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 連休前、後輩のデンジくんがどこにも行く予定がないというから、

「それなら私の日帰り旅行についてくる?」

 なんて半ば冗談のつもりで聞いてみたら、

「俺が付いてっていーなら」

 と、なんともあっさりした返事が返ってきた。

 まさかこんな社交辞令に本気で首を縦にふるとは……とは思ったけれど、少し顔に期待をにじませた少年相手を「ごめん、やっぱり冗談なの」と突き放すことも出来ず、そういう顛末でなんとも微妙な関係性の男の子と二人、私はいま、日光に向かう国道四号線を運転している。

 ペーパードライバー御用達のしらじらしいくらい白い軽自動車に二人で乗り込む。本当はもう少し見栄えのする車を借りたかったのだけど、これでも朝イチで意地になって押さえたものだから贅沢は言えない。一人旅ならいざ知らず、相手が子供(と言っていいのか分からないけれど、十六歳である以上やっぱり子供だと思う)となると、流石にバスや電車を乗り継がせるのは気が引けて、慌ててレンタカーのお店に駆け込んだ次第なのだった。

 ハンドルに乗せた両手は、しらじらしいくらいきっちり十時十分。教習所で習った通り。仕事で運転をしないわけではない。たまにある、というか、ある時はある。だけど普段の私はもう完全なるペーパードライバーなので、こうして高速を使わずだらだら下道を走りながら、内心ではけっこう冷や汗をかいていたりもする。

 助手席のデンジくんは出発してからしばらくは物珍しそうにあちこちきょろきょろしていたものの、東京を抜けて景色が田んぼばかりになる頃にはすっかり退屈そうになって、両足を投げ出して頬杖をついていた。眼帯をしている方の右目を窓に向けて、見えている方の左目で外をぼんやり眺めて、それすら飽きてきたらしい。


 正直なところを言うと、私はあまり、この子のことを詳しく知らない。

 最近ナユタさんが連れて来た血の魔人ちゃん(つまりはパワーちゃん)絡みの子、というくらいで、まだお互いのことを多くは話していない。ただ、デンジくんは出会った時から眼帯をしていて、最初は何かの悪魔と契約しているのかと思っていたのだけど、風の噂によるとどうもそうではないらしい。ヤクザの借金がどうとか、臓器売買をしてどうとか、刺されて死にかけているところをナユタさんが拾ったとか。(それってどんなシチュエーション?)

 とはいえ、詳しい所は知らないにしても、そういう噂が立つくらいだから、あまり幸福な幼少期を過ごしてこなかったらしいということだけは確からしい。


 だからまあ、なんやかんやで諸々の費用を負担してまで彼を旅行に連れ出したのは、私の一種の親心みたいなものだったのかもしれない。親というには歳が近いような気もするけれど……なんだろう、姉心? いやそれもなんか違うか。

 とにかく、そういうおぼつかない感情なのだった。

 本当はパワーちゃんも一緒に連れて来たかったのだけど、彼女は上から許可が出ないかぎりは遠方への外出が許されないらしくて、三人仲良し旅行は叶わなかった。残念。沢山お土産を買って帰るからそれで手打ちにしてほしい。


「ニッコーになにしに行くの」

 ぼんやりした声でデンジくんが言うので、

「東照宮を見に行くんだよ。知ってる? 見ざる聞かざる言わざる、って」

 と返した。デンジくんはハンドルから視線を逸らさない私を一瞥して「しらねー、初めて聞いた」とだけ言う。

「小学生の時、修学旅行で行かなかった?」

「おー、俺学校行ったことねーもん」

 デンジくんは特に何かを思っているふうでもなく、相変わらず頬杖をついて窓の外を眺めている。別に同情してほしくて言ったわけでもないのだろう、事実を事実として答えただけで。それを勝手に重く受け取って、勝手にこちらの胸を痛めて、勝手にハンドル捌きを下手にしているのは、私の落ち度なのだった。

 短い沈黙のあとで、できるだけ何でもない声で、

「じゃあ、今日は沢山思い出を作ろうね」

 と、私も簡潔な返事を心掛けた。


 日光の駐車場に車を停めた頃にはもうお昼時に近かった。

 連休のせいか観光客が多くて、私とデンジくんは二人並んで参道をだらだら上っていく。背の高い杉並木の隙間から斜めに差し込む光が、地面に細い縞模様を作っていて、空気はひんやりして、どこかに線香のような匂いがして。妙にノスタルジックな気持ちになる。

