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全 54,106 文字

介護人をしていた頃、担当していた提供者たちはよく夢の話をした。失ったものが元に戻っている夢。学校の寄宿舎へ帰る夢。提供通知を破って海へ逃げる夢。目を覚ましたあとまで幸福そうな人もいれば、現実にシーツを濡らしながら泣く人もいた。では私はどんな夢を見るのだろう。ヘールシャムでのことだろうか。それとも……コテージでのことだったらどうしよう。介護人になってからのことだったら。その夢を見て私は幸せな気持ちになるのか、それとも涙を流すのか。自分でも想像がつかない。私は割合楽観的な方だからへらへら笑っていそうな気もするし、地獄の底まで落ち込んでずっと泣きどおすような気もする。

 私の一回目の提供の日が決まった。

 通知を受け取った日の午後、いてもたってもいられなくなって、まだ返しそびれたままの介護人の車を西へ走らせた。かつてマダムの家から帰る途中で立ち寄った広い野原へ行くために。道路脇の金網には風で運ばれたビニール袋や色褪せたリボンが絡みついて、お世辞にも綺麗な景色とは言い難い。

 車を降りて秋風に吹かれていると、デンジくんがあの野原の真ん中で子どものように怒鳴った日のことが今日のことのように思い出された。草の匂い。湿っぽい空の匂い。それから、少し甘いクッキーの匂い。私自身にしみついた匂い。

 三年くらい、くれたっていいだろ。

 別にずっと寄越せと言っているわけじゃない。たった三年でも構わないから、一緒にいさせてくれたっていいじゃないか。デンジくんは聞いたこともないような声でそんなことを何度も叫んでいて、私はあの時何も言えずに、彼を後ろから抱いていた。泥のついた上着へ頬を押しつけ、何度も「うん」と答えた。ほかに言えることがなかった。

 野原は記憶の中より狭く見えた。金網のそばへ立ち、しばらく向こう側を見ていた。デンジくんの姿が見えるとは本気では思っていなかったけれど、ただ、彼が怒鳴った声の欠片くらいなら、草の間に残っているのではないかと思いたかった。

 色んな人の介護人をしていると、出身地を聞かれることがある。私がヘールシャムの名前を出すと、提供者たちは大抵ああ、だろうなという顔をした。それから決まって、さぞいいところだったんでしょう、と言った。それを羨ましがる人もいたし、露骨に嫌な顔をする人もいた。暖房のない寄宿舎や最低限の栄養しか取らせてもらえない施設で育った提供者からすれば、広い運動場があり、制作の時間があり、保護官が一人ひとりの名前を覚えていたヘールシャムは、ひどく特別な場所に見えたのだと思う。

「だけどどうして、……どうして、私がヘールシャム出身の人間だと分かるんですか」

「あなたはなんだか、愛されて育ったような気がするの。そういう顔をしている。……それはヘールシャムの人間にしかありえない」

 そう言われて何度鏡を見ても分からなかった。もしかしたらあれは、今際の際に立たされた提供者たちにだけ分かる感覚なのかもしれない。

 確かに、ヘールシャム出身の子供は恵まれている。ほかの酷い施設の子供たちに比べれば。少なくともそう教えられていたし、今の私もそれを否定するつもりはない。ただ、恵まれた場所にいたからといって、子ども同士がいつも優しくし合っていたわけではない、とも、思うのだ。

 いつだって思い出すのは虚しい出来事ばかりだ。

 私にとってはヘールシャムで過ごした十六年間よりも、コテージで過ごしたたった一年弱の思い出の方が、ずっとずっと愛おしく思える。夏を一度越しただけの、それきりの季節だったのに。……なんて、地獄を知らないからこそ言える言葉なのだろうけど。

 今でも思い出す出来事がある。

 ヘールシャムは、子供たちの図工教育に力を入れていた。

 そしてそれに加えて、『交換会』という行事があった。これは読んで字のごとく子供たちが自分で作った作品を交換する場だ。そんなこと、と思われるかもしれないけれど、外界から隔絶されて毎日変化の少ない環境で過ごしている私たちにとっては、一大行事だった! 手先の器用な子が作った粘土細工や、格段に絵が上手い子が描いた絵は高値で取引されて、時にはプレミア値が付いて転売されたりもした。かくいう私も、欲しくてたまらなかったハムスターの油絵をすんでのところで買えなかったことがあるし、逆に人気の子の絵を一番乗りで買ったら『そんなに必死になってまで買うほどか』と陰口を叩かれたこともある。

 あそこには確かに、小さな社会があったのだ。

 だからというべきか、あそこでは何も作らない子どもは少しだけ具合の悪い子のように扱われた。子供は当然、保護官たちも。無論はっきりそう言ったわけではない。けれど、交換会へ何も持ってこなかった生徒を見る時、眉間へごく小さな皺を寄せた。その表情だけで、私たちは何を求められているのかを理解した。

 ヘールシャムには油絵、水彩、粘土、詩、短い物語、木工、押し花など、色々な制作の時間があった。上手いか下手かより、自分の中にあるものを正直に出すことが重要だと教えられた。

 もっとも、正直に出せと言われたからといって、私たちが正直だったとは限らない。

 交換会で人気が出そうなものを作る子もいたし、時折顔を見せては“マダム”に渡すための作品を見繕いに来る校長先生に選んでもらえるような作品を狙って作る子もいた。私も例外ではなかった。十歳の時に作ったビーズのブレスレットを校長先生が持っていってから、私はよくビーズで工作をするようになった。

 先生が私のブレスレットを両手で持ち、少し離れたところから眺めた時の、あの緊張した横顔が好きだった。

「このビーズは、あなたが?」

「はい」

「そう」

 先生はそれ以上褒めなかった。

 それでも、私の胸は一日中温かかった。それは色々な手順書を読み、編み方のパターンを研究して作った、私なりの新しいブレスレットだったから、少しだけ自信があった。透明な青いビーズの間へ白を二つずつ挟み、角度によって波のように見えるよう組んだものだった。先生が私の編んだブレスレットを全て持っていった時、私は誇らしくてたまらなかった。

 そうして翌日。

 朝食が終わると、何人もの子が私の周りへ集まってきた。普段の私はそれほど誰かの輪へ入れてもらえる方ではなかったから、これには随分驚いた。運動をすれば人より遅れたし、道具を運ばせれば何か一つ落とした。そういう子供だった。

 誰かの頼みを断るのも苦手だったから、食堂の片づけや、制作室から材料を取ってくる役目を押しつけられることも多かった。それでも愚かしいことに、嫌われているとは思っていなかった。少なくとも当時の私は、誰かが私へ面倒なことを頼むのは、頼みやすいくらい親しいからだと考えていたから。

 だから、その朝、普段はほとんど話しかけてこない子たちまで私の席へ来た時、私は本当に嬉しかった。どうやって作ったの。どの糸を使ったの。青いところは何個ずつ通すの。留め具はどこでもらったの。皆が次々に質問するので、私はできるだけ丁寧に答えた。参考にした図案を片っ端から持ってきて、紙の上へビーズを並べ、糸を交差させる順番を見せた。聞かれていないことまで沢山話したと思う。最初に作った時は糸が緩くなって失敗したこと。青いビーズは数が足りなくなりやすいこと。白を一つではなく二つ入れた方が、遠くから見た時に模様がはっきりすること。皆が黙って私の話を聞いていたので、私は自分が急に面白い人間になったような気がした。もっと話せば、もっと仲良くなれるのだと思った。

 けれど、編み方を一通り説明し終えると、子どもたちは驚くほどあっさり散っていった。昼食の時には、もう誰も私の隣へ座らなかった。運動場で見かけた子へ声をかけても、聞こえなかったように行ってしまった。私は少し不思議に思ったけれど、皆、早く自分でも作ってみたいのだろうと考えた。そうして次の交換会には、私のものとよく似たブレスレットがいくつも並んだ。

 青と白の配列まで同じもの。色だけを赤や黄色に変えたもの。私が工夫した留め具の結び方を、そのまま使ったもの。私の名前を出す子はいなかった。それどころか、そのうちの一人は、自分でずっと考えていた編み方なのだと、皆の前で説明していた。

 私はそのブレスレットを、しばらく呆然と見ていた。

 怒りは湧かなかった。

 悲しかったのかどうかも、当時はよく分からなかった。ただ、朝食のあとに私を囲んでいた子たちが、どうしてもう私へ話しかけないのか、その理由だけが分からなかった。

 私の何が悪かったのかは今ならちゃんと分かる。

 私は当時から、少しコミュニケーションに難のある子どもだった。人が本当に聞きたいことと、聞いているふりをしていることの区別がつかなかった。相手がもう話を終わらせたがっていることにも気づかず、知っていることを全部説明した。親切にすれば、そのぶん親切にしてもらえるのだと、単純に信じていた。十歳の私は何も分からなかったから。

 もう一度、新しい編み方を考えればいいと思った。

 今度はもっと複雑で、手順書にも載っていないようなものを作る。そうすれば、また皆が私の周りへ集まってくるかもしれない。今度は編み方をすぐには教えず、少しずつ話せば、何日かは一緒にいられるかもしれない。そんなことを、本気で考えていた。あの頃の私は、何かを差し出さなければ人の輪に入れてもらえないことを、もう薄々知っていたのだと思う。ただ、それを不公平だとは思わなかった。それを不公平だと理解できるだけの頭がなかった。次は何を差し出せばいいのだろうと、そればかりを考えていた。

 この性質は私の幼少期に大きな傷跡を残したけれど、後に介護人となった私を随分助けたと思う。提供者が何を欲しがっているのか先回りして考えることが得意になったのは、確実にこの経験のおかげだと言える。

 今になって考えてみれば──私は虐められていたのだろう、と思う。のだけれど、当時のことが恨めしいかと聞かれると分からない。十代の半ばの頃には、この出来事を思い出してどうしようもなくむしゃくしゃしたこともあった気がする。いずれにしてもあまりに昔のことで、今更思い出す気にはなれない。

 当時の知り合いに終了センターで再会したことがある。

 交換会でいつも一番に列へ並んでいた、鼻の頭にそばかすのある子だった。彼女は私の顔を見るなり、「ビーズのことは、ごめんなさい」と言った。ずっとそのことを謝りたかった、胸のつかえだったと。私はもう十年も前のことだから覚えていないよ、と言ったけれど、それでもうわごとのように謝罪を繰り返していた。彼女は三回目の提供を終えた直後だった。

 あの時、愛想笑いをして曖昧にその場を逃げ出してしまったのが未だに悔やまれる。私はまだ若かったし、提供を終えた提供者との接し方が分からなかった。

 彼女のその後を私は知らない。

 ヘールシャムで過ごした日々を幸福だったと断言することはできないけれど、少なくとも私は、あそこを出たあとにデンジくんと出会うことができた。それだけで、人生全体を幸運だったと言ってしまってもいいような気がする時がある。

 十六歳でヘールシャムを出たあと、子供たちはコテージに移って、成人する日を待つ。あるいはすぐに介護人として働くことも出来るけれど、その選択をする子は少ない。

 私が移されたコテージは、街から車で一時間ほど離れた田舎にあった。かつて農場だった敷地をそのまま利用したらしく、母屋のほかに、屋根の低い納屋や、細長い作業小屋を改装した建物が点々と並んでいた。壁はどこも湿っていて、冬には窓の内側へ薄い氷が張った。暖房は一応あったけれど、燃料を惜しんでほとんど使われなかった。

 それでも私は、初めてそこへ着いた時、ひどく自由な場所だと思った。

 保護官はおらず、食事の時間も決められていない。誰と同じ部屋で過ごしてもよく、許可を取れば街へ出かけることさえ出来た。年長組は食堂の古いソファで夜明けまで映画を見ていた。廊下で抱き合う男女を見かけることもあったし、誰かが一晩部屋へ戻らなくても、翌朝それを咎める人はいなかった。

