買い物の帰り道、見覚えのある帽子が視界の端を横切って、私は反射的に電柱の陰に身を隠した。
もみあげまで繋がった真っ白い髭。黒縁の眼鏡。見るからに高そうなフェドラ帽。取り巻きみたいなチンピラ風の男たちを三人連れて、商店街の通りをゆうゆうと歩いている。
私の母親が、ろくでもない男にハマってこさえた借金の相手。この街を支配しているヤクザの親玉だ。
何をされた訳でもないのに、心臓がばくばくする。買い物袋を胸に抱えて、電柱の影に張り付いた。
こっちに気づかれたらどうしよう。なにかされるという訳でもないけど、怖くて怖くてたまらない。
「……あれ」
けれどどうやら、あちらは、別の「商売相手」に意識が向いているようだった。
商店街の裏に入る細い路地。そこに、小さな——小さな小さな、まだ幼い人影がひとつ。
遠目にでもまばゆいような、綺麗な金髪の男の子だった。多分、小学校の二年生くらい。汚れたシャツにぼろぼろの短パンで、何故だか靴は片方だけ脱げかかっている。
その子が、ヤクザの親玉の前に立たされていた。
「で? 今月分はどうした、あ?」
取り巻きの一人が、低い声で言うのがここまで聞えて来た。あいつらはいちいち威嚇するみたいに大きい声を出すから、嫌でも耳に入ってくる。イホーな奴らの癖に、なんでいっつもあんなに態度がデカいんだろう。私はいつも不思議で仕方がない。
それに対して、男の子は何か小さな声でもごもごと答えた。聞き取れなかった。でも、取り巻きの反応で、だいたい察しがついた。
「足りねぇんだよ! 毎月毎月、言い訳ばっかりしやがって!」
ああっ。口元で無意識に小さな声が漏れる。
蹴られた。男の子が、チンピラの一人に、お腹を思い切り。
小さな体が路地の壁にぶつかって、ずるりと崩れ落ちる。
見ているだけなのに痛そうで、思わず唇を噛んだ。
もう一発。腹を蹴られて、男の子がえびのみたいに丸まる。
「あんまりナメた真似してっと、次はこんなもんじゃ済まねぇからな! 来月は耳揃えて持ってこい!」
親玉の老人は何も言わなかった。ただ腕を組んで、その光景を見てるだけ。いっつもそうだ。私のお姉ちゃんに酷いことをするときも、同じ。
それが一番怖く見える振舞だって、きっと自分でも分かってるんだ。自分では手を下さないで、部下にやらせて、黙って見ている。それが当たり前であるかのように。
私は……怖くて怖くて、電柱の影から動けなかった。
足が震えている。目の前が滲んでいる。助けなきゃ。助けなきゃ、と思うのに、足が動かない。だってあの人たちは、お姉ちゃんの人生をめちゃくちゃにした人たちだ。お母さんを追い詰めた人たちだ。逆らったら何をされるか分からない。
幸い、と言うべきか、路地裏から私の姿は見えなかったらしい。
ヤクザたちは男の子を蹴り飛ばしたまま、さっさと路地を出て行った。フェドラ帽の老人が取り巻きを従えて商店街に消えていくのを、電柱の影で小さくなりながら最後まで見送る。男たちが車に乗って、エンジンの音が聞こえなくなってから……いち、にい、さん、しい、ご、指を折って数を数える。もういいかな。もう行ったかな。
そうしておそるおそる、路地に入った。
男の子はまだ地面に転がっていた。丸まったままびくりともしないけど、近づくと、浅い呼吸をしているのが分かって少しだけほっとした。生きてる。
「あの……キミ、大丈夫?」
しゃがみ込んで声をかけてみる。
男の子が薄目を開けた。綺麗な赤いおめめ。警戒心むき出しの、野良犬みたいな、つんつんとがったおめめ。
「酷いねアイツら、こんな小さな子供に……信じられない」
よく見ると唇が切れて血が出ているし、むき出しのほっぺたも腕も擦り傷だらけでボロボロだ。お腹を蹴られたから、内臓が心配だ。でも、私はお医者様じゃないから、見た目でしか判断できない。
「あ……あんた、誰。……おれのことはほっとけよ」
男の子が私の手を振り払おうとした。でも力が入らないのか、私に届く前にぱたりと腕が落ちる。
「そういう訳にはいかないよ、こんなに酷く蹴られて……あっ、あの、よかったらおうちで手当てしようか? とはいっても、家も貧乏だから、大したことはしてあげられないけど……」
男の子は黙って私を睨んでいる。
信じていいのかわかんない、って感じの顔だった。そりゃそうだ。
知らない人間にいきなり「家に来い」と言われて、はいそうですかと付いていくのは危ない。こんな小さな子でも、それくらいは分かるだろう。学校でも、先生から口酸っぱく言われることだし。
と、そのとき。路地の奥の、ゴミ箱の陰から、何かがこちらを覗いているのに気が付いた。
柴犬くらいの大きさの、丸っこい、オレンジ色の——
「えっ! あっ、あくまっ」
悪魔だった。
オレンジ色の犬みたいな体に、頭には取っ手みたいなものが生えている。鼻のところにはチェンソーみたいなのが付いてて、こんな悪魔、見たことがなかった。悪魔って、大抵腕とか足とかいっぱい生えてて、なんかグロい見た目だし。
まんまるでつぶらな目が、意味ありげにこっちを見ている。
「どうしようっ……!」
咄嗟に男の子を庇うように前に出た。悪魔だ。逃げなきゃ。でもこの子を置いていけない。どうしよう、どうしよう——
「ん……あいつはポチタ。俺の友達だから、怖がらなくていい」
でも。その様子を見ていた男の子が、地面に転がったまま言った。
「と、ともだち? あくまと?」
そんなことって、あるのかな。だって学校で、悪魔は皆人間が大嫌いなんだって習ったよ。
ポチタと呼ばれた小さな悪魔は、ゴミ箱の陰からとてとてと出てきた。そして、私の足元まで来て——すりすり、と体を擦りつけてきた。
「……え」
あったかい。
悪魔のくせに、とってもあったかい。お風呂に入れられてないのか、毛並みはなんだかゴワゴワしているけれど、あったかい体温はちゃんと犬みたいだ。
つぶらな目で私を見上げて、それから地面に転がっている男の子を見て、またこっちを見た。なんだか、助けて欲しそうに。
「ほら、えっと……ポチタちゃんも、助けてあげてって言ってるよ。大したことはできないけど、絆創膏貼るくらいならできるからさ」
ポチタが「ワフ」と小さく鳴いた。そうだよって言ってるつもりなのかもしれない。
男の子は、しばらくポチタと私を交互に見ていた。それからぎこちなく起き上がって、痛そうに腹を押さえながら、小さく頷いた。
「俺、デンジ。……アンタは?」
「私は███だよ。よろしくね、デンジくん!」
うちは、商店街から歩いて五分くらいのボロアパートの二階にある。ちくなんじゅー年、とかは分からない。壁は薄いし、夏は暑いし、冬はすきま風が入る。でもお姉ちゃんが毎日綺麗に掃除してくれているから、ボロいなりに小綺麗ではある。
玄関を開けると、狭い玄関に靴が二足。私のスニーカーと、お姉ちゃんの靴が沢山。いつもはスニーカーだけど、時々はハイヒールで出かけていくときもある。お仕事のお客さんとご飯に行くときに履いていくんだって。
前にテレビで「高いご飯屋さんに入るときは服装に決まりがある」って聞いたことがあるから、きっとそれかな。
「ただいま」
声をかけると、奥からお姉ちゃんが出てきた。もうお仕事に入ったかなって思ってたけど、今日は出が遅い日みたい。
お姉ちゃんは、今年で十六歳。私より四つ年上。髪が長くて、顔が綺麗で、背が高いからすっごく大人びて見える。でも、ちゃんとお化粧をしてるから、これから出かけるところみたいだ。
