちる。真っ赤な色の瞳が、私の瞳孔を覗き込んでくる。


​「昨日はあんなにいじらしかったのになあ」

「だってrそれは」

「あんなに『好き』って言ったのに。あんなに『離さないで』って泣いたのに」


​ 顎を掴み、無理やりにデンジ君の顔を見させられる。


​「一夜明けたらまた他人行儀かよ」


​ 違う。他人行儀なんじゃない。“デンジくん“のことはすき。“あなた“のことが怖くて、気持ち悪くて、受け入れられないだけ。頭の中の感情が言葉にならない。

 言えば、また昨日のような地獄が始まるのが分かっているから。


​「……ごめ、なさ……」


​ 結局、私は謝ることしかできないのだ。立場がないから。情けない。惨めだ。どれだけ心の中で吠えたところで、体は勝手に震えて服従のポーズを取ってしまう。


​「……ふーん」


​ 私の目をじっと見つめたまま、片手で私の太ももを撫でる手がある。そして、パジャマの上から、股間のあたりを弄るように押さえつけて……。


​「綺麗にしたんだな」

「あ、ああ、あうう……」


​ バレている。


​「勿体ねえことすんなよ」


​ 残念そうに、でもどこか楽しそうに彼は言う。子供みたいに。


​「ま、いいか。また入れればいいだけの話だし」


​ ゾクリと全身の毛穴が開くような悪寒が走った。やだ、やだ、もうしたくない。必死に視線にそんな感情を込めるけれど、脈略もなくキスをされた瞬間に、そんな感情も吹き飛んだ。


​「飯食ったら続きしような。昨日は泣き疲れて副隊長のが先に寝ちまったし」


​ デンジくんは私の唇に軽くキスをすると、機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら、買ってきたお弁当を広げ始める。動けなかった。目の前に出されたお肉の匂いだけで吐き気がした。


​ ああ、馬鹿馬鹿しい。



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14日目


​ 深夜2時。

 寝室に規則正しい寝息が響いていることを確認してから、私は音もなくベッドを抜け出す。

 

 14日間。もうこれ以上は耐えられない。


 今日、彼は初めて、この家の全ての家電を操作しているパソコンを管理者画面の状態で放置したまま、寝室に来た。

 チャンスは今しかない。リビングへ忍び込み、パソコンを起動するパスワードはかかっていない。私は震える指を抑え込み、古い記憶でキーボードを操作した。何せ10年も未来のパソコンだ。未知の部分も多いけれど、必死に文字列を読み込みながら一つ一つ丁寧に操作をしていく。


 玄関の電子ロック。窓のセンサー。監視カメラのシステム。全てを「メンテナンスモード」に書き換える。

​ ……よし。いける。

​ クローゼットから、こっそり確保しておいた自分の靴を取り出した。いざという時にいちいち靴箱を漁っている手間の短縮だ。


 財布も携帯電話もないけれど、ここから出さえすれば、どこかしらで岸辺隊長に連絡が取れる。不思議と確信があった。あの人ならきっと、みんなが死んじゃったこの世界でも生きているはず。だってデンジくんがあの人の名前をだしているのを聞いたことがない。計算だと今頃は70近くなって隠居生活のはずだけど、何とかしてくれると信じて。デンジくんくらいならどうにかしてくれるはず、きっと。


 玄関の前に立つ。

 心臓が痛い。早く脈打ちすぎて、

 深呼吸をして、電子ロックのパネルにタッチした。

​ 『解錠しました』

​ カチャリ、という軽い音。それは、私にとって自由へのファンファーレだった。


​「すごい……やった……」


​ 私は重い鉄の扉を押し開けた。

 外の冷たい空気が流れ込んでくる。

 廊下の照明が眩しい。

 逃げられる。これで、やっと――。



​「どこ行くんだよ」



​ 背筋が凍りついた。

 後ろからじゃない。前からだ。

​ 開いた扉の向こう。マンションの廊下に、仁王立ちしている影があった。——デンジくん。パジャマ姿のまま、腕組みをして、能面のような無表情で私を見下ろしていた。


​「……あ、あ……?」


​ 思考が停止する。

 なんで? 寝ていたはずじゃ?

 端末はリビングにあったのに。どうやって先回りしたの?


​「……驚いた?」


​ デンジくんが、一歩、部屋の中に踏み込んでくる。

 私は後ずさる。


​「パソコン、さ。わざと電源付けたまんま置いといたんだよ。……アンタがどう動くか見たくてさ」


​ 彼は、私が握りしめていた板をひったくり、無造作に床に叩きつけた。

 バキッ、と画面が割れる音。


​「パスワード、開いたまんまでよかったな。……でもさ、玄関が開いた瞬間に、俺のiPhoneに通知が来るようになってんだ」


 差し出されたピカピカ光る板に、私は震える声で聞き返した。


「あ、あいふぉんって、なに……」


 その言葉を聞いた途端、デンジくんがお腹を抱えて笑い出す。



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15日目


​ 重い。首が窮屈で窮屈でたまらない。

 目が覚めた瞬間、最初に感じたのは、呼吸すら阻害するほどの圧倒的な質量だった。カーテンの隙間から白々とした朝の光が差し込んでいる。

 私の視界は華奢な少年の腕と、真っ白な胸板で埋め尽くされていた。今の彼は、眠っている時でさえ、岩のような圧迫感を放っている。


​「……ぅ、……ぁ……」


​ 身体を動かそうとして、喉元の違和感に激痛に顔をしかめた。


 首輪をつけられている。昨日、家に引きずり戻されたあと、ゆとりなくギチギチにはめられた首輪が、喉元で強烈な違和感を発していた。加えて、腰が砕けそうだ。股関節が外れそうなほど痛い。全身の皮膚がヒリヒリと熱を持っていて、至る所に彼が吸い付いた鬱血痕が散らばっている。


​ 理性では分かっている。……多分だけど、誰も悪くない、って。彼は私のことが大好きで、失うのが怖くて、だからあんな事をしたんだと。

 出来ることなら、彼のことを受け止めたい、と思う。受け止めて愛してあげたい、って。


​ でも本能が叫んでる。私の腰に回されたこの腕は、愛しい教え子の腕じゃない。喉元に噛み付く前の、飢えた熊の前足だ。身動ぎひとつすれば、また捕食スイッチが入ってしまうかもしれない。


 シーツの中で息を潜め、心臓の音さえ聞かれないように石のように固まっていた。そうすることしか出来なかった。


​「……ん、ぅ……」


​ 頭上で低い唸り声がして、デンジくんが身じろぎをする。

 そのたびに、筋肉の塊が私の体を押し潰し、軋ませる。


​「副隊長」


​ 寝起きのかすれた声。

 まだ意識が半分夢の中にいるようなまどろんだ響き。彼が薄く目を開け、腕の中の私を確認した。目が合った瞬間、私の背筋に冷たい電流が走って、身体が強張り、震え出す。


​「……あ、おはよう……デンジ、くん……」


​ 精一杯、声を絞り出した。​デンジくんは私の怯えた瞳をじっと見つめ、それからふわりと破顔した。昨夜の鬼気迫る形相とは違う、満足げな、満ち足りた笑顔。


​「おはよう。まだ、いたな」


​ 彼は私の額にコツンと自分の額を押し付けた。


​「夢じゃなかった。……ちゃんと、俺の腕の中にいる」


​ 安堵の声。ばかみたいだ。


​「痛い?」


​ デンジくんの手が、シーツの下に滑り込んでくる。

 私の腰を、太腿を、昨夜彼自身がつけた痣をなぞるように撫でていく。


​「……うん。……ちょっと、痛い……かも」

「わりぃ。加減できなくて」


​ 言葉では謝っているけれど、その指先はまるで自分の功績を誇るように、私の肌を愛でている。私の体に刻まれた痛みの一つ一つが、彼にとっては安心材料だとでも言うみたい。


​「動けるか?」

「……こしぬけた」

「そっか」


​ 何が良かったのか、彼は嬉しそうに目を細めた。

 ……いや。本当は分かってる、けど。私弱っていること。自力では歩けないこと。それが、彼をたまらなく安心させるのだと、おもう。


​「風呂はいろ。綺麗にしねえとだし」


​ そう言って軽々と私を抱き上げて。私の意思なんて関係ない。彼の腕の中で、私は抵抗する気力すら奪われた小動物のように、ぐったりと頭を預けるしかなかった。



​ バスルームの鏡に映った自分の姿を見て、息を呑んだ。

 酷いありさまだ。首筋から太腿まで、隙間なく赤い斑点が散らばっている。目の下は泣き腫らして赤く、唇は切れて腫れ上がっていて。


 それで。

 喉元には、真っ赤な首輪。まるで犬みたい。


​「そんな顔すんなって」


​ デンジくんが、私の目を手で覆った。

 そして、シャワーのお湯を頭からかける。温かいお湯。優しい手つき。彼はスポンジに泡を立て、私の体を丁寧に洗い始めた。まるで、大事なコレクションの手入れをするように。あるいは、昨日自分がめちゃくちゃに食い荒らした獲物の後始末をするように。


​「怖い? 俺のこと」


​ 背中を流しながら、ポツリと尋ねられた。

 ……心臓が止まるかと思った。


​「……」


​ 嘘をついてもバレる。かといって、「怖い」と言えば彼を傷つけ、また暴走させるかもしれない。私が沈黙していると、デンジくんは自嘲気味に笑った。


​「警戒しなくても、そんなに簡単に怒ったりしねぇって」


​ 彼は私の濡れた髪をかき上げ、うなじにキスをした。


​「いいよ、怖がってても。……死なれるよりマシだ。俺が怖くて逃げられないなら、それはそれでいい」


​ 可哀想に、と思った。なんて可哀想な子なんだろう。こんな怪物になるために、どれだけの別れを経験したのだろう。けれど、私にはそれをどうしてやることも出来ないのだ。私は聖母などではないし、彼のためだけの人形でもない。その事実を、彼だけが理解していない。


​ バスローブに包まれ、再びリビングのソファへ運ばれる。テーブルには彼が手早く作った朝食が並んでいた。

 スクランブルエッグ、ベーコン、トースト。


 完璧な朝食。昨日までと変わらない光景。


​「いつもみたいに食べさせようか?」

「……ううん。自分で、食べる」


​ 私は震える手でフォークを持った。

 隣に座るデンジくんは、コーヒーを飲みながら、じっと私を見ている。

 痩せこけた哀れな子熊。

 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。冬眠明けの、飢餓状態の熊。今は満腹で大人しくしているけれど、いつまた不安に襲われて、私に牙を向くか分からない。


​ 先述の通りに、可哀想だ、とは、思う。10年間、一人でこんな孤独を抱えて生きてきたのかと思うと、胸が張り裂けそうだ。


 でも。

​(……逃げたい)

​ 本能がそう叫んでいる。

 この部屋から。このマンションから。外に出て自由になりたい。元の時代に帰りたい。でも、出口は塞がれている。私の抵抗が失敗すれば、またあの楔みたいな性行為の中に沈められるだけ。


​「副隊長」


​ 不意に名前を呼ばれ、私はびくろ肩を跳ねさせた。フォークが皿に当たってカチャンと音がする。


​「そんなに怯えんなよ。もう何もしねえって」


​ デンジくんは、私の手からフォークを取り上げ、代わりに自分の指を絡めた。恋人繋ぎ。


​「アンタがここにいる限り、俺は世界一優しい男でいてやる」

 私のことを撫でる手つきは、酷く優しい。



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16日目


​ 真夜中、うなされるような声で目が覚めた。

​ 隣で寝ているデンジくんの様子がおかしい。彼は胎児のように膝を抱えて丸まり、ガタガタと小刻みに震えていた。脂汗がびっしりと額に浮かび、呼吸が浅く、速い。

 その挙動に覚えがある。

 今度は、彼が精神に以上をきたす番らしかった。


​「……っ、ぁ……あ、あ……」


​ 悪夢を見ているのだろうか。ここ数日、私を力でねじ伏せ、散々好き放題にしていた支配者としての覇気はどこにもない。そこにいるのは、ただ何かに怯える、小さな子供のよう。

​「……デンジくん?」


​ 放っておけばいいのに、私の体は勝手に動いてしまう。どうしようもない私の性分が、震える彼の背中に手を伸ばさせていた。その手が触れた瞬間、デンジくんが弾かれたように飛び起きる。


​「ッ!? ……は、あ、はぁ……ッ!」


​ 暗闇の中で、見開かれたオレンジ色の瞳が泳いでいる。焦点が合っていない。彼は自分の手を見つめ、壁を見つめ、そして恐る恐る私を見た。


​「……副、隊長……?」

「うん。……大丈夫? 怖い夢でも見たの」

​「……しん、だ……」

「え?」


​ 彼は私の肩に額を押し付け、掠れた声で呟き始めた。


​「アキも、パワーも……マキマさんも……みんな、いなくなった……」


​ 名前が出るたびに、彼の体はビクンと跳ねる。


​「俺が殺した……俺が食った……俺のせいで、みんな……」

「……」


​ 嗚咽混じりの独白に息を呑んだ。アキくんが死んだことは聞いていたけれど、「俺が殺した」とはどういうことだろう。詳しい事情は分からない。でも、彼の震え方は尋常じゃなかった。まるで、自分の手が血で汚れている幻覚を見ているかのように、彼は自身の両手をシーツに擦りつけている。


​「ごめんなさい……ごめんなさい……」


​ 26歳の大人の男が、迷子になった子供のように泣きじゃくっている。ここ数日の暴力的な彼への恐怖と憎しみは、目の前のこの痛々しい姿を見て、行き場を失って霧散してしまった。

 

 可哀想に。


「デンジくん……」

「副隊長……ぅ、あぁ……」

「私はここにいるよ。いなくなってないよ」


​ 私が背中をさすると、彼はすがりつくように私の腰に腕を回した。強い力。でも、そこには性的なニュアンスはなく、ただ溺れる者が流木にしがみつくような必死さだけがあって。


​ しばらくして、彼の呼吸が落ち着いてきた頃。

 デンジくんは顔を上げ、濡れた瞳で私をじっと見つめた。


​「……なあ。アンタは、消えないよな?」

「今の、ところは……」

「……そっか」


​ 彼は安堵したように笑い、そして、どこか虚ろな目で虚空を見つめながら、独り言のように言った。


​「……アンタだけは、違うもんな」


​ その声に、ゾクリとした冷たさが混じる。


​「俺が殺したんじゃない。……俺が原因だけど、俺のせいで捕まって、コンクリ漬けにされて死んだけど……直接殺したのは、俺じゃなかった、から」

「えっ」

 思考が停止した。コンクリ漬け? 誰が? 私が?血の気が引いていくのが分かる。自分がどんな死に方をしたのか、詳しくは聞いていなかった。聞きたくなかった。でも、彼の口から漏れたその具体的な単語は、あまりにも残酷で、生々しくて。


​「見つかった時には、既にコンクリの中でどろどろに蕩けて、骨しか残ってなかったって。マキマさんが現物を見せながら、笑って教えてくれたよ。アンタがどんな風に拷問されて、殺されて、どんな風に詰められたか」

「や……やめて、聞きたくな……」

「だから」


​ デンジくんは私の言葉を遮り、熱っぽい手で私の頬を包み込んだ。

 その瞳には、狂気じみた希望の光が宿っていた。


​「俺の手は、アンタを殺してないんだ。……アキとパワーは俺がやった。マキマさんも俺が食った。でも、アンタだけは……俺、手ェ下してない」


​ 彼は、自分に言い聞かせるように、早口でまくし立てる。


​「だから、こうやって会いに来てくれたんだろ?」


​ ……違う。

 私は悪魔の力でここに飛ばされてきただけで、幽霊でも、彼を慰めるために蘇った聖女でもない。ただの人間だ。人間、でしかない。そこに意味なんてない。そう否定すべきだった。けれど、目の前のデンジくんはあまりにも脆く、今にも壊れてしまいそうで。


​「……俺、寂しかったんだ。怖かったんだ」

「デンジ、くん」

「もう誰も殺したくない……一人になりたくない……」


​ 彼は再び私の胸に顔を埋め、「うう、うう」と唸り声を上げた。その姿が、16歳の頃の彼と重なる。愛を知らず、教養もなく、ただ生きるために足掻いていた少年。私が守ってあげなきゃいけないと思っていた、あのちいさな男の子。


​ ──ああ、駄目だ。嫌になる。本当に嫌になるけれど、私は、彼を見捨てられない。たとえ彼が私を監禁し、私を酷い目に合わせた張本人だとしても。こんな風に泣きつかれたら、私は突き放すことができない。