 彼らが外の世界について話すことは、何もかもが本当らしく聞こえた。どの街の店なら身分証を見せずに酒を買えるとか、普通の人々は恋人と一緒に住み始める時にどういう家具を揃えるとか、介護人になればどのくらい自由に車を使えるとか。お酒を飲むなんて私にとってはありえないことで、だからこそ、なんでもない事のようにそんなことを話している彼らのことがかっこよく見えた。今思えば、彼ら自身もほとんど何も知らなかったのだろう。ただ私たちより二、三年長くコテージにいただけで、ずっと大人に見えた。

 その頃には、自分がヘールシャムであまり好かれていなかったことを、薄々理解していた。ほかの生徒たちが私を都合よく使っていたことも、親切にされていると思っていた場面のいくつかが、実際には馬鹿にされていただけだったことも分かり始めていた。

 だからコテージでは、今までとは違う人間として振舞った。

 頼まれたことを何でも引き受けるのはやめる。知っていることを得意になって喋らない。話しかけてもらえたからといって、すぐに相手を友達だと思わない。何より、寂しがっていることを悟られないようにする。けれど、人間は住む場所が変わったくらいで、急に別の人間にはなれないもので。

 コテージへ着いて最初の一週間で、私は皆の食器を洗うようになった。きっかけは些細なことだ。夕食のあと、流しへ皿が山積みにされていたので誰かが片づけるだろうと思いながら一枚だけ洗った。すると翌日には、食卓にいた子が「ついでにこれもお願い」と自分の皿を持ってきた。一度くらいならと思って受け取った。それから、いつの間にか、食後の皿は私の前へ置かれるものになった。薪を運ぶのも、街へ行く車へ空きがないか確認するのも私。癪だったけど、それを嫌だと言わなかった。今度こそ利用されているのだと理解していた。それでも、頼まれなくなって一人になるよりはましだった。

 デンジくんと初めて話したのも、私が食堂で皿を洗っている時だ。

 彼は私より先輩で、コテージへ来てから半年ほど経っていた。名前も聞いた事のない田舎の施設の出身で、あとになって、暖房も十分な食事もなく、子ども同士の暴力を止める大人さえほとんどいなかった場所だと知った。彼はいつも同じ擦り切れた上着を着ていて、食事の時には誰より早く席へ着き、余ったパンがあれば人の分まで持っていった。ベテランたちが外の世界について話している時も、皆のように熱心な顔をせず、少し離れたところで寝転んでいた。きっと人と関わるのが好きじゃないんだろうなと思っていた。私もそうなれたらいいのにと思った。

「何でお前が全部洗ってんの?」

 ある日突然そう聞かれたのが、いちばん最初の会話。

「えっ、と……なんか、当番みたいな……そんな感じ」

「今日の?」

「今日だけじゃないけど……」

「じゃあ誰が決めたの」

「決めた人はいないよ」

 デンジくんは流しに積まれた皿を見た。それから、食堂の方を振り返った。皆はソファへ集まり、テレビを見ている。さっきまで使っていたカップや菓子の袋が、テーブルに残されたまま。

「ほーん。ナメられてんじゃん」

 咄嗟に蛇口を止めて、彼の全身をまじまじと上下に見た。そういうことを、本人へ直接言う人を初めて見た気がしたから。

「分かってるよ」

 自分が何も分かっていないと思われることが、何より恥ずかしかった。分かっていて、選択的にこの立場にいる。だから私はみっともなくなんてない。彼は私の顔を少し眺めてから、手に持っていた皿を一枚流しへ置いた。もう一枚は自分で蛇口の下へ差し出した。それから、自分のお皿を洗ってキッチンを出ていった。それで……いかんせん私はチョロいもので、それだけで「いい人だなあ」と思った。

 ただ、思い返してみれば、私がナメられていた要因は、ただ私がそういう性格だったから、というだけではなかった気がする。

 私はコテージで唯一のヘールシャム出身者だった。それが知れると、年長組は急に私へ関心を示した。初めのうちは、どこか遠い国から来た人間にでも会ったような扱いだった。

 本当に校庭に池があるのか。

 個人の持ち物を交換する行事があるというのは本当か。

 毎日温かい食事が出るのか。

 具合が悪くなればすぐ保護官が診てくれるのか。

 食堂のソファへ座らされ、皆に囲まれながら、何度も同じような説明をした。交換会のこと。校長先生が作品を選び、マダムへ渡していたこと。体育館や図書室のこと。健康診断の頻度。保護官から、煙草は身体へひどい害を与えるものだと繰り返し聞かされていたこと。保護官に酷く怒られた後、「今日は言い過ぎた」と後でこっそり新品の鉛筆を貰ったことがあったこと。それから、ビーズが校長先生に選ばれた日の事。皆に作り方を真似されたことは喋らなかった。なんとなくその方がいい気がしたから。

「一人ずつベッドがあったの?」

「うん。部屋は何人か一緒だったけど」

「シャワーは毎日?」

「使いたければ」

「お湯が出た?」

「出たよ」

 ヘールシャムにいた頃は何とも思っていなかったことでも、口にすると皆が目を輝かせた。私が何か答えるたびに大袈裟な声が上がった。私には、彼らがどこまで本気で驚いているのか分からなかった。明らかに私をからかうために質問している人もいたけれど、話の途中で身を乗り出し、こちらが戸惑うほど細かいことを尋ねる人もいた。

 そのコテージにヘールシャムの生徒が来るのは随分珍しいことだったらしい。それもそのはずで、普通は同じ学校の卒業生が何人かまとまって学校から比較的近いコテージへ移される。ところが私は、ヘールシャムから一人だけ遠く離れたこの場所へ送られていた。

 当時は単に空きがなかったか何かだと思って深く気にしなかった。保護官たちは私がほかの子どもたちからどのように扱われていたかを知っていたからこうなったのかもしれない、とも思った。少なくとも、何かに気づいてはいたはずだ。卒業後まで同じ人間関係の中に置くより、まったく知らない場所へ移した方がいいと思われたのかもしれない。そんな可能性に思い至る度、問題児扱いされているようで少し落ち込んだ。

 皆は私の話を聞きたがった。

 けれど、どの話も最後には大体同じところへ行き着いた。

「そんな甘いところで育ったから、お前は何も知らねえんだよ」

 冗談めかして言われることもあったし、気の毒そうな顔をされたこともあった。私が皿を洗わされているのも、頼まれたことを断れないのも、人を簡単に信用するのも、すべてヘールシャムで甘やかされたせいだということになった。

 それに付随してか、そのコテージでは、自分がどれほど酷い環境で育ったかを競うように話すことが流行った。

 誰かが冬に暖房を止められたと言えば、別の誰かが、自分の施設では初めから暖房設備そのものがなかったと言う。夕食を抜かれたことがあるという話には、三日間何も食べさせてもらえなかったという話が続いた。保護官に平手打ちをされたという者がいれば、椅子の脚で殴られ、腕の骨が折れても翌日まで放置されたという者が現れた。

 窓のない倉庫へ閉じ込められたこと。ほかの子どもから食事を奪われても、保護官は見ているだけだったこと。病気になった子がある日突然いなくなり、その後は誰も名前を口にしなくなったこと。

 提供者を育てている以上、健康へ深刻な害を与えるような行為が日常的に許されていたとは考えにくい。施設は私たちを幸福に育てる義務を持っていなかったけれど、少なくとも、使いものにならない身体にするつもりはなかったはずだ。彼らの話の多くには誇張が含まれていたとは思う。けれど、暗い顔をして話し合う彼らの話の、すべてが嘘だったとも思えなかった。そうして、それを聞いた私が顔を曇らせると、皆はまた嬉しそうに笑った。「ほら、ヘールシャムの甘たれには刺激が強かった」。

 今でも時々考えることがある。もし自分がその施設にいたら、どうなっていただろう。三日間食事がなければ、ほかの子の分を盗んだだろうか。殴られたら、殴り返しただろうか。それとも、ヘールシャムにいた頃と同じように、何も分からないふりをして笑っていただろうか。私が食事を抜かれた経験といえば、風邪をひいて夕食を食べられなかった時くらいだ。誰かに殴られた記憶もない。保護官に腕を強く掴まれたことさえなかった。皆の話と照らし合わせて考えれば考える程、私はヘールシャム以外では大人になれない気がした。私が地獄だと思っていた場所は、コテージの皆からしたら、天国だったのだと知って、私は少し落ち込んだ。

 自分がヘールシャムの出身であることを、私は次第に恥ずかしく思うようになった。皆が持っている傷を自分だけ持っていないことがひどく後ろめたかった。皆が自分の幼少期のことを話しているとき、私は申し訳ないような気持ちになってへらへら笑った。

 その年の冬のことである。

 ヘールシャムから持ってきたブレスレットの糸が切れた。朝、上着へ腕を通した拍子に細い音がして、青と白のビーズが床へ散らばった。机の下や壁際に転がったものを拾い集めてみると、何粒かビーズが行方不明になっていた。別に高価なものではない。ヘールシャムを出る前、余った材料で編んだだけのものだった。それでも捨てる気にはなれず、私は街の手芸店へ新しい糸を買いに行くことにした。このブレスレットの記憶は私にとって確実にほろ苦い物だったけど、それと同時に、ヘールシャムを象徴するものでもあったから。どうしても、捨てる気にはなれなかった。

 申請用紙へ名前を書いた時には、一人でも平気だと思っていたのだ。

 ところが当日になり、コテージの門を出て停留所まで歩くうち、ひどく後悔した。バスの料金をいつ払うのかも、街のどこで降りるのかも自信がない。何度も折り畳んだ地図は手の中で湿っていた。やっぱり日を改めようかとも思ったが、それで他の子たちに馬鹿にされるのはもっと嫌だった。悩みに悩んだ末、コテージから一番近い停留所ではなく、その一つ手前の停留所まで歩いた。支払いでもたついている場面を、万が一にも知人に見られたくなかったから。

 乗り込む前にほかの客の様子を必死になって観察し、同じように小銭を箱へ入れた。運転手が何も言わなかったので、間違ってはいなかったのだろう。一番後ろの席へ座り、あとは窓の外だけを見ることにした。

 そして次の停留所から、デンジくんが乗ってきた。彼は長い金属の部品を新聞紙で包み脇に抱えていた。コテージの給湯設備が数日前から不調だということは随分前から話題になっていたし、修理に必要な部品を街の金物店へ受け取りに行くよう頼まれていたのだろう。デンジくんは私に気づくと空いていた隣の席へ座って、私の膝に載った地図を見て、街へ行くのかとだけ尋ねた。

「手芸屋さんに行くの」

「ふうん」

 手芸店の名前を書いた紙を見せる。私が地図を上下逆に持っていたことにも気づいていたようだったが、それについては何も言わなかった。

 わあ。という驚嘆が口からあふれる。

 街の通りには車が絶え間なく行き交い、店の看板や道路標識が狭い範囲にいくつも並んでいる。ヘールシャムにもコテージにもない騒がしさだ。行き交う人々が皆、私たちが何者なのか知っているような気がして、上手に呼吸が出来なくなる。

 生まれて初めて出た外はむしろ、すごいというより怖かった。柵の外に出たら最後悪い大人たちに四肢を切って殺されてしまうのだ、という噂がヘールシャムで流れていたのをふいに思い出した。思春期に入ってからは下らないでたらめだと笑っていたそんな話が、途端に真実のように思えて恐ろしくなる。目に入るもののすべてが怖くて、どこにも私の居場所なんてない気がして。どちらへ行けばいいのかさえ分からない。本当にここに居ていいのかさえ。