「おかえり。……ああ、もしかしてお友達?」
お姉ちゃんの目が、私の後ろにいるデンジくんに向いた。
「えっと、さっきそこで会ったの。デンジくん、って言うんだよ。怪我してるから、絆創膏貼ってあげるの」
「そう……男の子の友達かあ……」
お姉ちゃんはちょっとだけ微笑んで、それから玄関の靴箱の上に置いてあるポーチを手に取った。
「これから私はお仕事だから、あんまり遅くまで遊んでちゃだめだよ」
「う、うん」
お姉ちゃんはヒールを履いて、「行ってきます」と言って出ていった。甘い香水の匂いがする。お客さんに貰ったやつだから、時々使わないといけないんだって。
デンジくんはぎこちなく頭を下げて、じっとお姉ちゃんの背中を見ている。
「あいつ、何?」
「私のお姉ちゃんだよ」
「仕事って、なにしてんの?」
「わかんない。でも、男の人のあいて? するお仕事だって前に言ってた」
「ふーん……」
なんとなく分かったような分かってないような反応をして、それ以上は、特に聞かれなかった。
「あがって。靴はそこに置いていいよ」
デンジくんは警戒しながら、でもポチタに背中を押されるようにして——アパートに上がった。
ポチタも一緒に入ってきた。悪魔を家に入れるのはちょっとどきどきしたけれど、こんなにかわいい犬みたいな悪魔あなら、たぶん大丈夫だとおもう。たぶん。
居間に座らせて、もしもの時の為にってお姉ちゃんが家に用意してくれてる救急箱を持ってきた。といっても、中身は絆創膏と消毒液とガーゼくらいしかない。
「ちょっとしみるよ」
消毒液を染み込ませたガーゼで、唇の切り傷と頬の擦り傷を拭く。デンジくんは眉間にしわを寄せたけれど、声は出さなかった。
お腹の方はどうしようもないから、「痛かったら言ってね」とだけ伝えた。言われても、痛いの痛いのとんでいけ、ってしてあげるくらいしかできないけど。
「███はさ、なんで俺を助けたの?」
不思議そうな顔で、デンジくんが聞く。
「んう……だって、目の前で子供が蹴られてたら、助けるでしょ、普通」
「助けねーよ。みんな見て見ぬフリする」
そんなことないよ、って言おうとしたけど、あんまり否定できなかった。だって、私だって最初は動けなかったから。あの人たちが立ち去るまで、電柱の影で震えていたんだし。
「……ごめんね。本当は、蹴られてる時に止めに行くべきだったのに。ヤクザのひと、怖くて、動けなかった」
「別にいーよ。あいつらに逆らったらそっちだってひどい目に遭ってたかもしんねーし。……つーか、あいつらのこと知ってんだ?」
「あ……」
顔から血の気が引くのが分かった。誤魔化そうかなって思ったけど、すぐに思いなおす。
「……うん。知ってる。あのね、実は私のお母さんも、あのヤクザの人たちに借金してるの」
デンジくんは一瞬だけ驚いた顔をしたけれど、すぐに落ち着いた顔に戻って「そっか」と頷く。その横でポチタが「くぅん」と小さく鳴いた。なんだか真似っこしてるみたいに。
「お母さんは、えっと……借金がどうにもならなくなって、いなくなっちゃった。逃げたのか、それとも……分かんないけど。それでお姉ちゃんが代わりに働いて、借金を返してるの」
「そっか」
デンジくんは、意外なほどあっさりと私の言葉を受け止めた。
「なら一緒だな。俺も親父が作った借金返すために働いてるから」
「え……そんなに小さいのにもう働いてるの?」
「おう、デビルハンターやってんの。……始めて一年ちょいくらいかな」
「デビルハンター!? デンジくんが!? えっ、怖くないの!?」
「怖いっつーか、やんなきゃ返せねーし。しょうがねーだろ」
「……」
「んでも、今日はちょっとヘンサイ間に合わなくて、殴られた」
「ひ、ひどい……」
「仕方ねーよ。借金してんのはマジだもん」
そう言って肩をすくめるその仕草が、なんだか同級生の男の子たちよりも大人びて見えて、でもやっぱり体は小さくて、絆創膏だらけの顔はどうしたって子供で。
それを考えたら、なんだか胸がぎゅっとなった。なんて言っていいのか分からないから、なんにも言えなくなって、そっとうつむく。
——ぐうぅうぅ。
「え」
「あ」
そんな気まずい沈黙を破ったのは、デンジくんのお腹の音だった。ものすごく大きな音。ポチタが「ワフッ」とびっくりして跳ねる。
「……あはは」
「笑うなって。しかたねーだろ、借金返すのに必死で、ここ最近まともに飯食ってねーんだよ……」
「ごめんごめん。……ねえ、おやつ食べよう。ポチタちゃんも一緒に」
むしろ、デンジくんのお腹が鳴ってくれて助かったな、と思っていた。あのまま気まずいのは嫌だったから。
「え、いいの?」遠慮がちにつぶやくデンジくんにウィンクをして、立ち上がって冷蔵庫を開ける。
中には、お姉ちゃんが持って帰ってきたスイーツが並んでいる。
ちょっと豪華なプリン。いちごのゼリー。チョコレートの箱。コンビニのやつとか、お店で売ってるようなちゃんとしたやつとか、いろいろ。
「お姉ちゃんがね、差し入れだって色々貰ってくるんだよ。でも二人じゃ食べきれないから、あげるって」
そもそもお姉ちゃんは、「体型が崩れたらいけないから」って、全然食べないし。
賞味期限が切れそうなものから順番にテーブルの上に並べると、デンジくんの目がまん丸になった。
「すげー! 仕事でこんなん貰えんのかよ!」
「えへへ……お姉ちゃんのお客さんがね、お姉ちゃんのこと好きだから、くれるんだって」
でもお姉ちゃんは食べないし、私ひとりじゃ食べきれないから、食べてよ。念押ししてスプーンを差し出すと、擦り傷だらけの指が、震えながらそれを受け取る。
色んなスイーツを見比べて、悩んだ結果、一番手前に会ったプリンを手に取って。
プラスチックのカップを開けて、上に載ってるクリームごと、ぱくり。なんだか見てる私まで緊張して来るような、慎重な手つきで。
「う……」
「う?」
「うめえ!! こんなうめーもん初めて食べた!」
「あはは、大袈裟だよ」
「マジだって!やべーなポチタ! これ! やべー!」
「ワフ!」
本当、大袈裟だ。でも、そこまで喜んでもらえるのは、素直に嬉しかった。
ポチタはカップのゼリーを食べにくそうにしてたから、平皿に出してあげた。なんだか本当にわんちゃんに餌付けしてるみたい、悪魔のはずなんだけどな。
ゼリーに顔を突っ込んで、しっぽ——って言いきって良いのかどうか分からないけど、お尻のあたりについてる取っ手付きの紐見たいのをぶんぶん振っていた。
かわいい。悪魔なのに、かわいい。
それから、チョコレートを一粒ずつ分けて食べた。デンジくんは三粒を一気に口に放り込んで、頬をリスみたいに膨らませた。いっぱい甘いものを食べたあとなのによく飽きないねぇって言ったら、「こんなうめーもん食べ飽きるわけねーだろ! ゼータク言うなよ!」って怒ってた。なんだかおもしろい子だ、デンジくんって。
「んぐ……んまい……」
「味わって食べなよ。逃げないんだから」
「逃げるかもしんねーだろ。油断すんなよ」
「チョコレートは逃げないよ」
デンジくんは真面目な顔で首を横に振る。いちいち、言うことが面白い。
ポチタはチョコレートを食べていいのか分からなかったけど(犬とか猫にはチョコレートが毒って聞いたことがある)……まあ悪魔だし、人間の食べ物のルールは当てはまらないよねえと思って一粒あげたら、嬉しそうにもぐもぐしていた。デンジくん曰く、「ダメだったら血飲ませりゃ治る」って。そんな感じで良いんだ?