​ それが私の、致命的な欠陥だって。


​「よしよし……いい子だね、デンジくん」


​ 私は震える手で、彼のボサボサの金髪を撫でた。

 そうすると、彼は安心して、もっと深く私の中に潜り込んでくる。


​「副隊長……すき」

「……うん」


​ なぜだか、おかあさん、と呼ばれた気がした。彼が求めているのは、女としての私だけじゃない。

彼は私のネグリジェのボタンを外し、素肌に直接触れてくる。でもそれはいつぞやのような暴力的な行為への導入ではなく、肌の温もりを確かめるための確認作業みたいだ。


​「あったかい……生きてる……」

「生きてるよ。ここにいるよ」

「どこにも行かないで……またドラム缶に入ったり、とか」

「……しないよ。ずっと、ここにいるよ」


​ 嘘をついた。

 あるいは、それはもう嘘ではなく、覚悟になりつつあるのかもしれない。デンジくんは私の胸に耳を当て、心臓の音を聞きながら、安らかな顔で目を閉じた。私はその頭を抱きしめたまま、暗い天井を見上げた。


​ 私が死ぬ原因を作ったのは、この子なのだろう。そして、私をこんな目に遭わせているのも、この子だ。


​ ……でも、見捨てられない。共依存という言葉が脳裏をよぎる。であっても、今の私には、この病んだ青年の重みだけが、唯一の現実だった。


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​17日目


​ 目が覚めると部屋は群青色に沈んでいた。遮光ロールスクリーンの隙間から、わずかな夕闇が滲んでいる。枕元の時計は17時を回っていた。また、一日が終わる。重たい体を起こし、私は膝を抱えた。


 体中が痛い。でもそれは、殴られた痛みじゃない。抱き潰された痛みだ。肌に残る彼の熱や私の体に染み付いた彼の匂いが、鎖のように私をこのベッドに縛り付けている。


​ ……私は、なんなんだろう。

​ ぼんやりと、そんなことを考える。

 デンジくんにとって、私はなんなんだろう。恋人? 違う。そんな対等なものじゃない。ペット? それも少し違う。彼は私を、心のどこかで崇めている。

 

 多分、私は「シンボル」なのだ。

 デンジくんが孤独ではないということを証明するためだけの、生きた免罪符。アキくんも、パワーちゃんも、マキマさんも……みんな死んでしまったこの世界で、唯一の思い出と言って良い存在。

 首に嵌められた首輪が痛む。肌に触れた箇所がかぶれたせいか、寝ている間に無意識に掻きむしってしまうらしい。私の首周りは吉川線が縦横無尽に走っている。


​ 毎日毎日、確かめずにはいられないのだ。

 私がここにいることを。温かい血が通っていることを。その確認作業が、夜ごとのあれだ。


​「……あうー。気が重くなるね!やー、やー、ですよ」


​ わざとらしくおちゃらけた声で言ったあと、深いため息をつく。


 私は、人間だ。……人間、だよね?


 泣くし、怒るし、ご飯も食べる。心だってある。でも、デンジくんはそれを見ていない。……見ているかどうか、いまいちよく分からない。時々、彼が見ているのは、私ではなく、「生きて戻ってきた副隊長」という奇跡なんじゃないだろうか、と思う。だから、私がどれだけ「怖い」と泣いても、「やめて」と訴えても、彼の耳には届かないのかも、と。


​ ……辛い。

 殴られるより、罵倒されるより、ずっと辛い。毎日毎日私の人間性が削り取られていく。でも……それでも私がデンジくんを憎めない。私はまだデンジくんのことを、多少なりとも愛しているのだろう。


「んにゅー」


​ 昨日の夜、うなされていた彼の顔を思い出す。子供のように私にしがみついていた震える背中。あの姿を見てしまったら、どうして突き放せるだろう。


 私は彼のことを愛している。弟のように、息子のように、あるいは一人の男性として。彼が抱える巨大なトラウマの穴を埋めてあげたいと、本気で思える。愛しているから拒めない。苦しい。逃げたい。ここから出て、自由になりたい。

 でも私が逃げたら、彼は壊れてしまう。


​「……困ったねー。困っちゃったよ、お姉ちゃん」


 永遠に堂々巡りだ。



​ ガチャリ。

​ 電子ロックの音が、思考を断ち切った。


 心臓が早鐘を打つ。怖い。デンジくんが帰ってくるのが怖い。でも同時に、彼が帰ってきてくれたことに、安堵している自分もいる。一人きりの静寂は、あまりにも孤独だから。


​「ただいまー。……お、起きてる」


​ リビングのドアが開き、デンジくんが入ってきた。

 ひどく疲れた顔をしている。でも、私を見た瞬間、その表情がパッと明るく、とろけるような笑顔に変わる。


​「副隊長」


​ 彼は靴も脱ぎ捨てて、真っ直ぐに私の方へ歩み寄ってくる。

 そして、ベッドの縁に座る私を、壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。


​「よかった。ちゃんと居た」


 彼も、仕事に行っている間中、ずっと不安なのだろうか。私と同じように。帰ったら私が消えているんじゃないか。やっぱり自分は全員殺してしまったんじゃないか。


 そんな強迫観念と戦って、やっとここ──私という安全地帯──に辿り着いているのかのしれない。そう思うと、少しだけ気が重くなる。


​「おかえりデンジくん」


​ 彼の背中に手を回す。彼の体温が、私を求めてすがりついてくるこの重みが、どうしようもなく愛おしい。


​「ん。いい匂いする」


​ デンジくんは私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。


​「生きてる匂いだ。安心する」

「……うん」


​ 食事を取る。

 お風呂に入る。

 布団に入って、押し倒される。ネグリジェがはだけ、素肌が空気に晒される。彼の手が、私の体を這い回る。愛撫というより、点検作業みたいに。ここに心臓がある。ここに脈がある。ここに体温がある。


 一つ一つを確認するように、唇を落とし、指を滑らせる。


​「……っ、ぁ……」

「あったかい。……ちゃんと、ここにいる」

「うん……いるの、ここに」


 なぜだかたまらなく不安になって、私は彼に抱きつく。


​「……っ、はは。……すげーしがみついてくるじゃん」


​ けれどデンジくんは、それをただの愛情表現だと受け取ったようだった。嬉しそうに、恍惚とした表情で、私の額にキスをする、のだ。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

18日目


​ 六の倍数は、デンジくんの休日だ。この18日間でなんとなく把握した彼のサイクルによると、今日は公安の仕事も、民間のデビルハンターとしての活動も、一切合切を入れない「完全オフ」の日らしい。


​ 目が覚めたのは昼の11時を過ぎた頃だった。


 遮光性の高いロールスクリーンの隙間から、わずかに埃の舞う光の筋が差し込んでいる。隣を見ると、デンジくんはまだ夢の中だった。口を半開きにして、よだれを垂らして寝ている顔は16歳の頃と何ら変わりないのに、一度めをさませば、言動や仕草のふしぶしが彼が26歳の大人の男であることを無言で主張しはじめる。


​ 二度寝しようか。それとも起きて、勝手にテレビでも見ていようか。そんなことをぼんやり考えていると、隣の肉塊がむくりと動いた。


​「んあ……おはよ」

「……おはよう、デンジくん。よく寝てたね」

「久々に夢見なかったわ。……あー、腹減った」


​ デンジくんは豪快に欠伸をすると、寝癖で爆発した頭をガシガシとかきながらベッドを降りた。スウェットのズボンが少し下がっていて、パンツのゴムが見えている。だらしなくてかわいい。


​「今日は天気いいな」


​ 彼はリモコンでロールスクリーンを少しだけ上げる。

 35階からの景色は雲ひとつない快晴だ。やっぱり変わらず、私の知っているそれよりも少しだけビルが高くて、空が狭い。


​「どっか行く?」

「……外、行けるの?」


​ 私が少しの期待を込めて聞くと、デンジくんは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら、あっけらかんと言った。


​「あは、冗談」


​ ですよね。知ってた。

 私は諦めの溜息を一つついて、ベッドから這い出した。




​「昼風呂でも入るか」


​ ブランチとも言えない時間に、トーストと目玉焼き(焼き加減は完璧な半熟だった)を食べ終えた後、デンジくんが唐突に提案した。


​「お風呂? まだお昼だよ」

「休みの日って言ったら昼風呂だろ。沸かしてくるわ」

「え?そんなことないと思うけど」


​ 彼は鼻歌交じりに洗面所へと消えていく。

 拒否権はない。いや、正確言えば拒否しても無駄だと学習したから、私は大人しく彼に従うことにしている。それに、することもない暇な休日に、広いお風呂に入れるのは悪い話じゃない。……と、思うしかない。



 15分後、私たちは湯気の充満するバスルームにいた。


​「ほら、バンザイ」

「あい……」


​ デンジくんの前で、私はされるがままにパジャマを脱がされる。羞恥心がないわけじゃない。でも、彼の目はあまりにも実務的で、そこにいやらしい粘度はない、し。まるで、散歩から帰ってきた愛犬の泥を落としてやる飼い主のような、あるいは小さな娘を着替えさせる父親のような、手慣れた動作だし。


​ 浴室に入ると、檜の香りがする入浴剤の匂いがした。チョイスが26歳だ。

 洗い場の椅子にちょこんと座らされる。

 

「まずは頭な。目ぇつぶって」

「ん」


​ ザバー、とお湯をかけられる。

 シャワーヘッドから出るお湯は、熱すぎずぬるすぎず、完璧な温度調整がされていた。デンジくんの大きな手が、私の頭皮をワシワシと、けれど決して痛くはない絶妙な力加減で洗っていく。


​「副隊長、ここんとこ凝ってんな」

「んー……一日中、家にいるからね」


​ たわいない会話。泡だらけの指が、首筋から耳の後ろまで丁寧に滑る。


​「……デンジくん、上手だね」

「何が?」

「シャンプー。誰に教えてもらったの」

「あー……ナユタの頭、ずっと洗ってやってたから」


​ その名前が出た瞬間、一瞬だけ空気が止まった気がした。

 ナユタ。私は会ったことがないけれど、デンジくんが引き取って育てていたという、支配の悪魔の生まれ変わり。少し前に、お話だけ聞いた。

 彼女は……顛末は知らないけれど、たぶん、死んだのだろう。あるいは殺されたか……分からない。デンジくんは、そのことをあまり語ろうとしないから。確かなのは、ここには彼女の姿がないということだけ。


​ デンジくんの手が止まることはなかった。彼は淡々と、しかし慈しむように私の髪をすすぎ、トリートメントを揉み込んでいく。


​「あいつ、髪乾かすの嫌がってさ。逃げ回るから大変だったんだよな」

「……そっか」

「副隊長はいい子だな。じっとしてて」

「私子供じゃ……」

「子供みたいなもんだろ。ちっせえし、弱いし」


​ 彼は笑いながら、私の背中にスポンジを滑らせた。男の子の、大きな手。スターターのぶら下がった分厚い胸板。対して私の体といえば、実に貧乏なものだ。


 その圧倒的な体格差を前にすると、彼の言う通り、私は無力な子供なのかもしれないと思わされる。

全身を洗い終えると、デンジくんは私を抱き上げ、そのまま一緒に湯船へと浸かった。

 広いバスタブ。

 彼が背もたれになり、その足の間に私が収まる。定位置だ。


​「……ふぅー……」


​ デンジくんが、私の頭の上に顎を乗せて長く息を吐いた。

 お湯の浮力と、背中から伝わる彼の体温。悔しいけれど、落ち着く。ここには「外敵」がいない。悪魔もいないし、公安のしがらみもないし、命の危険もない。


​「……なあ」

「ん?」

「こうしてるとさ。……何もかも、どうでもよくなんね?」

「……どうでもよくは、ならないよ」

「つめてーこと言うなよ。俺は、一生こうしててもいいぜ」


​ 彼の腕が、お湯の中で私のお腹に回される。ゆるやかな抱擁。拘束の意図はないと思う。ただ、そこに在るものを愛でるような、穏やかな接触。


​「……飯食って、風呂入って、寝て。……アンタの世話して、髪乾かしてやって。……それだけでいいじゃん。外なんか出なくてもさ、ここで全部完結してんだし」


​ 耳元で囁かれる声は、蕩けるように甘く、そして底知れなく虚無的だった。

 

​ 私は何も言えなくて、ただお湯の中で彼の手を握り返した。指先がふやけている。

 彼の手は大きくて、硬くて、そして泣きたくなるほど温かかった。



​ 風呂から上がると、そこからは「お世話タイム」の続きが始まる。いい加減にして欲しいなあと思うけれども、まさかそれを口には出せない。

 バスタオルで包まれ、きっちり首輪を閉め直されて、ソファに座らされる。

 デンジくんはドライヤーを取り出し、私の髪を乾かし始めた。


​「熱くねえ?」

「大丈夫」

「ん。……へへ、いい匂いする」


​ 彼は私の髪に鼻を埋め、クンクンと匂いを嗅ぐ。彼がやると大型犬がじゃれついているようにしか見えないから不思議だ。あるいはもっと悪意を持った言い方をするのであれば、自分の縄張りの匂いを確認している獣か。


​ 髪が乾くと、次は爪切りだった。リビングのローテーブルに私の手を乗せ、彼は真剣な表情でパチン、パチンと爪を切っていく。本当に、だんだん嫌になってくる。


​「……デンジくん」

「んー、動くなよ。深爪すっと痛えから」

「私、自分でもできるよ」

「いーの。俺がやりてえんだから」


​ 彼は私の指先を摘み、やすりで形を整える。その横顔は、プラモデルを作っている少年のように集中していて、楽しそうだ。される側としてはたまったものではないが。


​「よし、綺麗になった」

「ありがとう」

「足もやるか?」

「足はいい。くすぐったいから絶対暴れちゃう」

「ちぇ」


​ デンジくんは残念そうに爪切りを片付けると、冷蔵庫からアイスを取り出した。高級そうな箱入りアイス。彼はスプーンを二つ持って戻ってくると、当然のように私の隣に座り、私の口元にスプーンを差し出した。


​「ほら、あーん」

「……自分で食べる」

「いーじゃん、サービスだよサービス。……ほら」


​ 抗えない。私は諦めて口を開けた。冷たくて甘いバニラが口の中に広がる。


​「うまい?」

「……うん。美味しい」

「だろ? これ高いやつなんだぜ」


​ 彼はさわやかに笑い、自分もアイスを頬張った。その笑顔は、10年前の彼と重なる。貧乏で、食パンの耳しか食べられなかった彼が、今はこうして高級アイスを笑って食べている。その事実は、素直に嬉しい。嬉しいけれど、その「成功」の隣に、死んでしまった仲間たちの幻影が見え隠れして、胸が苦しくなる。


​「……映画でも見るか」

「いいね。何見るの?」

「最近のやつは分かんねーだろ? ……アンパンマンとかどうよ」

「えっ、え、馬鹿にしてる?」

「してねえって」


​ 彼は自嘲気味に笑い、結局、古い洋画を選んだ。二人でソファに並んで座る。デンジくんは私の肩を抱き寄せ、私は彼の肩に頭を預ける。


 画面の中で、主人公たちが撃ち合い、愛を語らい、爆発する。

 

 平和だ。

 異常なほどに、平和だ。

 この部屋の外では、悪魔が暴れているかもしれない。あるいは、戦争が起きているのかもしれない。

 でも、ここでは時間が止まっている。

​ 映画の中盤、デンジくんの手が、私の手を弄り始めた。指を絡めたり、掌を親指でなぞったり。そこに性欲の色はない。ただの手慰み。あるいは、私がそこに実体として存在していることを、指先で確認し続けているような、無意識の確認作業。


​「……副隊長」

「ん?」

「……どっか行かねえよな?」


​ 視線は画面に向けたまま、彼がポツリと呟いた。


​「……行かないよ。ここにいるよ」

「うん。……いい子だ」


​ 彼は満足そうに私の手を握りしめ、もう一度強く肩を抱き寄せた。

 

 午後3時。

 休日はまだ半分も残っている。

 私たちはこのまま、夕飯までダラダラと映画を見て、また彼が作った料理を食べて、そして夜になれば同じベッドで眠るのだろう。


​ 飼い殺し。そんな言葉が頭をよぎる。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

19日目


​ ガチャン、ピロリン。

 重厚な金属音と、軽快な電子音が連続して響く。


​「行ってきます。いい子にしてろよ」


 その言葉を最後に、私はしばらくひとりぼっちになる。35階の高級マンションは、恐ろしいほど静まり返っていた。高性能な防音ガラスは下界の喧騒を一切通さない。車の音も、電車の音も、人々の話し声も。ここにあるのは、空調の低い稼働音と、私自身の心音だけ。


