ここ最近は意識的にあれこれ(ちょっと無理なくらいに)仕事を詰め込んで、少しも脳みそを動かさない時間が無いようにしている。
やることがあると頭が余計なことを考えないから。あれこれ無駄なことを悩まないで済むから。それでもどうしても暇が出来ちゃうようなときがあって、そんな日は、ぽっかり空いた頭の中にろくでもないものが勝手に這い出してくる。
朝起きて、デンジくんと一緒にご飯を食べて、テレビを見て、ちょっとお昼寝して。言ってしまえば、これ以上なく穏やかな休日だった。
幸せな休日。とっても幸せなことのはずなのに、私の腐った脳みそはあれこれと不幸なことを見つけ出しては突きつけてくる。
その理由はない。
本当に何もない。何も起きてないし、誰にも何も言われてないし、デンジくんだって普通に優しいし。フラッシュバックを起こす原因なんてなくて、ただ暇に体が耐えられないだけ。
ちょっと合間が開いただけ。
……そのちょっとの合間の中に、黒い水が溜まっていく。じわじわと底に沈んでいく。
こういう時の対処法は長い年月をかけて体に叩き込んである。とことん考えないこと。頭を空っぽにすること。黒い水に名前をつけないこと。名前をつけたら最後、そいつは居座って動かなくなるから。
ソファに座って本を読んでいるふりをしながら、ちらっとデンジくんを見た。
今日は夜ご飯もきっちりお代わりして食べてたくせに、「なんか小腹すいた」と言ってキッチンでカップ麺にお湯を注いでいる。ちょっと、そういう食いしん坊なところ、確かにかわいいけどさ。
鼻歌まで歌っちゃって、ほんとにご機嫌だ。でもなんでだろ。なんか今日いいことあったかな……と思って、そういえば今日はずっと一緒に居られたことを思いだして、それが理由だったりするのかなぁって思ったら、妙に悲しい気持ちになった。なんでだ。ほんと、我ながらなんでなんだ。
デンジくんは三分タイマーをセットして、冷蔵庫からお茶を出している。
幸せそうだなあと、思った。
それだけのことなのに、胸が勝手にぎすぎすする、そんなのいやなのに……。
「ねえデンジくん」
声が出ていた。考えるより先に。
「ん、何」
「ちょっと甘えてもいい?」
デンジくんがお茶のペットボトルを持ったままこっちを見る。甘えてもいい、なんて普段の私ならわざわざ確認しない。いつもは勝手にべたべたしにいくし、デンジくんが嫌な顔したって勝手に甘える。
だからデンジくんはその確認にちょっと不思議そうな顔をして、でも結局「いいけど」と頷いてくれる。やさしい。
「今日ねぇ、酷めのえっちしたい。……道具とか、使おうよ。手錠とか震えるやつとか……」
「あ?」
デンジくんが眉を上げた。ちょっと考えて……手錠のことを思い出したのか、「ああ……」と小さく声を漏らす。随分前に買って、私が途中で泣いちゃったから、使うのを一切辞めたヤツ。
「んー……なんで?」
まあそうなるよね。急に何言ってんだこいつ、ってなる。そりゃそうだ。
「デンジくんがいちばん気持ちいいやつしようよ。今日、なんかそういう気分」
一拍間が空いた。デンジくんがペットボトルをカウンターに置く。
「話あんなら聞くけど」
「うあ。じゃなくて、えっち……」
「別に言うほどしたい訳じゃねーだろその感じは」
あ、真面目モード……これは一筋縄じゃ行かなくて、いろいろ深堀されちゃう奴かな。いつもみたいにスケベ心全開で飛び掛かられたら、楽だったのになあ。
「なんかあった?」
この子はやっぱり鋭い。普段はぼんやりして何考えてるか分かんないところあるくせに、こういうところだけ。
「にゅ~ん……。………………ちょっとメンタル来てる〜。だから、頭空っぽにしたい! っていうあれ! です」
出来るだけ明るく笑ってみせる。いつもの、おどけた声で。深刻なことじゃない、もん。大したことないよ、ちょっとしたガス抜きだから、そういう温度感で。でもデンジくんは黙っていた。
「……分かった。ちょい待ってて」
デンジくんがリビングを出て、寝室の方に行った。引き出しを開ける音と、がちゃりって金属の音。戻ってきた彼のおてての中には、ふわふわが付いたアダルトな手錠。何回も捨てよう捨てようって迷って、でも、捨てなくてよかった。結果的には。
「ほら、手出して」
「お、おお、やったー!」
そうして両手を差し出した。当然後ろ手にされるのかな、と思って手を後ろに回そうとしたら——デンジくんが、私の手首を前で止めた。