「んふふ……えへ、えへへへへ」
なんだか可笑しくて、可愛くて、笑ってしまった。
デンジくんは「なに笑ってんだ」と睨んできたけれど、プリンのカラメルが唇についたままで、全然怖くなかった。
「あのね、デンジくん」
空になったプリンのカップをテーブルに置いて、私はちょっとだけ姿勢を正す。
「同じ借金仲間として、お願いがあるの」
「んあ、なに……金なら払えねーぞ!」
「違うよ! そんなこと言わないよ!」
そんなつもりで誘ったんじゃないのに。むう、と膨れて見せると、デンジくんも少しだけ真剣な顔になる。
「あのさ。私たち、これから時々会わない?」
「は?」
「私ね、学校に友達がいないから」
さらっと言ったつもりだったけど、声がちょっと震えた。
「いじめられてるとか、そういうのじゃなくて。……いや、ちょっとはいじめられてるけど。でもまあ、そういうのはどうでもよくて。えっと、つまり」
しどろもどろだ。何を言っているんだ私はって思うけど、唇がうまく、動かないんだもん。
「デンジくんがお友達になってくれたら、嬉しいなって」
デンジくんはプリンのカラメルを指で拭いながら、じっと私を見ている。その目つきが真剣で、妙にどきどきした。どうしよう、馴れ馴れしいって言われるかな。年上なのに、甘えんなって言われちゃうかな。
「……普段は忙しいから、たまになら、いい」
「ほんと!?」
思わず身を乗り出して、ずいっと顔を近づける。
デンジくんがびくっとして後ろに引いた。
「やった! それじゃあ時々会おうね、約束だよ。場所は今日会った路地裏で。あそこ、私の通学路だから」
「……別にそんな、喜ばれるような大した約束してねーよ」
「大したことあるもん! ……あっ、ねえねえ、それじゃあ約束のしるしに指切りしよう」
「ゆびきり?」
「知らない? こうやって、小指と小指をからませて」
偉そうに言ったけど、本当は私も指切りをするのは初めてだった。同じクラスの女の子たちがこうしてるのを見て、うらやましいなって思ってたんだ。
デンジくんの左手の小指に、自分の小指を絡ませた。
小さい。ごつごつしているけれど、骨が細くて、小さい。だってわたしよりずっと年下だもんね、きっと。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそついたーらはーりせんぼんのーます、ゆーびきった!」
ぱっと指を離す。デンジくんはまだよく分かってないみたいで、ぽかんとした顔をしている。
「……なんだ今の」
「指切りげんまん。約束のおまじないだよ」
「おまじない……」
「嘘ついたら針千本飲ますの。だから、約束破っちゃだめだよ」
「針千本て、そっちの方がこえーよ!」
ポチタが「ワフワフ」と鳴いて手をしきりに上げてたから、もしかしたらポチタも指切りがしたいのかと思って、ポチタとも指切りをした。とはいってもポチタに指なんてないから、オレンジ色で真ん丸なおててを私が一方的につかんで、上下に揺らしただけだけど。
「ポチタも証人ね。デンジくんが約束破ったら、教えてね」
「ワフ!」
「おい、なんで俺だけ裏切る前提なんだよ!」
「えへへ」
「お前も……お前も、絶対裏切んなよな!」
「うん……うん、裏切ったりしないよ」
デンジくんはまだ疑ってるような顔をしてたけど、でも、なんだか私は幸せな気持ちだった。
「あう」
バケツの水が頭からかかった。
冷たい水道水。お姉ちゃんに買って貰ったばっかりのブラウスが一瞬で体に張り付いて、スカートから雫がぽたぽた垂れて、教室の床に水たまりが出来る。前髪から雫が落ちてきたせいで、視界がもんやりぼやけた。
「くせーんだよ! バイタの娘は学校くんじゃねーよ!」
心のやわらかいところを刺すみたいな、甲高い声が降ってくる。
見上げると、空になったバケツを手にした女の子が、こっちを見下ろして笑っていた。
リマちゃん。クラスのキラキラ系女子の中心人物。いつも髪にリボンをつけていて、筆箱はキャラクターもの、ランドセルにはジャラジャラとキーホルダーがぶら下がっている。家がお金持ちで、ピアノと水泳とバレエと塾と英会話を掛け持ちしてるって、クラスの一番最初の自己紹介で言ってた。
「ねーみんな聞いた? こいつのお姉ちゃん、バイタなんだって。お母さんは男作って逃げたんだって。やばくない? テレビで見るサツジンハンの家じゃん!」
取り巻きの女の子たちがくすくす笑う。バイタって言葉の意味を、ちゅーがくせーの知り合いから聞いたらしい。この学校は、そういう言葉だけは広まるのが早かった。
「……う」
何も言い返せない。お姉ちゃんのことは言い返したいけど、言い返したら最後どうなるか、私はもう身をもって知っていた。
濡れた服を手で押さえて、ただただ黙って俯く。……そもそも、反論しようにも言葉が出てこない。だって、嘘じゃないから。お姉ちゃんの仕事のこと、お母さんのこと。全部本当のことだから。
「あっ、泣くの? 泣くんだ! うわ、やば、マジで泣いてる!」
泣いてない。泣いてないのに。目に水が入っただけなのに。でもそう思えば思うほど、本当に涙が滲んできて、それを悟られたくなくて、ぎゅっと唇を噛んだ。
「ていうかさあ、臭いのマジなんだよね。なんか独特の匂いしない? 貧乏の匂いっていうか」
「わかるー! なんか古い家の匂いするよね!」
「うちのお母さんが言ってたもん、ああいう家の子とは関わるなって」
リマちゃんは、別に根っからの悪い子じゃない——と、思う。たぶん。
ピアノと水泳とバレエと塾と英会話で、毎日くたくたに疲れていて、家に帰ったらお母さんに「今日はどうだった」「ちゃんとやってるの」と聞かれて、日曜日も模試があって。前に、泣きながら保健室で先生にお話ししてるのを、私は見たことがあるんだ。
……だから、って言っていいのか分からないけど、私はリマちゃんのことを、心の底から嫌いになれなかった。だって、その苦しい気持ちは、なんとなく分かるから。
苦しい気持ちのはけ口が、たまたま私に向いているだけ。他に頼る相手のいない私が、たまたま標的として丁度良かった、ただそれだけのお話だ。
それは、分かってる。
でも、分かっていても、水をかけられたら冷たいし、悪口を言われたら傷つく。そこは理屈じゃどうにもならない。
ぼたぼたと水を垂らす私を見て、担任の先生はぎょっとしてたけど、でも何にも言わなかった。
結局、びしょ濡れの服のまま学校を出た。