 東照宮の入り口の手前、お土産物屋が並ぶ通りに差し掛かったところで、デンジくんが急に立ち止まった。眼帯のない方の左目でじっと何かを見つめている。

 視線の先を辿ると、店先で湯気を立てているお饅頭。

「お饅頭、東照宮の目の前で売ってるってことは名物なのかな。買ってく?」

「あ……でも俺、そこまで金持ってきてねーし」

 と意外にも遠慮するから、

「いいよ、私が驕るよ。二人で食べよう」

 とわざとらしく明るく笑って見せた。

 デンジくんは曖昧に頷いて、それでも目はずっとお饅頭を追っている。

 お饅頭を二つ買って、東照宮の参拝券売り場に並ぶ列を遠目に眺めながら、参道脇のベンチに腰を下ろす。

 手のひらに乗せた饅頭は思っていたよりずっとずしっと重い。さっきまで蒸籠の中にあったみたいで、皮が湯気で湿っていて、あんこがじんわり染み出している感じが、なんとも好ましかった。

「おいしいね」

「ん、まい。買ってくれてありがと」

「お礼なんて結構ですよ」

 眼帯で目の見えないデンジくんの右の横顔をこっそり盗み見る。

「あのねデンジくん。日光は、湯葉がおいしいんだよ」

「ほーん、ゆば」

「あと、苺も有名なの。ちょっと時期には遅いけど、そっちも食べに行こうね」

「そんなに入るか分かんねーけど、うん」

「入らなくても食べてもらうもんね~」

「ええ?」

 デンジくんが眉を寄せて子供そのままの不満顔をする。年相応の顔をしているのが可愛らしいなあとぼんやり思った。


 それから、東照宮を二人で見て回った。三猿を見て、眠り猫を見て、

「なんか、これが名物なんだよ」

「なんで? ただの彫刻じゃん」

「なんでだろ」

「こんなぼろい彫刻見に皆集まってくんだから、案外大人って暇だよな」

「や、東照宮の名物は、これだけじゃないんですよ……多分!」

 みたいな、二人して教養のかけらもない会話を何度か繰り返して、観光客の波に揉まれて、写真もぱしゃぱしゃ撮った。

 確かに小学生の時の私を思い返してみると、修学旅行の大半は友人との会話やじゃれ合いの楽しさが大半を占めていて、観光そのものへの感慨はほとんどなかったような気がする。小学生ほどではないにしたって、学生が日光なんて渋い観光地を心の底から楽しめるはずもない。

 それでも、売店で買った使い捨てカメラの小さなファインダーの中、東照宮の朱色を背景にしたデンジくんが収まっているのを見たら、勝手に私だけ嬉しかった。


 お昼は参道沿いの湯葉料理屋に入った。

 飛び込みで入ったわりには空いていて、案内されたのは小上がりの席。座布団がへたっていて、卓も低くて、観光地の小さなお店のいかにもな雰囲気に少しだけときめく。これこれ、国内旅行って、こうだよね。

 でも、なんだかそれって、ある程度旅行に慣れている私だからこその感情な気もして。

「……あの、デンジくん」

「ん、次はなんだよ」

 運ばれてきた湯葉をおかずにお米をがっついていたデンジくんが、左目だけで私を見上げた。

「なんかちょっと、ごめんだったかも」

「ああ? なんで」

「やー、さ。名物だからって、問答無用で意見を聞かずにつれてきちゃったけど」

 少しだけ、言葉がもつれた。

「高校生くらいの男の子とご飯に来てるのに、湯葉っていうのは、違ったかも。これじゃテンション上がらないよねって、ちゃんと料理見たら思って」

 肩をすぼめながら言うとデンジくんは箸を止めて、不思議そうな顔でこちらを見て、

「なんでだよ、これだってうめーじゃん」

 とあどけなく笑った。なんだか心臓がぎゅう、ってなるような笑顔だった。

「そうかなぁ。もっとこう、別の選択肢もあったかなって思っちゃって。……あ、追加で揚げ物とか頼む? なんでも好きなの食べていいよ?」

「いいって、ここじゃこれが有名なんだろ。ならそれ食わねーと勿体ないじゃん」

「それはそうなんだけど……」

「あ、でも、頼んでいいなら揚げ物は食いたい」

「わ! もちろんもちろん」

 慌てて店員さんを呼んで、メニューにあった天ぷらの盛り合わせと、唐揚げと、ついでにご飯のおかわりを頼む。デンジくんは満足げに「やった」と呟いて、湯葉のお刺身に醤油をたっぷり付けて口に運んでいる。それを眺めながら自分のお椀のお吸い物にそっと口をつけた。湯葉の薄い欠片が、舌の上でほろりと崩れて、出汁の味だけがあとに残る。美味しいけど、大人の味だなって思う。少なくとも、私が16歳だったら、ちょっとテンションが下がってる味だ。

