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 手がぬるぬるする。もう何時間もこうだから感覚が麻痺してきてるけど、ふとした瞬間にぬるぬるしてんなあ、って思い出す。出刃包丁の柄が滑る。ゴム手袋の中に汗が溜まって、その上から赤いのがべったりこびり付いて。台所用の、黄色い、安っぽいゴム手袋。最初は素手で作業してたけど、そのうちに手がふやけてぼろぼろになったから、公安の職員の誰かが買って届けてくれた。スーパーで百円くらいで売ってるこんな手袋が今、世界を救うための道具になってるのが、なんか、おかしい。

 別に、だからって笑えはしないけど。

 真夜中のキッチンは妙に静かで、蛍光灯の白い光が、シンクの上に広がった現実を容赦なく照らしていて、それが朦朧とした意識を強制的に呼び覚ましてくるのが、残酷なような、助かるような。

 赤いのと、ぴんくっぽいのと、白いの。全部、マキマさんだったやつ。もうじきマキマさんじゃなくなるやつ。もう訳分かんねーや。なんも。

 岸辺のジジイが向かいで黙々と手を動かしている。こっちよりもずっと手際がいい。さすが、ベテラン。俺がもたもた肉を切り分けている間に、先生の手元ではもう何個目かのタッパーに蓋がぱちん、と閉まる。業務用の、でかい、透明なの。

 気持ち悪い、とは、もう思わなくなった。

 最初の三十分くらいは、正直、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、手が震えた。人の形をしたものを丁寧に部位に分けてバラすのは、悪魔をチェンソーで引き裂くのとは、なんか、違う。気分の重さが違う。行為としての温度が違う。でも時期に、大丈夫っていうか、何も感じなくなった。手は動く。包丁は進む。切り分けて、タッパーに入れて、蓋を閉める。それだけの繰り返しだ。

 岸辺のじいさんも似たようなもんだと思う。顔には何も出てないけど、煙草に火をつけるペースがいつもの倍くらい速い。灰皿代わりの空き缶に、もう五、六本分の吸い殻が詰まってる。

 ぱちん。またタッパーの蓋が閉まった。

 俺もそれに続いて、自分の方のタッパーに蓋をする。ぱちん。

 無言。

 換気扇。

 ぱちん。

「そういえば」

 ふいに思い立って口から出た声が、思ったより掠れてた。何時間も黙ってたからか。咳払いをひとつして、もう一回。

「そういえばさ、先生」

「……なんだ」

「先生に伝えなきゃいけない遺言があったの、一個思い出した」

「遺言?」

「副隊長の」

 先生の手がほんの一瞬だけ止まった。それから、何事もなかったように包丁を動かし始める。

「ああ、あの」

 あの、って。もうちょっと、何か無いのかよ。遺言だって言ってんだろ。とは思ったけど、まあこのイカれジジイに何かを期待する方が間違ってる。

 はあ。

 マキマさんの上に汗が垂れないよう、二の腕で顎をぬぐいながら、なるべく何でもない事みたいな声で言う。

「あの人、実は先生のこと好きだったらしいっスよ」


 副隊長が死んだ時のことは、あんまりよく覚えていない。

 薄情だってのは分かってる。けど実際、仕方がなかった。あのデパートでは副隊長の他にも魔人が何人も死んで、公安の職員も大勢死んで、アキの腕が捥げた。誰が生きてるとか死んでるとか、一々気にしてられる状況じゃなかった。

 無我夢中で薄気味悪い人形女と戦って、何日か経って冷静になってから、ああ、副隊長死んだんだな~ってやっとちゃんと理解した。なんていうか、変な死に方をしたから、死体も残ってなかったらしい。おまけに天涯孤独だったから、墓すら作られてない、らしい。葬式は一応あったって聞いたけど。他の公安のやつらとの合同のやつ。でも、それには行かなかった。行かなかったっていうか、行く暇がなかったって言うか。……アキは参列したらしいけど。

 分かんねえけど、明るい人だったと思う。

 チビのくせにやたら声がでかくて、年がら年中ふざけてて、あの人がイライラしてる所を、一度だって見たことがなかった。誰かが死んでもへらへらしてたし、自分が大怪我してもへらへら笑ってた。元からそういう性格だったのか、笑ってねぇとやってられなかったのかは知らない。別にどっちだっていい。むっつりした顔されてるよりかニコニコされてる方が、こっちも気分がいいのは確かだし。

 で、そのくせ妙に真面目なところがあって、やたらと俺とパワーに勉強を教えたがった。曰く、今後の人生で絶対に必要になるから、って。

 でもさ、俺たちには人権なんてねぇんだろ。一生デビルハンターやるんなら、足し算とか引き算とか、漢字とか、英語とか……そういうの今更覚えたって、別にどうにもなんなくね?