体操服に着替えようかとも思ったけど、着替える場所で他の子と鉢合わせるのが嫌だったから、そのまま帰ることにした、もう五月。最近は暖かいを超えて暑い日もあるくらいだから、歩いてるうちに乾くだろう。
乾かなかったら、お姉ちゃんには「公園の水遊びではしゃぎすぎた」って言えばいい。
とぼとぼと商店街を歩く。スニーカーの中でぐちゅぐちゅと水が鳴る。気持ち悪い。髪からまだ水が滴っていて、すれ違う大人の人が怪訝な顔でこっちを見る。そうしていつもの路地裏に差しかかったとき——見覚えのある金色の頭が、塀の上に座っていた。
「おう」
デンジくんだった。
シャツに短パン。相変わらずうす汚れた格好で、膝にはまだこの前私が張ってあげた絆創膏が貼ってある。そろそろ傷も治ったころだと思うんだけど、デンジくんはずっとそのままにしてる。
隣には、もちろんポチタ。
「……なんか今日元気ねーじゃん。どーしたんだよ」
私の全身びしょ濡れの姿を見て、首を傾げている。
「なんでもないよ……」
「そーは見えねーよ。なんだその水、雨なんか降ってなかったのに」
「わふ」
ポチタも心配そうに鳴いた。塀からぴょんと降りて、私の足元にすりすりと体を擦りつけてきた。あったかい。ポチタはいつだってあったかくて、きもちいい。
「……ほんとになんでもないの。ちょっと、水こぼしただけ」
「こぼしただけで全身びちゃびちゃにはなんねーだろ」
正論だけど、今は言わないで欲しかった。それをなんとなくデンジくんも察したのか、それ以上は聞いてこない。
……そういうところも含めて、デンジくんって、どうしてこんなに色々鋭いんだろうって思う。
暫くの間お互いに黙ってる時間が続いたけど、そのうちデンジくんが何かを思いついたみたいにぽんと手を打った。
「あ、そうだ」
「……なあに?」
「アンタのこと、俺が元気にしてやるよ。この前は俺が旨いもん食わせてもらったから、今日は俺が返す!」
「ふええ」
唐突すぎる。
……あれ。でも、借金地獄でまともなもの食べられてないって言ってなかったっけ。不思議に思いながらも、デンジくんに袖を引っ張られて歩き出した。
ポチタがとてとてと後をついてくる。
連れていかれたのは、商店街から少し離れた住宅街の一角だった。とっても大きなお屋敷だ。塀が高くて中が見えないくらい。でもデンジくんは迷いなく、塀の隙間からするりと入っていった。
「ここ!」
「で、で、でんじくん、流石にまずいよ人のおうちに勝手に入るのは!」
「へーきだって。ここのジジイ、子供には怒んねーから」
デンジくんが指差した方を見ると、庭の奥の方に、一人のおじいさんがいる。つばの広い麦わら帽子をかぶって、腰を曲げて花壇をいじっている。こちらの存在に気づいているのかいないのか、特に動揺する様子もなくのほほんと庭いじりをしてた。
「勝手に生えてるヨモギとか食っても怒んねーし、花の蜜吸っても見逃してくれるしさ」
「……それって体のいい雑草取りとして使われてるだけじゃないの!?」
「でも時々花とか取れた野菜とかくれるし、すげー良いジジイだぜ」
「そうなのかな……」
とりあえずおじいさんの方にぺこっと頭を下げた。すると老人は顔を上げて、気さくな感じで手を振ってくれた。ニコニコしてる。いい人そうだ。たぶん。たぶんだけど。
お庭は、思っていたよりずっと広くて綺麗だった。ガラス張りの温室があって、花壇には季節の花がきちんと並んでいて、通路は砂利が敷いてあって。普通のおうちというよりは、小さな植物園みたい。
あちこちに小さな花が咲いていて、空気がちょっぴり甘いような気さえする。
お花の良いにおいを嗅いでいたら、さっきまでの水浸しの気分がすこしだけ軽くなった。
「ここ」
デンジくんが指さしたのは、花壇のはじっこに咲いているピンクの花だった。
つつじ、かな。さつき、だったかな。
なんだか似たようなお花を学校の花壇で見たことがある気がする。ラッパみたいな形の、可愛いお花。
「これ、蜜吸うと美味いんだぜ。甘くて」
「え、そうなの?」
ちょっとびっくりした。お花の蜜を吸うなんて、やったことない。でも、蜂とか蝶がやってるんだから、人間にだってできるのかもしれない。なんか……ちょっとロマンチックかも。
「こーやんの」
デンジくんがラッパ状の花をそっと摘んで、根元の方をちゅうっと吸った。「うめ」と満足げに呟く。
それを見て、私も恐る恐る真似してみる。そとに生えてるものをお口の中に入れるなんて始めてのことだったけど、デンジくんがやってるのを見たあとだから、あんまり怖くはなかった。
花を一本摘んで、恐る恐る根元に口をつけて、ちゅう。
「……あ」
甘い。
ほんのちょっとだけ。舌先にふわっと広がる、かすかな甘さ。スイーツとかには全然及ばない、砂糖の百分の一くらいの甘さだけど、でも確かに甘い、味がする。
なんだか自然と口角が上がった。お花の蜜って、こんな味なんだ。デンジくんに会うまで、知らなかったな。
「……おいしい、かも」
「だろ」
デンジくんが得意げに笑った。こういう時のデンジくんはちゃんと年相応の男の子の顔をしていて、なんか、安心する。理由は分かんないけど、なんとなく。
「んふ……んふふ。なんだか、元気出た」
「そっか! よかった」
何より、こんなきれいな場所できれいなお花の蜜を吸っているのが、絵本の中のお話みたいでドキドキする。
さっきまで頭からバケツの水をかぶっていたのが、遠い昔の出来事みたいだ。
「……ま、花の蜜じゃ腹は膨れねーけど。気分はよくなっただろ?」
そう言ってデンジくんは花壇の横の芝生にごろんと倒れ込んだ。大の字になって空を見上げている。これもなんだか、絵本の中の景色見たい。
ポチタも一緒になってごろんとした。本当に仲が良いんだなあ、と微笑ましくなった。
私もその隣に座り込む。芝生が少しだけ湿っていたけど、私の服はもうどうせびしょ濡れだから気にならない。
そうしてぼんやりしているうちに……ふと、芝生の間に、白い小さな花が群生しているのを見つけた。
「あ! シロツメクサだ」
「んあ? しろつ……」
「シロツメクサだよ。いいなー、私がよく遊ぶ公園には生えてないから、久しぶりに見た!」
とはいっても学校の中庭には沢山生えてるし、街で一番大きい公園にも咲いてるんだけど。
でも、そっちには私は遊びに行けない。学校の中庭は昼休みに他の子たちが占領してるし、大きい公園はクラスの子たちの溜まり場だから、行ったら何を言われるか分からない。