 目印にしていた銀行の看板はすぐに見つかったけれど、その先の曲がり角が二つある。すたすたと歩み去っていくデンジくんの袖を必死になって引き止めた。

「あ、あの! で、デンジくんの予定はいつ終わるの?」

「あ? あー……修理屋が開くのが三時間後だから、その前に飯食う予定だけど」

 じゃあ私の予定に付き合ってほしい。その言葉が言い出せなくて黙ってじっと顔を見つめていたら、彼はこちらの言いたいことを察したらしく、

「……分かったよ」

 と言うなり私の手から地図を取り上げた。もちろん慌ててその後を追った。

 信号が変わりかけると立ち止まり、混雑した歩道では人の間をするりと抜けてゆく。店の入口を塞いでいる人がいれば、少しも遠慮せず横を通った。何もかもが目まぐるしくて、一瞬でも気を抜いたら迷子になるような気がした。ただ、そんな中でも、街の人たちが私に比べてずっとずっとお洒落な格好をしていることだけは分かって、それが無性に恥ずかしかった。し、それを恥ずかしいと思う自分にも呆れていた。こんなに広い世界に出てもなお、私は人の目を気にしないと生きていけないのか。

「デンジくん、街に慣れてるね、すごいね」

「そーかァ? 別にふつーだって」

「だって、道も知ってるし。バスの乗り方も」

「何回か来てるから」

「コテージに来てから?」

 デンジくんは少し黙った。

「その前も」

「施設にいた時に、外出させてもらえたの?」

「ちげーよ。昔ちょっとだけ、外で暮らしてたことあんの」

 にわかには信じられなかった。ヘールシャムでさえ、外出することは絶対に許されなかったのに。提供者は十六歳になるまで、外の世界から隔てられた場所で育てられる決まり。なのにどうして。

「そんなことが許されたの!?」

「許されてねーけど」

「じゃ、じゃあ、どうして」

「色々あって」

「色々って、なんで――」

 そこまで言って口を閉じた。デンジくんは前を向いて、いつも通りの顔に見えたけれど、下唇を強く噛んでいるのが分かったから。これ以上聞いたらいけないことなのだろうと察せられて、だから、私もそれ以上何も言わなかった。

 お店では店員さんに話しかけられるのが怖くて、黙ってデンジくんの後ろを歩いた。彼は手芸用品にはまったく興味がないらしく、棚に並ぶ商品を一度も見ずに進んで、糸も適当なのを店員さんに聞いて見繕っていた。あまり歳は変わらないはずなのに、その姿が凄く頼もしく見えた。

 デンジくんが私の用事に付き合ってくれた以上は私もデンジくんの用事に付き合った方がいいような気がして、一緒にくっついてカフェテリアへ入る。大きな窓がいくつもある店だった。入口の上には料理の写真がいくつも並んでいて、どれも見たことがないくらい……こう、ごてごてとしている。私が

「案内してもらったから、ここのお金は出すよ」

と言うと、デンジくんは

「多分お前が思ってる倍高いけど」

 と笑った。

 馬鹿にしないでほしいと思った。元々レストランのことは知っているのだ。ヘールシャムで、映画を見たことがあったから。

 だから映画の中のレストランと同様に、席へ座って注文を取りに来てもらうものだと思っていたのに、客は入口の近くへ一列に並び、先に料理を注文していたから、私は半ばパニックになった。壁には値段や料理名がびっしりと書かれていたけれど、後ろに人が並んでいると思うと一つも頭へ入ってこなかった。

「そっち何食う?」

「わ、わからない。何を頼めばいいの?」

「食いてーもん言うだけじゃん」

「あれ全部から選ぶの?」

「そーだけど」

 私たちの番が近づくほど不安になった。店員さんが早口だったらどうしよう。聞き返されたら。通じない頼み方をしてしまったら。淡々と列が進んで、デンジくんがカウンターの前へ立つ。彼の肩越しに料理の写真を見た。そうして愕然とした。なんと、ひとつのメニューの下に値段が二個も書いてあるのだ! 後から考えてみれば、税込み/税抜きで表記が分かれていただけのことなのだけれど、ともかく私はパニックになった。もしかしたら注文の仕方で値段が変わるのかもしれない。どうしよう、どうしよう。

「このセット。パン二個」

 私はデンジくんがたっぷりと時間をかけて注文してくれることを期待していたのに、彼があまりにも簡単に済ませてしまったから、心の中で絶望した。当然、店員さんが私を見る。私は反射的にデンジくんの背後へ半分隠れた。

「こ、このセット、パン二個」

「パンも二個ですか?」

「ぱ、ぱんにこ!」

 聞き返されて頭が真っ白になって、おうむ返しに繰り返した。そしたら、デンジくんが噴き出して笑った。

「パン四個でお願いします」

「ぱんよんこ……!?」

「だから、合計でってこと」

「このセットを二人前と、パンを四個ですね」

 店員さんも少し笑っていた。恥ずかしかったけど、怪訝な顔をされるよりはまあいいかと思って、それ以上何も言わなかった。

「何で店員から隠れんの」

「隠れてないよ」

「隠れてたじゃん。オレの後ろでこうしてた」

 彼は身体を小さく縮め、私が上着を掴んでいた様子を真似した。それから、甲高い声で何回も「パンニコ! パンニコ!」と繰り返して私をからかった。ちょっと嫌だったけど、くすぐったいような気持ちで、嬉しくもあった。

「は、初めてだったんだから仕方ないでしょ」

「注文すんのが?」

「普通の人が使うお店で食べるのが」

 デンジくんは笑うのをやめた。

「マジで何も知らねーんだな」

 また甘ちゃんだと言われると思って身構えたけど、デンジくんは、届いた皿からパンを一つ取り、半分に割っただけだった。私も慌てて真似して、パンを二つに割った。

「じゃあ次は一人で頼めんじゃん。今日ここに入ったから」

「む、むりだよ……そんな、一回で。一人じゃ無理」

「大丈夫だって。少なくとも一個は注文できるメニューあんだろ」

「え?」

「パンニコ! パンニコ!……あ、注文できんの一個じゃなくて二個か。わりーわりー」

「ねえ! バカにしないで!」

 私が怒るとデンジくんは目をくしゃりとして笑った。かわいい笑顔だと思った。届いたお肉は堅くてしょっぱくて、パンはコテージで出るものより柔らかかった。私はデンジくんの真似をして肉をパンに挟んだけど、割り方のせいでソースがこぼれて手がベタベタになった。

 コテージでは相変わらず不幸自慢は流行っていたけれど、その輪へデンジくんが入ってくることはほとんどなかった。彼の出身施設は、コテージにいる人たちの間でも酷いことで知られていたらしい。何度か、誰かがデンジくんへ昔のことを聞こうとした場面を見た。

 けれど彼は、いつも面倒そうに、

「別に普通」

 と答えるだけ。どんな話をしているときも、余った菓子を探したり、床へ寝転んでテレビを見たりしていた。誰かに「お前のところはもっと酷かったんだろ」と聞かれた時には、

「お、じゃあオレの勝ちじゃん。なんかくれんの?」

 と言って皆を黙らせた。

 デンジくんが何も話さないのは、語るほどの出来事がなかったからではないか。彼は皆が言うほど苦労していないのかもしれない。あるいは、単に昔のことを忘れているだけなのかもしれないけど……。……はっきりとしたことは誰も知らなかった。デンジくんは、いつだって何を考えているのか分からない男の子だった。

 そして、私はもうすっかり、デンジくんのことを好きになってしまっていた。

 そもそも彼は顔が良かったし、上記のいろんなエピソードで分かる通りに優しかったから当然だ。時折見せるアンニュイな表情も、好意に拍車をかけていた。一部の男の子は彼のことを「仕草が下品」と笑ったけれど、それもひがみにしか聞こえなかった。

 二人で街に出て以降、私たちは少しだけ仲良くなった。

 とはいっても、朝食の時に私がパンを食べて居ると、すれ違い様にからかわれるようになったというだけのことなのだけれど。けれど基本的に他の子たちと関わりの少ないデンジくんのことだから、皆は、特に女の子たちはとても不思議がった。

「ねえ、パン二個って何のこと?」

 私はパンを半分にちぎりながら、何でもないよ、と答える。

「何でもなくないでしょ。あんなに笑ってるんだから」

「本当に何でもないの。ちょっとしたこと」

「街に行った時の話?」

 どうして分かったのだろうと思ったけれど、よく考えれば、私たちが同じバスで帰ってきたところを誰かに見られていたのかもしれない。私は曖昧に笑って、口の中へパンを押し込んだ。街での出来事を、誰かに話したくなかった。皆へ喋ってしまえば、急に平凡な出来事になる気がした。

 それから何日か、食事の度に似たようなことを聞かれた。

 街で何をしたのか。どちらから誘ったのか。二人で同じ店へ入ったのか。帰りのバスでも隣に座ったのか。質問の内容は少しずつ変わったけれど、要するに、私とデンジくんがどの程度親しいのか知りたかったのだと思う。私はその度に、偶然バスで会っただけだと説明した。実際その通りだったし、私たちはまだ、食堂の外で待ち合わせをしたことさえなかった。

 話を聞きに来るのは、ほとんどが女の子だった。その意味は私にだって痛いほどに分かる。

「これ、彼に渡してくれない?」

 夕食を終えたところで、向かいに座っていた女の子から小さな包みを差し出された。茶色い紙の隙間から赤い糸が見えたので、おそらく手袋か何かだったのだと思う。どうして自分で渡さないのかと聞くと、最近あまり話す機会がないから、と言われた。私はデンジくんが食事中に彼女の隣へ座っているところを何度か見たことがあったし、その日の朝にも二人が廊下で話しているのを見かけていたけれど、わざわざ指摘するほどのことではないと思った。

 デンジくんは食堂の隣の部屋で、床へ寝転がって雑誌を読んでいた。声をかけても返事をしないので、顔の上へ包みをかざす。

「これ、預かったよ」

「んえ……何? なんも心当たりねーけど」

「分からない。開けてみたら?」

「誰から?」

 女の子の名前を言うと、雑誌が少し下がった。彼なら飛び上がって喜ぶだろうなと思っていたけど、実際には包みを一度見ただけで、また雑誌へ顔を隠してしまった。

「え、え、いらないの?」

「そういう感じじゃねーから」

「そういう感じって?」

「俺にゃ~女の子からのプレゼントを受け取れね~深い事情があんの」

 返しに行くのも気まずかったので、包みを彼の腹の上へ置いて部屋を出た。翌朝、同じ包みが食堂の窓際へ放置されていた。誰のものか分からないお菓子や雑誌と一緒に積まれていたから、女の子が気づく前に拾って返した。彼女は包みを受け取ると、私が何か余計なことを言ったのではないかと尋ねた。私は頼まれた通りに渡しただけだと説明したけれど、明らかに機嫌を損ねていて、それ以来しばらく口を利いてもらえなかった。

 その一件があったあとも、似たような頼み事は続いた。

 街へ行く日を聞いてほしい。今度映画を見る時に隣を空けておいてほしい。食堂に来るよう声をかけてほしい。自分のことを何か言っていなかったか教えてほしい。私はそのどれも、出来る範囲で引き受けた。デンジくんと話す理由が出来るのが少し嬉しかったし、女の子たちから頼りにされることも嫌ではなかったから。けれど上手くいったことはほとんどなかった。私が何度も同じようなことを伝えるうち、初めは適当に返事をしていたデンジくんも、段々露骨に嫌な顔をするようになった。