 でも副隊長からしたら、俺らに勉強を教えるのは意味のあることだったらしい。理由は分かんねぇけど、あの人の中では筋が通ってたんだろう。

 勉強はクソだ。それは間違いない。

 でも、終わった後にはちゃんと褒美をくれるから、しぶしぶ授業ごっこには付き合ってた。ケーキとか、名前も聞いたことねぇ珍しいお菓子とか。食い物に関してだけは妙にセンスが良かった。多分、あの人自身がなんか、いっつもちょこちょこ食ってたからだと思う。

「いろんなことを知ってたら、その分、選択肢も増えるから」

 でも増えたところで、それを選べるかどうかってのは、別の話じゃねぇの。

 それは思っても、言えなかった。

「映画館に行こうよ」

 副隊長の誘いはいつだって唐突だ。

 その日も確か、朝から勉強を始めて二時間目くらいの頃だった。漢字の書き取りをやらされてて、シンニョーの字がどうしてもいい感じに書けなくて、六回目に書き直したあたりで唐突にそんなことを言われた。

「映画? ……なんで。俺もう当分映画は見たくねーよ」

「なんで! マキマさんとは朝から晩まで一日ぶっ続けで映画見るデートしたって聞いたよ。私ともしてよ」

 だから、それでもう食傷気味なんだけど。

 ——とは。かわいこぶりっこした上目遣いで言われては、思っても言えなくて。副隊長はこういう時だけ妙に女を使うのがずるい。普段あんなにげらげら笑ってる癖に、こっちに何かお願いする時だけ急にきゅるんとした顔をする。

 しかも、それを計算でやってんのが丸分かりなのに、分かった上でもなんか断りにくいから質が悪い。

「私ともデートしてよ、デンジくん。今から」

「んあ、今から!? べ、勉強はどーすんだよぉ……」

「今日は課外学習の時間でーす。この教室では私が先生であり校長だからね。私の一任であれこれ決めてもいいの」

 ……こういう時だけ先生面すんの、ほんとずりぃよな。それも、思ったけど黙っておく。

「んふふ。それにね」

「それに?」

「デンジくん、女のひとに振り回されるの、結構好きでしょ? だから私にも振り回させて」

 悔しいけど、それは間違ってない。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 外に出て、連れていかれたのは隣の隣の駅にあるさびれた映画館だった。なんか、全体的にボロくて古い。壁が茶色く焼けてて、看板の文字も半分かすれてて、入口のガラス戸にはヒビが入ってる。ロビーはなんか、やけに天井の低い。売店のポップコーンマシンが年代物で、がこんがこんと不穏な音を立ててて、客は俺たちの他に、じいさんが一人だけ。

「……なんかすげービミョーな感じじゃん。隣駅にいい感じの映画館あんの、俺案内したのに」

「私にも考えがあるの。だって課外授業なんだよ? エンタメ映画じゃなくて、ちゃんとお勉強になるような映画を見なきゃ」

 勉強。映画で勉強。ほーん……? あんまり腑に落ちなかったけど、副隊長が「小学校とか中学校でも、道徳の授業やなんかで、映画を見せられることがあるの、私も中学生のとき、音楽の授業でサウンドオブミュージックを見たんだよ」なんて語り出すから、そういうもんかと思う。

 チケットカウンターに並ぶ副隊長の後ろ姿を見ながら、ふと気がいた。

 ……あ。副隊長、上映スケジュールきっちり把握してるっぽいじゃん。何時の回で、どのスクリーンで、座席はどの辺りがいいかとか、そういうところに迷いがない。今日の、別に思いつきでってわけじゃなかったんだな。

 漢字の書き取りしてる間も、俺を映画に連れてくつもりで座ってたのか。俺が嫌な顔しながら、六回も書き直してる横で。

「カサブランカ、大人二枚」

「これおもれーの?」

「世界大戦が終わって、ぎすぎすしてた頃のお話。当時のアメリカとか世界情勢が色濃く反映されてて……これならお勉強になるからね」

 世界大戦。教科書で読んだことがある。副隊長に読まされた、が正しいけど。

「だから帰ったら、復習がてらに歴史のお勉強もしようね」

「げ」

「げ、じゃないの。はい、ポップコーン買いに行くよ。味は何がいい?」

「キャラメル」

「お、気が合うね。私も甘い方が好きなの」

 知ってるよ、アンタが甘党なの。だから気を使ってそっちにしたんだろ。別に俺、味なんかどっちでもいいし。

 で、映画は、ふっつーに見終わった。

 つまんねー映画だったなっていうのが正直な感想だ。大の大人がうじうじうじうじして、うぜー……って思ってたら話が終わった。

 好きな女がいて、その女には旦那がいて、だから一緒になれませんって、それだけの話を二時間近くかけてすげー長々とされてたって感じだ。気取った台詞吐いて、煙草吸って、またうじうじして。最後には好きな女を飛行機に乗せて見送って、はい終わり。