「そなの? んでも、なんでそんな嬉しそうなんよ、ただの草じゃん」
「ただの草じゃないよ! このお花で王冠とか指輪とか作ると、お姫様みたいでかわいいんだよ!」
「おー……?」
デンジくんは完全にぽかんとしてるけど、もう私のスイッチは完全にオンモードだ。
シロツメクサを次々と摘んで、茎を編み込んでいく。こうやって茎を折り返して、次の花の茎に巻きつけて、また折り返して。
二年生の頃。まだお姉ちゃんが働いてなかった頃に、教えてもらったんだ。もうお姉ちゃんとあんなふうに遊ぶことはなくなっちゃったけど、指先はちゃんと覚えている。
ボケーっとしながらお花の蜜を吸ってるデンジくんの隣で、せっせと編み続ける。私たちがあんまり吸うから、植木のお花はそこだけつるっぱげだった。
お口の形の問題で上手く蜜を吸えないポチタが、興味深そうに首を傾げてこっちを見ている。
「できた!」
十分とちょっとくらいかかって、小さな花冠が完成した。白い花が輪っかになっていて、ちゃんと王冠の形をしている。よく見るとボロボロだけど、どうせデンジくんとポチタしか見ないから問題ない。
「ポチタちゃん、こっちおいで」
素直に寄ってきたポチタの頭に、花冠をちょこんと頭に載せた。チェンソーの取っ手みたいなのが邪魔で少し斜めになったけど、それがまた、気障に着こなしてるみたいに見えて可愛い。
「ワフ!」
「似合う! ポチタ姫だ!」
「わふわふ!」
ポチタが嬉しそうにくるくる回る。花冠が落ちそうになるのを慌てて押さえた。
「……あはは。よかったじゃん、ポチタ」
デンジくんが笑った。ポチタが嬉しそうにしてるのが、嬉しかったみたい。二人に喜んでもらえた私も嬉しくて、もう一個作ろうとして茎を編んでいたら、途中でぷちっとちぎれてしまった。
短くちぎれたシロツメクサを「可哀想なことしちゃった」と指先で弄んでいると、デンジくんがひょいとそれを取って口に放り込む。
「もぐ」
「え、食べるの!?」
「食えるぞ。苦いけど」
「いや、食べられるかどうかじゃなくて……」
「もったいねーだろ。食えるもんは食う」
「え……エコだなあ」
笑ってしまった。さっきまで泣きそうだったのに、今は笑ってて、なんだか幸せな気持ちで。
どうしてかな。デンジくんといると、いつの間にかそうなる。デンジくんは……なんていうんだろう。保健室の先生とか、他の大人たちみたいに私を笑わそうとしてるわけじゃないのに、勝手に顔が笑ってしまう。存在自体がなんだかちょっと変で、おかしいのに、すごくあったかい。
それからもうひとつ王冠を作ろうとしたけど、一個目を作った時点で茎の長いシロツメクサを摘み切っちゃったみたいで、美味く作れなかった。
だから、代わりに指輪サイズの小さいのを二つ作った。シロツメクサの茎を細く編んで、先っちょに花を一輪つけて。
「デンジくん、おてて出して」
「おー」
差し出された手は、やっぱり小さくて、すり傷だった。
「あのねあのね。大人は結婚するときね、左手の薬指に指輪嵌めるんだって」
そう言いながら、デンジくんの左手の薬指に、シロツメクサの指輪をそっと嵌めてあげる。
白くてぽふぽふした花が、赤い傷だらけの小さな指の上でちょこんと揺れる。
「え! じゃあダメじゃん! お、俺まだ子供だぜ!?」
「いいの! だってこれはお花の指輪だもん! ほんものの指輪じゃないもん! 遊びの結婚だから、いーの」
デンジくんは何か言いたげに口をぱくぱくさせて、でも結局何も言わなかった。
薬指に嵌められたお花の指輪を、まじまじと見つめている。
「……ね。デンジくんも、私にはめてよ。指輪」
いいよって言われる前に、デンジくんの手に無理やり指輪をねじ込む。最初から、断らせる気なんてない。
「……い、いーのかよ。相手おれで……」
「デンジくんなら、いいよ」
笑って言ったら、デンジくんは耳まで赤くなって、おそるおそる私の手を取った。小さい指が私の左手の薬指に、もう一つのシロツメクサの指輪を通す。手が震えてるせいで花がちょっと曲がったけど、気にしない。
嬉しい。
すっごくニヤニヤしちゃう。
お母さんが居なくなって、お姉ちゃんがあのお仕事を始めてから、今日までの間で……こんなに幸せな気持ちになったのは、初めてだった。
ポチタのおててを両手でそっと持って、ポチタを私たちの間に掲げる。
「なんじ! 妻を愛することを誓いますか!」
「んえ、なんじって……え、何が!?」
「ポチタ神父が聞いてるんだよ! デンジくん、私を愛することを誓いますか!?」
「し、し……なんだよそれ! 意味わかんねーよ!」
「テレビで見たの! 結婚式のやつ! はい、誓いますって言うんだよ!」
「ワフワフ」
ポチタも意味が分かってるのか、それとも分かってないのか、キョトンとした顔のまま私に従って催促するように鳴く。
デンジくんは顔を真っ赤にして、目をあちこちに泳がせて、でも結局——
「ち……ちかい、ます」
蚊の鳴くような声で言った。
「んふふ……それじゃあ、こほん」
咳払いをして、もう一回ポチタの手をぶんぶん振る。
「なんじ! 夫を愛することを誓いますか! はい、誓いますっ!」
「……一人で何やってんだ」
「ごっこ遊びだよ、ごっこ遊び。したことないの?」
「したことねーよ! 俺友達いたことねーもん!」
「じゃあ、デンジくんの家族ごっこの一番最初は、私とポチタだね」
クスクス笑った。デンジくんはまだ赤い顔をしていたけど、怒ってはいなかった。ポチタは「ワフ!」と鳴いて——神父の大役を果たした直後だからか、なんだか誇らしげに胸を張っているように見えた。
デンジくんは別にいいって言ってたけど、一応おじいさんにお礼とお辞儀をしてからお屋敷を出た。
おじいさんは
「二人は学校のお友達かい? 仲が良いんだねぇ」
とニコニコしていた。どうやら、デンジくんの事情については知らないらしい。デンジくんが何も言わないから、私も特に否定はしないで、ただ黙ってにっこり笑った。
お屋敷の庭を出て、二人と一匹で帰り道を歩く。
空がオレンジから紫に変わっていく。夢中になって遊びすぎてたみたいだ。今は何時だろう、きっともう遅い時間だろうな。
歩きながら、自分の薬指を見た。シロツメクサの指輪。もう少ししおれてきているけど、まだ形は保ってる。
白い花がほんのりピンクがかって、夕焼けに染まっている。