​「……はぁ」


​ 私は、まだデンジくんの体温が残っているベッドに潜り込んだ。

 二度寝だ。だってやることがない。

 掃除はよくわかんないまんまるのペットみたいなやつがやる。(名前は聞いたけど忘れた)洗濯は、ドラム式洗濯機が乾燥まで終わらせてくれる。料理もデンジくんが朝作ってくれたお弁当が冷蔵庫に入っているし、夜は彼が何か買って帰ってくるか、作ってくれる。


​ 私の仕事は、「ここにいること」。

 ただ呼吸をして、内臓を動かして、彼が帰ってくるまで鮮度を保っておくこと。それだけだ。


​「おやすみ」


​ 誰に言うでもなく呟いて目を閉じた。

 かつての公安時代、睡眠時間は削るものだった。書類仕事に追われ、デビルハンターの尻拭いに追われ、飲み会に連れ回され。あの頃の私が今の私を見たら、なんて言うだろう。『羨ましい』と言うだろうか。それとも『家畜じゃん』と蔑むだろうか。



​ 次に目が覚めた時、カーテンの隙間から差し込む光の角度が変わっていた。枕元の時計を見る。13時。4時間も寝ていたことになる。驚くべき才能だ。夜は……まあ、それなりにしか寝れていないとは言えども、これだけお昼寝が出来るってすごい。


​ のそりと起き上がりリビングへ向かう。


 改めてこの家は広い。広すぎる。

 デンジくんがいる時は、彼が物理的にも存在感的にも場所を取るから気にならないけれど、私一人だとこの部屋は広野のように感じる。


 冷蔵庫にはタッパーに入ったチャーハンと、サラダ。それと「ちゃんと温めて食えよ」というメモ。

 私はタッパーを電子レンジに放り込み、温めボタンを押した。ブーン、という回転音が、虚しい静寂を強調する。


​ 温まったチャーハンをダイニングテーブルで一人で食べた。美味しい。デンジくんの料理の腕は、日に日に上がっている。味付けも私好みだ。でも、味がしない。なんだか家畜の飼料を食べているみたいな気持ちになって、3分の1くらい食べたあたりで、食べるのを辞めた。


​「ごちそうさま」

 現在時刻、13時半。

 デンジくんが帰ってくるのは、早くても18時。あと4時間半。


​「なにしよう」


​ 独り言が空虚に響く。本を読む気にはなれない。文字を目で追っても、内容が頭に入ってこないからだ。テレビをつけてみたけれど、すぐに消した。ニュースは見れないし、ワイドショーのどうでもいいゴシップは、別の世界の出来事みたいで吐き気がする。


​ 私はソファに座り、膝を抱えた。

 窓の外を見る。

 青い空。白い雲。

 あそこには世界がある。私がかつて生きていた、そして今は弾き出された世界が。


​ ここから出る方法は?考えないわけじゃない。窓を割る? 強化ガラスだ。椅子を投げつけたくらいじゃビクともしない。玄関? 二重ロックだ。ピッキングの技術なんてない。火災報知器を作動させる? そうすればセキュリティが解除されるかもしれない。でも、もしボヤ騒ぎを起こして、デンジくんの住む場所を奪ってしまったら?


 ……それに、もし外に出られたとして。

 私には戸籍もない。死んでるから。金もない。頼れる知人も全員死んでいる。岸辺隊長はあるいは生きているかもしれないけれども、なんせ10年も経っているのだ。そもそも昔だって所在のよく分からない人だったのに、今の居場所などわかったものか。


 警察に行けばいい? 「10年前からタイムスリップしてきました」なんて言ったら精神病院送りだ。あるいは、公安に引き渡されて……マキマさんがいない今の公安が、今の状態の私をどう扱うかなんて想像もつかない。


​「……詰んでるなぁ」


​ 論理的に考えて、ここが一番安全で、快適なのだ。多分……。

 だって衣食住は保証されている。家主(気は狂っているが)は私を崇拝し、守ってくれる。ここにいれば、死なない。痛い目にも……あんまり遭わない。


 ソファにゴロンと横になった。

 デンジくんの匂いがするクッションを抱きしめる。

 落ち着く。悔しいけれど、この匂いを嗅ぐと、強張っていた神経がふにゃりと緩んでしまう。


​「……デンジくん」


​ 名前を呼んでみる。

 返事はない。当たり前だ。

 

 寂しい。

 ああ、認めたくないけれど、寂しい。恐怖の対象であり、監禁犯であるはずの彼がいなくて、清々するどころか、寂しくてたまらないなんて。


 私は完全に、彼に調教されてしまったのだろうか。

 それとも、元々私の中にあった孤独な部分が、彼の歪な愛とカチリとハマってしまったのだろうか。あんまり考えたくないことだな。これって。


​ 時計の針を見る。秒針が進むのが、遅い。

 チッ、チッ、チッ。一秒が永遠みたいだ。


​ また目を閉じた。起きていると、自分が「何者でもない肉の塊」であることを突きつけられる気がして。寝てしまえば、時間は過ぎる。次に目を開ける時、そこにはデンジくんがいてほしい。私の名前を呼んで、抱きしめて、私が「私」であることを証明してほしい。


​ 思考が泥のように沈んでいく。

 私は今日何も生産していない。

 誰とも話していない。

 社会の役にも立っていない。ただ、デンジくんの帰りを待つためだけに、エネルギーを温存している。それって、果たして本当に生きてるっていえるのかな。


 私まで家電の一部になっちゃったみたいだ。持ち主が帰ってきて、操作してくれないと、何もできない。画面すら光らない。自己嫌悪する気力さえ、睡魔に溶けていく。薄れゆく意識の中で願った。


 早く。

 早く、18時になあれ。



​ ピッ、ガチャン。

​ 電子音。その音で、私は深海から浮上するように目を覚ました。部屋は真っ暗だ。いつの間にか日が暮れていたらしい。玄関の明かりがつき、廊下を歩く足音が近づいてくる。

​ 心臓がドクンと鳴る。


​「……ただいまー。真っ暗じゃん」


​ リビングのドアが開き、廊下の光を背負ったデンジくんのシルエットが浮かび上がる。彼はソファで丸まっている私を見つけ、安堵のため息をついた。


​「……寝てた?」

「……ん、おかえり……」


​ 寝起きの掠れた声がでた。のそのそと起き上がり、彼を見上げる。スーツ姿。鉄とタバコの匂い。外の世界の匂い。


​「マジで一日中寝てたのかよ。すげー寝癖」


​ デンジくんはクスクスと笑い、私の隣に座り込んだ。ソファが沈む。その重みが、私がここに存在しているということを確定させてくれる。


​「腹減ったろ。飯、買ってきたぞ」

「……うん」

「今日は中華。エビチリ食う?」

「……食べる」


​ 会話が成立する。私の言葉に、反応が返ってくる。それだけのことが、嬉しい。


​「……デンジくん」

「ん?」


​ 彼の腕にしがみついた。

 スーツの生地の感触。下にある筋肉の硬さ。体温。


​「遅いよ」

「は? 定時ダッシュしたんだぞ、寄り道もしねえで」

「……寂しかった」


​ 言ってしまった。敗北宣言だ。でも、構わない。今日のあの日中の、底なしの虚無に比べれば、プライドなんてどうでもいい。

​ デンジくんは少し驚いたように目を見開き、それから、とろけるように甘く、優越感に浸った顔で笑った。


​「……そっか。寂しかったか」


​ 彼は私の頭を、大きな手で撫で回す。


​「俺もだよ。……早く会いたくて、仕事なんか手につかなかった」


​ 彼は私を抱き寄せ、深々とキスをした。私の肺に、彼が吸ってきた空気が吹き込まれる。

 ああ、息ができる。

 私は今日初めて、本当の意味で呼吸をした気がした。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

20日目


 ​ カチ、カチ、カチ。

 リビングの掛け時計の音が、やけに大きく聞こえる。

​ 私はソファに深く沈み込んだまま、ぼんやりと天井のダウンライトを見つめていた。

 ここに来て、20日目。節目だ。

 ……たぶん。


 正直日付の感覚が曖昧になってきている。部屋は快適だ。温度も湿度も完璧に管理されている。埃ひとつないフローリング。座り心地の良いイタリア製のソファ。


 でも、ここの空気って死んでるようなもんだし。私が換気をしないせいで一度も入れ替えられていない、循環し続けるだけの人工的な酸素。それを吸うたびに、私の肺が少しずつ腐っていくような錯覚に陥る。


​「外行きたいなぁ」


​ 独り言が空虚に響く。窓に近づく。

 強化ガラスの向こうには灰色の空が広がっていた。今日は雨らしい。ガラスに額を押し付けても、冷たさが伝わってくるだけ。雨音すら聞こえない。

 

 デンジくんがいないと、やっぱりどうしても、どうしようとなく孤独だ。雨の匂いが嗅ぎたい。湿ったアスファルトの匂い。排気ガスの匂い。コンビニの換気扇から漂う油の匂い。そんな「汚いもの」が今の私には宝石よりも輝いて思える。

​ ガラスを爪でカリカリと引っ掻いた。




​ ピロリンと電子ロックの解除音が鳴る。身体が条件反射でビクッと跳ねた。

​ 足音。扉が開く音。デンジくんが帰ってきた。


​「ただいま、副隊長。……なんだ、今日も暗いじゃんか。電気つければいいのに」


​ 彼はパチリと照明を全開にした。

 眩しい。私は目を細めて、のそのそとソファから起き上がる。


​「おかえり」

「おう。……元気ねえな? 昨日みたいに寂しい〜って怒ってくんねぇのかよ」


​ デンジくんはスーツのジャケットを脱ぎ捨てて、私の隣にドカッと座った。そして、私の頬を両手で包み込み、覗き込んでくる。


​「顔色わりーぞ。……飯は? 食ったか?」

「……お昼のサンドイッチ、半分だけ」

「それだけ?痩せちまうぞ」


​ 彼は不満そうに眉を寄せたが、すぐに「ま、いいや」と気を取り直したように笑った。

​「ほら、土産。……アンタ、こういうの好きだろ?」


​ 彼が差し出したのは、桐の箱に入ったマスクメロンだった。

 一玉数万円はしそうな代物だ。


​「すげえ匂いすんだぜ。今切るから待ってて」


​ 彼は嬉々としてキッチンへ向かう。その背中を見ながら、私は深く溜息をついた。

 

 別にメロンなんてどうだっていい。たった5分でいい。この部屋の窓を開けて、外の風を吸わせてくれるだけでいいのに。



​「ほら、食べて」

​「……ありがとう。でも今はいいや」

「あ? なんでだよ。美味いぞ?」

「……お腹、空いてなくて」

「昼も食ってねえのに? わがままだなぁ」


​ デンジくんは、一切れを自分で齧り、残りを私の口元に押し付けた。


​「ほら。一口だけでいいから」

「……いらない」

「食えって」

「いらないってば!」


​ 思わず、彼の手を払いのけてしまった。綺麗なメロンが床に落ちる。ベチャ、という嫌な音が、静寂を引き裂いた。勿体ない、ごめんなさい。


​「……あ」


​ やってしまった。デンジくんの表情が、スゥッと能面のように消える。


​「あっそ」


​ 低い声。彼は床に落ちたメロンを拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。……昔なら拾って食べてただろうに。


​「あのね、あのね……デンジくん……窓……窓を開けたいの。少しだけでいいから……空気を入れ替えたいだけなの」


 少しの沈黙。


「……あ゙ー、ちょっと素直で可愛くなったと思ったらすぐこれかよ……はあ。本当に情緒不安定だな、アンタ……」


​ デンジくんは、私の訴えを聞いて、少しだけ驚いた顔をした。

 そして、私の顔と、閉ざされた窓を交互に見て、ふぅと息を吐いた。


​「……息が詰まる、ね」


​ 彼は立ち上がり、私を抱き上げた。お姫様抱っこ。

 抵抗する間もなく、彼は窓の方へと歩き出す。


​「で、デンジくん?」

「外の空気吸いたいんだろ」


​ 厳重にロックされた掃き出し窓の鍵を、一つ一つ外していった。ガチャン、ガチャン、という重たい金属音。そして、最後のロックが外れ、引き戸が開け放たれる。


 高層階特有の突風が吹いて、湿った空気が部屋の中に吹き込んできた。雨の匂い。車の走行音。都市の喧騒。20日ぶりに感じる「外」の刺激に、私はめまいがした。


​「ほら。外だぞ」


​ デンジくんが私を抱いたままベランダに出た。手すりの向こうは、35階の虚空だ。下を見ると、車が豆粒のように流れている。


​「……っ、寒い……」

「雨降ってっからな」


​ デンジくんは私を降ろさなかった。

 鉄柵ギリギリのところに立ち、私を宙に浮かせたまま抱きしめている。


​「外の空気は美味いかよ」

「……うん。……美味しい……」


​ 貪るように呼吸をした。湿気を含んだ重たい空気だけど、無菌室じみた部屋の空気よりずっと生きてる味がする。

 

「……ありがとう、デンジくん。もう大丈夫」

「そ」


​ でも彼は部屋に戻ろうとしなかい。むしろ、私を抱く腕に力を込め、柵から身を乗り出すようにする。


​「ひ、っ……あっ、あ、でんじくん、やだ、おちる!!おちちゃうっ、やだっ!」


​ 体が、空中に投げ出されるような感覚。落ちる。本能的な恐怖でデンジくんの首にしがみついた。


​「で、デンジくん、怖い、戻って」

「ここから手を離したら、アンタは死ぬな」

「う、あ」

​「魔人でもない、武器人間でもない。ただの人間なんだしさ。……地面に叩きつけられて、グシャグシャになって、元の形も分からなくなる」

「あ……やだ、 離さないで……」

「離さねえよ。離すわけねえだろ。……俺の命より大事なんだから」

「あ……」

「……ごめん、意地悪しすぎた。部屋戻ろう」


​ デンジくんは、震える私を抱えて部屋の中に戻った。窓が閉められ、再び厳重なロックがかけられる。外の音が遮断され、またあの静寂が戻ってきた。

​ 私はソファに降ろされ、ブランケットをかけられた。外の空気を吸ったはずなのに、今はもっと息苦しい。


​「メロン、新しいの剥くから。……食欲無くても、寝る前にちょっとは食った方がいいって」


​ デンジくんは、何事もなかったようにキッチンへ向かった。震える手でブランケットを握りしめてその姿を見送る。

​ キッチンから、包丁の音が聞こえる。

 もう、おうちにかえりたい……。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

21日目


 今日のデンジくんは、ちょっとおさぼり、らしい。本当は出勤の予定だったんだけど、面倒だから休むと言って、朝からどこかに電話をしていた。​別に歳を取ったからって真面目になった訳じゃないんだな……。



 リビングの大型テレビには、またしても中身のないバラエティ番組が映し出されている。色彩の暴力のような画面。人工的な笑い声。目がチカチカして、つかれる。好きじゃない。

​ 私はデンジくんの膝の上にいた。彼はソファに深く腰掛け、私を子供のように抱き抱え、あごを私の肩に乗せている。背中に感じる彼の胸板の厚み。腹部に回された太い腕の重み。そして、うなじにかかる温かく湿った呼吸。性的なニュアンスを感じ取らないように、必死に意識を整える。


​「……髪からいい匂いする」

「さっき、デンジくんが洗ってくれたから……」


​ 彼は満足そうに喉を鳴らし、私の髪に頬ずりをすた。気に入る返答だったらしい。


 膝の上で小さく身じろぎをした。重い。物理的な体重の話ではなく。彼の向けてくる愛情──という名の執着──の質量が、私の許容量を超えてのしかかってくる。正直しんどい。


​「……ん、どうかした?」

「ううん、なんでもない。……ちょっと、足が痺れただけ」

「ああ、悪ぃな」


​ デンジくんは少しだけ姿勢を変え、しかし腕の力は緩めないまま、私を抱き直した。その仕草があまりにも自然で、彼の中で私が「愛玩動物」というカテゴリーに完全に分類されていることを思い知らされる。またけだものみたいにセックスをして、自己嫌悪で死にたくなるよりは、ずっとずっといいけど。


 そんなことを考えているさ中。


​ ピンポーン。

 ピンポーン、ピンポーン。無機質な電子音が部屋の空気を切り裂いた。連続するチャイム。遠慮も、常識もない、暴力的な連打で。

 来客?ここに来てから21日間、今まで一度だって鳴ったことがなかったのに。宅配便でさえ、ただの一度も来たことがなかったのに。


 デンジくんの体が瞬時に硬直する。背中から伝わる彼の体温がスッと冷えていくのが分かった。

​ 耳元で彼が舌打ちをする。


​「デンジくん? 誰か……」

「シッ」

「んむぐ」


​ 彼は私の口を手で塞ぎ、鋭い眼光で玄関の方を睨みつけた。チャイムの音は止まない、どころか、更にけたたましくなっている。ピンポーン。ドンドン、ドンドン!!チャイムはやがて打撃音に変わった。