 ストーブに使う薪を割っていた日のこと。

「それ、誰に頼まれてんの?お前、なんでしれっとデンジくん係になってんだよ」

 数日前から、街へ行く時に一緒に連れていってほしいと頼んでいる女の子がいた。私が何度聞いてもデンジくんは返事をしなかったので、その日こそはっきり決めてもらうよう言われていて。数度目の問答の末に、心底嫌そうな顔で切り返される。

「進んでやってるわけじゃないよ」

「分かってるよ」

「連れていってあげたらいいじゃん、一回くらい……」

「行かねえ」

「どうして?」

「……大事にしたい女の子がいるから」

「それって、誰?」

 デンジくんはそれに答えず、抱えていた薪を抱え直して、先に物置へ入っていった。私も慌ててあとを追ったけれど、重い扉を足で押さえることもせず、目の前で閉められてしまった。

 その女の子には断られたとだけ伝えた。どうしてと何度も聞かれたが、本人に尋ねてほしいと答えた。その言い方が気に障ったのか、翌日には、私がデンジくんを街へ連れ出さないよう邪魔をしたことになっていた。さらに次の日には、私たちは誰にも内緒で付き合っているらしいという話まで出ていた。

 さすがにこれには困った。

 私はデンジくんと付き合っていなかったし、向こうから好きだと言われたこともなかった。私が彼を好きなことと、彼が私を好きであることはまったく別の話だ。なのに噂を否定すると、今度は隠しているのだと言われた。そして都合が悪いことに、私がデンジくんのことを好きなことは、とっくに周知の事実だった。

 そのうちに、女の子たちが話しているところへ近づけば急に会話が止まり、食堂で空いている席へ座ろうとすると、そこは人が来るからと言われるようになった。だからしばらくデンジくんへ話しかけないことにした。朝食の時は彼が来る前に食堂を出た。薪を運ぶ時も時間をずらし、皆がテレビを見ている夜には部屋へ戻った。頼み事をされても、本人に言った方がいいと断った。初めの二、三日は、これで元に戻れると思っていた。元というのが、誰にも特別嫌われず、かといって親しくもされず、食器を洗っていれば時々声をかけてもらえる程度の立場を指していたのなら。

 一週間ほど経った夕方、いつものように食器を洗っていると、目の前に流しへ皿が一枚置かれた。手を辿って視線を上げて、それがデンジくんだと気が付く。

「ちょっと……」

 自分の分は自分で洗うのではなかったのか、と言いかけたところで、もう一枚置かれた。テーブルに残っていた誰かの皿。それからカップと、ソースのこびりついた大皿まで持ってくる。

「ちょっと。何してるの!」

「皿置いてんの」

「見れば分かるよ。どうして私のところへ持ってくるの?」

「最近こればっかやってんじゃん。好きなのかと思って」

「最近じゃない。前からだよ。……好きじゃないってば」

「前はもっとウロウロしてた」

「ウロウロなんてしてない」

「してたじゃん。何か言いに来たり、聞きに来たり」

 蛇口を止めて、彼の方へ向き直る。

「それが嫌だったんでしょ」

「嫌だった」

「じゃあ、よかったじゃん……」

「よくねーよ」

 言っていることがめちゃくちゃだと思った。どうしてほしいのか分からない。ただ、聞いてもきちんと答えるとは思えなかったので、また蛇口を捻った。水の音が大きくなって、それ以上話す必要がなくなる。

 デンジくんは流しの横から動かなかった。

「またナメられてんじゃん」

「……分かってるってば」

「分かっててやってんの? 意味わかんねー」

 腹が立ったので、びちゃびちゃに濡れた手で彼の上着を掴んだ。驚かせるつもりだったのに、デンジくんは私の手を見ただけだった。薄汚れた布へ水が染みて、指の形に色が変わっていく。

 利用されていることくらい分かっている。女の子たちは私と仲良くなりたいのではなく、デンジくんへ近づくために話しかけてきたってことも。それでも、頼み事を断ってまた一人になるよりはいい。

 そんなことを説明したところで、彼にはきっと理解できない。

「……私は、デンジくんみたいに一人でも平気じゃないから」

「オレも別に、平気じゃねえけど」

「じゃあなんでデートに行かないの」

「義理立てたい人がいるから。……義理っつーか、俺が勝手にそうしてるだけだけど」

 だから、その人って一体誰の事?

 聞き返す前に、デンジくんは私の横へ押し入り、流しに残っていた皿を勝手に洗い始めた。洗剤をつけすぎて泡だらけになり、すすぎもしないまま棚へ置こうとしたから、慌てて止めた。結局、私が洗って彼が拭くことになった。

 同じコテージのエミちゃんが、「あなたのポシブルに会えるかもしれない!」と言い出したのは、その翌週のことである。

「この前、街で███ちゃんにそっくりな女の人を見たの。顔もそうだけど、それ、同じの着けてた!」

「同じのって?」

「そのブレスレット! 青と白のやつ!」

 思わず手元へ目を落とした。私の手首には、直したブレスレットが巻き付いている。彼女はそれを指でつまんで、何度も何度も「これ、これ」と繰り返した。

 それらしき人物を、街の広場に面した雑貨店で見かけたのだという。

 三十歳くらいの女の人で、髪の色や目元が私によく似ていた。店を出たところで連れの人と別れ、そのまま駅の方へ歩いていった。エミちゃんは初め、単に似ているだけだと思って、けれどその女の人の手首に巻かれたブレスレットを見て、もしかしたらと考えたらしい。

「でも、こういう色のブレスレットなんて、ほかにもあるんじゃないかな」

「同じだったってば! 青の間に白が二個ずつ入ってて、こう、斜めに波みたいに見えるやつ。留めるところも変な結び方してた」

 これは私が十歳の時に考えた配列だ。

 ヘールシャムの交換会で皆に真似されたことはあったけれど、彼女たちの作品が学校の外へ出ることはない。マダムに持っていかれたものを除けば。私が最後に自分用として作ったブレスレットも、ヘールシャムを出るまで一度も外へ持ち出したことはなかった。

 ポシブル探しは、なにもコテージでは珍しいことじゃない。街で自分に似た人を見かけたというだけで半日車を走らせた人もいたし、雑誌に載っていたモデルが自分のポシブルに違いないと言い張り、編集部へ手紙を送った人もいた。大抵は相手の年齢が合わなかったり、近くで見るとそれほど似ていなかったりして、いつの間にか話題に上らなくなる。

 そもそもヘールシャムではそういったものを探しても意味がないと教えられていた。私たちの“元”になった人々がどのように選ばれるのかは知らなかったけれど、会って話が出来るわけでもなければ、自分がその人のようになれるわけでもない。だから必要以上に期待しない方がいい。

 それでも、私と同じブレスレットを着けていたという話は、頭から離れなかった。

「次の土曜日、また街へ行くんだけど、一緒に来る?」

 エミちゃんにそう言われて、その場で頷いた。

 土曜日は朝から雨が降っていた。エミちゃんのほかに二人の女の子がついてきて、私がポシブルかもしれない人に会う場面を見たいと笑った。道を尋ねるふりをして顔を近くで見るべきだとか、ブレスレットを褒めて買った場所を聞けばいいとか。私は何度も、まだその人が来るとは限らないと言ったけれど、皆は遠足へ行くように浮かれていた。

 問題の雑貨店は、以前デンジくんと入ったカフェテリアから二本ほど離れた通りにあった。

 店の前には籠や食器、色の派手な布が並べられていて、窓際にはアクセサリーがいくつも吊られている。開店から昼を過ぎるまで店の向かいに立っていたけれど、エミちゃんの言った女の人は現れなかった。雨は少しずつ強くなり、屋根のない場所で待っていた私たちの靴や裾はすっかり濡れていた。女の子たちは次第に飽き始め、近くの店へ菓子を買いに行った。エミちゃんも、もう今日は来ないかもしれないね、と、言い出しっぺのくせに不機嫌に癇癪を起こし始める。

 そうして私がこの気まずい空気に耐えかねて、「もう帰ろうか」と言おうとしたその時。

「あの人!」

 雑貨店から一人の女の人が出てきたのを見て、エミちゃんが私の腕を強く引いた。たしかに髪は私と似た色だ。背丈もそう違わない。けれど顔を横から見た時点で、私とはまったく似ていないことが分かった。

 それでも手首には、確かに私がデザインした、青と白のブレスレットが巻かれている。

 女の人は傘を開き、通りを渡ろうとしている。私は慌てて追いかけた。名前を呼べるはずもないので、すみません、と何度か声を上げる。女の人は自分が呼び止められているとは思わなかったらしく、信号の手前まで行ってようやく振り返った。

「あの、すみません。そのブレスレット……」

 近くで見ると、やはり私とは少しも似ていない。目の色も違ったし、年齢もエミちゃんが言っていたよりずっと若く見えた。彼女が私のポシブルだとしたら、少し若すぎる。

「これ?」

「はい。どこで買ったのかな、と思って」

「そこのお店よ。窓に同じものが出ていたでしょう?」

 女の人は親切そうな顔で笑って雑貨店を指差す。何年か前から売られている商品で、色違いもある。姉とお揃いで買ったのだと話し、急いでいたらしく、すぐに行ってしまった。店の窓をあらためて見ると、端の方に細い木の箱が置かれている。中には青と白、赤と白、黄色と緑など、色の違うビーズのブレスレットが何本も並んでいた。雨で硝子が濡れていたので、道の反対側からは分からなかったのだ。

 ……お礼を言って、飛び込むようにして店の中へ入った。最初に私へ話しかけてきた店員さんへ、窓に置かれたブレスレットを見せてほしいと頼む。買うつもりだと思われたらしく、店員さんは箱ごとカウンターへ出してくれた。青いビーズの間には白が二つずつ入り、腕へ巻くと白い部分が斜めに連なって見える。留め具には二本の糸を交差させ、片方を輪へ通して固定する方法が使われていた。十歳の時、何度も失敗しながら考えた結び方だった。違うところを探したけれど、見つからなかった。

「これ、誰が作っているんですか」

「近くの工房ですよ。手作りではないけれど、ここの地域で作られています。随分前からあるデザインですね」

「い、いつからですか」

「さあ……。私が働き始めた時には、もうありましたけど」

 店員さんは困った顔をして箱の裏に貼られた小さな札を見せてくれた。そこには工房の名前と街の外れにある住所が書かれていた。

 その名前を紙へ書いて貰って、泣きじゃくりながらお店を出た。エミちゃんへ工房の住所を見せたけれど、もう疲れたから帰ろうと短く言われただけだった。

 けれど、どうしてヘールシャムで作ったはずの模様が街の商品になっているのか。絶対に絶対に偶然なんて起こりえない、複雑な柄なのだ。

 コテージへ戻ってから、今度はブレスレットについて調べ始めた。

 当時のコテージには調べものに使えるような資料がほとんどなかった。食堂の隅に置かれた古い電話帳と、街の店でもらえる広告、誰かが置いていった雑誌くらい。私はまず電話帳から工房の名前を探し、同じ住所に登録されている会社を書き出した。街へ行く人には、雑貨店で同じ商品が売られていないか見てきてもらった。

 初めのうちは皆、割合快く協力してくれた。

 駅前の売店にもあった。少し離れた街の土産物店にもあった。商品名は店によって違った。波のブレスレット。海辺の飾り。夏の思い出。どれも私がつけた名前ではない。ポシブル探しの延長だと思われていたのだろう。どんな女の人だったの。やっぱり顔が似ていたの。話しかけた時、向こうはどんな反応をしたの。初めの何日かは、皆から矢継ぎ早に質問された。だけど、その人がポシブルではなかったと分かると、急に誰も興味を示さなくなった。