「……あのねデンジくん。クローバーってね、たまーに四枚のがあるんだって。普通は三枚だけど、時々四枚のがあるの」
「へー……?」
「四つ葉のクローバーっていうんだよ。見つけると幸せになれるんだって」
「マジか。それあったら金持ちになれんのかな」
「それはどうか分かんないけど……」
でも、幸せにはなれるかもしれない。
どういう種類の幸せかは分からないけど、でも、今日みたいな日が増えたら、それだけで私は充分だと思う。
「今度またあそこ行くときはさ、それ探そうよ!」
「おう」
「誓ってね、デンジくん」
「……おう」
デンジくんは短く頷いて、マンションの角を曲がっていった。小さな金色の頭と、オレンジ色のまるっこいシルエットが、夕闘の中に消えていく。
薬指を見ながら家に帰った。
しおれかけのシロツメクサが、夕焼けの光を受けてほんのりピンク色に染まっている。家に帰ったら、コップに水を入れて差しておこう。そしたら、もう少しだけ長持ちするかもしれない。
それから、それから。
……お姉ちゃんに——今日あったことを、全部話そう。
デンジくんのこと。ポチタのこと。おじいさんの庭のこと。お花の蜜を吸ったこと。シロツメクサで王冠と指輪を作ったこと。ポチタ神父の結婚式ごっこ。
「ちかいます」
って蚊の鳴くような声で言ったデンジくんの赤い耳。
全部全部、お姉ちゃんに話したい。
こんなに楽しい気持ちなのは、本当に久しぶりだったから。
アパートの階段を二段飛ばしで駆け上がって、玄関のドアを開けた。
「おねーちゃん、ただいま! あのね、今日ねっ」
言いかけて、止まった。
玄関にお姉ちゃんのヒールがある。几帳面な性格だから、いっつもきちんと揃えてるのに、今日は乱暴に投げ捨てて、あって。
居間に入ると、電気がついていなかった。
薄暗い部屋の中で、お姉ちゃんがテーブルの前に座っている。髪が乱れていて、化粧が崩れていて、今朝出ていったときとは別人みたいだった。
——机の上に、注射器がある。
小さな注射器。近くに、しろい、粉みたいなのがある。あと、スプーンと、ライターと。
なんだろう、お薬かな。お姉ちゃん、どこか体が悪いのかな。それとも、お仕事で怪我でもしたのかな。お姉ちゃんは時々、身体にあざを作って帰ってくることがあるから。
心配になって、恐る恐る声をかけた。
「おねえちゃん、大丈——」
振り向いたお姉ちゃんの顔を見て、言葉が喉に詰まった。
目が、怖い。
見たことのない目をしていた。充血していて、瞳孔がぎゅっと小さくなっていて、焦点が合っているのか合っていないのか分からない。唇は乾いて白くなっていて、ほっぺたがやけに赤い。
「お、おね、ちゃ……」
「こんな時間までどこ行ってたの」
声が低い。いつものお姉ちゃんの声じゃない。どれだけ疲れてても絶対にそれを私に見せないようにするのに。「おかえり」って言ってくれるのに。
「と……。……と、ともだちと、あそん、でて」
「へえ」
お姉ちゃんが、笑った。笑ったけど、目が笑っていなかった。
「アンタはいいよね。普通に友達とこんな時間まで遊んで、楽しそうにしてさ」
あ、だめだ。
これ、今日、お姉ちゃん、"ちがう"日だ。
前にもあった。月に一回か二回、お姉ちゃんが「ちがう」日がある。いつもは優しくて、ご飯を作ってくれて、「おやすみ」を言ってくれて、私の髪を梳いてくれるお姉ちゃんが——突然、別の人になる日。
甘えちゃいけない日。楽しかったことを話しちゃいけない日。お姉ちゃんが、疲れてる日。
そっと手を後ろに回した。
左手の薬指にシロツメクサの指輪がまだ嵌まっている。なんとなく……本当になんとなく、この指輪がお姉ちゃんに見えたらだめだと思った。
背中に隠した手で、指輪をそっと外しにかかる。しおれたシロツメクサが指に引っかかって、うまく取れない。
「……ごめ、ごめんなさい……」
「……謝ってどうにかなる問題じゃねぇよ」
お姉ちゃんの言葉遣いが変わっている。いつもは私の前では丁寧に話してくれるのに。まるで、ヤクザのひとたちみたいな。
「ごめ……な……」
俯いて黙り込む。指の裏で、シロツメクサを必死にずらしている。あとちょっと。あとちょっとで抜ける。花びらが指の関節に引っかかって、でも、もうちょっと——
ぽとり。
指輪が手のひらからこぼれて、床に落ちた。
「あ、あ」
慌てて拾おうとしゃがみ込んだ。でも、遅かった。
「……何それ。クローバー?」
お姉ちゃんの目が、床に落ちた白い花の輪っかを捉えていた。
クローバー。
そうだった。お姉ちゃんは、このお花のことをクローバーって呼ぶんだった。二年生の頃、一緒にシロツメクサの花冠を作ったとき、お姉ちゃんは「クローバー」って言ってた。
だから、なんとなくそれを思い出すのが嫌で、「シロツメクサ」って呼ぶようにしてたんだ。無意識に。
「あ、ああ、ああっ……ちが、ごめ、ごめなしゃいっ……」
なきたい、わけじゃない、のに、涙がこぼれる。
……申し訳なかった。
どうしようもなく、申し訳なかった。お姉ちゃんに、申し訳なくて、苦しかった。
ずるい。ずるいずるいずるい。私って、ほんとうに、どうしようもないくらいずるい。
お姉ちゃんとの思い出を上書きするみたいにデンジくんと遊んで、お姉ちゃんとの名前を避けて別の名前で呼んで。私って、どうしてこんなにずるい人間なんだろう。最低だ、さいていだ、さいていだ。
「あの……友達と、こうかんこ、して……」
「……友達って、あの男の子? 綺麗な金髪で、キレイな顔してたね」
「え、あ……」
嫌な予感がして、答えられなかった。
お姉ちゃんが、はあ、と長い息を吐いた。それから——テーブルの上の物を、腕で一気に薙ぎ払った。注射器が飛んで壁にぶつかった。スプーンが床に落ちて、カラカラと甲高い音を立てる。
「ああああああああああああ!!!!!!」
叫び声が、薄い壁に反響した。
「男男おとこってバカじゃないのマジで! お母さんが借金作って消えた理由が男なら、妹が遊び呆けてる理由も男ってさあ!!」
頭を掻きむしっている。お姉ちゃんの綺麗で長い髪がぐしゃぐしゃになる。綺麗に整えていた髪が、指の間からぼろぼろとこぼれ落ちる。
「ああもう死ねよお前マジで! 私と一緒に死ね! 全部全部全部しんじゃえ!!」
「おねえちゃんごめんなさいごめんなさいごめんなさいやめて!!!!」
慌てて泣きながら駆け寄った。