 誰かが、玄関の扉を叩いている。そこで初めて、私も来客が普通の人間ではないことに気が付いた。


​「オイ! いるんだろデンジ! メーター回ってんの見えてんぞコラ!」


​ くぐもった男の怒鳴り声。デンジくんのものではない声を久しぶりに聞いた。聞き覚えのないドスの利いた声だ。名前を呼ばれたデンジくんは苦虫を噛み潰したような顔で、抱きしめていた私をソファに下ろした。


​「……隠れてろ」

「え?」

「寝室に行け。鍵かけて、絶対に出てくんな」


​ 切羽詰まった声。彼の瞳孔が開いている。焦りか怒りかは分からない。相手が誰なのか。頷いて立ち上がろうとした——けれど、遅かった。


 ガガガッ、ピロリン。

​ 電子ロックが解除される音がした。いつもより音が濁っている。たぶん、正規の解錠ではない。


​「あ?」


​ デンジくんが抜けた声を漏らすのと同時にどかどかと足音がして、リビングのドアが乱暴に開け放たれた。


​「居留守使ってんじゃねえぞクソガキ!」


​ 入ってきたのは長身の男だった。黒いロングコート。鋭い眼光。そして、頬に走る横一文字の傷跡と、特徴的なもみあげ。その男は、ズカズカとリビングに侵入し──そして、ソファに固まっている私たちを見て、ピタリと足を止めた。


​ 沈黙。

 テレビの笑い声だけが空虚に響く。


​ 男の目が、デンジくんを捉え、そのすぐ隣にいる私へと移動する。


 目が合った。

 私は息を呑んだ。怖い。見た目からして、堅気の人じゃない。ヤクザか、殺し屋か。そんな感じの顔だ。

 男は、私を凝視したまま、時間を止めたように動かない。


​ やがて。男の顔が、徐々に引きつり、信じられないものを見るような表情へと変わっていった。


​「……おい」


​ 男が、呻くように言った。


​「なんだそりゃ」


​ その視線は明らかに私に向けられている。その目つきに見覚えがある。こちらで初めてデンジくんに会った、あの日と同じ目つきだ。


​「サムライソード、てめェどういうつもりだよ」


​ デンジくんが私の前に立ちはだかった。

 私を背中に隠し、男──サムライソードと呼ばれたその人を睨みつける。


​「もうアポなしで人の家に上がり込んでんじゃねえ、殺すぞ」


​ そういう問題じゃないと思うけど、やっぱりちょっとズレてるな。場違いにそう思ったけど言えなかった。

 私でもわかるほどの殺意に空気がピリつく。けれど、サムライソードと呼ばれた男はデンジくんの脅しを無視して私の顔を覗き込もうと首を傾げるばかり。


​「殺すだぁ? ハッ、抜かせ。……それより、おい」


​ 男の指が、私を指差す。


​「その女……お前の元上司じゃねえのか?」


​ 心臓が止まりそうになった。私のことを知っている。この世界の私は、10年前に死んでいるはずなのに。でも、私はこの人に見覚えがない。


​「……人違いだ」

「嘘つけ。……そのツラ、俺は覚えてるぞ。当時、散々ニュースで流れたからなぁ」


​ そういって、気味悪そうに鼻を鳴らした。


​「『公安対魔特異4課副隊長、行方不明』……その後、コンクリ詰めドラム缶で発見。……犯人はバラバラにされてミンチ」

「ひぇ」


​ 思わず悲鳴が漏れる。事件、コンクリ詰め。また、その言葉。体が意思とは無関係にガタガタと震え出した。デンジくんの背中越しに、その男の言葉がナイフのように突き刺さる。


​「なんで、死人がここにいんだよ」


​ 男の目が、私を値踏みする。

 

「……まさか、偽物か? 似た女に整形させた? ……それとも、悪魔の能力か?」

「あのっ、わたし、じかんのあくまのちからで……」

「てめえに関係ねえだろ」

「あっ、あ」

​「関係、ねえこともねえだろ。俺は今日、岸辺のジジイに言われてテメェの様子見に来たんだよ。最近、情緒不安定すぎて仕事になんねえってな。今日みてぇなさぼりも多いし」


​ あ、先生、生きてたんだ。よかった……。


 男は平然とした様子でポケットからタバコを取り出し、咥える。デンジくんが舌打ちをするのにも構わず、ダイニングキッチンの上に座り込む。この空気の中で。

 デンジくんの癇癪に慣れているのだろうという余裕を感じる。あるいはこの男は、付き合いが長いのかもしれない、と思った。

 そして、軽蔑と嫌悪がないまぜになった目で、デンジくんを見下ろしている。


​「来てみりゃこれだ。ドン引きだぜチェンソーマンよ」


​ 紫煙を吐き出しながら、男は言う。


​「死んだ女に趣味の悪い首輪付けておままごとか? 薄気味悪ぃ」


​ 薄気味悪い。そりゃそうだ。本人である私だってそう思うし、返す言葉もない。……でも同時に、私の心の中に微かな期待が芽生えていた。


​ この男は、外の人だ。素性は分からない。見るからに善人……では、無いのだろう、きっと。けれども彼は、私と違ってデンジくんの狂気に飲み込まれていない、まともな(と言っていいのか分からないけれど)感覚を持った、他者だ。


​ 彼はタバコの灰を携帯灰皿に落とし、私を一瞥した。


​「おい、姉ちゃん」

「ひ」

「安心しろ、何もしねえよ。一つ聞きてえだけだ」


​ 彼は、淡々と尋ねた。


​「お前、自分の意思でここにいんのか?」


​ その問いに、部屋の空気が凍りついた。デンジくんが振り返り、私を見る。「言うな」というような、脅迫的な目ではない。「俺たち幸せだよな?」と確認する、縋るような目に見える

​ 唇を震わせた。言えば、どうなる?デンジくんは暴れるかもしれない。この男が私を助けてくれる保証なんてない。

 でも。


​「……わ、わからない……」


​ 蚊の鳴くような声。でも、確かにそう言った。デンジくんが唇を噛む。


​「分からない……です……」

「ふぅん……」


​ 煙を吐き出して嘲るように笑った。


​「少なくとも合意ではないってことだよな?……堕ちるとこまで堕ちたな、お前」


​ 彼は煙草を灰皿の中にしまって、一歩私たちに近づいた。助けてくれるつもりなのか、それともただデンジくんを煽って楽しんでいるだけなのか、その真意は読めない。けれど、彼の介入によって、完璧だったはずの閉じた世界に、亀裂が入ったことだけは確かだ。


​ デンジくんの背中に隠れながら、恐る恐るサムライソードの方を見ていた。恐怖と、混乱と、一握りの希望が、私の胸の中で渦を巻く。


​「……俺のモンに手ェ出したら、殺す」


​ デンジくんが低く唸る。


​「へぇ。……大事なお人形さんだもんなぁ?俺に「外に連れて行ってあげようか」だのなんだの言って、唆されでもしたら困るわけだ」


​ 男の視線がねっとりと私に絡みつく。

 それは私を女として見る目ではない。それは分かる。


 二人の関係性は分からない。けれど、あまり芳しくないことはたしか。最悪の空気が、リビングを満たしていく。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

22日目


​ 朝、目が覚めた瞬間から、空気が鉛のように重かった。いつもなら、デンジくんが起き出し、朝食を作り、私にキスをして仕事へ行く時間だ。

 けれど今朝、彼はベッドから一歩も動こうとしなかった。スーツに着替えることもカーテンを開けることもない。ただ、ベッドの中で私の体を抱きすくめ、石像のように固まるばかり。


​「デンジくん」

「……」

「今日、お仕事は……」

「……休んだ」

​「体調、悪いの?」

「ああ。悪い。最悪だ」


​ 彼は私の背中に額を押し付け、深く息を吐く。その吐息が熱い。知恵熱でも出ているのかもしれない。……昨日のことを思えば、無理もない事だった。


 あれから結局、何も反論をしないデンジくんにつまらなそうに鼻を鳴らしたサムライソードは、「また来る」とだけ帰って行った。本当にそうするつもりなのかは分からない。けれども、デンジくんの精神状態になんらかしらの影響を与えたことは確かだ。



​ 朝からデンジくんは私を離さない。トイレに行く時でさえ私の腕を掴んでついてくる。そして逆もまたしかり。(これはちょっと勘弁してほしい。)

 リビングに行けばすぐにソファに座らせ、自分もその隣にへばりつく。


​ 静かだ。


 彼は何も喋らない。テレビもつけない。音楽も流さない。35階の密室は深海のような静寂に包まれている。聞こえるのは、空調の音と、デンジくんの重たい呼吸音だけ。


 ……正直、こわい。怒鳴り散らして暴れてくれた方が、まだマシだったかもしれない。今の彼はまるで爆発寸前の爆弾を抱え込んだまま、じっと震えている子供のようだ。何を考えているのか分からない。いつ、その均衡が崩れるのかも分からない。


​ 昼過ぎ。いよいよ耐えきれなくなって、私の方から口を開いた。


​「……デンジくん。お腹、空かない?」

「……」

「何か、作ろうか? 私でよければ……」


​ 彼はゆっくりと首を横に振った。


​「俺の分はいらない」

「でも……」

「食いたくない。……吐きそうだ」


​ デンジくんは、虚ろな目でキッチン一点を見つめている。その視線の先には、昨日サムライソードが座っていた場所がある。


​「……なぁ」


​ 長い沈黙の後、彼が口を開いた。

 ボソボソとした、独り言のような声。


​「……アンタ、あいつと知り合いだったのか?」

「……え?」

「昨日のアイツ」

​「え……違うよ。私は知らない。……向こうが、一方的に知ってただけで」

「ふうん」


​ 彼は納得したのか、していないのか、曖昧に頷いた。そして、私の手を強く握りしめた。ギリ、ギリ、と骨が軋むほどの力で。


​「あ、っ……痛いよ……」


​ 顔をしかめると、彼はハッとして力を緩めた。けれど手は離さない。指を絡ませ、手錠のようにロックしてくる。


​「……ここは安全じゃないかもしれねえ。……引っ越すか? もっとセキュリティのいいとこに。……地下とか」

「ちっ、ちかって、やだ、そんなの」

「考えてるだけだって」


​ 今はそうでも、いつかはそうする可能性もあるってこと?

 本能的な拒否反応が出る。そんなの絶対に耐えられない。これ以上、太陽のない場所に閉じ込められるなんて。


​「い……嫌だよ。地下なんて。それだけは……」

「……じゃあ、どうすればいいと思う?」


​ デンジくんが私を見た。その目には涙が溜まっていた。怒っているんじゃない。泣いているんだ。どうしようもない無力感に打ちひしがれて。


​「言ったよな。『分からない』って」


​ 核心を突かれた。心臓が跳ねる。


​「……それは……」

「俺んとこから離れて、そのあとどうする気だよ。なあ……」

「わか、わからないけど、でも……」

​「アンタの家はもうねえ。家族もいねえ。……10年経ってんだぞ? 知り合いだって、俺以外ほとんど全員死んでる」

「で、でも、きしべさんがいるって、あのひと……」

「教え子死ぬほど抱えてるあの人が、クソの役にも立たないアンタを態々丁寧に保護すると思うか?」

「……、……」

「分かってねえよ。……外に出たら、アンタは野垂れ死ぬだけだ。公安に捕まって、実験台にされるか……悪魔に殺されるか」


​ 彼は私の肩を掴み、顔を近づけた。


​「ここしかねえだろ? アンタが生きていける場所なんて、俺の腕の中しかねえだろ? ……なんで、それが分かんねえんだよ」


​ 正論だ。残酷なほどに、正論だった。この世界における私の居場所は、客観的に見てここしかない。

 でも、感情がそれを拒否する。

 

「私は、人間、だから」


​ 勇気を振り絞って言った。


​「ペットみたいな生き方は、できないよ……ただ生かされて、餌をもらって、撫でられるだけの存在じゃないの。……自分の足で歩きたい」


​ 言った瞬間、空気が凍りついた。デンジくんの表情が、スッと能面のように無になった。


​「……人間、な」


​ 彼は自嘲気味に笑う。


​「俺だって人間になりたかったよ。普通の生活がしたかった。……アキと、パワーと、うまいもん食って、バカやって……ただ、それだけだったのに」


 首を噛まれる。痛い。血が滲んで、ボタボタと真っ白いネグリジェの上に垂れた。


​「全部、奪われた」

「でっ、で、あ」

「マキマさんに奪われて、悪魔に奪われて、世間に奪われて……やっと、やっと取り戻したんだ。……アンタだけは」


 言葉がそこで途切れる。


​「……アンタまでいなくなったら、俺、どうなんの?」


​ 問いかけ。いいや、脅迫だ。それに対する答えを、私は持ち合わせていないのに。


「アンタがいなくなったら俺は壊れる。死ぬかもしれない。世界を壊すかもしれない。それでもいいのかよ、なぁ」

「よく、ない、けどっ……」

「じゃあここで大人しくしてろ。死ぬまで一生」


 突きつけられているのだ。私の良心に。


​「……どこにも、行かないでくれよ。……頼むから」

「……」

「俺のこと、嫌い? あんな……色々酷いことしたから? それならもう二度と、無理やりにはしねえから。……なんにも殴らねえし、変な道具だって使わねえ。……だから」


​ 彼は私の膝に顔を埋め、声を殺して泣き始めた。


​「……捨てないでくれよ、副隊長……」


​ 静かな慟哭。動けなかった。

 昨日抱いた希望──サムライソードが助けに来てくれるかもしれないという期待が、ちかちかと点滅する。

​ この子を置いていけるの?

 こんなに傷ついて、ボロボロになって、私だけに縋り付いているこの子を、見捨てて逃げられるの?ちがう、私にそんなことを考える道理なんてない。そんな義務はない。無いはずだ。ないはず、なのに。


​「わかった、から……どこにもいかないから……」

「……ほんとに、分かってんのかよ……」

「うん。……今は、ここにいるよ」


​ 今は、と付け加えるのが精一杯の抵抗だった。けれどデンジくんは、その言葉だけで十分だったみたいだ。 彼は私を押し倒し、ソファの上で私に覆いかぶさった。性的な意味ではない。ただ、私を自分の体の下という檻に閉じ込め、逃げられないようにするために。


​「……ずっとだ。……ずっと、一緒」


​ 彼は私の首筋に顔を埋め、そのまま動かなくなった。

 

 夕闇が迫る。部屋の中が暗くなっても、彼は電気をつけようとしなかった。暗闇の中で、私たちは重なり合ったまま、微動だにしない。​重い。苦しい。息が詰まりそう。でも、私は彼を押し退けることができない。彼の涙が私の鎖骨のあたりを濡らし続けているから。


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23日目


 デンジくんは荒れている。仕事を休んで、一日中、私の頭がおかしくなるまで、何回も何回も、ずーっと私のことを犯した。


 何も考えたくない。

 何も思い出したくない。


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24日目


 今日もデンジくんはお仕事をお休みした。


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25日目


​ 体が死んでいる。比喩ではない。指先一つ、まぶた一枚動かすのさえ億劫で、全身の関節が錆びついたブリキのおもちゃのように軋んでいる。


 腰から下は、もう自分の体じゃないみたいだ。感覚が麻痺しているのか、それともオーバーフローしているのか、重たい鉛の塊がぶら下がっているような鈍い違和感だけがある。


​ ……何日経ったんだろう。

​ 記憶が曖昧だ。


 21日目の夜、サムライソードが来て、デンジくんが狂って。そこからの記憶は、熱と、揺れと、喘ぎ声と、粘膜の擦れる音だけで埋め尽くされている。


 朝も昼も夜もなかった。カーテンは閉め切られ、食事はウィダーインゼリーや水を口移しで流し込まれるだけ。トイレに行くことさえ許されず(どう処理されたのか、考えるだけで死にたくなる)、ひたすらに、獣のように交わり続け、て。あああ。思い出したくもない。


​ 3日3晩。人間が、そんなに連続して性行為を行えるものだとは知らなかった。いや、デンジくんが人間離れしているだけなのかもしれない。私は無理やり付き合わされていただけ。……それに耐えきれただけ、誰か私を思いっきり褒めてほしい。

