鍵が回る音。ドアを開けて、履いていた靴を適当な方向へ蹴飛ばす音。それから少し間を置いて、「ただいまァ」と、帰ってきたことを部屋全体に知らせる声。今日はいつもより小さかった。
「おかえり、デンジくん」
リビングから顔を出すと、デンジくんはネクタイを緩めながら、いかにも疲れましたという顔で立っていた。髪はぼさぼさ。頬には血が乾いて黒っぽくなった跡。無惨にも、シャツの肩が破れている。
「今日、大変だった?」
「んー。まあまあ。……すっげえ足の速い悪魔追いかけて死ぬほど走った」
「まあ。頑張ったねえ」
「腹減った」
「うんうん。ご飯、できてるよ」
荷物を受け取って上着を脱がせる。ネクタイも私が解いてしまう。デンジくんは最初こそ「自分でできる」と言っていたけど、今はもうされるがままだ。かわいい。両腕を少し上げて、私がシャツの汚れを確認するのを待っている。飼い主に足を拭かれる犬みたい。かわいい。かわいい! 頭からまるごとたべちゃいたい。
頬についた血を濡らしたタオルで拭ってあげる。鼻の横。顎のあたり。耳の後ろにも少し。デンジくんの顔はこうして近くで見ると、思ったより傷が多い。古い傷、新しい傷、もう治って分からなくなった傷。これまで誰にも撫でてもらえなかった分まで、私が全部触ってあげなくちゃ。
「痛いところは?」
「ない」
「疲れてるところは?」
「足」
「じゃあ後で一緒にお風呂に入ろうね」
「……こわ」
「え、なんで!?」
失礼だなあ。こんなに優しくしているのに。今日は朝からずっと、デンジくんのことばかり考えていた。今頃何してるかな。お昼はちゃんと食べたかな。怪我をしてないかな。知らない女の人に褒められて、へらへら鼻の下を伸ばしてないかな。
最後のは少し嫌だ。ううんかなり嫌。
私の知らないところでデンジくんが誰かに笑いかけて、その人がデンジくんのかわいさに気づいてしまうのはとっても困る。だってデンジくんはかわいいから。顔もかわいいし声もかわいい。食べ物を前にしたときの目も、褒められて得意げになる顔も、眠たいときに口が半分開いてしまうところも、全部。誰だって一度知ったら好きになってしまうに決まっている。好きにならなかったらそっちの方が意味わかんないし。好き。好き。大好き。皆にデンジくんのことを好きになってほしい。でも私だけがデンジくんのこと知っていたいなあって気持ちもあって。
デンジくんが……もうちょっと、浮気ものじゃなければなあ。
だからなるべく家に置いておきたい。
お腹いっぱい食べさせて、あたたかいお風呂に入れて、やわらかい布団に寝かせて、何も心配しなくていいようにしてあげたい。外へ出なくてもいいように、欲しいものは何でも私が買ってくる。退屈しないようにゲームも漫画も用意する。私が仕事へ行くときは大きな鞄に入れて連れていく。机の下に置いて、時々頭を撫でるの。
さすがに、鞄は窮屈かなあ。
「副隊長?」
「ん?」
「また変なこと考えてただろ」
「デンジくんを鞄に入れて持ち歩けないかなって」
「やっぱ変なこと考えてんじゃん!」
笑いながら背中を押し、食卓へ座らせる。今日はデンジくんの好きなものばかり。ハンバーグ、オムライス、フライドポテト。それから野菜も食べてほしいから、申し訳程度のサラダ。椅子を隣へ寄せて、デンジくんの口元へスプーンを運ぶ。
「あーん」
「自分で食えっけど」
「でも私が食べさせたいの」
「……あー」
おずおずと口を開ける。ちょろい。オムライスをひと口食べて、幸せそうに頬を緩めた。かわいい。かわいいかわいい。デンジくんがご飯を食べてる。私が作ったものを食べて、嬉しそうにしてる。それだけで胸がいっぱいになるようなきもち。
「おいしい?」
「うめえ!」
「よかった。いっぱい食べてね」
「おう」
「ハンバーグも食べる?」
「食う」
「ポテトは?」
「食う」
「私のことも?」
「食……、や、それはなんか言い方エロくね?」
「あはは。じゃあ、私のことも好き?」
「好き」