 なんなんだよ。好きなら連れて逃げりゃいいじゃん。んで、人のもんだからダメだって思うんなら、別にさっさと諦めて他の女行けばよくねぇ? 実際、あのツラで普通の仕事してんだったら、他にいくらでも女作れんだろ。俺が同じ立場だったらそうする。

 隣の副隊長はどうだったかっていうと、暗い中でちらっと横を見たら、別に泣いてもいないし、笑ってもいなかった。何考えてんだか分かんない顔で、でもいつもの微笑みだけ浮かべて、静かにスクリーンを見つめてた。ポップコーンは俺が八割くらい食った。

 映画館を出て、副隊長が「お腹空いた」と言うので飯を食うことになった。

 近くにあった回転寿司。さびれた映画館の隣にある回転寿司だからまあそれなりの店で、でも副隊長は別に気にしてない様子で、カウンターに並んで座った。

「なんかよく分かんねー話だったな」

「まあ五十年も昔のお話だからね」

「副隊長はアレ面白かったと思うのかよ」

「ん~……デンジくんは?」

「なんか、なにしてーのかよくわかんなかった。全員」

「全員?」

「おう、全員。女も男も」

 フライドポテトを摘まみながら言う。相手は副隊だし、マキマさんと違って気を遣う必要もねーから。副隊長は玉子の寿司をちまちま食ってて、そう言えばオレ達はまだ魚を頼んでない。ここ寿司屋なのに。

「あはは、そっかそっか。まあ、私も大体一緒かな〜」

「じゃあなんで見にいったんだよ」

「あの映画をデンジくんに見せられたことに意味があるんだよ」

「いみ?」

 意味。なんの意味だ。

 聞き返そうとしたところで頼んでたジュースが二つ届いた。俺のオレンジジュースと、副隊長のメロンソーダ。副隊長はメロンソーダのグラスを持ち上げて、こっちに差し出してくる。

「Here’s looking at you」

「……は?」

「最近英語の授業付けてるから分かるでしょ、和訳してみてよ」

 んなこと急に言われたって。でも、単語自体は簡単なやつばっかだし、確かに教えてもらった範囲で何とか日本語に出来そうな気がした。

「えーっと……私は今あなたを見ています?」

「んふふ、直訳ならそれが正解だね」

 ”なら”って、ほんとの正解は別にあるみたいな言い方だ。なら副隊長ならなんて訳すんだよ、って聞いたら、カチンと勝手にコップ同士をぶつけられた。

「君の瞳に乾杯。……これがHere’s looking at you、の、標準的な訳し方だよ。要は慣用句みたいなものだから……ふふ。知識が無いと和訳出来ない引っかけ問題でした~」

「はあ~~?? せこいぞ! せこ副隊長! 手本になる教師がそれで良ーのかよ!」

「抜き打ちテストは往々にしてせこい物なのだよ。ほらほら、ちゃんとグラス持って? ちゃんと乾杯しよ」

「……はあ。乾杯」

 今度はちゃんと乾杯をして、副隊長がまた、「キミの瞳に乾杯」ってフレーズを繰り返す。

「……って、あ。つーかそれ。さっきの映画のセリフ? 何回か字幕で出てた気がする」

「そうそうそう! デンジくんも聞いたことくらいあるでしょ? 有名なセリフだよ」

「んや、それはねぇけど」

「ほわ!」

 副隊長が目を見開いてころころ笑った。その笑い方はなんか、好きだなって思った。


 それから何回か、副隊長にデートに誘われることがあった。

 全部全部「課外授業」って名目で。

 音楽の授業って言ってカラオケに連れてかれた時は、副隊長が延々と古い歌を歌ってるのをぼーっと聴きながらフライドポテトとたこ焼きを食った。副隊長は歌が上手いわけでも下手なわけでもないけど、妙にはしゃいだ感じで歌う。「デンジくんも歌いなよー!」って言われたけど、俺はまともに最初から最後まで全部歌える曲がひとつもないから断った。そしたら「じゃあ今度までに一曲覚えてきてね、それが宿題!」だって。

 博物館に行った時は副隊長が恐竜の骨の前であーだのこーだの講釈垂れててうざかった。でかい骨は掘り出す手間とか考えたらすごいっちゃすごいけど、それより隣のミュージアムショップで売ってた恐竜のグミが気になった。買ってくれた。ティラノサウルスの形のやつ。

 美術館にも行った。ワークショップで変なキーホルダーを作らされて、副隊長が自分の分を「デンジくんにあげる!」って押し付けてきて、結局俺のカバンにはぐちゃぐちゃの粘土で出来た何かよく分からん動物がぶら下がることになった。副隊長いわくニャーコらしい。でもどうみたって猫には見えない。

 んで、そういうのがだんだん当たり前になってきた頃に、ふと思った。

 こんなにしょっちゅうデートに誘ってくるってことは、副隊長、俺のこと好きなんじゃね?