お姉ちゃんの腕にしがみついた。掻きむしるのをやめさせたかった。お姉ちゃんの頭から血が出てるのが見えたから。自分の爪で、自分の頭を引っ掻いて——
「触るな男好き!!!」
振り払われた。
体が宙に浮いた。
背中が何かに叩きつけられる。戸棚の角だった。後頭部にがつん、と鈍い衝撃。視界の端がちかちかと光る。
ずるずると床に崩れ落ちて、後頭部に手をやったら、指先がぬるっと赤く濡れた。
「あ、あ、あう」
痛いとか、怖いとか、そういう感情が来る前に、お姉ちゃんの顔が見えた。
真っ青だった。
さっきまでの激昂が一瞬で消えて。血の気のない顔で、口が半開きになって、震える手が私の方に伸びている。
「あ……あ……ごめん、ごめんね、███ちゃん。そんなつもりじゃなかったの、ごめん、ごめんね、ごめんね……」
お姉ちゃんが、床に崩れ落ちるようにして私を抱きしめてくる。……場違いに、暖かいと思った。お姉ちゃんの体は、いつだって暖かい。私のことを優しく包み込んでくれる。
抱きしめる力が強くて、くるしい。くるしくて、あったかくて、でもお姉ちゃんの体が震えている。香水の匂いと、汗の匂いと、それからもう一つ……知らない、甘ったるい、気持ちの悪い匂いがする。
「ごめんね……ごめんね……おねえちゃんが悪かった……謝っても許されることじゃないけど、ごめん……ごめんね……」
お姉ちゃんが泣いている。私も泣いている。泣きたい訳じゃないのに、涙が止まらなかった。体が痙攣するのを辞めようって思うのに、やめられなかった。
声が出ない。しゃくりあげるみたいに、ひっく、ひっく、と喉が痙攣する。
「ひっ、ひっひっ、ひ、ひっ……」
涙で前が見えない。後頭部がじんじんと熱い。お姉ちゃんの腕の中で、壊れたサルの人形みたいに、いつまでもびくびく跳ねていた。
どれくらいそうしていたか分からない。
五分か、十分か、もしかしたら、一時間かも。
やがて、お姉ちゃんがゆっくりと体を離した。泣き腫らした目で私の後頭部を確認して、「傷は浅いね……大丈夫、大丈夫だよ」と自分に言い聞かせるように呟いた。
救急箱からガーゼを出して、私の頭にそっと当ててくれた。さっきまで叫んでいた手が今はとても丁寧に、壊れ物を扱うみたいに、私の頭に触れる。
「ごめんね。お姉ちゃんが悪いんだ、全部。……ちょっと疲れてて、当たっちゃった。███ちゃんは何も悪くないよ」
「……」
「お友達と遊んだの、えらいね。……楽しかった?」
「……うん」
「そっか。よかったね」
そう言って、お姉ちゃんは立ち上がった。洗面所で顔を洗って、化粧を直して、髪を整えて。散らばった机の上の物を黙って片付けて。
こんな日でも、お姉ちゃんはお仕事を休めない。休んで、お金が足りなくなったら、ヤクザの人たちが家に来るから。
「……私、お仕事行ってくるね。ご飯は冷蔵庫に入ってるから、チンして食べて。先に寝てていいよ」
ヒールの音が玄関から廊下に消えていく。
無情にもドアが閉まる音。淡々と鍵がかかる音。階段を降りていく音。
そうして、おうちの中に一人ぼっちになった。
床に座り込んだままぼんやりとテーブルの下を目で探した。
さっき落としたシロツメクサの指輪が、テーブルの脚の横に転がっている。水を与えられずに長い間放置されていた花はすっかりしおれて変色していて、なんだかみすぼらしい。
拾い上げて、手のひらに載せた。
自分が情けなかった。
だって……だって、だって。
デンジくんなら、きっとこんなことにはならなかっただろうから。
もっと上手にお姉ちゃんを慰められたはずだし、もっとお姉ちゃんを笑わせられたと思う。デンジくんはいつだって真っ直ぐで、何が来てもへこたれなくて、笑ったりふざけたりしてるうちに私まで元気にさせちゃうから。
それに、デンジくんはデビルハンターとして、何十万円も稼いでるって聞いた。私がデンジくんだったら。私がもしデンジくんみたいに働けたなら、お姉ちゃんに辛い仕事をさせずに済んだのかもしれない。あんな、あんな、机の上に変なものを並べて、目がおかしくなるようなことを、させずに済んだのかもしれない。
潰れた指輪を握りしめた。
デンジくんに会いたいと、心から思った。
デンジくんとポチタがいつもの塀の上に座っていた。私の顔を見るなり、デンジくんが眉をひそめる。
「……また元気ねーじゃん」
「あのね、デンジくん。お願いがあるの」
「んあ? だから金なら」
「お金じゃないってば」
いつもなら笑うところだけど、今日は笑えなかった。
デンジくんもそれを察したのか、ふざけるのをやめて、真っ直ぐにこっちをみつめる。
「あのね……お姉ちゃんの為に、四つ葉のしろ……ううん。クローバーを、どうしても探したいの」
自分でも馬鹿なことを言っているのは分かっていた。四つ葉のクローバーを見つけたって、お姉ちゃんの借金が減るわけでも、あの仕事を辞められるわけでも、机の上の注射器が消えるわけでもないなんてこと、ちゃんとわかってる。
「こんなこと、なんの足しにもならないかもしれないけど……でも、お姉ちゃんを励ます方法、それしか思いつかないから」
声が震えた。情けない。十二歳なのに、八歳の子に頼みごとをしている。四歳も、年が違うのに。デンジくんはこんなに子供、なのに。
デンジくんは少し困った顔をした。それから、腕を組んで、うんうんと何度か頷いて。
「……ま、お嫁さんのいうことなら聞いてやんねーとな!」
「え」
びっくりして目が丸くなる。
「あ……か、勘違いすんなよ! マジのお嫁さんじゃなくて、ごっこ遊びのお嫁さんな!」
「あ、ああ……そっか。うん、そうだよね」
少しだけ、笑えた。
「私たち、家族だもんね」
「……おう」
ポチタが「ワフ!」と鳴いた。神父様も、賛成してるみたいだった。
それから、毎日おじいさんの庭に通う日々が始まった。
学校が終わったら路地裏でデンジくんと合流して、おじいさんのお屋敷に行って、芝生の上でシロツメクサを一本一本確認する。三つ葉。三つ葉。三つ葉。三つ葉。ぜーんぶ三つ葉。
「ここにもない……」
「こっちもなし。ポチタ、そっちは?」
「ワフ」
首を横に振るポチタ。三人で肩を(ポチタは肩がないけど)落とす。もうずっとこんな調子だった。
二日目も、三つ葉。
三日目も、三つ葉。
四日目も。五日目も。
おじいさんは毎日やってくる私たちを微笑ましそうに眺めながら、庭仕事の合間に声をかけてくれた。
「毎日熱心だねぇ。最近あったかいから、熱中症にならないように気をつけなよ」