 そんな内心の後ろめたさが透けていたのだろうか。湯葉のあんかけを箸でつついていたデンジくんが、ふいに、

「あと、これはお節介かもしんねーけどさ」

 と唐突な前置きをした。なあに、と聞き返したあと、今度はデンジくんの方が気まずそうに視線を泳がせる。

「アンタのその気を使いすぎるやつ、クセ?」

「……およ?」

「だってさっきから何回も、これでよかったかなー、つまんなくないかなーって顔してんじゃん。飯がどうとか、つまんねーとか、別に俺なんも言ってねーのにさ」

「あ……それは、ごめん」

「だから、そのすぐ謝る所とかも。俺と居る時はもっと気楽でいーって。つーかそうやってやたら気ィ使って顔色見られてる方が疲れるし。これだって、俺が勝手について来てるだけだし」

「わ……」

 見透かされていることに今更気付いて、わたしは情けなくおどけた声で、

「やだー、デンジくん、私のことよく見てるんだから」

 と笑ってみせた。

 子供だと思っていたのに、こういうところを見ると全然子供じゃない。むしろ私のほうが、ずっと、子供じみている。

 でもやっぱり、次一緒にご飯に行くときは、もっとテンションが上がるような場所に連れて行きたいなあと思う。焼き肉とか、お寿司とか、あとはステーキ屋さんとか。

「それで、デンジくん」

 お吸い物のお椀をそっと卓の上に戻す。湯葉の薄い欠片がふわりと揺れて湯気が立ち上って、卓の縁に小さな水滴がついた。

「ん?」

「これは飛び込みだから空きがあるか分かんないけど、このあと、二人でいちご狩り行こうよ」

「いちご狩り?」

「そう、ここは苺も有名から。五月だとそろそろ時期は終わりかけだけど、まだやってる農園もあるはずだから……」

「いーよ、なんでも」

 あれこれ説明しすぎる癖は私にはないはずだけれど、デンジくんの前だとどうにも言葉が多くなる。


 お会計を済ませて、お店を出てすぐの観光案内所に駆け込んだ。

 パンフレットの棚から、いちご狩りができる農園のチラシを片端から手に取って、その中に書かれている連絡先に順番にかけていく。最近買ったばかりの携帯電話は未だに操作が不慣れなので、たくさん時間をかけながら。

「もしもし、お忙しいところすみません、いちご狩りのご予約をお願いしたいんですが、本日って——あ、そうですよね、すみません、ありがとうございます」

 受話器を置いて、また次。

「もしもし、本日のいちご狩り、空きは……ああ、ですよね……いえ、ありがとうございます」

 また次、そして、また次。

 受話器の向こうの「申し訳ございません」がだんだんパターン化してきて、こちらもすっかり「いえ、ありがとうございます」のお礼を言うのが板についてくる。


 いま掛けているこのチラシで五件目。……険しいけど、あと数件は残っているし。パンフレットの山と格闘する私の隣に、デンジくんがふらりとやって来た。私が膝の上に広げた紙の束をひょいと覗き込んで不思議そうな顔をした。

「そんなに苺にこだわることねぇんじゃねぇの。別に、東京帰っても苺くらい買えるだろ」

「それじゃ、だめなんだよ。苺を買って食べるのと、いちご狩りで苺を食べるのじゃ、まったく話が別なんだよ」

「……どこが」

「こればっかりは、実際にいちご狩りをしてみないと分かんないと思う。全部ちがうの。味とか、雰囲気とか」

 力説しているうちに、ふと自分でも分からなくなる。

 別にいちご狩りなんて私だってここ十年くらい縁がなかったはずなのだ。畑の真ん中で苺を摘む経験。子どもの頃に一度くらいはあったかもしれないけど、もう記憶も曖昧で、たぶん家族で行ったやつ。お父さんが、練乳のトレイに山が出来るくらい沢山苺を食べて、私はその半分も食べられなくて、それでも家族が「███ちゃんは美味しい苺を探すのが上手だねぇ」って大袈裟に褒めてくれて、帰りの車の中で苺の匂いがずっとしていて——