 いや待て。落ち着け俺。副隊長はチビ女(副隊長も大概チビだからややこしいけど)にも暴力の魔人にもやたら飯を奢ってるし、シンプルにそういう性格なだけかもしれねーだろ。

 でも、チビ女とか魔人とは、映画なんか観に行ってない。多分。カラオケも行ってねぇだろ? 

 博物館も美術館も行ってねー、だろうし……そう考えるとやっぱこれ、そういうことじゃねぇの。

 意識し始めたら止まらなかった。

 副隊長がいつもの調子で隣に座ってるだけで、なんか、妙に意識する。肩がぶつかると心臓がどきっとするし、笑い声を聞くと耳が熱くなる。今まで何とも思ってなかったのに。いや、何とも思ってなかったわけじゃないけど。何とも思ってなかったわけじゃないけど、でも、なんか、うまく言えねぇけど、今までとは違う感じの何かがある。

「ね、デンジくん。今日は二人でフルーツパーラーとか行こうよ」

「ぱ……なに? それも授業なのかよ」

「んーん。これは私からの個人的なお誘い」

 個人的なお誘い。

 やっぱ絶対俺のこと好きじゃん。好き確定じゃん。

 やべー。やべーやべーやべー。どうしよう。いやでも俺にはマキマさんが居るし。副隊長と付き合ったら絶対マキマさんにもバレちまうよな。いやでも別にまだ付き合うとか何も言われてねぇし。パーラーに行くだけだし。パーラーってそもそも何だ。分かんねぇけど、果物が食える店っぽい名前してるから、でも、ここでまたデートっぽいことしたら、俺ますます副隊長のこと好きになっちまうかも——

「……だめ?」

 あ、でた、いつものきゅるん顔。

 ずりぃ。ほんっとずりぃ。

「だめ! ……じゃねぇ!」

「やった!」

 ぱっと笑って、俺の手を引っ張った。その手がちっちゃくて、思ったより冷たくて、あ、そういや冷え性なんだっけ、って、どうでもいいことを思い出した。

 パーラーってのは要するに、くそ高い果物がくそでかい器に盛られて出てくる店のことだった。

 メロンが半分にカットされてそのまま器として使われてて、中にアイスとクリームと果物がぎっしり詰まってる。副隊長は「わあ」って声を上げて、そのまましばらくじ~とアイスをみてた。食えよ。

 それから、色々話をした。

 仕事の話とか。パワーが最近また暴れた話とか。チビ女が初めてたこ焼きを食った時の反応がかわいかった話とか。クソどうでもいいって思ったけど、副隊長はそういう話をする時、本当に楽しそうにする。自分のことよりも人のことを喋ってる時の方が声がでかくなる。その顔を見るのは好きだから、別にそれは留めなかった。

「余裕があったら、サンドイッチも食べたいね」

 なんて話してたけど、副隊長は結局半分もメロンを食えなくて、俺が一人でほどんど食った。サンドイッチに未練はあったけど、腹一杯だから仕方ない。

 帰りに夕方の商店街を並んで歩いてて、俺の方から副隊長の隣に寄った。半歩分くらい。肩がぶつかるかぶつからないかの距離。ここまで近づかれても嫌がらないの、なんで。それってつまり、やっぱそーなのかよ。

 オレンジ色の横顔を見たら無性に腹んそこがムズムズして、気が付いた時にはもう聞いてた。

「……なあ、副隊長」

「うん? なあに」

「副隊長って、俺のこと好きなの」

 副隊長の足が止まった。

「ふふ、好きだよ?」

「それって……そういう意味で?」

「そういうって、どういう?」

 いつもの笑い方で笑ってる。へにゃっとしたとぼけたような顔。

「その……ラブ的なヤツで」

 自然と声が小さくなる。

「付き合ってもいいとか、思ってくれてんのかなーって」

 言っちまった。言っちまったらもう取り消せない。心臓がうるさい。商副隊長の顔を見る勇気がなくて、見たくもねーのに八百屋の店先に並んだトマトをじっと見てた。赤い。多分食べごろだけど、腹いっぱいであんま美味そうに見えない。