あまりに自然にそう言ってくれるから、思わずスプーンを持つ手が止まる。
「……もう一回言って」
「好き」
「誰が?」
「オレが」
「誰を?」
「副隊長を」
「どのくらい?」
「すげー好き」
「すげーって、どのくらい?」
「めちゃめちゃ」
「ふふ」
嬉しい。もっと聞きたい。朝まで言わせたい。録音して、仕事中もずっと聞いていたい。目覚まし時計の音も、電話の着信音も、全部デンジくんの「好き」にしたい。壁にも書いて、天井にも書いて、瞼の裏にも書いておきたい。
「じゃあキスしてよ。今ここで」
デンジくんは困ったように眉を下げ、私の手首を掴んだ。そのまま身体を引き寄せられる。椅子から転げ落ちそうになって、慌てて彼の肩へ腕を回した。
「ん」
唇にやわらかいものが触れた。すぐに離れてしまう、短いキス。
「急にごめんね。……もう一回して?」
「飯の途中だぞ」
「お願い」
「しょーがねえなァ」
今度は少し長かった。唇を重ねたまま、金色の髪を撫でる。柔らかい。私の指の間をさらさら通り抜ける。後頭部を抱き寄せると、デンジくんの腕も私の腰へ回った。
好き。大好き。誰より好き。世界が明日終わるとしても、最後までこうして抱きしめていたい。逆に世界が永遠に続くなら、永遠に私の腕の中にいてほしい。
誰にも見せたくない。
誰にも触らせたくない。
でもデンジくんが外で楽しそうにしている顔も好きだから、閉じ込めるのは可哀想。困ったな。そうしたら私がずっと隣について回ればいいのかな。仕事にも、買い物にも、お手洗いにも。
「ん、ん、いき」
「ん……」
「長ェって!」
肩を押されて、ようやく唇が離れる。デンジくんは顔を赤くして、大きく息を吸っていた。
「好きすぎて」
「好きすぎっと息止まんの?」
「止まるみたい」
「死ぬじゃん」
「デンジくんとキスしながらなら、それもいいかも」
「よくねーよ!」
怒られてしまった。でもその声にも心配が混じっているから、やっぱり嬉しい。ごめんね、と笑いながらスプーンを持ち直した。
「はい。あーん」
「まだやんの……?」
素直じゃない。かわいい。オムライスをひと口、ハンバーグをひと口。合間に頬へキス。口元にソースがつけば拭って、髪が目にかかれば整える。頑張ったね。えらかったね。今日も帰ってきてくれてありがとう。大好きだよ。かわいいね。
何度言っても足りない。口にするたび、次の「好き」が胸の奥から湧いてきちゃうから、言っても言っても追いつかない。どうしよう?
「ねえデンジくん。もし君が怪我しておててが動かなくなっちゃったら、私が養ってあげるね」
「ん……マジで?」
「うん。毎日おうちでごろごろして、私が帰ってきたら抱きしめてくれればいいよ」
デンジくんが真剣に考え始めた。よし。あと一押し。
「お菓子も好きなだけ買ってあげる」
「……なんかこういう魔女の話聞いたことある」
「誰が魔女だって?」
「かわいー魔女」
「であればよし」
すごんだらお茶らけた顔で両手を上げて。その仕草も可愛くって、笑ってしまう。
「私だけのかわいいデンジくんでいてね」
「……、……やっぱ不穏なんだよなァ……」
「気のせいだよ」
にっこり笑って、開いた口へハンバーグを入れる。
お腹いっぱいになったデンジくんの髪を撫でる。食後で身体があたたかい。
「かわいいねえ、デンジくん」
「かわいくねー」
「かわいいよ。世界で一番」
「ん……」
「大好き」
「……オレも」
「ふふ。いい子」
このまま溶けて、私の身体の一部になってくれたらいいのに。そうしたらもう離れる心配なんてしなくていい。寂しい思いも痛い思いもさせないで済む。
だけど、それだとデンジくんがデンジくんじゃなくなっちゃうから駄目だね。だからせめて、こうして抱きしめる。私の腕の中がこの子にとって世界で一番安心できる場所になるまで。何度でも食べさせて、撫でて、褒めて、キスをしてあげる。
「おやすみ、デンジくん」
「……おやすみ」
「起きたら、またいっぱい可愛がってあげるからね」
君は私のモノ。
* * *