「とにかく、苺は譲れないの」

 デンジくんの呆れ顔を視界の端に置いたまま、私は次のチラシの番号を慣れない指でぽちぽちと押していく。家の電話みたいに見ればすぐ番号が分かる仕組みじゃないし、押し間違えても訂正の仕方が分かりづらいし、画面がちっちゃいくせに肝心な時に光らないし。「これ持ってないと連絡つかねぇから」と先輩に半ば押し付けられるように契約させられたものの、いまだに私は、これと公衆電話のどっちが便利かと聞かれたら、迷わず公衆電話と答えるタイプの人間なのである。

 それでもめげずに総当たりしたけれど、結局結果は芳しくなかった。どこかの農場のおばあさんが

『あー……今日は、もう全部のお客さん入っちゃったんですよぅ。ごめんなさいねえ、明日なら空きがあるんですけどね』

 と言ってくれたくらいだ。

 今日は日帰りのつもりで来ている。明日は明日で、別段予定があった訳ではないけれど、でも……。

「……えっと」

 受話器の向こうのおばあさんに「すみません、ちょっとだけお待ちいただけますか」と断って、携帯の口元を手でふさぐ。


「デンジくん、あのさ」

「ん?」

「……今日、泊まりにしてもいい?」

 あまり悩まずにそう言ってから、自分でちょっと驚いた。デンジくんは、相変わらずぼんやりした左目で私を見ている。

「別にいいけど、なんでそんなにいちご狩りしてーの?」

「私がしたいっていうより……」

 言葉を選ぼうとして、選びきれなくて、

「なんか、デンジくんのこと、ぜったいぜったい連れて行きたくて」

 と、選ばないまま、口をついて出る。

「……俺を? なおさら、なんで」

 なんでと言われても困る。

 私だって、なんで、って訊かれたら、何もうまく説明できる気がしないのだった。

「なんか、なんでだろ。分かんないけど」

 いずれにしたってデンジくんが泊りを拒まないなら答えは決まっている。

「あ、すみません、お待たせしました。じゃあ、明日でお願いします。二名で——」


 明日の十時から。とちおとめ。時間は三十分で、お持ち帰りは別料金。場所はかくかくしかじか。

 メモも何も持ってきていなかったから、観光案内所の隅に置かれていた紙の切れ端と鉛筆を慌てて借りて住所を走り書きする。

 電話を切って一息ついてからデンジくんの方を振り返ると、彼は所在なさげに観光案内所の壁際に立って、近所の和菓子屋さんのチラシを意味もなくぱらぱらめくっていた。食べたいのかな。ちょっと気になるけど、いちいちそんなの聞き出してたら、過干渉な親みたいでうざいかもしれない。


 それから先はわりと忙しかった。観光案内所のお姉さんに頭を下げて、飛び込みで泊まれそうな旅館をいくつか紹介してもらって、それぞれに片端から電話をかけて。連休のど真ん中に当日予約なんて無謀もいいところで、断られて、断られて、五件目でやっと「お部屋ひとつだけなら……」という返事が貰えた。築年数はそれなりに重ねてそうな家族経営のこぢんまりした旅館だけど、借りられるだけでとってもありがたい。