 しばらくの間は何も言われなかった。……その沈黙がなんとなく答えだろうなとは思ったけど、まだ分からないって、もしかしたらの可能性に頭の中で縋っちまう。

「私は……」

 副隊長の声が、初めて聞くくらい小さい。

「……ごめん。私、好きな人は別にいるの」


 先生の顔を改めて見た。

 白い蛍光灯に照らされた、大人っぽいごつい顔。深い皺。あと、無精髭。なんつーか、普通に年相応にジジイだ。でも、うん、確かにかっこいい。かっこいいと思う。俺が先生くらいの歳になった時に、こんな面構えでいられる自信は無い。

 副隊長がこのジジイを好きだった、っていうのは、まあ、分かんなくはなかった。

「今更恨み言言いてー訳じゃねーけど」

 包丁の手は止めないまんま口だけ動かす。

「なんか、やっぱ……ちょっとずりーとは思うんですよ」

 先生は別に何も言わない。元からよく喋る人じゃねーし。代わりに煙草の煙だけがゆらゆら揺れてる。

「マキマさんは……まあ、色々目的があんのが分かったから。ショックっちゃショックだけど、納得は出来るっつーか」

 手元のタッパーを見下ろす。マキマさんだったやつ。もうマキマさんじゃなくなるやつ。

「でも、副隊長に関しては。一緒に居る時はマジで楽しそうだったから。なんで俺じゃだめだったんだろ、とか、あれこれ考えちまって」

「……」

「映画とか、カラオケとか、博物館とか。なのに、好きな人は別にいるって言われて。なんだよそれって、なんか、イラっとしたわけじゃねーけど、もやっはしたし」

 ぱちん。タッパーの蓋。

「はあ。付き合えるんなら付き合いたかったなあ~~……」

 言ってから、自分でちょっと笑えた。笑えたっていうか笑うしかなかった。

 マキマさんの体を解体しながらこんなこと言ってる。好きだったはずのひとをバラしてる最中に、もう一人の別の女のことを考えてる。すげー酷い男かもしれねぇ、俺。最悪だ。

「あ……」

 そういうとこ、見透かされてたのかもしれない。副隊長に。だから俺じゃだめだったんだ。

 だとしたら自業自得ってやつか。

「遺言ってのはその愚痴か」

 先生が、呆れたとも面倒くさいともつかない声で言った。

「や……今のはただ……ちょっと、思い出して」

 慌てて首を横に振る。違う。遺言はもっとちゃんとしたやつだ。副隊長がちゃんと、「これを伝えてね」って言ったやつ。

 でもなんだっけ。もっと長々あったような気がしたけど、細かいところが出てこない。順番も、言い回しも、ぐちゃぐちゃだ。

「ちょっと、頭ん中で整理します」

「そうか。なら足が終わるまでにまとめておけ。俺にもガキの恋愛相談に付き合ってられるだけの余裕があるわけじゃない」

「へーへー……」

 恋愛相談じゃねーし。遺言だって言ってんだろ。

 でもまあ、うん。確かに、今のは半分くらい愚痴だった。それは認める。


 好きな人って誰。別の日に聞いたら、副隊長はあっさり白状した。

「岸辺隊長のことだよ」

 テイクアウトのハンバーガーについてた、メロンソーダのストローを咥えたまんま。あんまりにも軽く言うもんだから、一瞬冗談かと思った。でも副隊長の目がいつもの冗談を言う時のきらきらした目じゃなかったから、多分嘘じゃなかった、と思う。

 岸辺隊長。先生……先生か。そう言われたら、それ以上追及する気にはなれなかった。

 それから何日か経って、もやもやが消えないまんま副隊長を眺めていて、ずっと引っかかっていたことがある。

 副隊長って、先生に全然ベタベタしてなくね?

 俺にはこれだけ絡んでくる癖に、映画だのカラオケだのしょっちゅう引っ張り回してくる癖に、岸辺のジジイに対してはむしろ距離がある。報告事項を伝える時はきちっと敬語だし、用がなければ自分から話しかけもしない。

 好きな相手にする態度じゃないだろ、それ。

「マジに好きなら、俺じゃなくて隊長に絡めばいーじゃんか」

 ある日の授業の合間にぽろっと言った。言ってから、ちょっと声がとげとげしかったかもしれない、と思ったけど、実際とげとげした気持ちなんだから仕方ない。

「そうはいかないよ。あの人すっごく忙しいもの」

「そうは見えねーぞ。ただの飲んだくれジジイだろ」

「そうは見えないように隊長が努力してるだけ。あんまり大人を困らせちゃめっ、ですよ」

 別に困らせたい訳じゃねぇよ。アンタが勝手に困ってるだけだろ。

 もやもやする。イライラする。自分でもこの苛立ちの正体がよく分かんなくて、んで、ふと、既視感に気がついた。

 はじめて、デートに行った時の。

 あの映画を見た時の感じに似てる。好きならさっさと好きって言って、ダメならダメで次に行けばいいのに、なんかひたすらうじうじうじうじ悩んでる。あの映画のおっさんも、目の前の副隊長も、やってることが同じだ。