「まだそれやってんの?」

 調べ始めて二週間ほど経った夜。デンジくんが食堂のテーブルへ頬杖をついて、私の資料を覗き込む。

「そんなに気になんの、ポシブルのこと」

「気になるよ。私の親になった人の事だよ? 会ってみたい」

「親っつーかなんつーか……」

「デンジくんは、会ってみたいと思わないの?」

「思わねーな」

「どうして?」

「俺の元になった人間とか、ぜってーロクでもねーから」

 きっぱり断言するので笑ってしまう。デンジくんは興味があるのかないのか、机の上に広げられていた広告を一枚取り、裏返したり、明かりへ透かしたりした。そうして何も面白いことが書かれていないと分かると、細長く丸めて私の頭をぽこぽこ叩いた。

「やめてよ! やめてよ!」

「こんなもんばっか見てるとバカになるぞ」

「今調べないと、分からなくなるかもしれないでしょ。街で出会った人は違ったけど、これをデザインした人がいるとしたら、その人が私のポシブルかもしれない」

「誰かがお前のを見て真似したんじゃねえの?」

 そんなことは、と言いかけてやめた。私の作品は一度ヘールシャムの外へ持ち出されている。校長先生に選ばれ、マダムのところへ送られたブレスレット。デンジくんは私が黙ったのを見て、紙を頭から取った。

「心当たりあんの?」

「小さい頃に作ったものを、外の人が持っていったことがあるの」

「誰」

「マダムっていう人。ヘールシャムの子どもが作ったものを集めてた」

「じゃあそいつじゃん」

「そんなはずないよ。作品を売るために持っていったんじゃないもの」

「何で持ってったの」

「それは……」

 聞かれるまで気が付かなかったけれど、確かに。マダムはヘールシャムに、何をしに来ていたのだろう。疑問に思ったことはなかった。マダムが作品を持っていくことは、交換会が開かれることや、定期的に健康診断を受けることと同じくらい、当たり前のことだったから。

「次、街行くのいつ?」

「え?」

「工房行くんだろ」

「まだ行くとは言ってないよ」

「じゃあ行かねえの?」

「行くけど……」

 少し考えて、もしかしてと思いあたる。

「私、一人で行けるよ」

「無理だろ」

「前にも一人でバスに乗れたし」

「地図逆さに持ってたじゃん」

「あれは最初だけ!」

 けれど結局、翌週の街行きの申請用紙には、私とデンジくんの名前が並んだ。私が書いたのではない。夕食のあとに申請用紙を取りに行くと、既に二人分の名前が書かれていた。線が太くて、文字と文字の間がやけに広かった。

 これ、デンジくんが書いたんだ。

 そのことを意識すると途端に恥ずかしくなって、申請用紙を何度も折り畳んだ。これでは前に女の子たちが噂していたことが、本当になってしまうような気がした。もちろん、調べものをするだけだ。デンジくんは工房が胡散臭くて面白そうだから来るのだろうし、私は一人では心配だから、というのもあるのだと思う。そう考えて安心しようとしたけれど、当日の朝、停留所に立っているデンジくんを見つけると、どうしてもにやけ顔が抑えられなかった。胸がどきどきして、ぎゅーっとして、踊り出したいような気持ちになった。

 電話帳に載っていた住所は古いものだったらしく、そこには別の会社の倉庫が建っていた。近くの案内所で尋ねると、工房は数年前に街の外れへ移転し、別のバスへ乗り換えなければならないという。帰りの便に間に合わなくなるかもしれないので、その日はブレスレットを置いている店を何軒か回ることにした。

「これ、いつから売ってるんスか」

「さあ。随分前からですけど」

「誰が作ったものか分かりますか」

「箱の裏に工房名がありますよ」

「そこの住所は今も同じ?」

 店員さんが作り笑いを浮かべて、贈り物をお探しですかと尋ねる。

「違います」

 デンジくんはそのたびにはっきりとそう答えた。そんな会話を横で聞きながら、何もそこまで強く否定しなくてもいいのにと思ったけれど、店を出たあとでそのことを口にする勇気はなかった。

 お昼時になれば、リベンジも兼ねて以前二人で入ったカフェテリアに入る。

 注文を、私がした。店員さんの前へ立つと心臓がどくどくして、壁の文字が読めなくなりかけて、それでも、前に頼んだものと同じ料理を指差して、どうにか注文をした。パンの数も間違えなかった。

 私にとっては涙が出るほどの快挙だ。なのに、料理を受け取って席へ戻るとデンジくんがテーブルへ突っ伏して笑っていて、なにか間違えたのかと不安になる。

「な、なんで笑うの……?」

「ああ、いや。すげー緊張してんなあと思って」

「あ、当たり前でしょ」

「パンニコ! って今日も言うの、期待してたのに」

「もうその話しないでよ! しつこい!」

 それから何度も一緒に街へ出た。

 昔の電話帳を調べるために図書館へ行った。駅前の売店で、箱の裏に違う会社名が書かれた古い商品を見つけた。その会社は既に潰れていたけれど、以前の住所を辿ると、現在の工房と経営者の名字が同じだった。机の上へ何年分もの電話帳を積み、会社名が載っている頁を一つずつ確認する。デンジくんは初めのうちこそ隣で雑誌を読んでいたけれど、途中で飽きて、電話帳に載っている変な名前を指差して笑ったり、私の鉛筆を隠したりした。

「邪魔するなら外で待っててよ」

「外寒いじゃん」

「じゃあ静かにして」

「してんじゃん」

「さっきからずっと喋ってるよ」

「へえへえ、しばらく黙ります」

 そう言いながら、私が閉じようとした電話帳へ指を挟んだ。

「つかこれ、同じ名前じゃね?」

 指差した先には、現在の工房と同じ代表者の名字がある。住所は違ったけれど、取り扱い品目には『工芸品・服飾雑貨』と書かれていて、確かに同じ会社らしい。その頁を写そうとして鉛筆を探すと、デンジくんが耳の後ろから取り出した。また隠してたのかと思ったけど、面倒なので怒らなかった。

 それから帰り道のバスを待つ間、駅前の店で安いパンを二つ買った。一つを渡すと、デンジくんはすぐには受け取らず、私の手の中を見た。

「二個買っちゃったから」

「何で」

「二個だと少し安かったの」

 本当は初めから二人で食べるつもりだった。

 デンジくんはパンを受け取って包装を破って半分ほど一気に食べた。私も隣で食べた。以前カフェテリアで食べたものより堅くって、ちょっぴり乾いていたけれど、バスを待ちながら食べるにはちょうどよかった。

 そういうことが、少しずつ増えた。

 街へ行く日の申請用紙にはいつも二人分の名前が書かれるようになった。どちらが先に書いたかはその時によったけれど、相手へ確認することはなかった。出発の時間も、わざわざ約束しなかった。何も言わなくても、朝停留所へ行けばデンジくんがいた。デンジくんが遅い時は私が待ったし、私が遅い時には、彼が道端の石を蹴りながら待っていた。それで、帰りには大抵何かを食べた。

 調べものが早く終われば店の多い通りを歩いた。何かを買いたい訳でもないので、基本的には窓の向こうの商品を眺めるだけだったけれど、デンジくんは、普通の人間が使う家具や服を見つけるたびに、自分ならこれを買うとか、こんなものに金を払う奴は馬鹿だとか、勝手なことを言った。

 ベッドは広い方がいい。

 冷蔵庫は絶対に大きいものがいい。

 食器は二枚ずつでいい。洗わなくても次の皿が使えるよう、何枚も持っていた方がいいのではないかと私が言うと、そんなことをしたら部屋中が皿だらけになると言って笑った。そんな未来はありえないと分かっているのに、どういう家がいいか、真剣に話し合った。そのうちに、彼が私の部屋に来ることも増えた。私が電話帳を書き写している横で寝たり、勝手に引き出しを開け、中に入っていたビーズを床へ並べたり。時折、思い出したように資料を見て、これは前に見たとか、この住所は遠いとか言った。私はそんな他愛もない言葉を聞くのが好きだった。

 エミちゃんが、あの女の人を私のポシブルだと言ったのは嘘だったと知ったのも、その頃である。食堂から部屋へ戻る途中、階段の下で何人かの女の子が話している声を聞いた。

「あれ、最初からお店で売ってるやつだって知ってたよ。前に見たことあったし」

「じゃあポシブルっていうのは?」

「髪の色がちょっと似てただけ。███ちゃんなら信じると思ったの」

 誰かが笑った。

「でもまだ調べてるよね」

「もうポシブルじゃないって分かったのにね。デンジくんと街に行く理由が出来たから、止められないんじゃない?」

「絶対そうだよ」

「何にも知らない顔して、やることだけはやるんだよね。ヘールシャムで大事に育てられた子は違うなあって思う」

 嘘をつかれていたことよりも、自分が信じるだろうと思われていたことの方が恥ずかしかった。雨の中で何時間も立っていたこと。知らない女の人を追いかけたこと。店の中で泣いたこと。

「ちっ」

 隣で舌打ちが聞こえて驚いて振り返ると、いつの間にか、デンジくんが立っていた。それで、そのまま平気な顔で階段を下りようとしたので、慌てて上着を掴んで止めた。

「行かないで」

「何で」

「いいから」

「よくねえだろ」

「今行ったら、もっと面白がられるよ」

「別にいいじゃん。オレが怒ってんだから」

「本当にいいから。部屋に戻ろう」

 デンジくんはしばらく階段の方を見ていたけれど、結局私についてきた。

「オレ、あいつ嫌い」

「前から?」

「今から」

 少しだけ笑った。階段を上る道すがら、後ろからエミちゃんの甲高い笑い声が聞こえてくる。

「大体さあ、自分のクローン元に会ってどうするの? 代わりに提供者になってくださいとでもお願いするつもり? ポシブルになるような人がまともな人間のわけないじゃん! マトモな人間が、自分の遺伝子から臓器提供用のクローンをつくることを許可すると思う!?」

 工房の場所がようやく分かったのはそれから半月ほど経ってからのこと。街の中心から随分離れた場所にあり、バスを降りたあとも三十分近く歩いた。倉庫や小さな工場が並ぶ道を進み、途中で道を間違え、同じガソリンスタンドの前を二度通った。

 工房は、赤茶色の屋根がついた……端的に言ってしまえば、あまり立派とは言えない建物だった。

 入口には小さな売店があり、ブレスレットのほかにも、有名ブランドによく似た柄の鞄、妙な効能の但し書きを付けられた天然石、中国と日本と韓国とを全部ごちゃ混ぜにして作ったような、よく分からないアジア風の飾りが並んでいる。

「これ全部パクり? すげ~な」

「大きな声で言わないでよ」

 売店のベルを鳴らしたけれど、どれだけ待っても人が出てこなかった。奥の事務所から話し声が聞こえたので、何度も迷った末、そちらの扉を叩いた。

 そうしてようやく出て来た年配の女性は、私が手首のブレスレットを見せた途端に顔をしかめた。

「それなら、うちのオリジナル商品ですよ!」

「でも、これは私が子どもの頃に作ったものなんです」

「似ているだけでしょう。ビーズの色なんて限られてるんだから、同じようなものが出来ることくらいありますよ」

「色だけじゃないんです。並べ方も、留め具の結び方も同じで」

「そんなこと言われたってねえ。うちは何年も前から、正式に商品として売ってるんです!」

 仕入れ先はどこか。最初に作ったのは誰か。元になった図案があるのか。尋ねるたびに、企業秘密だとか、昔のことだから分からないとか、担当者はもう辞めたとか、答えが少しずつ変わった。

「シラ切ったって無理だって。参考にしたやつどっかにあんだろ」

「だから、うちの商品は全部オリジナルです!」

「じゃあ何で言ってること変わってんの?」

「変わってなんかいません!」

 二人の声が次第に大きくなっていく。この空気感に耐えられなくて、私はデンジくんの上着を何度も引いた。ブレスレットがどうとか、もう何だってよかった。とにかく、ここから立ち去りたかった。