 それからレンタカーのお店にも電話を入れて、返却が一日延びる旨を平謝りしながら伝えて。


 チェックインまでは時間があるからそれまでの間どう過ごそうかと二人で観光案内所のテーブルにパンフレットを広げる。

「日光江戸村はね、歴史上の人物の仮装とかも出来て面白いんだよ。お侍さんとか、忍者とかになって写真撮れたりするの」

「ほーん」

「東武ワールドスクウェアってところはいったことないけど……ミニチュアだって、なんか楽しそう」

「ふーん……」

「どっちがいい?」

「アンタが行きたい方にしよーぜ。俺、どれがどうとか分かんないし」

 デンジくんは頬杖をついて、開きっぱなしのパンフレットを爪先でつついている。

「そっか。……じゃあさじゃあさ、今日はワールドスクウェア行って、明日はいちご狩りした後に、江戸村に行こう? 行けるところは、全部一緒に行こうね」

 と言うと、デンジくんは少しだけ目を細めて、

「全部って、すげぇ無理してねぇ?」

「無理してないよ。私が行きたいの」

 メモ帳に予定を書きつけながら、頭の中では、あちこちの引き出しが勝手にがたがた開いていた。

 デンジくんに、色んなものを見て欲しいなぁと思った。

 鴨川に行ってシャチを見せたい。イルカのくじ、二人で引きたい。ぶりのカマが美味しいお店を私は知っているし、冬になったらまた誘えばいいかな。長野に星を見に行くのもいい。あの辺りは夏でも夜が冷えるから上着が要るってちゃんと教えてあげなきゃ。五平餅も食べさせたい。都内も、面白い場所をたくさん知ってるよ。田園調布に私の行きつけの標本屋さんがあるから、そこにも連れて行きたい。海外だったら、一番最初は台湾かベトナムがいい。フォーを食べさせたい。私はエスニックが好きだから、デンジくんにもそれを気に入って欲しかった。デンジくんは、パクチーを食べられるだろうか。

 もしかしたらデンジくんは、私が連れて行きたい場所の半分くらい、そんなに面白い顔をしないかもしれない。でもそれでもよかった。なんでも見て、なんでも経験して、色んな可能性を知ってほしい。こっちが勝手に背負って、勝手に連れ回したかった。



「デンジくん、こっち向いて」

「あー?」

「はい、ピース」

「だる」

「いいから〜」

 しぶしぶ、というふうにピースをするデンジくんを、ミニチュアのコロッセオを背景にして撮る。

 二つも買ったはずの使い捨てカメラのフィルムがもうほとんど残っていないことに気付いてちょっと焦った。明日、新しいのを買わないといけない。


 全部があっという間の時間だった。湯葉を食べているときにあんなに不安な気持ちになったのが、随分昔のことみたいに感じられるくらいに。


 ロビーで宿帳を書いて、お茶を出してもらって、お饅頭を一個ずつ貰って、ようやく一息ついて。

 そうしてお部屋の鍵を渡される段になって、女将さんが少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

「あの、当日のご予約ですので、大変恐縮ですが、お部屋がひとつしかご用意できなくて……それで、よろしかったでしょうか?」

「あ、はい、大丈夫です。電話の時に伺ってますので」

 それを聞いた隣のデンジくんが、ぴくり、と小さく肩を動かしたのを、私は横目で捉えてしまった。


 廊下を歩きながら、今度はデンジくんが私の顔色を窺っている。

「なあ」

「なあに?」

「さっき、部屋ひとつって言ってたけど」

「うん」

「オレ達二人っきりで……えっと、だから、一緒に寝る、ってこと?」

「そうだよ、流石にお布団は別だけど。……やっぱり嫌だった?」

 こればかりはもう決まっていることだし、聞いてもどうにもならないけれど。

 デンジくんは、ちょっと視線を泳がせて、それから、

「嫌……じゃ、ないです」

 と何故だか敬語にで答えるから、あんまり初々しくて笑ってしまう。

「そっか……でも本当に、無理はしなくていいからね。嫌だったら私は車中泊とかにするし……」

「嫌じゃねぇって!」

「わ……あはは、ならよかった」

 ちょっと声が大きくなったデンジくんに、案内をしてくれていた女将さんが振り返って、何ごとかというふうに微笑む。私は慌てて女将さんに「すみません」とお辞儀をして、デンジくんの背中を軽く押してまた歩き出す。


 ぱたぱたと部屋に上がり込んで、押入れを開けて布団を確認したり、お茶セットを覗いたり、観光客の素人っぽい挙動でひとしきりはしゃいでから、畳の上にぺたんと寝っ転がった。

 デンジくんは割合冷静に荷物を整理していて、これではどちらが連れてきてもらった子供なのか分からない。

「でもちょっとだけ疲れたね。東照宮でもワールドスクウェアでも、沢山歩いたから」

「そうか? 普段の仕事の方が疲れるだろ」

「それとこれとは別だよぅ」

 仰向けで天井を眺める。木組みの梁が見えて、蛍光灯のカバーがちょっとだけ斜めに掛かっていて、ああ古いけど落ち着くなあ。

 デンジくんは所在なさげに座布団の上に正座をしている。普段のだらしない姿勢のデンジくんしか見ていないから、なんか、変な感じだ。

「夕飯まで時間あるね。……私はね、温泉も好きなんだー。今から入ってきちゃうけど、デンジくんはどうする?」

「俺は……風呂はいいや。部屋のシャワーだけ浴びる」

「んえ。なんで? せっかくの温泉なのに」

「なんか、風呂だと他の野郎とかとも鉢合わせるの、やだし」

 ふぅん、と相槌を打ちながら、頭の中でぐるぐると考える。

「ここ、温泉なのに、ちょっともったいない気はするけど」

「その分アンタがゆっくり入ってくればいいじゃん」

「んー……」

 返事を曖昧にとどめて、パンフレットをめくり直す。あった。家族風呂、貸切、二時間二千円。檜のお風呂で、二人くらいなら充分ゆったり入れる広さのこぢんまりとした写真。たぶん、大衆風呂が苦手な人とか、足の悪いお年寄りとか、そういう人への配慮で用意されているやつかな。