「好きだってダメ元でも言ってみりゃいーじゃん。んで、ダメだったらダメだったで次行けばいいだろ」

「デンジくんってば考え方がとことんシンプルだなあ。そういう訳にはいかないんですよー、大人は」

「めんどくせーな、大人って」

「デンジくんが面倒くさくなさすぎるんだよ」

「あんな映画ばっか見てっから、めんどくさくなるんだろ」

「映画?」

 きょとんとする副隊長に、

「キミの瞳に乾杯、ってやつ」

 って言ったら、副隊長は目をぱちくりさせてから、あははははは! ってデカい声で笑った。

「ああ! ……あはは、そうだね、うん。そうかも」

「……やっぱ、俺はちゃんと好きって言った方が良いと思う。岸辺のジジイはボケてっから、副隊長に好かれてんの気付いてねーって、絶対。ちゃんと告白して、そんでダメだったら」

「だめだったら、デンジくんが面倒見てくれるの?」

 言葉の途中でそんな風に言われて、かなりどきっとした。

 だって、だって普段の軽い調子とは、全然声が違う。目がまっすぐこっちを見てて、いつもの上目遣いとか、きゅるん顔とか、そういう計算が一切なくて。

「……うん」

 小さい声で答えた。自分でもびっくりするくらい気弱な声だった。

「そっか」

 副隊長が、今度はさっきと違って少しだけ笑って、

「ならなおさらだめだよ」

「はあ!? なんで!」

「16歳の子供に負担はかけられませーん」

「ガキ扱いすんなよ!」

「扱いもなにも、子供でしょ、実際」

 子供子供って、子供だから何だよ。好きなもんは好きなんだよ。大人だろうがガキだろうが関係ねぇだろ、そんなもん。

 とは思っても、言えなかった。

 副隊長の前だと、思っても言えないことが増える。

 それからも、ツラを合わせるたびに言った。

 さっさと告白しろよ。副隊長だったらいけるって。先生だって一応人間なんだし、可愛い女に好きですって言われて嬉しくねぇ男はいねーだろ。

 何回も何回もしつこく言った。

 でも。

 今だから言えることだけど。

 そうやって何度も「告白しろ」って背中を押してるうちに、別の期待がなかったわけじゃなかった。先生に告白して、そんでダメで、そしたら俺と付き合ってくんねーかなー、って。思ったことがないって言ったら、絶対嘘になる。

 そりゃ、上手くいったらそれはそれでって感じだけど、実際のところは副隊長が先生に振られたらいいのに、って思ってた。最悪だ。自分で告白しろって言っておいて、フラれるのを待ってるって、何だよそれ。

 でも、そう思っちまったもんは仕方がない。

 それで。俺があんまりにもしつっこいから、ある日副隊長が笑いながら言った。

「もう、しつこいなあ。分かった、分かったよ。ちゃんと隊長にお話ししたらいいんでしょ?」

 その日の夕方、公安のエントランスの前で副隊長と岸辺のじいさんが同じタクシーに乗り込むのを見かけた。並んで後部座席に座って、ドアが閉まって、車が走り出して、角を曲がって見えなくなった。

 どうなったんだろうって思うと、その夜は寝つきが悪かった。嬉しいのか不安なのか分かんないまま天井を見てた。

 そんなもやもやは、翌日の朝にあらぬ方向でぶっ飛ばされることになる。

「ごめん! やっぱり怖くて言えなかった!」

 朝一で副隊長が走ってきて、開口一番にそんなことを言い出したせいだ。

「はあ!?」

 流石にちょっと、いやだいぶ、怒りそうになった。なんだよそれ。あんだけ覚悟決めた感じで出てったくせに。じゃあ昨日のタクシーはなんだったんだ。じいさんと二人きりで何してたんだよ。

 その怒りを口にする前に、副隊長が立て続けに言葉を重ねてくる。

「デンジくん。代わりにちょっと、私の我儘聞いてよ」

「はあ? 代わりに、って、なんの代わりに」

「怒んないでよう……」

「……別に、怒ってねぇよ」

 その先回りずりーって思うけど、言い返す方法を知らないから、素直にずこずこ引き下がる他はない。場所を仮眠室に変えて、二人でひそひそ話し込む。

「あのね。怖いって、なにも……岸辺隊長に振られることが怖いんじゃないんだよ」

 そう打ち明けた副隊長の顔は、打って変わって真面目な顔だった。副隊長がこんな顔するのを、多分、初めて見た。

「あのさ、デンジくん。私の内臓が悪魔との契約のせいでボロボロなのは知ってるよね」

 それは知ってる。ちゃんと、嫌になるくらい、知ってる。いつもポケットに飴とかグミとか入れてて、ちょこちょこ食ってて。あれが単なる食いしん坊じゃなくて体を維持するために必要な行為だってのは、前にマキマさんから聞いた。