「もういいよ。帰ろう」

「よくねーだろ」

「でも、これ以上聞いたって意味ないよ、コテージに戻ろう」

「……コテージ?」

 女性がはっと顔をあげる、そして私のブレスレットをじっと凝視して——それから、それまでの強気な態度とは打って変わって、途端に怯えた顔をした。

「あ、ああ、あ、あなたたち、もしかして」

 私たちが提供者であることに気が付いたらしい。はくはくと口を開けて、それから、よたよたと事務所の奥に戻っていく。「おい!」デンジくんが声を上げると、彼女は「分かった、分かったから!」と悲鳴のように叫ぶ。

「これ、これっ」

 戻ってきた女性が手に持っていたのは、一枚の冊子だった。『ヘールシャム:定例展示会』。どうやら何かの図録らしい。展示会という言葉に胸がざわつく。パラパラと中を開くと、そこには見覚えのある絵が何個も並んでいる。すぐにそれが“マダム”に選ばれた作品たちだと分かった。

「これ……この展示会は、もう開かれていないんですか。定例って書いてありますけど」

「随分前から開かれてない……お願い、お願いだから、それをあげるからここから出て行って」

「はあ? さっきから言ってること——」

「いいよ、デンジくん、行こう」

 追い出されるようにして工房を出て、しばらく何も話さなかった。

 女性から押しつけられた冊子を胸へ抱えたまま、建物の屋根が見えなくなるまで歩いた。『ヘールシャム:定例展示会』。表紙の角は擦れて白くなり、何度も人の手に渡ったような跡がある。道端で中を開くと、見覚えのある作品がいくつも載っていた。体育館の入口に長く飾られていた油絵。低学年の子が作って、校長先生に褒められていた粘土の鳥。交換会で高値がついた刺繍。作者の名前はどこにも書かれていなかったけれど、何となく誰が作ったものか思い出せるものもあった。

 そうして頁を捲っていくうちに、青と白のブレスレットが出てきた。

 あの日校長先生が持っていった、私のブレスレットだった。

 透明な青いビーズ。間に挟まれた白。少し離して見ると波のように見える配列。留め具の端には、糸を短く切りすぎて出来た小さなほつれまである。写真の下には、『女・十歳』とだけ書かれていた。

「これ、私のだよ」

「うん」

「名前書いてない。私が作ったのに」

「知ってるよ」

「ぜってーこれ参考にして作ってるよな、あれ」

 私は、でも少し色を変えたり素材を変えたりしているかもしれないし、工房の人は昔のことを知らないと言っていたし、と、どうしてかあの女性を庇うようなことばかり言った。別に今も私が販売したかったわけではない。ブレスレットを買った女の人に返してほしいわけでもない。誰かが気に入って身につけているなら、それはそれでいいことのようにも思えた。ただ、写真の下に自分の名前がなかったことだけが、ひどく引っかかった。

「だけど……もし、参考にしてたとしたらさ。なんていうか、ちょうどよかったのかな」

「何が?」

「提供者が作ったものなら、訴えられたりしないから」

 名前を書いたところで外の人には何の意味もないのかもしれない。私たちは名字も持っていなかったし、ヘールシャムを卒業して何年も経てば、どこにいるのかさえ分からなくなる。中年になる前に、全身ばらばらになっちゃうから。

 デンジくんは納得していない顔をしていたけれど、何も言わなかった。帰りのバスの中で、冊子を二人の膝の間へ置いて、最初から最後まで何度も見返した。デンジくんは途中で飽きたみたいで、窓へ額をつけて眠ってしまった。私はその隣で、『女・十歳』という文字をずっと見ていた。

 工房の場所も分かった。

 商品が私の作品を元にしていたことも分かった。

 図録を作った人や、最初に作品を持ち出したマダムへ尋ねたいことは沢山あったけれど、どこにいるかも知らない相手を探す方法なんて思いつかなかった。

 それなのに翌週、申請用紙には私とデンジくんの名前が書かれているので驚いた。線が太くて、少し右へ傾いている文字で。翌朝、まさかと思いながらも停留所へ行くと、デンジくんはいつもの場所にいた。

「あの……今日は、どこか行くところあるの?」

「別に」

「じゃあ、どうして街へ行くの?」

「行っちゃダメなの?」

「駄目じゃないけど……」

「じゃあいいじゃん」

 そんなよくわからないやり取りをして、一緒にバスへ乗った。カフェテリアで昼食を食べ、商店街を歩き、駅前の売店で安い菓子を買った。デンジくんは大きな肉の写真がついた看板を見つける度に立ち止まった。私は家具屋の窓へ並べられた食器を見た。

「これ、前にも見たね」

「見てねえよ」

「見たよ。デンジくんが、こんな小さい皿じゃ腹いっぱいにならないって言ってた」

「じゃあ違う店じゃね?」

「同じだよ」

「皿なんか全部同じだろ」

 そんなことないと思うけど。そう言いながら、隣へ並んで窓の中を覗いた。帰りのバスを待ちながら、何をしに来たのだろうと少し思った。何も調べなかったし、必要なものを買ったわけでもない。食事やバス代を使っただけ。それでも一日が無駄だったとは思わなかった。

 そうして次の週も街へ行った。その次も。申請用紙へ名前を書くことさえしない日もあった。

 誰かが街へ行く車を出すと聞けば、二人で空いている席へ乗った。少し遠い売店に新しい菓子が入ったと聞けば見に行った。雨の日は図書館で雑誌を読んだ。ブレスレットの図録はしばらく私の部屋に置かれていて、デンジくんは時折それを開いて、あれこれ好きなことを言った。

 昔の知り合いが作ったものかもしれないのであまり馬鹿にしないでと言うと、じゃあどれがお前の友達の作品なのと尋ねられる。

「友達……っていうほどじゃないよ。ただ、知り合いかもだから」

「……知り合い?」

「うん」

「そんだけかよ」

「同じ学校なんだから、顔くらいは知ってるよ」

「……友達いなかったわけ?」

「……」

「ほーん。じゃあ俺と一緒じゃん」

 そのうちに、図録を開かなくてもデンジくんは私の部屋へ来るようになった。扉を二回ほど雑に叩き、こちらが返事をする前に入ってくる。ベッドへ寝転がり、引き出しを勝手に開けて、なんかすることねーかなと無理難題を言った。私たちは自由だけれど、同時に暇を持て余してもいた。何もないと言っても、しばらく帰らなかった。私も、帰ってほしいとは言わなかった。

 彼は、黙っていることを気まずいとは思わないようだった。

 私が服のほつれを直している横で黙って眠った。窓の外を見ながら、今日の夕食は何だろうと言った。廊下を誰かが通ると一瞬だけ身体を起こして、またベッドへ倒れたりもして。私たちはもう、ブレスレットのことをほとんど話さなかった。それでも二人でいた。

 デンジくんも私と一緒にいたいのかもしれない。

 無性にそう思った。もちろん、そう断言するほどの自信はない。彼は好きだとは言わなかったし、コテージの他のカップルみたいに手を繋いだこともなかった。だけど、用事がなくても街へ行った。私が朝食へ遅れると席を立たずに待っていた。自分の皿は洗うくせに、私が一人で流しに立っていると横へ来て、濡れたお皿を拭いてくれた。そんなことが増える度、私は少しずつ調子に乗った。デンジくんは私を好きなのかもしれない。好きと言うほどではなくても、少なくとも、ほかの女の子とは違うのかもしれない。彼が大事にしたいと言っていた女の子や、義理立てたいと言っていた人のことを思い出さなかったわけじゃない。けれど、その人が今どこにいるのかも分からないし、デンジくんと連絡を取っている様子もなかった。私たちは毎日同じ場所にいる。いつの間にか、そちらの方が大事になることもあるのではないか。そんなことを考えていた。

 外では雨が降っていて、窓へ細かな水滴が当たって音を立ててもいて。部屋の中は暗かったけれど、電球をつけるほどでもないと思って、机の上の小さな明かりだけを使っていた。ベッドへ座って、穴の開いた靴下を直していたのだ。デンジくんは床へ座り、図録を膝の上へ広げている。

「それ、まだ見てるの?」

「暇だから」

「自分の部屋に戻ればいいじゃん」

「戻ってほしいの?」

「そういう意味じゃないけど」

 この頃デンジくんは、そんな試すような物言いをよくした。気にしないふりをして靴下へ針を通すけれど、暗くて糸が見えにくい。何度か穴へ通し損ね、指先を刺した。

「痛っ」

「何してんの」

「針が刺さった」

「見せて」

「大丈夫だよ」

 手を引こうとしたけれど、デンジくんが手首を掴むから、大人しく腕から力を抜く。見る見るうちに指先に小さな血の玉が出来る。

「傷って舐めたら治るらしいぜ」

「……は!? やめて!」

「何も言ってね~じゃん」

「絶対舐める気じゃん!」

「食ったら意外とうめーかも」

「気持ち悪いよ!」

 笑いながら手を振り払った。その拍子にベッドの端から身体がずれ、床へ落ちそうになって、それで……。

 ……それで、咄嗟にデンジくんの肩を掴んだ。顔が近づいた。笑っていたはずなのに、途端にどちらとも急に黙った。鼻先が触れそうな距離だった。デンジくんの目が私の顔をじっと見ていた。いつもより瞬きが少なくて、何かを考えているようでいて、何も考えていないようにも見えて。デンジくんはいつだってなにをかんがえているのか分からない。手首を掴んでいた指は、そのままだった。

 デンジくんの頬へ触れた。

 思っていたより温かかった。彼は逃げなかった。ほんの少しだけ顔を傾けた。口が触れる、と思ったその時。

 次の瞬間には、両肩を強く押された。ベッドの上へ倒れて、何が起こったのか分からず、すぐには身体を起こせなかった。デンジくんは立ち上がって肩で息をしているのが、視界の隅で見える。

「ごめん」

 酷く怯えた顔をしていた。息を切らしながら、何度も謝った。

「ごめん、ごめん、オレ、女とは付き合えねぇ」

「……どうして?」

「約束、したから」

 押された肩が痛かった。それ以上に、自分だけが何かを勘違いしていたことが恥ずかしくて、悲しくて、みっともなくて、顔を上げられなかった。

「……前に言ってた人と?」

「……うん」

「その人と、今も付き合ってるの?」

「そういうんじゃねえけど」

「じゃあ何?」

「言えねえ」

「私とは、街に何回も行ったのに」

「調べものだろ」

「もう調べもの、終わってたよ」

 デンジくんは黙った。もうよせと思うのに、口から言葉が止まらなくなる。

「二人でご飯も食べた」

「腹減ってたから」

「私の部屋にも来たじゃん!」

「それは……」

「用事がなくても来てたじゃん! それって……それって、少しは私のことを好きだったからじゃないの?」

 声が震えた。泣きたくないのに涙が溢れて、言いたくないのに言葉が止まらなかった。

「全部、私の勘違いかな……」

 デンジくんは俯いた。何か一つくらい否定してほしかった。勘違いではなかったと言ってほしかった。好きではないとしても、私だけが勝手に近づいたのではなかったって。

「ごめん」

 だけどデンジくんは、もう一度そう言っただけ。無表情で部屋を出て行って、それきりもう戻らなかった。

 誰かに顔を見られるのが嫌で、その日は部屋からもう出なかった。いろんな子から体調が悪いのかと聞かれたけれど、眠いだけだと答えた。翌朝になって食堂へ行くと、デンジくんは窓際の席にいた。目が合いそうになってすぐに逸らした。向こうも話しかけてこなかった。その翌日も、その次の日も、私たちは口を利かなかった。申請用紙へ二人の名前が並ぶこともなくなった。