「なら、これ借りるのはどう? お願いしたら誰でも使えるんだって」

「や、そこまでしなくても……」

「私が入ってほしいんだもん、デンジくんに」

「……なんで」

「なんか、なんとなく。……なんでだろうね?」

 なんでだろう。なんで苺なのか、なんで泊まりなのか、なんでデンジくんなのか、なんで温泉なのか。はっきりとした答えはない気がするけど。

「……なんなら、一緒にお風呂に入る?」

 デンジくんは、しばらく、何も言わなかった。ただ部屋の畳の目をじっと、じっと視線で追っている。私もそれを見ていた。見ながら心臓がちょっとだけ変な打ち方をしているのを感じていた。

「……アンタが、気にしねーなら」


[newpage]


 デンジくんは終始口数が少なくて、私は反対に、なんでもないふうを装うために却ってよくしゃべっていた。檜のお風呂は珍しいんだよとか、二時間借りれるからゆっくり浸かれるねとか、上がったらお水飲もうねとか。

「デンジくん、自分で脱げる?」

 からかうような声でわざと首を傾げて、

「脱がせようか」

 なんて聞く。意地悪かもって自分でもわかっているけど。

「お願い、します」

「うん。じゃあ、失礼します」

 声を不自然じゃない程度に明るく整えて、デンジくんの正面に屈んだ。彼のシャツの裾に手を伸ばす。指先がちょっとだけ震えていたのは気のせい。

 Tシャツの裾を持ち上げて頭を抜くときに、デンジくんがちょっとだけ屈んでくれた。金髪が静電気でぱさっと跳ねて、どうせシャワーを浴びるのだからどっちだっていいはずなのに、直さないとなんだか落ち着かなくて、指先で軽く撫でてやる。

 肋骨の下あたりに定規で線を引いたみたいに真っ直ぐな傷があった。明らかに刃物で切られた跡が皮膚を引きつらせて治っている所。お腹のおへその少し脇にも縫合の跡がうっすら残っているのが見える、たぶん手術跡かな。腕の内側の肘の少し上のところには、火傷のあとみたいな、肌の色が違うつるりとした部分。

 ぱっと見では分からない傷だ。遠目に見たら分からないような。

 でも近くでこうやって、しゃがんでまじまじと見れば見るほど、その小さな傷の一つ一つが、目に染みるみたいに、くっきりと、見えてしまうのだった。

「デンジくんはまだ子供なのに、苦労してるんだねぇ」

「……んなことねぇよ」

「ありますよ、とっても」

 ベルトに手を掛けようとして、ふと指が止まる。

 ……ここから先は、流石に、いいかもしれない。どうしようかなぁと立ち上がりかけたところで、

「……よかったら、今度、逆、やりましょーか……」

「……、……逆?」

「俺、が、ぬがせましょう、か」

 なんて声が降って来たから、そこから先はお言葉に甘えることにした。

「あははっ。じゃあ、うん、お願いしようかな」

 立ち上がってデンジくんの前に立つ。私の方が背がうんと低いので、見上げる形で。デンジくんはしばらく自分の指先と私の服のあいだを行ったり来たりさせて、それから、たぶん覚悟を決めたような顔をして、シャツのボタンに手を伸ばしてきた。

 指運びがものすごくぎこちない。

 最初のボタンを外すのに、たぶん十秒くらいかかった。次の一つも、その次の一つも同じくらい。私はじっとそれを見て、でもやっぱり見ているのも気まずくて、視線を脱衣場の天井のあたりに逃してじっとしていた。


 檜の縁にお湯をひと掬いかけて温度を確かめてから、先にかけ湯をして洗い場の小さな椅子に座る。デンジくんはまだ脱衣場との境目あたりでタオルを腰に巻いてもじもじしていたから、