「ただでさえ、デビルハンターなんてやってるんだし。自分が長生きできるとは思ってないと、いうか。なんならここ数年の間に死んじゃうと思うんだ」

「そんなこと」

「あるよ」

 あっさり言い切った。あっさりだけど声が微かに震えてるのが分かったのは、たぶん、俺がここまで副隊長の声を散々聞いてきたからだ。

「逆にさ。私がこの先何十年も生き残ってるとこ、想像できる? 他の強い先輩も、最近ばたばた死んでってるのに」

 謂れて初めて、少し想像した。副隊長が三十歳になって、四十歳になって、五十歳になって白髪とか生えて、皺が増えて、でも相変わらずへらへら笑ってる姿。歳食っておばさんになった副隊長を、想像、しようとした。

 出来なかった。

 頭ん中の副隊長は、いつまでも子供みたいな顔したまんまだ。でも。でも、そんなら。

「俺が守るから死なねぇよ」

 口をついて出た言葉に、副隊長はおっきい声で笑った。

「慰めでも嬉しいよ。ありがとう」

 息を整えて、副隊長は少しだけ声を落とす。

 慰めなんかじゃねえよ。

「でも、現実的な話としてさ。あのひと、これまでにも色んな別れを体験してて、擦り切れちゃってるだろうから。もし付き合えたとしても、それで私がすぐに死んで……それで、万が一にも先生にまた傷がつくような事があったら、やなの」

 その理屈は分かんねぇでもない。分かんねぇでもないけど、でもさ。

 べつに、もっと自分勝手に生きればいいじゃんか。

 好きなら好きって言えばいい。傷つくとか傷つかないとかは相手が決めることで、副隊長が先回りして諦めることじゃねぇだろ。また映画のあいつと同じだ。好きなもん諦めて、自分はひとりで残って、それで何がしたいんだよ。かっこつけてるだけじゃねぇか。

 でも、だから、つまり——

「だから、デンジくんに一個頼み事」

 ぱちんと破裂音がして、思考が中断される。副隊長が、両手を合わせた音だ。お願いのポーズ。いつものおねだりする時の仕草。でもいつもと違って、きゅるん顔は作ってなかった。

「私の遺言、預かってよ」

「……遺言?」

「そう。だってデンジくん、不死身でしょ? キミに頼んだら、きっと絶対届くよね。岸辺隊長に」

「……俺と副隊長より先に、ジジイの方が死ぬかもしんねーぞ」

「あはは! それはないよ!」

「んなことなんで分かんだよ」

 副隊長が目を細めた。見るからに、面白がってるような顔で。

「先生だって、デンジ君と同じくらい、不死身だもん」


うん、うん……えへへ。本当、どこから言えばいいんだろ。

 ええと。こんなことを言うのは、アレなんですけど——……えーっと……ああ、もう、私めっちゃこういう話するの下手っぴだな。知らなかった。

 ……こほん。

 なんていうか、多分。

 私が死んだ後になって、色々と話を聞かされて。全部の真実を知ったら、きっとびっくりしますよね。

 自分でもずるいなあと思います。何の責任も取らなくていい立場になってから、初めて心の内を打ち明けるだなんて。あなたはダウナーな感じだけど、でも根っこは真っすぐで熱い人だから、たぶん、めっちゃ怒られるんだろうなー、と思ってます。

 でも死んだ後の話だから無効!やったね!

 ……ごめんごめん、真面目に話すから怒らないでよ、うん。……ほんと、ほんとに。

 そうだね。

 私たちの仲であれば下手に包み隠すこともないと思うので、率直なことを言わせてもらいます。

 私はあなたのことが好きです。

 大好きで大好きで、本当に……あなたのことを考えると、どうして私はこんな身体なんだろうって、後悔しちゃうくらいには、好きです。

 本当ならあなたと一緒に長生きをして、あなたと一緒に生きたかった。でも仕方ありません。だって、私がデビルハンターになって居なくて、公安で働いて居なかったら、そもそも出会うこともなかっただろうから。

 ……。

 ……ふふ。それにね。そもそも私の体が健康だったとしたって——もしもふたりがデビルハンターじゃなくて、普通に働いてる、普通の人間だったとしたって……私たちが付き合うことは、なかったと思うんです。だってそうでしょ?