 エミちゃんが私の部屋へ来たのは、それから四日ほど経った午後のことだ。

 私はベッドの上で切れたボタンを縫いつけていた。……最近は針を持つ度、あの夜のことを思い出してしまう。

「一人?」

「うん」

「よかった」

 何がよかったのか分からない。エミちゃんは背中へ隠していた大きな茶封筒を取り出した。表には私の名前が書かれていた。

「これ、貰って来たの。資料請求して」

「資料?」

「ヘールシャムの」

「……、……どういうこと?」

「工房から貰った本、あなたの部屋に出しっぱなしだったでしょう。後ろに問い合わせ先が載ってたから、███ちゃんの名前で申し込んであげたの」

「勝手に?」

「調べたかったんでしょ。自分の事」

 エミちゃんは悪びれずに笑った。管理番号も必要だったけれど、街へ行く申請書類をまとめているファイルに書かれていたのだという。誰でも見られる場所にあったし、本人じゃないと貰えないようだったから私の名前を使った。そう説明してから、封筒へ伸ばした私の手を避けるように、一度背中へ隠した。

「ねえ、最近彼と凄く仲がいいよね」

「……そうかな」

「部屋にもよく来てたでしょう。街にも、二人で何回も行ってたし」

「調べものをしてただけだよ」

「でも、調べものが終わってからもじゃん」

 何も言えなかった。エミちゃんは私の顔を覗き込んで、にまにまと笑っている。

「……付き合ってるって、思ってる?」

「思ってないよ」

 即座に答えた。少し声が震えた。

「付き合ってない」

「そう?」

 エミちゃんは残念そうに口を尖らせた。

「もっと勘違いしてたら面白かったのに」

「何の、話?」

「ネタバラシしてあげるよ」

 封筒を私の膝へ落とした。中には何枚もの紙が入っていた。一番上には作品番号と、ヘールシャムで使われていた私の管理番号が書かれている。制作年齢は十歳。図録に載っていたブレスレットの写真も添えられていた。間違いなく私の記録だった。

『既存の手順を理解した上で独自の変化を加える能力が認められる。反復作業への集中力が高く、完成後は周囲の反応を強く気にする傾向あり』

 背中に冷たいものが滲む。そこまでは作品についての所見に見えた。次の行には、ブレスレットと関係のないことが書かれていた。『承認欲求が強く、援助行動を通じて他者との関係を維持しようとする。拒否行動は少ない。集団内において不利益を受けた際も、関係の断絶を避けるため自己抑制を選ぶ傾向』。何度も読み返した。食堂の片づけを引き受けたこと。制作室から材料を取ってきたこと。皆へ編み方を教えたこと。私が知らないところで、保護官たちはそういう行動を見ていたらしい。

 次の紙には、『卒業後配置検討資料・対象A』と書かれていた。対象Aは、考えるまでもなく私のことだった。文字を読む目が止まらない。『対人関係において受動的。拒否傾向は低く、特定人物の要求に応えることで情緒的安定を得る。外部環境への不安が強く、自発的離脱の可能性は低い。生活管理及び介護役への高い適性が見込まれる』その下にはいくつかのコテージの名前が並んでいて、私が送られたコテージへ赤い印がついていた。

『対象Dとの同一施設への配置を推奨』

 対象D。その文字を見た瞬間、何となく嫌な予感がした。続きの紙を捲る。

『対象Dは、対象Rとの無許可離脱及び回収以降、施設職員への反抗、他対象との衝突、食事及び健康管理への拒否が増加。対象Rとの関係中は、情緒及び生活習慣に一時的な安定が認められた。一方、対象Rは外部志向及び主導性が強く、対象Dの離脱行動を助長したものと判断する』

 対象R。きっと女性だ。デンジくんがよく口にする約束の人は、このRという女性なのだろうと直感的に分かった。

『今後、対象Dの情緒安定には、継続的な女性対象との接触が有効と予測される。ただし、対象Rと同様の外部志向を持つ者は避けること。拒否傾向が低く、援助行動を通じて関係を維持する対象が望ましい』

 その下に、私の番号があった。

 何度読んでも、書いてあることは変わらない。私はヘールシャムからひとり、遠く離れたコテージへ送られた。空きがなかったからではなかった。以前の人間関係から離してもらったわけでもなかった。デンジくんの生活を安定させるため。デンジくんがもう一度逃げないようにするため。外へ行きたがらず、人の頼みを断れず、誰かの役に立つことでしか関係を保てない女の子が必要だった。彼をここにしばりつけるために。……それが、私。

 街中でのこと。拒まれた日のこと。すべての点が繋がっていく。

「すごいわよね」

 エミちゃんは私の肩越しに資料を覗き込んでいた。

「本当に彼のお世話をするためにここへ来たんだ。だから仲がいいんだね。相性評価が高いんだって」

「……やめて」

「よかったじゃん。ちゃんと向こうの思った通りになって」

「やめてよ!」

「よかったじゃん!」

 叫び返されて顔を上げる。エミちゃんは涙目で、私の顔をじっと見ていた。

「運命だわ」

 返事も待たずにまた、続けた。

「運命じゃなきゃなんなの。デンジくんにぴったりだって、思われたから、あなたはここに来たの。たまたまここに居る私とは違う」

 だからよかったじゃん。繰り返されて言葉に詰まる。その理由が痛いほど察せられたから。彼女の気持ちが手に取るように分かった。私もつられて涙がこぼれた。それ以上の言葉はなかった。

 どうせ使い捨てるためのクローンとして作るんだったら、品種改良として、感情なんて感じないようにしてくれたらよかったのに。

 紙を抱えたまま廊下を走り、階段を下りた。食堂には何人かいたけれど、デンジくんの姿はなかった。隣の部屋。物置。厨房。どこにもいない。外へ出ると、薪置き場の近くにいた。切った薪を腕へ抱え、母屋へ運ぼうとしている。

「デンジくん!」

 自分でも驚くくらい大きな声が出た。デンジくんが振り返った。数日ぶりに正面から顔を見る。

「……何?」

 こちらへ近づきかけて、私の持っている紙に気づいた。途端に顔色が変わる。

「なにそれ」

「このRって、どんなひと?」

「は?」

「この人がいるから女の子とデートしなかったの?」

「声でけえよ」

「この人がいるから、私を突き飛ばしたの?」

「……違う。違う、そうじゃなくて」

「何が違うの。約束したんでしょ、この人と」

 デンジくんは何も答えない。雨に濡れた子犬みたいな傷付いた顔で、ただ私のことを見ている。

「この人とは付き合ってたの?」

「……誰に貰ったんだよ、それ」

「答えてよ!」

 薪が地面へ落ちた。

「付き合ってたの?」

「……うん」

「皆の不幸自慢に混ざって自分の施設を馬鹿にしなかったのは、この子が居たから。違う? 街で一緒に暮らした相手も、このひと。……無許可離脱って、そういうことだよね」

 だから私よりずっと上手に家具のあれこれに対して具体的な想像ができる。だから、街を歩くのになれている。私なんかより、ずっとずっと。

「……ああ。一緒に逃げて街で暮らした。すぐに見つかって連れ戻されたけど」

 一つ答えられるたび、胸の中がぐちゃぐちゃになった。知りたいことを尋ねているはずなのに、何を聞いても死にたくなる。苦しい。胸が苦しい。だけど知らないままでは居たくない。

「どんな人?」

「関係ねえだろ」

「あるよ!」

「何で」

「だって、私、この人の代わりにここへ送られたんでしょ!?」

「代わりじゃねえよ」

「書いてあるじゃん!」

 感情のままに紙を突きつける。

「この人みたいに外へ連れ出さない女がいいって! 断らなくて、世話をして、デンジくんが逃げないようにする女がいいって書いてある!」

「それ書いたのはオレじゃねぇよ!」

「だけど、知ってたんでしょう!」

 しばらくの間沈黙が流れた。ただただ苦しかった。ああ、いいなあ、いいなあ。その人はデンジくんと同じ空腹も暴力も知っている。妬ましかった。うらやましかった。絶対に入れない場所が、二人の間にあることが。

 そしてきっと、私は絶対にその美しい思い出に勝てない。

「ねえ、知ってたの?」

 目と目が合って、真っすぐに見つめ合う。

「私がここに来た理由、知ってたの?」

「……全部じゃない」

「全部じゃないって、何?」

「お前が来る前に、ヘールシャムから女が一人来るって言われた」

「何のために?」

「……オレが、また問題起こさねえように」

「じゃあ知ってたんじゃん!」

「誰が来るかは知らなかった」

「私がその女だって、いつ分かったの?」

 デンジくんは口を閉じた。

「いつ?」

「……来た日」

 息が上手く出来なくなった。じゃあ、つまり、最初から。

「最初から、知ってたんだ」

「何をだよ」

「私がデンジくんのために送られてきたって」

「名前も顔も知らなかった。来てから職員に言われただけ」

「それで、皿を洗ってた私に話しかけたの?」

「違う」

「街で助けてくれたのも?」

「違う、違うって」

「ブレスレットを調べたのも?」

「違うって言ってんだろ!」

 デンジくんが声を上げた。私は肩を震わせた。あの夜、同じ手で肩を突き飛ばされたことを思い出した。違わないじゃん。反発というよりうわごとのように繰り返す。違わない。なにも違わないよ。少なくとも、私にとっては。

「私のこと、何だと思ってたの」

「分かんねえって」

「この子代わり?」

「違う……」

「じゃあ、世話係?」

「違う!」

「私がデンジくんを好きになるの、分かってた?」

「分かるわけねえだろそんなこと!」

「でも、こうなるって書いてあるよ」

「知らねえよそんなもん!」

「私が断れないことも、役に立てば傍にいられると思ってることも、皆知ってた!」

 言ってから、自分でも何を言いたいのか分からなかった。デンジくんが何を私にさせたというのだろう。皿を洗わせたこともない。街へ無理に連れていったこともない。ブレスレットの調査も、私が始めたことだ。だけどもう分からない。自分からしたことなのか。そうなるように仕向けられていたのか。デンジくんが私を必要としたのか。必要とするよう、最初から組み合わせられていたのか。

「デンジくんを好きになろうとして、好きになったんじゃないよ」

 デンジくんは何も言わなかった。私も、本当は答えを求めていなかったのだと思う。きっと何を言われても信じなかっただろうから。紙を胸へ抱え、走ってその場を離れた。後ろから名前を呼ばれたけれど、それでも。コテージの敷地を出て、停留所へ続く道を走った。街へ行くつもりはなかったし、バスが来る時間でもない。ただ、どこかへ行きたかった。

 コテージを出て介護人になろう。

 そう考え付いたのは、バスの来ないバス停で一時間以上泣きじゃくった後のこと。

 初めのうちは何をするにも時間がかかった。終了センターの廊下はどこも似たような造りをしていて、担当する提供者の部屋へ戻る道さえ何度も間違えた。薬の名前も検査の数値も、提供後に食べさせていいものといけないものもなかなか覚えられず、手帳へ書き込んでは何度も読み返した。昔からそういう子供だったから、怒られるのには慣れていたことが唯一の救いだろうか。

 車の運転にも慣れなかったけれど、次第に怖いとは思わなくなった。街へ出た時はデンジくんの後ろから離れないよう必死になっていた私が、一人で見知らぬ道路を走っていることが、時々ひどく不思議に思えた。

 それでも、時間が経つにつれて仕事には慣れた。提供を終えた人が、どのような顔をしていれば痛みを我慢しているのか。食事へ手をつけない人には、食べなければいけないと言うより、自分も少し食べるふりをした方がいいこと。眠れない人の部屋では、無理に会話を続けず、窓際の椅子へ黙って座っている方が安心してもらえること。怒鳴られた時には言い返さず、少し時間を置いてから同じことを違う言い方で伝えること。