​ そして今。ようやく嵐が去った静寂の中で、ボロ雑巾のようにベッドに沈んでいる。


​「……副隊長」


​ すぐ隣から声がする。

 ビクリ、と体が反射的に跳ねる。まだやるの? もう無理だ。これ以上されたら、本当に壊れてしまう。恐怖で縮こまろうとする私を、大きな手が優しく制した。


​「……大丈夫。もうしねえよ。……アンタ、死にソーって顔でぐったりしてるし」


​ デンジくんの声は憑き物が落ちたように穏やかだった。彼はベッドに横たわり、私の体にタオルケットをかけ直してくれる。その手つきは、あの狂乱の夜が嘘のように優しい。彼は、今日も仕事に行かないつもりらしい。枕元の時計を見る気力もないけれど、いつもの出勤時間を過ぎていることは、なんとなく分かる。


 彼は今日も一日中私のそばにいるつもりなのか。……岸辺隊長に、そしてあの厳しそうなサムライソードという男に、怒られたり、しないのかな。


​「……デンジ、くん……」

「ん?」

「……おみず……」

「お、待ってろ」


​ 彼が起き上がり、サイドテーブルからペットボトルを取る。キャップを開け、ストローを差して、私の口元へ運んでくれる。私はそれを、また赤ちゃんみたいに吸った。少しづつ尊厳が削れていくけれど、それを悔しがる暇もない。


 喉が焼けている。声帯が腫れているのが分かる。あんなに叫ばされれば当然だ。


​「……生き返ったか?」

「……うん……」

「そっか。よかった」


​ デンジくんはニコリと笑い、再び私の隣に潜り込んできた。そして。


 彼は掛け布団の中に頭を突っ込み、私の下腹部──子宮のあたりに、耳を押し当てた。


​「……っ、な、に……?」

「シッ。……静かに」


​ 彼の髪が、敏感になった肌をくすぐる。重い。頭の重みが、お腹にずしりと乗っかる。

 彼は目を閉じ、真剣な顔で、私の腹の奥の音を聞こうとしていた。


​「……聞こえねえかな」

「……なに、が?」

「俺らのガキの音」


​ 心臓が、ヒュッとなった。ガキ。子供。

 その単語が持つあまりに現実的で、かつ決定的な意味に、血の気が引いていく。


​「……でん、じくん……そんな、すぐには……」

「分かんねえだろ。……あんだけ出したんだぞ? 中に、ずーっと溜めてたんだ。……絶対、できてる」


​ 確信に満ちた声で呟いた。根拠のない自信だ。別に、たくさん出せば出すほど子供ができやすくなるって……そんなことは、ないと思う。けれど、あの3日間の異常な回数と量を思い出せば、あながちない話でもないように思われた。


 彼は避妊をしなかった。一度も。

 それどころか、わざと一番奥に、種を植え付けるように注ぎ込み続けていた。


​「……できてるよ、絶対。この1ヶ月間、毎日毎日中に出してたもんな」


​ デンジくんは、愛おしそうに私のお腹を指で撫でた。

 

「男かな。女かな」

「やめ……」

「女がいいな。……副隊長に似て、ちっこくて可愛いのがいい。ナユタみたいに生意気でもいいし」


​ 彼は私の拒絶など聞こえていないかのように、夢見心地で語り続ける。


​「名前、どうする? ……パワーとか、アキとか……そういうのは、やめた方がいいか。新しい名前がいいよな」

​「う、う」


​ 涙が滲んでくる。

 悲しいのか、怖いのか、それともホルモンバランスが崩壊しているのか、自分でも分からない。ただ、感情がぐちゃぐちゃになって、涙となって溢れてくる。


​「ん。ほんと涙脆いのな、アンタって」

「ちが、う……ちがうよ……」

「違くねえって。……嬉しいだろ? 俺らの家族が増えるんだぞ」


​ デンジくんは顔を上げ、私の頬の涙を舐め取った。


​「……子供ができたらさ。アンタも、もう諦めつくだろ?」


​ ドキリ、とした。彼の本音がそこにあったような気がした。


​「子供抱えて、逃げられねえもんな。あは。アンタ、すげー子供好きだし。ガキ守るためならなんだってやるだろ。……過去にも、サムライソードのとこにも、行けねえよな」


​ 彼は私の逃走経路を物理的に塞ぐだけでは飽き足らず、生物学的にも塞ごうとしていたのだ。狡猾で悪辣な、最低の搦手で。


​「あ、あ……ひどい、よ」

「別に酷くてもいい。これが一番、間違いねえ方法だし」


​ デンジくんは悪びれもせず、また私のお腹に耳を当てた。


​「アンタは俺がいなきゃ生きていけねえ体になんの。俺も、アンタがいなきゃ生きていけねえし。……これでお揃いだろ」


​ 共依存の完成形。彼はそれを「家族」と呼ぶつもりなのだ。それに自覚的かどうかまでは分からないけれど……。


 お腹の上で、彼の規則正しい呼吸音が響く。


 温かい。……悔しいけれど、この温もりは心地いい。3日間の酷使で感覚がバカになっている私の体は、彼との接触を求めてしまっている。彼が離れると寒くて、不安で、彼が触れていると安心する。


​「デンジくん、重い……」

「んー、我慢しろ。……今、音聞いてるんだから」


​ 彼は動かない。

 私の柔らかいお腹を枕にして、完全にくつろいでいる。


​「そうだ。腹減ってねえ?」

「……あんまり」

「でも食わなきゃダメだって。腹に栄養いかねえだろ」


​ 気が早い。まだできているかどうかも分からないのに。


​「お粥作る。玉子とかいれてさ」

「ん……」

「すぐ持ってくるから待ってて」


​ 彼は名残惜しそうに私のお腹にキスをして、ようやくベッドから起き上がった。一人残された寝室。私は自分のお腹に手を当ててみる。ぺたんこなお腹。なんにも、いるはずなんて、ない。


​ もし、本当にできていたら。私は本当に、ここから出られなくなる。密室の中で、かつての部下との子供を産み育てる。そんな未来が、現実味を帯びて迫ってくる。助けは来るだろうか。もし来てくれたとして、妊娠した私を見て、なんて言うだろう。直視するには、あまりにもおぞましい現実だ。

 

 しばらくして、デンジくんがお盆を持って戻ってきた。湯気の立つお粥と、梅干しと、お水。


​「ほら、起きれるか? 無理なら寝たままでいーけど」


​ 彼は私を抱き起こし、背中にクッションを当ててくれた。そして、スプーンでお粥をすくい、フーフーと冷ましてから、私の口元へ運ぶ。


​「あーん」

「……」

「食えよ。俺の精子ばっか飲んでちゃ体もたねえぞ」

「ぎゃーっ、言わないでええ……」

「あ、いつもの副隊長っぽい。かわい」

「いいいいい……」


​ サラリと、とんでもないことを言う。私は顔を赤らめながら、小さく口を開けた。優しい出汁の味が広がる。美味しい。3日ぶりのまともな食事が弱った胃袋に染み渡っていく。


​「……美味しい?」

「……うん」

「よかった。いっぱい食って、元気な子供産もうな」


​ デンジくんは聖母を見るような目で私を見つめている。ポエティっくな妄想が脳裏に浮かぶ、彼が張り巡らせた蜘蛛の巣の中心で、私はただ、彼の子を宿すための苗床として、横たわっている、そんな。


​ お粥を食べ終えると同時に、強烈な睡魔が襲ってきた。意識していなかったけど、相当お腹が空いてたみたいだ。満腹になったらどっと疲れた。

 デンジくんは食器を片付けると、すぐに戻ってきて、また私のお腹に抱きついてくる。


​「おやすみ、副隊長」

「うう……おやすみ……」

「……おやすみ」


​ 彼は私のお腹に話しかけ、そのまま寝息を立て始めた。私のお腹の上で眠る、大きな子供。


 

 そういえば、私はカレンダーを見ていない。今日は一体、何月の何日なんだろう。頬をダラダラと冷や汗が伝う。



……あ。


 ここに来てから、間違っていなかったら、今日で25日目。どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。



 1ヶ月近く経つのに、まだ1回も、生理、きてない……。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

​26日目


​ 表面的な部分では、日常が戻ってきた。デンジくんはちゃんとお仕事に行く支度をしたし、朝ごはんもきちんと食べた。


​「行ってきます。……ちゃんと飯、食えよ?」


​ 朝、デンジくんはスーツに着替え、私の額と、首輪と──そして、ペタンコなお腹にキスをして、仕事へと出かけていく。

 その足取りは軽い。ここ数日の彼を支配していた「私が消えてしまうかもしれない」という焦燥感が、どこかに消え失せてしまったみたいだ。(少なくとも、表面上はそう見える。


​ ガチャリ。

 重厚な扉が開く音。密室に、私一人だけが残される。


​ シーン、と静まり返ったリビング。

 私はソファに横たわり、ぼんやりと天井を見上げていた。体はまだ重い。3日3晩に及ぶあの行為の代償は大きくて、指先ひとつ動かすのさえ億劫だ。全身の筋肉が悲鳴を上げ、股関節には鈍い痛みが残り、粘膜はヒリヒリと熱を持っていて、まだ少しだけ辛い。


​ けれども、私が動けない理由は、単純な身体的な疲労だけじゃなかった。


​「……26日」


​ 乾いた唇から、数字がこぼれ落ちる。ここに来てから、26日目。約一ヶ月。

​ 私はのそりと起き上がり、ふらつく足取りでトイレへと向かった。

 白いタイル張りの清潔な空間。下着を下ろす。


 ……白いままだ。

​ 心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。


​「あー、あー、あー……」


​ トイレットペーパーを手に取り、震える手で確認する。何もついていない。赤い色は、どこにもない。私の生理周期は規則正しい方だった。公安の激務で多少ズレることはあっても、ここまで遅れることは珍しい。


 カレンダーを頭の中で巻き戻す。


 本来なら、ここに来て一週間目くらいで来るはずだった。環境の変化やストレスで遅れているんだと、最初はそう思っていた。

 でも。


​ 26日。

 もう、予定日を2週間以上過ぎている。

​「あああああ……」

​ 便座に座ったまま、血の気が引いていくのが分かった。寒気がする。指先が冷たい。

 

 ストレス? 栄養失調?そんな言葉で自分を慰めようとする理性を、ここ数日間の記憶が暴力的にねじ伏せていく。


​ デンジくんは、私がここに来てから、一度だって避妊をしなかった。それどころか、あの3日間に関しては、「妊娠させること」だけを目的に、執拗に、深く、何度も何度も種を注ぎ込み続けた。

 『ずっと入れておく』と言って、栓をするように留まり続けた彼の感触が、今も生々しく蘇る。


​「……あ、ぁ……」


​ お腹に手を当てる。まだ、何も変わっていない。平らで、柔らかいお腹。でも、この皮膚一枚隔てた内側で、決定的な「変化」が起きているかもしれない。彼が植え付けた種が、私の養分を吸って、着床し、根を張り始めているかもしれない。


​ 怖い。

 訓練で殺されかけた時よりも、悪魔に食われそうになった時よりも、ずっと怖い。もし、本当に妊娠していたら?


 私はもう、絶対にここから出られない。


 そんな確信がある。だって、だって、そんなこと泣いて信じたいけど、でも、子供の経済状況やありとあらゆる家庭環境はデンジくんの手の平のなかにあるわけで、それを平穏に保つには私がデンジくんの言いなりになる他は無いわけで、万が一サムライソードが助けに来てくれたとしても、その後の子供の人生がどうなるかなんて分からない。


 それに、生まれてくるのは、デンジくんの子供だ。チェンソーマンの……人間かどうかだって分からない。どんな性質を持って生まれてくるかも。


 子供が不幸になるのだけは、だめだ。なにがあってもだめだ。それだけは。これは世間一般の常識としてではなく、私の信念として。私という人間の本質が、それを絶対に許さない。

 ……あるいは、堕ろす? 10年後の世界で、戸籍もない私が、どうやって?産み捨てる? 誰の助けも借りずに?


​ 詰んでいる。

 どうあがいても、私は「デンジくんの所有物」という運命から逃れられないように、チェックメイトされている。


​「……いやだ……」


​ 私はトイレを出て、逃げるようにリビングへ戻った。

 でも、リビングのどこを見ても、デンジくんの痕跡がある。当然だ、だってここは彼の自宅なんだから。

 彼が買ってきたクッション。彼が選んだ服。彼が取り付けたロールスクリーン。そして、私のお腹の中にあるかもしれない、彼の一部。


​ 私はソファに倒れ込み、クッションを抱いて丸まった。ガタガタと震えが止まらない。

 寒い。空調は快適なはずなのに、芯から冷える。


​「う、ぅっ……ぐすっ……」


​ 嗚咽が漏れた。

 一度泣き出すと、もう止まらなかった。


​「……かえりたい……かえりたいよぉ……」


​ 誰もいない部屋で、子供のように泣きじゃくった。

 1997年に帰りたい。


 アキくんがいて、パワーちゃんがいて、私が「副隊長」として凛と立っていられた、あの頃に帰りたい。こんな、見知らぬ未来のマンションで、かつての部下に監禁されて、望まない子供を孕んで、ただの所有物として生かされるなんて嫌だ。


​ デンジくんの言葉が、呪いのようにリフレインする。


『アンタは、俺がいなきゃ生きていけねえ体になるんだ』

『これでお揃いだろ』


​ 愛していると言いながら、彼は私の翼を毟り取り、足枷を嵌め、そして今、体の中から鎖で縛り付けた。それが彼の愛し方なのかもしれない、けど。私には耐えられない。


​ お腹を叩いたら、生理が来るだろうか。そんな自傷的な考えがよぎり、慌てて打ち消す。できない。私にはそんなことできない。だって、もし本当に命があるなら──それは、デンジくんと私の子供なのだから。

 ……それが強姦の末の子供であっても?


「ううううう、自分の思考回路の意味が分からない……もうめちゃくちゃだ……」


​ 愛おしさと憎しみと恐怖。矛盾する感情が渦巻いて、吐き気を催す。


​「おえっ……」


​ 胃液がせり上がる。一日中、ソファの上で泣き続けた。涙が枯れても、しゃくりあげ、震え続けた。不安で、怖くて、誰かに助けてほしくて。


 でも、この世界で私を抱きしめてくれるのは、私をこんな目に遭わせた張本人だけなのだ。



​ ガチャリ。

 夕方。世界が変わる音がした。


​「ただいまー。副隊長、今日はイチゴ買ってきたぞ」


​ デンジくんが帰ってきた。明るい声。希望に満ちた足取り。彼はリビングに入ってきて、目を腫らして丸まっている私を見つけた。


​「あ……そっか、お疲れ様。アンタも色々あって、ちょっと疲れちゃったよな」


​ 優しく近づき、私の顔を覗き込んだ。涙でぐしゃぐしゃになった顔。充血した目。彼は私の涙を見て、一瞬驚いたような顔をし──次の瞬間、とろけるように優しく、残酷なほど幸せそうに微笑んだ。


​「……そっか。情緒不安定か」


​ 彼は納得したように頷き、大きな手で私の頭を撫でた。


​「マタニティブルーってやつだっけ。妊娠すると、涙もろくなるんだって」


 そう叫びたいのに声が出ない。


​「よしよし。辛いな、不安だな」


​ 彼は私を抱き上げ、膝の上に乗せた。いつもの定位置。背中に感じる彼の体温。お腹に回される大きな手。


​「大丈夫、俺がいるって」


​ 暖かい手のひらが、私のお腹を愛おしそうにさする。


​「アンタの体も、心も、お腹ん中のガキも……全部俺が守ってやるから」


 否定する気力さえ今の私には残っていない。力なく、がくりとその場で俯くことしかできない。


​「……生理、来てねえんだろ? この1ヶ月で1回も」

「ひ」

「はは、知らねぇ訳ねぇじゃん。一緒に暮らして、俺が全部管理してんのにさぁ」


​ 耳元で囁かれる悪魔の問いかけ。それにさえ怯えて、小さく頷く他はなかった。デンジくんが私を抱きしめる力が強まった。歓喜。背中越しに、彼の心臓が早鐘を打っているのが伝わってくる。


​「……よかった」


​ 彼は私の首筋に顔を埋め、震える声で言った。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

27日目


​ 異常な朝だった。


 いつもの澱んだ水底のような静けさとは違う。空気が粟立っている。デンジくんが、家中の掃除をしていた。高機能なロボット掃除機が部屋の隅で充電されているのを横目に、彼は自らの手で粘着テープのコロコロを握り、カーペットに這いつくばって埃を取っている。(その姿をちょっと可愛いと思ってしまって、我ながら自分が情けない)


 テーブルの上の雑誌は背表紙のミリ単位まで揃えられ、キッチンからは漂白剤の清潔で鼻をつく匂いが漂ってきそうなくらい。


 そして彼は、何度も何度も自分のシャツの匂いを嗅ぎ、鏡の前で髪を整えている。まるで、家庭訪問を待つ小学生のような、あるいは査定を控えた新人のような。



​ リビングのソファの隅に埋もれていた。

 身に纏っているのは昨日あてがわれた淡いピンク色のルームウェアだ。毛足の長いマシュマロのような手触りの生地。袖は指先まで隠れるほど長く、フードには垂れ下がったウサギの耳がついている。かつて黒いスーツに身を包み、悪魔と対峙していたデビルハンターの成れの果てが、このファンシーな着ぐるみだった。

 私、本当に何やってるんだろう。こんな服を渡してくるデンジくんの頭が相当パーなのは当然としても、それを当然のように来ている私も、相当に頭がマヒしている。


​ 膝を抱えて布の感触に顔を埋める。甘い柔軟剤の匂いがする。デンジくんが選んだ匂いだ。視界の端で、彼がソワソワと玄関の方を見ているのが分かる。


​「……来るぞ」


​ 彼が独り言のように呟いた。


「だれがくるの? サムライソードさん?」

​「先生が、もうすぐ来る」


​ 先生。……先生?