そう言って、麦茶を出してくれた。冷たくて美味しくて、デンジくんは三杯おかわりした。勝手に庭に侵入してお花を食い荒らした挙句に図々しいんじゃないかと思ったけど、おじいさんは嬉しそうだった。色々話を聞いていたら、おじいさんは若いときにお嫁さんが死んじゃって、子供がいないんだって。だから私たちが遊びに来るのが嬉しいのかなって、子供ながらに思った。
別の日にはおせんべいを出してくれて、また別の日には見たことない変なお菓子をくれた。甘くてもにゅもにゅした、変なゼリーみたいなの。
おじいさんは私たちが何を探しているのか聞かなかった。聞かないまま、ただ見守ってくれていた。いい人だ。
「ここにはねーんじゃねーの? 他の公園とかにもいっぱい生えてるだろ」
五日目の夕方、デンジくんが芝生に大の字になりながら言った。
「やだ。どうしてもここで探したいの」
「なんでだよ」
なんで、って聞かれて、少し考えた。
「……ここは、私とデンジくんが、結婚式ごっこをした場所だから」
デンジくんがこっちを見た。
「あのとき、とっても幸せだったから。だから、私が幸せを見つけた場所で、お姉ちゃんに渡す幸せも探したいの。……それじゃ、だめかな」
言い終えたら、デンジくんは何も言わずにむくりと起き上がって、また芝生に顔を近づけてクローバーを一本一本覗き込み始めた。
「……デンジくん」
「探すんだろ。さっさとやんぞ」
「……うん」
六日目。見つからない。
やっぱり、どうしても見つからない。
もう芝生の隅から隅まで何周もした。一本残らず確認したんじゃないかってくらい。デンジくんの膝は芝生の跡で緑色に染まっていたし、私のスカートも草の匂いがしみついていた。
そうして迎えた、七日目の夕方。
もう全部探し終わったんじゃないか——って、二人して芝生の真ん中で途方に暮れていた、その時。
「ワフ! ワフワフ!!」
ポチタが庭の端っこの方で大きな声で鳴いた。
今までにないくらい必死な声で。ばっ、とデンジくんと目が合う。もしかして、もしかしたら。
慌てて二人で駆け寄った。
ポチタがチェンソーの鼻先で、そっと一点を指し示している。芝生の際、花壇との境目あたり。日当たりのいい場所を覗き込んだ。
「……あ」
あった。
小さい。まだ赤ちゃんみたいに小さい。茎も細くて、葉っぱも小指の爪の先くらいの大きさだ。
でも、確かに——葉っぱが、四枚ある。三枚じゃない。きちんと均等に、十字を描くみたいに、四枚の葉っぱがくっついている。
「四つ葉……」
声が震えた。
「四つ葉だ! 四つ葉のクローバーだ!!」
「マジかよ、すげーなポチタ!」
「すごい……すごい! すごいよポチタ! 天才だよ! ポチタ天才! 世界一の悪魔だよ!」
「よくやったなぁポチタ! さっすがぁ〜〜!」
「ワフワフ!」
ポチタが嬉しそうにくるくる回る。花冠の時と同じ回り方。でも今度は私もデンジくんも一緒になってくるくるしていて、芝生の上で三人と一匹がぐるぐる回っている光景は、たぶん相当おかしかったと思う。
騒ぎを聞いたのか、おじいさんが温室の方からとことこ歩いてきた。
「おやおや、とうとう見つかったの?」
「見つかったの! おじいちゃん、四つ葉のクローバー、見つかったんだよ!」
おじいちゃん、と呼んでしまってから、あ、しまった、と思ったけど。でも、おじいさんは嬉しそうに目を細めた。
「そうかい、そうかい。一週間も探してたもんねぇ。よかったねぇ」
おじいさんはポケットをごそごそとまさぐって、小さな袋を取り出した。
「それじゃあ、おじいちゃんからもお祝い」
渡されたのは、飴ちゃんだった。純露だ。今まで食べたことがなかったけど、ここに来てから何度か食べさせられた。左右を捻じった包装紙に包まれた、なんだか昔っぽいべっこう飴。
「おじいちゃんはね、飴は純露が世界一だと思ってるんだよ」
遠慮するってことを知らないデンジくんがさっそく一個口に放り込んで「甘い! うまい!」と叫んだ。私も一個もらって、口の中で転がした。素朴な甘さだ。なんていうか、おばあちゃんの家の味がしそうな。おばあちゃんの家なんて、行ったことないけど。
ポチタにも一個あげたら、丸呑みした。味わってない。絶対味わってない。でも本人というか本犬というかは嬉しそうだから、人が口を挟むことじゃないのかもしれない。
「さ、持って帰んなさい。あ、でもクローバーは根っこごと抜くんじゃなくて、茎だけ折るんだよ。そうすれば来年また生えてくるからね」
え。それ、もっと前に教えて欲しかったな。もう散々ちぎったり抜いたりしちゃったよ。
とりあえずおじいさんに教わった通り、四つ葉のクローバーを茎の根元からそっと折った。小さくて、まだ柔らかい茎。折ったところから、ほんの少しだけ水が滲んだ。
手のひらに載せて、まじまじと観察してみる。
こんなにちっぽけなものを見つけるのに、一週間もかかった。三人で毎日毎日必死に探して、やっと見つけた。
この小さな幸せが、お姉ちゃんに届くといいな。
届かなくても、探してたことを話すだけでいい。お姉ちゃんのために一生懸命探したんだよ、ってことが伝わるだけでも、よかった。
「ありがとう、おじいちゃん。ありがとう、デンジくん。ありがとう、ポチタ」
丁寧に丁寧に頭を下げて、おじいさんのお屋敷を出た。口の中にはまだ純露の甘さが残っている。
デンジくんが残りの純露を光に透かして見ている。べっこう色がきらきらして、宝石みたいだった。
「このアメ、うめーな。また貰えっかな」
「貰えるよきっと。おじいちゃん、いい人だから」
「よし。来週もう一回飴貰いに行くか」
「ふふ、そうだね」
ポチタが私たちの間を嬉しそうにとてとて歩いている。
私の左手の中に、四つ葉のクローバーがある。
ちいちゃいけど、頼りないけど、でも、確かに私たちで見つけたクローバーだもん。
ずっと握りしめていたから少ししんなりしてしまったけれど、四枚の葉っぱは、まだちゃんと開いていた。
家に帰ったら、お姉ちゃんが首を吊って死んでいた。
お姉ちゃんの死体を床に下ろしたヤクザの人が、じっとりとした目で私を見ている。
「まだ子供だが……その分物好きが高値を払うだろ。ガキ、今日から首吊ったバカ姉貴の代わりだ」
指の隙間から四葉のクローバーが抜け落ちる。
逃げようと一歩後ずさりをしたら、後ろに立っていた大きな男の人の足に当たって——
* * *