「先に頭、洗ってあげる」

 と声をかけて手招きをした。

 彼は観念したみたいな顔でぺたぺたと近付いてきて、私の前の床に直接座り込む。子供みたいに両膝を抱えて。なんだかいじらしい。かわいい。

 備え付けのシャンプーを手のひらに出して、温度を確かめたシャワーで彼の頭をひと通り濡らして。デンジくんの髪は、思っていたよりずっと細かった。陽に焼けてぱさついているようで、根本のあたりはふわふわで、子犬みたいな手触り。

「ぎゃくも、やります」

「ふふ……デンジくんって、緊張すると敬語になるの?」

「なんか……どんな喋り方していいか、分かんなくて」

「ふつうでいいよ、ふつうで」

 普通が何かっていうのは私もあんまりよく分かってないけど。


 檜の浴槽は、家族風呂というだけあって親子三人くらいなら余裕で入れそうな大きさだったけれど、なんとなく距離を取って入るのは寂しいような気がした。気恥ずかしそうなデンジくんを先に入れて、私はその足の間にすっぽり体を埋めた。

 堅いお腹と背中がくっつく。お湯がふたりぶんの体の沈み込みでちゃぷんと縁を超えそうになって、けれどぎりぎり超えなかった。お湯の中で、彼の方は、たぶん、いろいろ、それなりに元気だってことが背中越しの感触で伝わってくるけれど、仕方ない。年ごとの男の子が、年上の女と一緒のお湯につかって、平常心でいろという方が無理なのだ。

「あのね、デンジくん」

「……うす」

「日光ね……昔、家族で来たことがあるんだ」

 たぶん私が小学生か、それくらいの時。東照宮に行って、おまんじゅう食べて、湯葉も食べて。

 あれ、ぜんぶ今日と一緒だな。言ってから、自分でちょっと笑った。

「いちご狩りに行ったの。ちょうど、明日と同じ農園じゃないけど、たぶん、似たような感じのところ。お姉ちゃんがすごく沢山採って、私はその半分も採れなくて、でもみんなで美味しいねえって食べて」

 お湯の中で自分の指先がふやけているのをぼんやり眺めながら、さして面白くもない昔話を聞かせる。

 うちの家族は、そこからいつの間にやらばらばらになった。何が原因だったのか、未だに私は半分くらいしか分かっていない。子供のころのわたしはまさかその後の自分の人生がこんな風になるとは思っていなかったということだけはたしか。

 言い終わって頭上のデンジくんを見ると、彼はあんぐりとまではいかないけれど、なんとも形容しがたい困ったような顔をしていた。

「な、なんでその話、今するんすか……」

 また敬語に戻っているのも、なんだかおかしくって、私はますます笑う。

「なんかデンジくんが元気だから、重い話でもして萎えさせようかなあと」

「……、っすか」

「えっちな雰囲気がよかった?」

「……す」

「あはは、すなお! ……ね、デンジくん。明日も沢山遊ぼうね」

「……うす」

「……。……ねぇ」

「なん、すか」

「今の私っていじわるかな?」

「……わかんねぇ、です。……すげー、えっちなことしてー気持ちはあるけど、なんか別に、これだけでも全然美味しい思いはしてるし、これはこれでって気もする……っす」

「あっはははは!」

 ぽちゃん、お湯の縁に私の指先からしずくが落ちた。

 デンジくんはしばらくこちらを見ていた。何かを言いたそうにして、でも結局何も言わなかった。


 お風呂を上がって、髪を乾かして、用意されていた浴衣に着替えて、お部屋に戻ってきたら、ちょうどお膳が運ばれてくるところだった。

 仲居のおばさんがてきぱきとお膳を二つ並べて、お料理を順番に説明してくれる。前菜、お造り、煮物、揚げ物、それから——

「こちらが、地元の和牛のステーキでございます」

「わあ! 美味しそう」

 旅行だって言うなら、やっぱりこれくらい贅沢じゃなくちゃ。だってここまで来たんだから。お米のおかわりも、デザートの追加も、なんなら追加注文も全部好きなように頼んで欲しいな。

 デンジくんは文字通りぱあっと顔を輝かせて、それから、もぐもぐと、ものすごい勢いで食べ始めた。私は私で自分のお膳の小さな魚の煮付けをほぐしながら、たぶんずっとにこにこしていた。