 もしかして。その二文字が、死にかけていた私の心臓を無理やり鷲掴みにする。


「岸辺先生が来るの? ここに?」

「おう。だから朝から掃除してたんだろ」

「そ」


 そういう事なら手伝ったのに!叫びそうになるのを呑み込む。

 岸辺先生。最強のデビルハンター。私の師。絶対的な規律。あの人が来る。この、狂った密室に。反射的に背筋が伸びた。


「でもデンジくん、なんでそんなに緊張してるの……昔は先生のこと舐め腐ってジジイとか言ってたじゃん」

「色々あったんだよここ10年で」

「ほええ……」


 想像が付くような付かないような。いやまあ確かに、考えてみたら、26にもなって先生に16歳の時のクソガキの態度そのまんまでも、それはそれでおかしいか……。


 先生に助けて、と言うべきだろうか?分からない。彼に助けを求めたとして、果たして先生はどうするだろう。……いいや、わざわざ言葉にすることもあるまい。きっと先生なら、言わなくても分かるはずだ。あの人なら。あの鋭い眼光なら、一目見ただけで全てを理解してくれるはず。


 あの人は、あれでいて、すごく優しい人だから。慈悲深くて、真っすぐな人だから。きっと、きっと、もしかしたら。


​ 期待で指先が震える。

 でも……同時に、胃の腑が冷たくなるような恐怖も這い上がってくる。


 今の私は、先生の目にどう映るだろう。こんなバカみたいな服を着て、デンジくんにされるがままになっている私を。




​ 正午。

 インターホンが鳴った。無機質な電子音が部屋の空気をガラスのように張り詰めさせる。デンジくんが弾かれたように立ち上がり、モニターを一瞥し、解除ボタンを押す。重厚な金属音。ドアが開く音。


 そして、廊下を叩く、コツ、コツ、という硬質な靴音。匂いがした。お酒と、煙と、乾いた硝煙の匂い。この無菌室のような部屋には似つかわしくない、あの人にしみついて離れない死線の匂い。


「先生!」


​ リビングに入ってきたのは、記憶の中よりも随分と歳を重ねた先生だった。深く刻まれた皺。白くなった髪。けれどもその双眸の、爬虫類めいた冷徹な光だけは、10年前と何ら変わっていない。


​「……っあ!」


​ ちゃんと挨拶をしようとして、ソファから転げ落ちた。

 足がもつれる。今まで自覚がなかったけれど、筋力が落ちた体は思うように動かないのだ。這うようにして床を掻きむしりながら、先生のもとへとにじり寄る。


​「せんせい」


​ 声が掠れた。おおよそ1ヶ月ぶり。先生からしたらきっと、10年ぶりの再会。言葉にならない。会いたかった。


 顔を見た瞬間に、今まで麻痺していた感覚が、急激に正常性を取り戻した。頭の奥が冷えていく。

 助けて。帰りたい。怖い。ひどいことをされた。言いたいことは山ほどあるのに、喉が詰まって、ただの呼吸音しか出てこない。


「おひさし、ぶりです……か?」

「……ああ」


​ 先生のロングコートの裾を掴んだ。縋り付いた。ごわりとした生地の感触。見上げて、目を合わせる。泣きたい訳でもないのに、涙が溢れて視界が歪む。


「こら、先生困ってんだろ。ほら、おいで」

「あ、あ」


 小さな子供を着ぐるみから引きはがすみたいに、デンジくんに後ろから抱き上げられる。

​ 岸辺先生は足元にすがりつく私を見下ろしたまま、別段何も言わなかった。無表情だった。いつもの事だ。驚きも、憐憫も、嫌悪も、表には出さない。現場検証をするような目で、私を観察した。

 そうして初めて、私は自分の馬鹿げた格好を思い出す。


​ ピンク色のウサギのパジャマ。腫れ上がった瞼。首筋や鎖骨に見え隠れする、無数の鬱血痕。馬鹿みたいな格好を、私は晒し続けている。


​「ふー……。……成程」


​ 先生はソファに腰を下ろした。私はデンジくんの隣に、膝を揃えて座らされた。先生は向かい側の椅子に座っている。デンジくんの手は、私の手を捕まえたままだ。微かに手汗が滲んでいるのが伝わってくる。


 ……あ。


 でも。それはあくまで、叱られるのを待つ子供の目ではない。何となく、わかる。自分の「宝物」を、親に見せびらかす時の目だ。

​ 岸辺先生は懐からスキットルを取り出してキャップを捻った。私が知っている先生と、まったく同じ動作で。

 あおり、一息つく。アルコールの匂いが漂う。


​「随分いい部屋で過ごしてるな。こうなることでも見込んでたのか」

「まさか。これは全く想定の外ですよ。嬉しい誤算、っつーか」

​「……日当たりもいい。セキュリティも万全だ。……子育てをするのにはうってつけだろうな」


​ 視線が私に戻って、すぐに逸らされる。先生が視線を合わせないのはなにかしら後ろめたいことがある時だと、私は知っている。

 あ、あ。嫌な予感がする。


​「単刀直入に聞く。……で、どうなんだ」


​ 先生は、私ではなく、デンジくんに問いかける。


​「何がですか?」

「飼い心地は」


​ 心臓、が、止まるかと思った。


「は、え」


 先生の口から出たその単語は、私が人間として扱われていないことを、この場の誰よりも残酷に定義している、から。かいごこち、飼い心地……理解が及ばなくて、何度も何度も唇の中で言葉を反芻する。けれども、その意味は形を変えない。


​「そんなんじゃないですよ。俺はマジです、超大マジ」


​ デンジくんが少しだけ顔を赤らめて、もじもじとした。 全くもって、そんな場面ではないはずなのに。


​「結婚して子供作る気満々ですし」

「もう手は出したのか」

​「そりゃ当然。愛し合ってますから」

「っ、っ!」


​ 激しく首を横に振った。デンジくんになに見えない角度で、先生に視線を向ける。目は口ほどに物を言うというけれど、今の私の目は、絶叫していたはずだ。


​ 岸辺先生は私の目を見ない。一口お酒を飲んで、デンジくんの嬉しそうな顔を見て──そして、ゆっくりと視線を私のお腹へと移した。


「来年あたりには先生にも顔を見せますよ。……まあ、それまでは諸々我慢だけど」

「今まで通り他に女でも作ればいいだろ。10人でも20人でも」

「結婚したらそういうわけにもいかないでしょ」

「……ふー」


​ 淡々とした報告に、私は羞恥と屈辱で舌を噛み切りたくなった。やめて、やめて、お願いだからやめて!父親のような人の前で、自分の性生活と、体内の状態を暴露される地獄。やめて。言わないで。聞かないで。


​「……デンジ」

「ウス」

「これ以上、誰かに知られるなよ」

「ぁ」


 きゅ。喉の奥が引き攣れる。そんな、そんな、そんな——!


​「言っておくが、お前の行動を肯定してるわけじゃねぇ。お前が囲うのが、一番安全だ。……一番、マシだ。現状はな」

「そりゃ当然」

​「可哀想だとは思うが」

「そんな、そんなっ先生っ、そんな!」

「悪いな」


​ 諦めたみたいに謝らないで。「可哀想だがどうにもできない」。追撃のように言葉が降り注ぐ。

 握りしめていた最後の希望が、砂のようにこぼれ落ちていく。


​「中途半端に飽きて捨てるなよ。死ぬまで責任を持って飼え」


​ デンジくんの声が歓喜に弾む。


​「捨てろって言われても捨てないですよ、今更」

「そうか」


​ 先生は背中越しに言った。


​「……悪いな、元副隊長」


​ それが私に向けられた最後の言葉だった。

​ コツ、コツ、コツ。足音が遠ざかる。私は追いかけることも声を上げることもできなかった。ただ、馬鹿みたいなピンク色のウサギの着ぐるみに包まれたまま、呆然と、遠ざかる背中を見送ることしかできなかった。


 パタンという簡素な音がして、扉が閉まる。完全な密室の完成。いつも通りに戻るだけ。


​「よかったな」


​ デンジくんが、満面の笑みで私に抱きついてきた。その体温が、熱い。私の冷え切った体とは対照的に、彼は生命力と希望に満ち溢れている。


​「先生も認めてくれたぞ。『死ぬまで飼え』って」


​ 彼は私をソファに押し倒し、ウサギのフードを優しく撫でた。


「あは。お墨付き。……子供が生まれたら、顔見せにいかねぇとなぁ」


​ 私のお腹に彼の手が這う。そこに宿るかもしれない命と、目の前の狂った父親と。全てが重なり合って、私をこのソファに縫い止めている。泣くことすら出来なかった。



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28日目


​ 雨が降っている。


 窓ガラスを、無数の水滴が叩いている。灰色の空。煙る東京の摩天楼。この密室の中は、空調によって管理された完璧な適温と、デンジくんが好んで使う甘ったるい柔軟剤の匂いで満たされている。いつもの事だ。気持ち悪い。


​ 私は、リビングのソファの隅で、巨大なピンク色の毛玉になっていた。昨日デンジくんに着せられた、ウサギの耳がついたモコモコのルームウェア。

 脱ぐ気力もなかった。脱いだところで、私の体に刻まれたキスマークや噛み跡という所有印が露わになるだけだ。それなら、このふざけた着ぐるみに隠れている方が、まだ幾分かマシな気がした。


「……ううううう」


​ 涙が止まらない。昨日、岸辺先生に見捨てられたショックは、一晩経っても癒えるどころか、じわじわと真綿で首を絞められるような絶望となって私を蝕んでいた。見捨てられた。「死ぬまで飼え」と承認された。その事実が、私の心の柔らかい部分を何度も何度も刺してくる。


​ デンジくんは、そんな私を「マタニティブルーで情緒不安定な女の子」として甲斐甲斐しく世話を焼き、満足げに仕事へ出かけていった。彼にとってはその程度のことだった。彼が出て行って数時間。私は一人、膝を抱えてメソメソと泣き続けている。



​ ピンポーン。

​ 正午過ぎ。珍しいことに、チャイムが鳴った。反応はしなかった。ここには郵便物は来ない。どうせデンジくんが忘れ物でも取りに帰ってきたのだろう。

 あるいは、またサムライソードが冷やかしに来たのか——そうであっても、どうだっていい。

 誰が来ても同じだ。私はここから出られない。


​ ガチャ、ピロリン。解錠音。

 しかし、廊下を歩く足音は、デンジくんのそれよりも重く、そして特徴的なリズムを刻んでいた。カツン、カツン。

 硬質な、革靴の音。


​「邪魔するぞ」


​ リビングに入ってきた人影を見て、私は涙で霞む目を瞬かせた。長いコート。白髪。深い皺。


「あ、あ、あっ!? せんせ、ど、どうして、ここに」


 岸辺先生だった。

 昨日、私に引導を渡して帰っていったはずの先生が、またそこに立っていた。


​「た」


​ 助けに来てくれたんですか、そう聞きかけて、言葉が止まる。そうじゃなかったら辛いから。

 でも、ほんとうに、どうして。昨日の今日で。もう、話すことなんてないはずなのに。先生は、私の無様な姿──泣き腫らした目と、真っ赤な首輪に、ウサギのパジャマ──を一瞥し、視線を逸らした。


​「デンジは仕事か」

「は、はひ」

「そうか」


​ 先生は土足のままリビングに入り込み、昨日と同じ椅子に腰を下ろす。そして、懐からスキットルを取り出す……のではなく、胸ポケットから「別のもの」を取り出した。四つ折りにされた古ぼけた紙切れ。全体が茶色く変色し、端がボロボロになった、古い新聞紙だった。


 かさり。新聞が開かれる乾いた音が、静寂な部屋に響く。


​「読め」

「……え……?」

「お前が死んだ時の新聞記事だ」


​ 死んだ時。その言葉の響きに、心臓がヒュッと縮こまる。わざわざ持ってきてくださったのか。これを見せるために、今日、ここまで?震える手で涙を拭い、テーブルの上の紙面に目を落とした。


​ 1997年。10年前の日付。

 社会面の大きな記事。そこに掲載されていたのは、見覚えのある、私の証明写真だった。公安のIDカードに使われていた、無愛想で、まだ幼さの残る私の顔。


​ 『公安対魔特異4課・副隊長 遺体で発見』


​ 黒い活字の暴力。見出しを見ただけで吐き気がした。


​「あ……」


​ 視線を逸らしたいのに、吸い寄せられるように文章を追ってしまう。


​ 『○月○日未明、湾岸地区の廃棄倉庫にて……ドラム缶詰めされた女性の遺体が……』

 『コンクリートで固められており……』

​ そこには、地獄が記述されていた。

 私が受けた拷問の詳細。

 ただ殺されただけではない。指を一本ずつ折られ、爪を剥がれ、皮膚を切り刻まれ……生きたまま、コンクリートを流し込まれたという、検死報告に基づいた凄惨な事実。


​「当時基準でも相当に悲惨な事件でな」


​ 先生が、淡々と語り始めた。しわがれた声が雨音に混じって低く響く。


​「若き女性デビルハンターの末路として、世間に衝撃を与えた。同情の声も集まったし、公安の労働環境や安全管理を問う声も上がったが」


​ 先生は、スキットルの酒を一口煽った。


​「だが、それも一時のことだ。……しばらくしたら、誰もその話題を口にしなくなった」


​ 私は、記事の中の「私」を見つめていた。ここに書かれている「被害者」は、もう人間ではない。ただの肉塊。かわいそうな死体。過去の遺物。自分が受けたはずの痛みなのに、活字を通して読むと、まるで他人の出来事のように現実感がない。けれど、確実に「私の人生が終わった」ことだけは、残酷なまでに証明されていた。


​「……そうですか」


 怖い。

 自分が死んでいるという事実が怖い。世界中が、私のことを「死んだ人」として処理し終えているという事実が、たまらなく怖い。


​「……それでも、まだ外に出たいと思うか」


​ 先生の問いかけは、鋭いナイフのように私の心に突き刺さった。


​「戸籍もない。身寄りもない。……世間的には、こんな惨たらしい死に方をして、骨まで拾われた人間だぞ」


​ 言いながら、先生が再びコートの中に手を差し込む。取り出されたのは一冊のメモ帳だった。新聞の下に隠すようにすっと差し込まれたそれを、恐る恐る手元に手繰り寄せる。