 私たちは上司と部下で、先生と教え子で、大人と子供で……恋人というには、あまりに歳が離れすぎていますから。

 だから恨み事は言いません。

 短い間でも、あなたと一緒に過ごせて、私は幸せでした。

 最後に。あなたは優しい人だから、もしかしたら、すごく傷つくかもしれないけれど……もしかしたら、私のことを、すっごくすっごく嫌いになっちゃうかもしれないけど……でも、死んだ女のことだと思って、どうか許してください。

 その償いになるかは分からないけれど、私はあなたのことを、黄泉の国でもずっとずっと好きなまままでいます。

 その事実だけ覚えてくれていたら、私はきっといつまでだって幸福です。

……。

……ふふ。さて、ここまで私にこっぱずかしいこと言わせたんだもん。ちゃんと全部、覚えた?

 忘れないで岸辺先生の前で言えるよう、頭の中に叩き込んだ?

 忘れたら、私ぜったいデンジくんのこと許してあげないからね。


 一から十まで全部話した。

 遺言の内容も。副隊長がどんな顔で、どんな声で、それを俺に託したかも。出来るだけ正確に、言い回しも順番も頭の中に残ってる通りに。さすがに一字一句は無理だったけど、でも大事なところは覚えてた。多分、最後の最後にあの泣き笑いの顔で釘を刺されたのが効いてたんだろう。

 先生は黙って聞いてた。ずっと何にも言わねぇからマジに聞いてんのか不安だったけど、でも俺が話してる間だけは煙草を吸う手が止まってたから、先生は先生なりに真面目に聞いてたんだろう。

 全部話し終わった後、先生は死ぬほど微妙な顔をしていた。先生があんな顔するのを、初めて見た。 それで一言、

「そうか」

 とだけ返事をされて、それからはお互いに一切何もしゃべらなかった。

 当然だ。こんな話を長々としてる状況じゃなかったから。ぱちん、ぱちん、とタッパーの蓋が閉まる音だけが続いて、換気扇だけが回り続けて、蛍光灯の下でマキマさんだったものがどんどん小さくなっていって。それ以上のことは、何もなかった。


 マキマさんから引き取った犬の世話に毎日疲れてる。

 だって一匹や二匹じゃない。飯やるのも散歩させるのも、全部ひとりでやらなきゃなんない。犬ってのは可愛いけど、可愛いのと世話が楽なのは全然別の話だ。朝起きて飯やって散歩して、昼にまた飯やって、夕方にまた散歩して、夜にまた飯やって。合間にうんこ拾って、毛が抜けたのを掃除して、じゃれついてくるのをひたすら相手して。それだけで一日が終わる。吐くほど疲れる。

 でも、マキマさんが大事にしてた犬だから、見捨てることなんて出来ねぇし。

 その日もヘロヘロになって犬に飯を配り終えた後に、玄関のチャイムが鳴った。出たらジジイが立ってた。手ぶらで。

「……なんスか」

「入るぞ」

 入るぞって、もっとこう、挨拶とかあんだろ、人の家に来たんだったらよ。ジジイは気にする様子もなく、脱いだ靴をちゃんと揃えもしないでリビングに入ってきた。犬が何匹か寄ってきてジジイの足元を嗅ぎ回ったけど、気にも止めない。

「言い忘れていたことがあった」

 先生が切り出した。

「あの夜に、お前にされた与太話について」

「与太……? なんか話しましたっけ」

「副隊長の件で」

「ああ……」

 その件か。

 正直、あの夜のことはあんまり思い出したくなかった。振り返ってみれば相当イカれた夜だった。思い出すと胃の辺りがむかむかする。犬の世話で忙しかったおかげで、ここ数日はあんまり考えずに済んでたのに。

「でも、いまさら何を話すことがあるんスか……副隊長の遺言は全部伝えたし」

「一度割り切った話がしたいとか何とかで、飯に呼び出されたことがあったのを思い出してな」

「あー……。……で、なんですか。実はコクられてたの思い出したとか?」

「俺の話じゃない。お前の話だ」

「はあ? 俺? なんで俺の話?」

「お前が俺にそうだったように、俺もお前に伝言がある」

 意味わかんねぇ。先生は煙草の煙を細く吐き出して、足元に擦り寄ってきた犬の頭を……あ、撫でた。この人、犬とか撫でんだな。

「……肉を全部処理し終わった後だからこそ言えることだが、お前はつくづく女運がないな」

「は? だからなんなんスかそれ、はっきりしたこと言ってくださいよ」

「要するに、俺もお前も、女にいいように振り回されてるってことだよ」

 ふう、と先生が長い息を吐いた。煙草の煙と一緒に、重たい何かを吐き出すみたいに。それから犬の頭から手を離して、まっすぐ俺を見た。

「あのな。一緒に飯に行った日に、あいつにこう言われた。『私が死んだ後、デンジくんが律儀に何かを言いに来たら、一言こう突き返してやってください』ってな。……あいつに託されたのは、この一言だけだ」


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