がちゃん。
前側で手錠をかけられて、両手が体の前で繋がれる。
「あれ……前?」
「こっち来て」
「あ……う、うん」
そうして手錠をかけたまま、デンジくんがソファに座る。私の腰を持って、自分の膝の上に座らせて。向かい合わせで、あれよあれよという間に位置はお膝の上だ。
あれ、あれれ。
手錠をかけた両手が、デンジくんの胸の前にぶら下がる格好になる。
「え、え……? デンジくん、これ」
これじゃあなんだか、ちょっと空気が甘ったるい、ような。
言いかけた言葉を遮るように、デンジくんの手が私の頭に乗った。
「ぅえぇ」
撫でられている。ゆっくりゆっくり、髪の毛を梳くように。後頭部から、うなじのあたりまで、大きな手のひらでさわさわ、って。
「で、でんじく……?」
「ん」
「えっち、は」
「俺が気持ちいいやつするんだろ」
そ、れは、そうだけど。
でも今夜に限って、こんな優しさは求めてなくて。酷めのやつって言ったのに。手錠使うようなのしようよって言ったのに。なんで頭撫でてるの。なんで膝の上に座らせてるの。なんで、こんな——
デンジくんの顔が近づいてきた。
そのまま、唇が、重なった。
「ちゅ……んむ、うう……」
柔らかいキスだ。至極、優しいキス。そのまま舌が入ってくる。でも激しくない。ゆっくりと丁寧に口の中を舐めるように、ちゅ、ちゅ、って小さな音を立てて、離れて、またくっついて。
「で、でんじく……も、ちゅうは……」
キスの合間に、かろうじて声を出した。やだ。やだ。こんな、考える余裕があるやつは求めてない。やなこと、思い出すから。頭がぎゅうう、って、こんな年下の男の子にメンケアさせちゃってることとか、色々苦しいこと考えちゃうから、やだ……やなのに。
「繰り返すけど。……俺が気持ちいいだけのやつ、なんだろ。大人しくして」
また唇を塞がれた。ちゅ。ちゅぷ。舌を絡め取られて、吸い上げられて。手錠をかけた両手がデンジくんの胸を押しているのに、押し返す力なんてない。
「んん……うぅ〜〜……」
だめだ。
だめだ、これ。
こういうのが、いちばん、だめ、だもん。
激しいのが欲しかった。乱暴にされたかった。痛いくらいに犯されたかった。そうすれば、体の方が忙しくなって、頭が空っぽになるから。黒い水のことなんて考えなくて済むから。快楽か痛みか、どっちかで脳みそを埋め尽くしてもらえれば——
「そういう、かんじなら、えっちいい……しない……」
顔を逸らした。キスを避けた。涙が見えないように。
「だめ、ちゃんと俺の目ェ見て」
顎を掴まれた。優しく、でも逃がさないように。正面を向かされる。
「しないっ……やだっ、これ、今日はやだ……!」
手錠がじゃらりと鳴った。胸の前で両手を振ってデンジくんを押し返そうとする。でもお膝の上だから踏ん張れなくて、手錠がかかってるからまともに力が入らなくて。
「副隊長」
「こういうことするなら、えっちしない……!」
もう涙が隠せなくなっていて、目の縁にたまった雫がぽろっとこぼれた。
「落ち着けって」
デンジくんの手が私の後頭部に回る。ぐ、と引き寄せられる。膝の上から仰け反って逃げようとしたのに、あっさり捕まってしまう。目が合った。至近距離。眠そうなタレ目。優しい目。怒ってない。責めてもない。
ちゅ。ちゅ。ちゅ。
頬。鼻の頭。こめかみ。耳たぶ。顔中に、ちいさなキスが降ってくる。ひとつひとつ、丁寧に。
「……っうううう……」
ぎゅっと抱きしめられた。
デンジくんの胸の中に、頭ごと押し込まれる。あったかい。Tシャツ越しに心臓の音が聞こえる。どくん、どくん。ゆっくりで、規則正しくて、落ち着いていて。私の心臓はばくばくなのに、デンジくんはこんなに静か。よしよしよしよし、背中を撫でられる。大きな手のひらが、背骨のラインをゆっくりと上下する。
「辛いことあった?」
静かな声。
「ない……なんにもない……ひとりでむ〜ってなっただけ……」
「そっか」
「はげしい、の、ない、なら、もうねる……」
胸の中でもがいた。手錠がじゃらじゃら鳴る。でもデンジくんの腕はびくともしない。
「俺の事、カッター代わりにでもしようとしてんの」
反論できなかった。
だって実際、半分は、そうだから。図星も図星だ。激しいやつで頭を空っぽにしたい。痛みで、快楽で、余計な思考を塗り潰したい。デンジくんの体を使って自分の感情をめちゃくちゃにしたい。それを甘えって包装紙で包んで差し出してるだけ。まるでWINWINであるか、の、ように……。