「お連れ様は、恋人さんでいらっしゃいますか?」

 ふいに、お料理を並べ終えた仲居のおばさんが、にこにことそう聞いてきた。

 私はなるべく何でもない声で、

「仕事の関係で。彼、まだ十六歳なので」

 と答える。

 仲居のおばさんは、あらまあ、と片手を口元に当てて、失礼しました、とおどけて頭を下げて、それから襖の向こうへ消えていった。どういう風に捉えられただろう。

 デンジくんが拗ねた顔でステーキを一口食べて、悔しそうに「ぐうう」と唸っている。



 私の記憶の中のいちご狩りは、もっとこう、食べても食べても美味しそうなのを見つけちゃうからキリがない……みたいな、そういう感じだったのだけれど、やっとこさたどり着いたビニールハウスの中は思ったよりがらんどうで、なんだか少し笑えた。

 ピークはたぶん三月とか四月の頭とかそのあたりで、連休のお客さんがこれだけわいわい来ていれば、そりゃ、いい所はもう、あらかた、食べ尽くされてしまっているのだった。

 それでも私は意地になって畝の奥の奥まで分け入って、葉っぱをかき分けて、なんとかまあまあサイズの赤い苺を、ぽつぽつと見つけては、自分のぶんも返上してデンジくんの口に無理やりねじ込んだ。

「ちょっと、時期が遅かったね。少し熟れすぎてるみたい」

「全然美味いって。何でも腐りかけが一番旨いんだぜ」

「んふふ……」

「な、土産に売店で売ってたの買って帰っていい?」

「パワーちゃんへのお土産?」

「や、自分で食べる分」

「あっははは! それは大事なやつだ」

 デンジくんと一緒に居ると、沢山笑えるからいいな。

 車に戻って、後部座席に苺のパックをそうっと並べて置いて、運転席のドアと助手席のドアを両方開けっぱなしにしたまま、二人で、車の縁に腰掛けてしばらくぼうっとした。

 農園の隣の畑からは麦のような土のような、なんとも形容しがたいけれど悪くない五月の朝の匂いが流れてきて、遠くで子供の声が反響していて、ハウスのビニールが風でぱらぱらと鳴っていて。


「あーあ。この旅行終わったら、俺明日からまた仕事だぜ」

 このまま帰りたくないなぁと思っている気持ちは私もお揃いだったから。可笑しさとはまた別の感情でくすくす笑ってしまう。

「またおやすみになったら旅行に来ようよ。今度は海がいいね。鴨川か……そうだな、伊豆はどう?」

「またって、いつ」

「いつでも。次の連休でも」

「そこまで待てねぇよ……」

「また私と一緒に旅行に行ってくれるんだ?」

デンジくんは自分が言ったことの威力に気付いていない顔で、相

変わらず車の縁を爪先で蹴っている。

「もちろん。アンタとだったら、どこ行っても色々驕ってくれそう

だし」

「じゃあもっと早いタイミングで…… 仕事終わりにご飯でも行こ

う?私、デンジくんを連れて行きたいお店が沢山あるんだ」

それはもう、数えきれないくらいに。東京は広い。変なものも、

美味しい物も、全部全部沢山食べて欲しい。

「でね、今度はパワーちゃんと、先輩たちも連れて行こう」

「みんなで」

「うん、みんなで。にぎやかな方が楽しいよ。パワーちゃん、ケーキ大好きだから喜ぶし。それに先輩たちも、最近忙しそうだから、ちょっと息抜きさせてあげなきゃ」

 本当は二人だけで行きたい場所だってある。あるけど、いま、ここで、それを口に出すのは、たぶん違うから。

「よし、休憩終わり! 次は江戸村だよデンジくん」

「おー」

「でね、今度はパワーちゃんと、先輩たちも連れて行こう」

「みんなで」

「うん、みんなで。にぎやかな方が楽しいよ。パワーちゃん、ケー

キ大好きだから喜ぶし。それに先輩たちも、最近忙しそうだから、

ちょっと息抜きさせてあげなきゃ」

本当は二人だけで行きたい場所だってある。あるけど、いま、こ

こで、それを口に出すのは、たぶん違うから。

「よし、ほいたら休憩は終わりじゃあ!次は江戸村だよデンジく

ん!」

「おー」

「デンジくんは水戸黄門の仮装してよ。私は助さんになるからさ」

「よく分かんねぇけど、いいぜ」

 きっとデンジくんは水戸黄門を見たことが無いんだろうな。じゃ

なかったら、こんなに安請け合いはしない。

 私はじじ臭い真っ黄色の着物を着せられた老人姿のデンジくんを

勝手に想像して、また大きな声で笑った。

* * *

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