 先生の意図はすぐに察せた。二枚の新聞と私の体で隠すようにして、こっそりとメモを読む。


『問題はそこじゃない』

『チェンソーマンと関係性を持った以上、外にお前の居場所はない』

『唯一の弱みとして、各国から命を狙われることになる。人質として利用されるならまだいいが』


 背筋を冷や汗が伝う。メモをめくる手が震えた。


​「今更お前がシャバに出て、誰が受け入れる? ……『実は生きてました』なんて言えば、どうなるか分かるか」

「それ、は」


 指先で、メモをめくる。


『チェンソーマンは憎まれている』

『外に出たが最後、10年前よりも酷い拷問を受けるぞ』


「は……」

​「今は公安もイカれた連中だらけだ。今じゃネジが外れてない奴の方が少ない。デンジの影響でな」


​ 喉が鳴る。引き攣れた音を出して。


「でんじくん、が、なんで……どうして、そんな……」


​ 先生の目が、私のお腹に向けられた。


「チェンソーマンの子供は、悪魔になるのか人間になるのか」


 ウサギのパジャマの下にある、まだ平らな、けれど「異物」を宿しているかもしれないお腹へ。


​「なんの後ろ盾もなく外に出れば、お前は……研究対象として腹を割かれてガキを取り出されて、死ぬまで管に繋がれて生きることになるだろうな」

「分かんない、分かんない……もう、全然、意味が分からないです……何が、どうなってるんですか……」

​「……俺がお前にしてやれるのは、子供が生まれたときに公安が後ろ盾になるように仕向けることだけだ」

「うううう」

「チェンソーマンの子供。その経過観察と引き換えになら、お前の自由を保証するくらいのことは、国のお偉方も——」

「そんな、そんなの、もっともらしく言わないでください!それじゃあ監禁する人間が公安かデンジくんかの違いしかないじゃないですか!」


​ その時初めて、先生がちゃんと、私の目を見た。


​「は……」


​ 古新聞の匂いが鼻につく。インクの匂い。10年前の空気の匂い。それが、私の希望を窒息させていく。助けてなんて言えない。


「悪いが、一から十まで説明してやれるほどの余裕はない。今お前が知っておくべきなのは、これだけだ」


 先生は声色ひとつ変えずにそう言って、再び私の頭を撫でた。ゴツゴツとした、父親の手。無責任だと思った。でも、今の私には、その無責任な慰めしか縋るものがなかった。


 遠くから、廊下を歩く足音が聞こえる。今、この場に慌ててやってくる人間なんて、一人しかいない。

 先生は素早く新聞とメモを回収し、ポケットにねじ込んだ。証拠隠滅。先生が私にこれを見せたと知れば、デンジくんは何をするか分からないから。私に絶望を植え付けるだけの役割を終えた紙切れは、二度と私の目には触れない場所に消えた。


​「泣き止んでおけ」


​ 先生が短く言うのと同時に、ドアが開く。


「何をしにきたんですか?」


 噂されている本人、チェンソーマン——デンジくんが、余裕綽々に笑ってそこに立っている。焦った様子はない。


「先生とサムライソードのことを、信用してるんですよ」


 デンジくんらしくない口調だ。彼は縮こまる私の体を抱きしめて、そっと手を取った。指先に微かについたインクを、つまらなそうに眺めている。


 喋り方が、誰かに、似ている。デンジくんというより、むしろ——

 ……思い出せそうで、出てこない。


「ああ」

「サムライソードと喧嘩するのも、先生の弟子を続けるのも、それなりに楽しいですし。やめる理由がない程度には」

「……ああ」

「あまり面倒なことはしないでください。……今更支配の悪魔の真似事をするのも面倒ですよ」

「で、でんじくん……」

「ん、急にいろいろあってびっくりしたな。今日は仕事早上がりするから、一緒にゲームでもしようぜ」

「デンジくん、その喋り方、作ってるの?」

「何が?」

「だって、さっき、先生に」


 言葉が終わらないうちに、後ろから抱きしめられる。口を塞ぐために何度も唇を重ねられて、なにも言えなくなる。


「しい」


 デンジくんは穏やかな顔で、笑った。

 ——どうしてだろう。おだやかな、はずなのに、怒鳴られた時よりも、壁を殴られた時よりも、ずっとずっと、嫌な感じがする。怖いわけじゃない。本能が、「これ以上はだめだ」と訴えかけているような、そんな、根源的な危機感を覚えてしまう。


「……げーむ、する」

「それでよし。ソフトはなにがいい?」

「なんでも……」


 そして……それと同時に、今まで覚えていた既視感の正体にも思い当たっていた。


(まるで、マキマさんみたいだった)


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29日目


​ 隣で、デンジくんが目を覚ます。彼は機嫌よく伸びをし、私の頬に朝のキスを落とした。生々しい唇の感触。口臭。体温。全部が嘘くさいのに、妙に生々しい部分もあって。


「おはよう」

「おはよ……」

​「今日は天気いいな。洗濯日和だ」


​ 彼は鼻歌交じりにベッドを降り、カーテンを開けた。高層階の窓から、暴力的なほど明るい朝日が差し込んでくる。私はウサギの耳がついたフードを目深に被り、光から逃れるように布団の中に潜り込んだ。眩しい。


​「飯作っとくから」


​ デンジくんはキッチンへ向かい、卵を焼く音と、トーストが焼ける香ばしい匂いと。それは確かに本物で。


​「私……今日、朝ごはんいらない」

「あ? なんでだよ」

「お腹、空いてない……」

「朝抜くのはだめだって。一口でも食え」


​ デンジくんは眉をひそめたけれど、時計を見て「チッ」と舌打ちをした。


​「ラップしとくから、あとで絶対に食えよ?」

「……うん」


​ 嘘をついた。

 食べる気なんて、これっぽっちもなかった。


​「行ってきます。いい子にしてろよ」


​ 彼は私の額にキスをし、慌ただしく出て行った。ガチャリ。

 施錠音。

 また、一人の時間が始まる。



​ ゾンビのようにのろのろとベッドから這い出した。ピンク色のウサギの着ぐるみパジャマ。今の私の皮膚だ。重たい体を引きずり、リビングの窓際へ向かう。分厚いガラスの向こうには、東京の街が広がっていた。高いビル。這い回る車。豆粒のような人々。あそこには、生活がある。時間が流れている。


​ 額を冷たいガラスに押し付けた。


​ 一度目にしてしまった以上、疑念が胸から離れてくれることはない。

 私は昨日のデンジくんを見てしまった。

 私の知らない言葉で喋るデンジくんの姿を、確かに見てしまった。


 事態は私が考えているよりもずっとずっと深刻なのだろう。それこそ、想像が付かないくらいに。そもそも10年前の時点でも、デンジくんは世界中の刺客に狙われていた。それは私だって良く知っている。では、今は?


 デンジくんはどうして憎まれているんだろう。あの口ぶりは、まるで、サムライソードや岸辺先生とはあくまでごっこ遊びをしているだけみたいな……そういう感じだったけど……。

 どれだけ考えたって答えなんて出ない。だって私には情報がない。それでも考えるのを辞められない。



​ じっと下界を見下ろしてみる。車が流れていく。普通に見える人たちが、普通の顔をして、歩道を歩いている。

 私はあそこの道を歩く権利さえ持っていないのだ。お腹に手を当てる。ここには、命があるかもしれない。……そう考えると、ますますなにも食べたくない。何も入れたくない。


 色んな考えが頭の中をぐるぐる駆け巡って、止まらない。



​ 太陽が高く昇りやがて傾いていく。

 私は一度もその場を動かなかった。喉が渇いたけれど、水さえ飲まなかった。テーブルの上には、デンジくんが残していったベーコンエッグが、ラップの中で冷たく固まっている。冷蔵庫の中には彼が作り置きした昼食(パスタだったと思う)が入ったまま。


「……だー。考えつかれちゃたよ」


 いっそこのまま消えてしまえたらいいのに。

 餓死すれば、デンジくんも諦めるだろうか。いや、彼は死体になっても私を離さないかもしれない。そんな、どうしようもない思考がぐるぐると回る。


​ 夕焼けが街を赤く染める。きれい。10年前の夕焼けと同じ色だ。アキくんと、パワーちゃんと、中華料理屋の窓から見た夕焼け。それだけは変わらない。涙がこぼれそうになったけれど、水分が足りないせいか、目は乾いたままだった。



 ガチャ、ピロリン、という電子音が静寂を破る。


​「ただいまー! 副隊長、今日はすげーの見つけたんだぜ!」


​ リビングのドアが開き、デンジくんが飛び込んでくる。手には大きなケーキの箱。


「すげー好きそうなキャラもののやつ、見つけて……あ?」


 窓際で体育座りをしている、首輪をつけられたピンク色のウサギ。そして──手つかずのままテーブルに放置された、ラップの中でカピカピに乾いた朝食と、冷蔵庫に入れっぱなしの昼食。


 デンジくんの足が止まった。空気が変わる。けれど、それは昨日のような怒りの沸騰ではない。


​「あれ」


​ 彼は、テーブルの上の皿を覗き込み、首を傾げた。


​「食べてねーじゃん」


​ 言葉遣いに反して声色は穏やかだ。まるで、子供が食べ残したピーマンを見つけた時のような、少し困ったような声。彼はゆっくりと私の方へ歩み寄り、ソファの前のカーペットに膝をついて、うずくまる私の顔を覗き込んだ。


​「お腹空かなかった?」

「……」

「……もしかして、具合わりーの? つわりにはまだ早いだろ」


​ 大きな手が私のおでこに触れる。優しい。その優しさが、逆に怖い。小さく首を横に振った。


​「ちがう。……たべたく、ない……からだはふつう……」

「そっか。……単純にたべたくなかっただけか。それなら安心したけど」


​ デンジくんはニコリと笑った。そして、冷蔵庫から昼用のタッパー──ミートソースパスタが入っている──を取り出して、電子レンジにも入れず、冷たいまま蓋を開ける。


​「でもさ、副隊長。……俺、朝に言ったよな? 『ちゃんと食え』って」


​ 彼はフォークでパスタをくるくると巻き取った。油が固まって、白くなっている。ボソボソとした塊。


​「約束破っちゃダメだよな」

「……たべたくないんだもん」

「別にそれでもいいよ。言っても聞かねぇなら、行動に移すだけだし」


​ そういうなり片手で首根っこを掴まれて、そのまま彼の膝の上に乗せられる。本当に兎になったみたいだ。

 向かい合わせに腕の中に閉じ込められて逃げ場がない。太い腕が私の腰をホールドして、背中には彼の手が回されている。


​ デンジくんはフォークに乗ったパスタを、自分の口に放り込んだ。それを飲み込まず口の中に含んだまま、じっと私の顔を見つめる。


​「でんじく……あっ」


 回された手が、逃がさないとでもいうように私の背中を押す。彼が何をしようとしているのか理解した瞬間、全身に悪寒が走った。


​「や、やだ!」


​ 私が顔を背けようとすると、彼の手が私の後頭部を掴み、強引に固定する。


​「ん」


​ 彼の唇が、私の唇に押し当てられる。

 そして。


​「……ッ!? !?!?」


​ 悲鳴を上げることもできなかった。口を塞がれているから。ぬるい。ドロドロしている。ミートソースの酸味と、油の味と、そしてデンジくんの唾液の生々しい味が、舌の上に広がる。


​ 気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い!

 生理的な嫌悪感で、全身の鳥肌が立つ。吐き出したい。でも、彼が唇を密着させているせいで、行き場のない液体は私の喉の奥へと落ちていくしかない。


​「……ん、く、んっ……!」


​ 喉が痙攣し、反射的に飲み込んでしまう。胃の中に、他人が噛み砕いたものが落ちていく感覚。最悪だ。暴力よりも、罵倒よりも、尊厳を削られる。

 舌の上に押し付けられたものをすべて飲み込んだ後になって、ようやく彼は唇を話した。色のついた糸が間に伸びているのが見える。


​「……げほっ、おえっ……!」

「ちゃんと飲めたな。偉い偉い」


​ デンジくんは、糸を引く唇を舐め、愛おしそうに目を細めた。また、タッパーからパスタを一口分、自分の口に入れる。咀嚼音。地獄へのカウントダウンのよう。


​「やだ、やだ、やだ、きもちわるい、やめて、やめて!」


​ デンジくんは咀嚼を止めない。冷徹なまでの無反応だ。口の中のものを十分に噛み砕いてから、また私に顔を近づけた。拒めない。また唇を付けられる。どろりとしたものを押し込まれて、飲み込むまでは鼻を摘まんで窒息させられる。


​「ぷは……。だって、自分じゃ食べないんだろ? なら、俺がこうやって食べさせてやるしかねえじゃん」

「じぶんで、たべる! じぶんでたべるから!!」

「遅せえよ。もう俺スイッチ入っちゃった」


​ 彼はニヤリと笑って、私の顎を指で掴んで上を向かせた。


「ほら、あーん。自分で口空けて」

「やだ、やだ……」

「今自分で口空けないなら、明日から毎日この方法で無理やり食わせるけど」

「ぅ……うう……」

 裾を握りしめて、震えながらそろりと口を開けた。

すぐに彼の唇が重なる。

 

​「……ん、んぅ……!」


​ しがみつくしかなかった。ウサギのパジャマの袖を握りしめ、涙を流しながら、彼から与えられる餌を嚥下する。惨めだ。そうとしか形容できない。死にたい、死にたい、死にたい!

 

​ ようやく三口目が終わる。口の端から、赤いソースが垂れる。デンジくんはそれを指ですくい、自分の口に入れて。


​「……うまいじゃん。なんで食わねーんだよ」


​ 恍惚とした表情で。そう言った。狂っている。

 完全に、常軌を逸している。


​ タッパーの中には、まだ半分以上のパスタが残ったままだ。


​「ほら、次」

「う、ぅ、ゆる、して」

「やだ。面白いから許さねえ」


​ 言葉の通り、確かに楽しそうだった。私が嫌がれば嫌がるほど、泣けば泣くほど、彼の庇護欲と支配欲が満たされていくのが分かる。


 一口飲みこむたびに、だんだん、感覚が麻痺してくる。気持ち悪いという感情が、諦めに塗りつぶされていく。彼の口から入ってくるものが、ただの「温かい有機物」にしか感じられなくなる。そのうちに考えるのもやめた。彼が口を近づけてくると、条件反射で口を開ける。流し込まれる。飲み込む。ただその繰り返し。私の意思は介在しない。ただのパイプ。そう思い込むことで、この時間をどうにかやり過ごせるような気がした。


​ デンジくんは、食事の合間に、私の頭を撫でたり、頬にキスをしたりする。

 ウサギの耳をいじりながら、満足そうに喉を鳴らす。いっそ誰か私をこのまま撃ち殺してくれないだろうか。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

30日目


​ ここに来て一ヶ月が経った。私がこの密室に閉じ込められてから、ちょうど30日。


 カレンダーの上では一区切りだけれど、今の私には時間の概念なんてとうに意味を失っている。あるのは、デンジくんがいる時間と、いない時間。そのどちらかだけ。


​ 今日は6の倍数の日。デンジくんの休日だ。


 朝から、部屋は平和だった。あまりにも静かで、穏やかで、外から見れば「幸せな新婚夫婦の休日」にしか見えないだろう光景。反吐が出るほど、平和で美しい。


​ 昨日の夜から、私の気分はずっと最悪だ。

 デンジくんふうに言うのなら、肥溜めの中に落ちていたような気分と言っても差し支えない。ミートソースと唾液が混ざり合った味。彼の一部を無理やり嚥下させられた感触。思い出したくもない。ただ単純に肉体を陵辱されるより、ずっとずっと酷い。


​ これから先、彼に逆らえば、酷い目に遭わされることもあるかもしれない。

 食べないという消極的な抵抗さえ、あんな風にねじ伏せられてしまうのだから。ならせめて大人しくしていよう。


 言われた通りに食べて、言われた通りに笑って、言われた通りの格好をして。ただの「可愛いお人形」に徹していれば、少なくとも口移しで餌を与えられるような屈辱だけは回避できる。



​ リビングのソファの上。

 私は、淡いピンク色のウサギのルームウェアに包まれたまま、ちょこんと座っていた。フードについた長い耳が、力なく垂れ下がっている。本当に馬鹿みたい。他の服が下着ほぼ同然のネグリジェばかりでなければ、こんな馬鹿みたいな服を着ることなんて、天地がひっくり返ってもありえないのに。

 目の前には、ローテーブル。そこには、昨日デンジくんが買ってきた、有名店のショートケーキが置かれている。


​「ほら」


​ 隣に座ったデンジくんが、優しく促した。昨日のような、底知れない圧力はない。機嫌がいいのだ。


​「……うん」


​ 私は、小さなフォークを手に取った。震えないように、慎重に。

 ケーキの角を少しだけ崩し、生クリームとスポンジを掬う。

 そして、口に運ぶ。……甘い。昨日のミートソースの味を消してくれるような、純粋な砂糖の甘さ。


​「おいしい?」

「……うん。おいしい」


​ 私が素直に答えると、デンジくんはパァッと顔を輝かせた。


​「そっか! よかった。昨日は食えなかったもんな」


​ 彼は私の頭を、ウサギのフードの上から撫でた。


​「……今日は自分で食えて、偉いぞ」

​ 褒められている。いい歳をした大人が、ケーキを自分で食べただけで、頭を撫でられて褒められている。どうしようもなく惨めだ。

 でも、この惨めさを甘んじて受け入れれば、彼は満足するのだから。私は黙々とケーキを食べ続けた。こぼさないように。残さないように。ちゃんと食べた、という実績を作るために。