バレてる。ちゃぁんと、全部バレてる。
「……そ、いう、わけじゃない、けどっ……」
声が震えているのが自分でも分かる。嘘をつくのが下手になっているから。
デンジくんの前だと、いつもそう。他の人には何年だってのらりくらりと嘘をつき続けられるのに、この子の前だとうまく笑えなくなる。
「いま、やさしくされたら、やな事いっぱいわーって考えるからやなの……!」
これは本当だった。
優しくされると、考えてしまう。自分がどれだけくだらない人間か。ああ、ああ、私は早く死んだ方が良い。こんなに優しくしてもらう資格なんてない。幸せに浸っていい人間じゃないから。そういう黒い水が、一気に堰を切って溢れ出す。
だからせめて、使い捨てられるような荒っぽいのがいい。痛いのがいい。体だけ使って、頭は止めて。そうすれば、黒い水は行き場を失って、朝になる頃には引いてくれるから。
「やな事って何」
「いわない……いわないっ……」
首を横に振った。ぶんぶんと。デンジくんの胸に顔を擦りつけながら。Tシャツが涙でじっとり濡れていく。
デンジくんは何も言わなくて、代わりに顔中にキスをした。額に。瞼に。頬に。鼻先に。涙の跡に。一つ一つ、拾い上げるように。それでまた、頭を撫でた。よしよしよしよしって、何度も何度も。
「だからっ……や、だって、ばあ゙……」
もう我慢できなかった。ぼろぼろ泣いた。声を上げて、しゃくり上げて、みっともなく顔をくしゃくしゃにして。手錠がじゃらじゃら鳴りながら、デンジくんのTシャツをぎゅうっと掴んで。掴めるのだ、手錠が前でかかっているから。
「わーーーっ!!!」
赤ちゃんみたいにわんわん泣いた。何に泣いてるのか自分でもよく分からない。悲しいのか、悔しいのか、苦しいのか。たぶん全部。たぶん何にもないのが苦しい。何もないのに苦しいのが、いちばん苦しい。何にもない日に何にもない理由で沈んでいく自分がいちばん嫌い。
デンジくんはやっぱり何にも言わないで、ずっと私を撫でていた。
どれくらい泣いたか分からない。五分か十分か、もっとか。泣いて泣いて、しゃくり上げて、鼻水ずるずるして、それでちょっとだけ息が吸えるようになった頃。
「……でんじく、の、こと、うらやましいって、ときどきおもう……」
ぽつりと本音がこぼれた。言うつもりはなかった。でも、もう、歯止めが利かなかった。
「そっか」
「すき、すき、だいすきっ、だいすき、だけどっ……」
「うん。知ってる」
「すき、すきだけど……」
Tシャツを握る手に力が入る。手錠がきゅっと手首に食い込む。
「わた、わたし……」
声が詰まった。喉の奥が焼けるように痛い。
「わたしっ……わたしもっ……」
わたしも、子供の頃に救われたかった。愛されたかった。せめて、せめて寄り添う人が居てくれたらよかったのになあと思う。デンジくんが救われてるだとか愛されてるだとか、それは外野である私が決めていいことではないけれど、でも、でも……それでもうらやましいと思ってしまう。デンジくんみたいになりたい。デンジくんのことがうらやましい。いいなぁ……いいなぁ。私もキミのようにさっぱりした性格になれたら。真っすぐになれたら。根っこから善性の人間になれたら……。
「……いえないっ、いえない……」
けれどそんなことを思っても、それを言葉に出来るかはまた別の話であって。
首を振った。ぎゅうっと目を瞑って、デンジくんの胸に額を押しつけて。
「いいよ言わなくて」
頭を撫でる手が少しだけゆっくりになった。後頭部から首筋にかけて、指を梳き入れるように。
「言いたくなったらいつでも聞く。今じゃなくていい」
その声が優しくて、また泣きそうになる。なんで。なんでこんなに優しいの。やめて。優しくしないで。——って思ってるのに、体は正直にデンジくんにしがみついている。離れたくない。ここにいたい。矛盾してる。ぜんぶ矛盾してる。
「……わたしのこと、すき?」
子供みたいな質問。何回も何回も聞いたことのある質問。何回聞いても不安で、何回聞いても安心できなくて、だから何回でも聞いてしまう。
「好きだよ」
「わたしがいちばん、すき……?」
「うん。好きだよ、一番好き」
また泣きそうになる。嬉しいのか悲しいのか分からない涙がぶわっと込み上げてきて、必死に堪えたけど、結局堪えきれなかった。
「なまえよんでっ、なまえっ……」
しゃくりあげながらねだった。役職名じゃなくて。副隊長、じゃなくて。わたしのなまえ。
デンジくんが、一瞬だけ間を置いた。それから。
「……███のことが一番好き」
「ううゔ〜〜〜……♡♡」
ぐしゃぐしゃに泣きながら、デンジくんにしがみついた。手錠がじゃらじゃら鳴る。Tシャツがびちょびちょになる。もう全部ぐちゃぐちゃ。かっこ悪い。みっともない。最悪。でも止まらない。
「しにたいっ、しにたいしにたいしにたい……」
言うつもりなかったのに。デンジくんには絶対に言わないって決めてたのに。
「デンジくんわたしと一緒にしんで、おねがいっ……」
ぐちゃぐちゃの声で。涙と鼻水でべちゃべちゃの顔で。手錠をがちゃがちゃ鳴らしながら。
「あと60年くらい経ったらな。そしたら一緒に死んでやる」
60年後。私とデンジくんは……えっと、何歳だ。計算ができない。頭がぐちゃぐちゃだから。でも、とにかく、おじいちゃんとおばあちゃんになるまで。
「ろくじゅうねん」
「そう。60年」
「ながい……」
「まあな」
「……ぜったい?」
「ぜったい」
それは、60年、一緒にいるって言ってるのと同じじゃん。
「……ばか」
「ん?」
「ばかぁ……」
力なくデンジくんの胸を叩いた。手錠がかちゃりと鳴った。全然力が入らない。ぺち、ぺち、って。情けないくらい弱い力しか出ない。
「ばかっ、ばかぁっ……そういうこと、いわないでよぉ……」
「お前が先に死ぬとかどうとか言い出したんだろ」
「っ……うぅ……」
反論できない。その通りだ。先に死にたいって言い出したのは私で……泣いた。また泣いた。
でもさっきまでとは、ちょっとだけ、違う泣き方だった。さっきは黒い水に溺れるような泣き方だったけど、今は……なんだろう。
胸の中でしばらく泣いた。デンジくんはずっと私のことを撫でていた。何も言わないで。
そのうち涙が枯れてきた。枯れてきたというか、泣き疲れた。目が腫れて、鼻が詰まって、頭がぼんやりする。泣きすぎて脱水になってる気がする。喉が渇いた。
「……でんじくん」
「ん」
「おみず……」
デンジくんが私を膝の上に座らせたまま、テーブルの上のペットボトルに手を伸ばした。キャップを開けて、私の口元に持ってきてくれる。手錠があるから自分で持つのが不安定で、デンジくんの手に重ねるようにして、こくこくと飲んだ。
冷たくておいしい。
「……はう」
一息ついて、ようやく、顔を上げた。デンジくんの顔を見る。ちょっと困ったような顔してる。Tシャツの胸元が涙と鼻水でべちゃべちゃだ、ごめん。
「ひでー顔」
「……そんなに?」
「ああ」
乾いた笑いが出た。あは。ほんとに、ひどい顔してるんだろうな。
「手錠、外した方がいいよな」
「やだ……もうちょっとだけ、このまま」
「ん」
「……ごめんね」
「何が」
「へんなこと言って」
「別に。言うほど変でもねぇし」
「……死にたいって言ったの、聞いてたじゃん」
「聞いてた」
「……怒ってない?」
「怒ってない」
「……ヒスられて、こわくなかった?」
「ちょっとだけ」
ちょっとは怖かったんだ。デンジくんでも。
「これからも、だめだめになったら……たまに言うかも。……ごめんね」
「いいよ。60年の約束だけ守ってくれたら」
手錠の隙間からデンジくんの指が私の指を探した。
ぎゅ。
「でんじくん」
「ん」
「おなかすいた」
「ラーメン食うか。……もう伸びきってるだろうけど」
「たべる」
「んじゃ手錠外すぞ」
「やだ、このまま食べる」
「ああ? 食いにくいだろ絶対……」
「いいもん。デンジくんに食べさせてもらう」
「…………めんどくさ」
でもデンジくんは立ち上がって、私を膝の上に乗せたまま器用にキッチンまで歩いて、伸びきったカップ麺を持ってきた。
手錠をかけたままデンジくんにあーんしてもらいながら、のびのびの麺を食べる。ぬるくて伸びてて、お世辞にもおいしくはない。ぶよぶよで、味もぼんやりしてる。
「……おいしい」
「嘘つけ」
「おいしいよ。デンジくんが食べさせてくれるから」
「……」
デンジくんの耳がほんの少しだけ赤くなった。
「うぎゅ……まだおなかすいてる。もいっこつくる。たべたい。たべさせて」
「自分で食え」
「むり!」
「…………あー、もう」
ため息をつきながら、でもちゃんと次の一口を運んでくれるデンジくんのことが、どうしようもないくらい好き。
* * *