 デンジくんは、そんな私を、目を細めて見つめ続けていた。まるで、餌を食べるハムスターを眺める飼い主のように。


​「……かわい」


​ 彼が、ぽつりと漏らす。


​「……一生懸命食ってて、すげー可愛い」


​ おおよそ、対等な人間に対する賞賛じゃない。分かっていても口は出せない。何も反論しないままケーキを食べ終わると、デンジくんは私の口元をティッシュで拭いてくれた。


 彼がお皿を洗ってくれている間、ぼんやり部屋の中を眺める。本棚に並べられた幾つもの本の中から、一冊の本を抜き出した。表紙には若い女性と赤ちゃんの写真が写っており、その周囲をひよこやウサギなどの可愛らしい装飾で囲われている。

​ ページをめくる。

 中には、キラキラとした情報が溢れていた。

 妊娠初期の過ごし方。つわりの乗り切り方。可愛いマタニティウェア。幸せな出産体験記。望まれて、愛されて、祝福されて生まれてくる命のためのガイドブックだ。当然だが、監禁されてレイプされて、恐怖の中で宿ったかもしれない命のことは、どこにも書いていない。


​「勉強か。偉いな」


​ いつの間にやら背後に立ったデンジくんが、私の肩越しにページを覗き込んでくる。彼の体温が伝わる。

 密着する距離。


​「……エコー写真って、こんな風に見えんのか。……すげえ」

「……うん」

「俺らも、もうすぐ見れるかな」


​ 彼の手が、私の平らなお腹に伸びてくる。

 ウサギのパジャマの上から、優しく撫でる。


​「楽しみだな」


​ 楽しみ。その感情を共有できないことが、苦しい。

 私はただ、活字を目で追うことしかできなかった。内容は頭に入ってこない。文字の羅列が、呪文のように滑っていく。

​ 私は、ページをめくった。


 その姿が、客観的に見れば、あまりにもグロテスクで、そして──けれどもデンジくんにとっては、理想の極致だったのだろう。


​「……はぁ〜……」


​ デンジくんが、とろけるようなため息をついた。

 彼は、私の膝に頭を乗せた。

 膝枕。

 私が本を読んでいる最中に、甘えてきたのだ。


​「……やっぱ、すげーいい」

「なにが?」

「これだよ、これ。……この景色」


​ 彼は、下から私の顔を見上げた。


​「……副隊長が、俺のあげた服着て、俺のあげたケーキ食って、俺らの子供のための本読んでる」


​ 戸惑う私の頬を、彼がそっと撫でた。


​「……かわいすぎる。……マジで、天使みたいだ」


​ 彼は私の持っている本を取り上げ、サイドテーブルに置く。そして私の腰に腕を回し、顔を胸に埋めた。


​「もう、なんにもしなくていいから」

「なんかいもきいたよ、それ……」

「でも言わせて。家事もしなくていい。心配もしなくていい。……ただ、こうやって俺のそばで、ニコニコして、ガキ育ててくれればいい」


​ 彼が私の匂いを深く吸い込むのを、抵抗はしなかった。むしろ、胸元の彼の頭を、そっと撫でてあげる。金色の髪。ゴワゴワした感触。撫でると、彼は「んふふ」と気持ちよさそうに笑った。


​ デンジくんは、私の手を掴み、その掌にキスをしてくれる。


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31日目


 いつも通りにデンジくんを送り出して、寝て時間を潰して、ご飯を食べて、また寝た。


 メンタルの調子が悪い。


 首を吊れるものはないかと部屋中を探したが何も無かった。子供包丁で手首を切ろうかとも思ったが、そもそもその包丁自体、刃のない、豆腐やチーズくらいしか切れなさそうな代物だった。スケッパーの方が、まだよく切れる。


 強く祈るだけで、人が死ねたらいいのに。



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32日目


 死にたい。



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33日目


​ 夜明け前。

 私は、下腹部に広がる鈍い痛みと、妙な感覚で目を覚ました。

​ 重い。熱い。そして、ヌルリとした不快感。股の間から、何かが流れ出る感覚。


​「……っ、あ、もしかして、これ」


​ 私は、隣で眠るデンジくんを起こさないように、慎重にベッドから抜け出した。ピンク色のウサギのパジャマ。そのズボンの感触を確かめるまでもない。私は、転がるようにしてトイレへ駆け込んだ。便座に座る。下着を下ろす。

 そして、見た。

​ 赤。

 鮮烈な、赤。


​「……あ」


​ 声が漏れた。悲鳴ではなかった。歓喜の吐息だった。来てた。生理が、来ていた。

​ トイレットペーパーで拭う。間違いなく、鮮血だ。妊娠による出血? いや、違う。この独特の重たい痛みと、鉄の匂い。そして何より、体の奥底から悪いものが排出されていくようなデトックス感。間違いなく、生理だ。


​「……できて、ない……」


​ 震える唇で、事実を反芻する。妊娠していなかった。あんなに中に出されたのに。あんなに執拗に種付けされたのに。私の体は、デンジくんの遺伝子を拒絶し、排出してくれたのだ。ただの、ストレスによる遅れ。


​「……っ、は、ぁ……! よかった……!」


​ 涙が出た。昨日までの絶望の涙とは違う。安堵と、希望の涙だ。私は、母体じゃない。私はまだ、私のまんま。

 岸辺先生が言ったリスクも、デンジくんに「母親」として縛り付けられる鎖も、幻だった。


​ 安堵でその場に倒れ込見たい気持ちと、小躍りしたいような気持ちが、相反して胸の中にある。私は、棚の奥にあった生理用品(デンジくんが「念のため」と買っておいたものだ。皮肉なことに役立った)を取り出し、処理を済ませた。新しいナプキンの感触さえ、今は頼もしい盾のように感じる。


​ 手を洗う。鏡を見る。

 顔色が、昨日までとはまるで違って見えた。

 死人の顔じゃない。生気が戻っている。ウサギのパジャマも、もう拘束衣には見えない。ただの、趣味の悪い寝巻きだ。脱げば終わる。


​「……えへ」


​ 笑みがこぼれる。

 心臓が軽い。足取りが軽い。私は、スキップしそうな勢いで、トイレを出た。

​ ──そして。


 目の前に立ちはだかる、巨大な影にぶつかりそうになった。


​「……あ」


​ デンジくんだった。寝室のドアの前に、仁王立ちしていた。薄暗い廊下。彼の顔は、影になっていてよく見えない。

 けれど、その全身から立ち上る空気が、昨日までのものとは、決定的に異なっていることだけは、気配でわかる。


​「副隊長」


​ 低い声。地を這うような、重低音。


​「血の匂いがする」


​ ヒッ、と喉が鳴った。そうだ。忘れていた。彼は、とても、鼻が利く。野良犬みたいに。悪魔だから、血の匂いには人一倍敏感なのだ。


​「……デンジ、くん……」

「怪我したのか? ……どっか切ったのか?」


​ 彼は私の肩を掴んだ。

 心配している?

いや、違う。彼の目は、獲物を見定める獣みたいに、拭いきれない疑念に満ちている。


​「……ううん。怪我じゃ、ないよ」


​ 私は、努めて明るく、何でもないことのように言おうとした。でも、隠しきれない「安堵」が、声の端々に滲み出てしまう。


​「……あ、あのね。……生理が、来たの」

「……は?」

「遅れてただけみたい。……だから、その……病気とかじゃなくて、よかったねって……」


​ 私は、へらりと笑ってみせた。精一杯の演技。言葉を変えて、取り繕って、「妊娠してなくて残念だけど、病気じゃなくてよかった」という体を装おうとした。けれどデンジくんは笑わなかった。ピクリとも、表情を動かさなかった。


 廊下の空気が絶対零度まで冷え込んでいく。


​「生理?」


​ 彼が、鸚鵡返しに呟く。


​「そうだよ。……だから、お腹の赤ちゃんは……いなかった、みたい」

「……」


​ デンジくんの手が、私の喉元に触れる。脈動を測っているのだと、数秒の後に気が付いた。確認。事実確認。彼の手が、止まる。

 そして、ゆっくりと離れた。


​「そっか」


​ その一言に込められた感情の量は、計り知れなかった。失望。落胆。そして、劇場。デンジくんは、私を見た。その瞳孔は、針のように収縮していた。


​「お前」


​ 彼が、私を「お前」と呼んだ。


​「嬉しそうだな」


​ 心臓が、凍りついたみたいに固まる。バレている。隠したつもりだったのに。ああけれど、バレても当然だ。体から溢れ出る「助かった」というオーラを、彼が敏感に感じ取らないはずがない。


​「……ち、ちがうよ……そんなこと……」

「嘘つけ」

​ 彼は、私の腕を掴み、壁に押し付けた。背中に衝撃が走る。


​「顔見りゃ分かる。……『助かった』って顔してんじゃねえか」

「……あ、そ、んな」

「『妊娠してなくてよかった』って。『これで自由だ』って……そう思ってんだろ?」


​ 図星だった。彼の顔が近づく。怒鳴っていない。声も荒らげていない。それなのに彼が怖くて怖くてたまらない。ただただ、冷たく、暗い。深海の底のような、光の届かない目。


​「あーあ」


​ 彼は、吐き捨てるように言った。


​「……俺は、あんなに楽しみにしてたのに。……俺たちのガキができるの、世界で一番楽しみにしてたのに」

「ご、め、なさい……」

「お前は、違うのかよ」


​ 彼は、私の顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。


​「……お前は、俺の子ができるのが、そんなに嫌だったんだ」

「……」

「俺のことが、そんなに嫌い?」

​ 

 「嫌いじゃない」と言えば嘘になる。「好きだ」と言っても信じてもらえない。

 沈黙が、肯定になる。デンジくんの顔が、歪んだ。傷ついた16歳の子供の顔と、残虐な悪魔の顔が、高速で入れ替わる。


​ 彼は、私の手首を掴んだまま、リビングへと引きずっていった。

 抵抗できない。足がすくんで動かない。


​「俺は本気だったのに」

「…いた、い! で、じくん、痛い……!」


​ 彼は私をソファに放り投げた。フワフワのクッションの上に、無様に転がる。


​「……はは」


​ 彼は乾いた笑い声を漏らし、そして私に向き直った。その目はもう笑っていない。少年の目も、していない。こわい。恐ろしい。


​「……でもよぉ、副隊長」


​ 彼は、ゆっくりと私に近づいてきた。捕食者の歩みで。


​「……生理が来たってことは、また『できる』ってことだよな?」

​「ひ」

​「……今回は、失敗だった。……俺の頑張りが足りなかった」


​ 彼は、ブツブツと独り言を呟く。


​「……でも、もう失敗しねえ。次は、倍やる」

「ば、い、って、なにを」

「3日じゃ足りねえなら、一週間でも二週間でもやる。……アンタが根を上げて、体が音を上げて、本当に孕むまで……何度だってやってやる」


​ 宣戦布告……ちがう。死刑判決だ。「生理」という休息期間が終われば、前回以上の地獄が待っているという予告。


​「……だから、今は休んでていい」


​ 彼は私の頭を乱暴に撫でて、不機嫌そうにキッチンへ向かった。

 冷蔵庫を開ける音。ビールのプルタブを開ける音。朝から酒を飲むつもりだ。荒れている。今までに見たことないくらい、荒れている。



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34日目


​ 目が覚めると、隣はもぬけの殻だった。

 昨日の今日だ。生理が来て、彼が望んだ未来が(一時的だとしても)潰えた翌日だ。きっと不機嫌になっているか、あるいは昨日のように執拗にまとわりついてくるか、どちらかだと思っていた。



​ けれど、リビングから漂ってくるのは、焦げたトーストの匂いと、軽快な鼻歌。


​「……デンジ、くん……?」


​ 私は、重たい体を起こしてリビングへ向かった。下腹部に鈍い痛みがある。生理痛だ。……その痛みが、私がまだ「私」であることを証明する唯一の錨のように感じられる。嬉しいけれど、嬉しくない。複雑な気持ち。


​「お、起きたか副隊長! おはよ!」

​ 私の嫌な予感に反して、キッチンに立っていたデンジくんが、振り返って満面の笑みを向けた。

 スーツ姿。ネクタイもきっちり締めている。その顔には、昨日の落胆も怒りも、何一つ残っていなかった。あるのは、雲ひとつない快晴のような、爽やかすぎる笑顔だけ。


​「えと……おはよ、う……」

「顔洗ってこいよ。飯、できてるぜ」


​ テーブルには、完璧な朝食が並んでいた。

 ふっくらと焼けたスクランブルエッグ。カリカリのベーコン。彩りのいいサラダ。そして、湯気を立てるホットコーヒー。

 まるでホテルの朝食みたい。


​「……これ、デンジくんが……?」

「おう。……あと、これ」


​ 彼が差し出したのは、一杯の白湯だ。


​「朝イチは白湯がいいんだってよ。……腹、痛えんだろ?」


​ 優しい。

 あまりにも、自然に優しい。「次のため」とか「体を治すため」といった、裏の意図が見えないくらいに。ただ純粋に、私の体調を気遣う善意だけがある。

 それがかえって、たまらなく不気味だ。


​「……ありがとう……」

「いーってことよ。……ほら、座れ座れ」


​ 椅子を引いてくれる。私が座ると、彼は向かいの席につき、幸せそうにトーストを齧り始めた。


​「……仕事、行くの?」

「おう。今日はデカイ山場だから」

「そっか」


 その後、交わされた会話はそれだけだった。



​ 玄関先。

 彼は私の額に、軽く、本当に軽くキスをした。

 粘着質なものではなく、爽やかな挨拶のキス。


​「……なんかあったら電話しろよ。……冷蔵庫にプリンあるから、好きに食っていいぞ」


​ そうして彼は手を振り、何事も無かったかのように、颯爽と家を出て行った。ガチャリ。施錠音。残された私は、呆然と立ち尽くすことしか出来ない。


 なんなの?

 この、拍子抜けするほどの「普通」は。

 昨日のあの重苦しい空気はどこへ行ったの?

 彼は何を考えているの?


​ 一人の時間が、怖かった。

 いつもなら、ただ無為に過ごすだけの時間が、今日は「嵐の前の静けさ」にしか思えない。私は、ソファの上で膝を抱え、部屋の中を見渡した。掃除が行き届いた部屋。冷蔵庫の中には、私の好きなものばかりが詰まっている。


 サイドテーブルには、新しい雑誌(ファッション誌だ。育児雑誌ではない)が置かれている。


 デンジくんは、怒っていない。

 焦ってもいない。

 それが逆に、私の不安を煽る。


 もし彼が、「子供なんていなくてもいい」と思い始めたとしたら?「子供なんて居なくても大丈夫だ」という結論に達してしまったのだとしたら?それなら、きっと、今よりは多少マシだ。


​ 昼食は、彼が用意してくれたお弁当を食べた。卵焼きが甘くて、少し泣きそうになった。美味しい。

 悔しいけれど、彼の味付けに胃袋が慣らされてしまっている。


 午後には生理痛が重くなってきた。

 私はベッドに潜り込み、丸くなっていた。誰にも邪魔されない時間。なのに、心臓の鼓動がうるさくて眠れない。


 そうして定刻通りに、チャイムも鳴らさず、彼は帰ってきた。


​「ただいまー! 副隊長、生きてるかー?」

​「……おかえり」

「お、寝てたか。……顔色、ちょっとマシになったな」


​ 彼はベッドの端に座り、私の頬を撫でた。その手つきは、宝物を扱うように繊細で、恐怖に叫び出したくなる。


​「……これ、買ってきた」

​ 彼が紙袋から取り出したのは、最高級の入浴剤と、肌触りの良さそうなブランケット、そして有名店のフルーツゼリー。


​「ゼリーなら、食欲なくても食えるだろ?」

「……うん」

「あと、このブランケット、すげーあったかいらしいぞ。……店員さんに聞いたんだ。『彼女が生理痛で辛そうなんですけど、何がいいですか』って」


​ サラリと言う。


​「……恥ずかしく、なかったの……?」

「あ? なんで? ……副隊長が楽になるなら、なんでも聞くし」


​ …怖い。

 理由のない優しさが、一番怖い。


​「……デンジくん」

「ん?」

「……なんで、そんなに優しくするの?」


​ 恐る恐る、聞いてみた。

 彼はゼリーの蓋を開けながら、不思議そうに私を見た。

​「なんでって……当たり前だろ」

​ 彼はスプーンを私に渡し、にこりと笑った。


​「アンタのことが、すきだから」


 彼は無言でゼリーを私の口元に運ぶ。冷たくて、甘い。喉を通る感覚が、やけに生々しい。



【まだ続くわよ~ん♡】




Here’s looking at you.

* * *

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