 こういうのも憚られるけれど、私は優秀な介護人だったと思う。担当した提供者は長く安定した状態を保つことが多かったし、私を次の提供にも引き続きつけてほしいと希望してくれる人もいた。職員からも、あなたはこの仕事に向いている、ヘールシャムで丁寧に育てられた人はやはり違うと何度も褒められた。そう言われる度、あの資料のことを思い出した。結局はすべてあの資料へ書かれていた通りなのではないかという気がした。

 介護人の役割は、提供者を楽にすることだと教わっている。

 けれど、四年も働いていると、それだけではないことが分かってくる。次の提供へ行きたくないと訴える人を宥め、食事を拒む人へ食べるよう促し、職員に怒りをぶつける人の話を代わりに聞く。提供者が落ち着き、決められた日に決められた場所へ向かえば、その介護は成功したと評価される。虚しかった。何故虚しいのかも分からないけれど、日々私の何かがすり減っていく。もう楽になりたいと思ったこともある。それでも仕事を投げ出そうとは思わなかった。私がいなくなれば、ほかの介護人が来るだけ。それが酷く怖かった。

 搾取されると分かっていても、自分を差し出さずにはいられないから。分かっていてもやめられない。本当はもうずっとそんな性質に辟易としていた。投げ出すことはしなかったけど、誰かに引導を渡されることをずっと願っていた。

 終了センターはどこも同じような造りをしている。薄い灰色の壁。何度拭いても曇ったままの窓。廊下の端に置かれた造花。暖房はよく効いているのに、床からだけはいつも冷たい空気が上がってくる。いつも通りに書類に目を通していると、向かいの長椅子へ座っている女の人が、何度もこちらを見ていることに気が付いた。痩せて髪が随分長くなっていたので、初めは誰なのか分からなかった。頬に肉がなくて唇の色も薄かったけれど、目が合った時の相手を試すような笑い方に見覚えがあった。

「███ちゃん、だよね」

「……エミちゃん?」

 彼女は一回目の提供を終えて、二か月ほど経っているのだという。手術の傷はまだ痛み、長い距離を歩くと息が苦しい。それでも経過は良好と判断されて、近いうちに別のセンターへ移る予定なのだと。

「あなた、まだ介護人なのね」

「うん」

「似合うね」

「……そうかな」

「似合うよ。昔から人の世話をするのが好きだったもんね」

「好きじゃないよ。お皿洗いのことなら、あなたたちが押し付けてたんでしょ」

 とっさに言い返したら、エミちゃんは酷く安心したように笑った。

「うん。言い返せるようになっていてよかった」

 とてもあたたかな笑顔だった。

 それから、私の担当者が診察室から戻ってくるまで、天気の話をした。コテージにいた子たちのうち、誰が介護人になり、誰がもう提供を始めたのか。エミちゃんはデンジくんの名前を出さなかったし、私も尋ねなかった。私たちはお互いのことを憎んでいたけれど、それと同時に、この世界で唯一同じ苦しみを分け合った理解者でもあった。その後も何度か同じセンターで顔を合わせた。エミちゃんの担当者は、長い間一人に決まらなかった。相性が悪いと訴えては替えてもらい、新しい介護人が来る度に、あの人は私を馬鹿にしているとか、話を聞いていないとか、薬を持ってくるのが遅いとか言った。職員たちは彼女を難しい提供者だと呼んでいた。

「面倒な子だと思われてるよ」

 と笑い交じりにからかったら、

「それ、だいせいかーい」

 と本人も笑う。

 昔は嫌いだったこういう勝気さが、今は好ましく思える。

 私がセンターへ来ると、エミちゃんは必ず部屋から出てくる。

 自分の介護人には何も話さないくせに、私には手術の傷がどんなふうに痛むのか、夜になると呼吸が浅くなること、食べ物の味がしなくなったことまで細かく教えた。私は彼女の担当ではなかったので、ただ聞いていればよかった。記録を取る必要もなければ、食事を取るよう説得する必要もなかった。それが凄く気楽だった。

「私、昔、自分の資料を取り寄せたことがあったの」

「資料?」

「そ。あなたたちがコテージに来るずっと前にね」

 センターの裏庭にあるベンチへ二人で座っていた。陽は出ていたけれど、風が強く、エミちゃんは毛布を肩まで引き上げていた。風が吹くだけでも体が痛むらしい。

「……そこには、何て?」

「何も書いてなかった」

「何も?」

「本当に何も。学校で受けた検査の結果と、身体の大きさと、性格について二、三行。協調性にやや難あり。それだけ。だから羨ましかった」

 聞き返すと、エミちゃんは笑った。

「███ちゃんの資料には、いっぱい書いてあったでしょ。何が得意で、どういう人と一緒に置けば上手くいくか。誰の役に立つかまで」

「あれは、私を利用するために……」

「でも、あなたは認められていた」

 すぐには返事が出来なかった。何を言っても彼女を傷付ける気がしたから。

「私はたまたま空いてた場所に送られただけ。誰かのためでもないし、何かを期待されてたわけでもない。提供する時期まで、適当なところへ置いておけばいいって思われてた。……違うな。そんなことさえ思われてないかも。ただの提供者として、そこにかけられる感情なんて無かったでしょうね。だから、███ちゃんの資料を見た時、羨ましかった。腹も立った。……いいなあ、って、泣きたい気持ちになった」

 彼女は膝へ置いた自分の指を見ている。

「特別なんだと思った。彼に必要だから、選ばれて来たんだなあって。私がどれだけ好きでも、最初から敵わないんだって」

「私は……特別なんかじゃ、ないよ」

「周りはそうは思わない。……あなたには、役目があった。あなたがそれを望むにせよ、望まないにせよ」

 エミちゃんは少し黙ってから、

「……だけど、███ちゃんは嫌だったよね。使われるために詳しく調べられてたんだもんね」

 と言った。それから、自分には使い道さえなかったのだと、もう一度涙声で笑った。それを見て酷く後悔の念が湧いてくる。四年前に逃げ出さなければよかった。ちゃんと向き合えば良かった。私たちは既に、剥き出しの感情をぶつけあえるほど子供ではなかった。

 エミちゃんに二回目の提供通知が来たのは、それからすぐの事だ。一回目の傷はまだ完全には塞がっていなかったのに。立ち上がる時には腹を押さえ、廊下を歩くだけで何度も休んだのに。それでも検査の値は基準の範囲内で、提供に耐えられると判断された。

「延期してほしいって全力で泣き喚いたの。備品を壊す勢いで暴れて、医者の顔も殴ってやった。あと、ババアの看護師のデカケツもね」

「うん」

「希望として記録しておきます、だって。これじゃ暴れ損よ。無駄な体力使っちゃった」

「ババアのケツ、柔らかかった?」

「……レズっ気でもあるの? 気持ち悪いこと聞かないでよね」

 ベッドの上で、エミちゃんは通知書を何度も折り畳んでいた。言葉は強いのに覇気はなかった。私が剥いたりんごには手を付けず、呆然と中空を見つめたまま。

「記録したら、なに? それってつまり聞く気は無いって事じゃない」

「うん」

「誰が決めたのか聞いたら、ここでは分からないって。じゃあ分かる人と話したいって言ったら、そういう窓口はないって」

「うん」

「イライラする」

 紙を破ろうとして、途中で力がなくなったのか、膝の上へ落ちる。

「ねえ」

「なあに」

「どうして提供者が生命活動を終えることを、『死ぬ』じゃなくて『終了した』って言うか知ってる?」

「……どうして?」

「私たちに生命なんてないのよ。だから死ぬんじゃなくて終了する。私たちは、あくまで道具だから」

 否定も出来ずに微笑み返した。慰めは不要に思えて。

「ねえ、███ちゃん」

 エミちゃんは私が返事をしないのも気にせず、独り言のようにつぶやく。

「私、死にたくない」

「うん」

「死にたくないって言っても、いいよね? 終了じゃないよ」

「うん……」

「私たちは、命だよね」

 何も言わずに手を握る。何も言わず、手を握り続けた。否定も肯定も出来なかった。私たちの体のことなのに。

 結局、彼女は二回目の提供で終了した。

 手術が始まってから随分長い時間が経って、廊下を何人もの職員が行き来して。途中で一度、担当の介護人が呼ばれた。それでおしまい。何を提供したのか。途中で何が起きたのか。苦しまなかったのか。尋ねたいことは沢山あったけれど、私は彼女の介護人じゃない。ともかく、エミちゃんが終了してから、介護人を辞めることを考えるようになった。もう誰かを手術室へ送り届けたくなかった。だってこの仕事は虚しい。泣いている人を宥めて、決められた日まで身体の状態を整えて、本人が嫌がっても時間になれば迎えに行く。感謝されることもあったけれど、それさえ無意味に思えた。意味なんてはなからない。

 分かってる。分かっているけれど、でも。

 私の人生って、そればっかりだな。

 更新の書類は出さなかった。今担当している提供者が次のセンターへ移ったら、それで終わりにするつもりだったから。

 けれど、翌月には新しい担当者の書類が家に届いた。これにはさすがに動揺した。

「新しくあなたに担当して欲しい提供者がいるんです」

「は……? ……あの、いえ、もう新しい方は受け持たないと、お話ししたはずですけど」

「先方から希望が出ているんです。あなたでなければ、介護人は必要ないと」

 そんな我儘が通るはずはない。私が言うと、職員は困った顔をして薄いファイルを差し出した。表紙に書かれた名前を見て、それ以上何も言えなくなった。同時に、ああそうか、と合点が行く。周りを捻じ曲げるほどの問題児。いつかと同じことだ。マジックの種明かしをされたようで、思わず笑いさえこぼれた。

 そこに書かれていたのは、デンジくんの名前だった。

 一回目の提供を控えて、検査のため終了センターへ入っている。希望介護人の欄には、私の名前と管理番号が書かれていた。線が太く、文字と文字の間がやけに広い。昔、街へ行くための申請用紙へ、勝手に二人分の名前を書いた時と同じ字。下手くそなまんま変わってない。どうして私がここにいると知っているのか尋ねると、介護人をしていた頃に名前を聞いたことがあるらしい、と職員は答えた。詳しいことは本人から聞いてほしいと言われたけれど、私はその場で断った。私情があるから。介護人と提供者として適切な関係を築けないから。どちらも嘘ではないだろう。

 それでも翌日、デンジくんのいるセンターへ車を走らせた。

 もちろん担当になるつもりはなかった。ただ、一度会って話をしなければ、きっと一生後悔すると思ったから。

 デンジくんは窓際の椅子へ座って私を待っていた。まだ提供前だから、身体は以前とそう変わらないように見える。髪は少し伸びて、顔つきは少し鋭くなった。

「久しぶり」

「うん」

 向かいの椅子へ腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。聞きたいことはいくらでもあった。なぜ私なのか。なぜ今なのか。けれど、何から尋ねればいいのか分からない。

「希望を出してくれたみたいだけど、私は担当出来ないよ」

「そっか」

「ごめんね」

「別に」

 それ以上引き止める様子もなく、本当に、それだけのために呼んだのかと思ったら少し腹が立つ。「じゃあ、私は帰るね」。立ち上がり、扉へ手をかけたところで、

「言っとくけどさ。世話して欲しくて名前書いたんじゃねえよ」

 背後から声がした。振り返ると、デンジくんはまだ外を見ている。何を考えているのか分からない。分からないから怖い。分からないから、惹かれる。私が彼のことを理解出来たことなんてない。

「会いたかったから」

 デンジくんもそれ以上何も言わなかった。だから結局、その日はそのまま帰った。本当はその場で叫びたかった。部屋に戻って、どういうつもりか、今更何の気だと思い切りののしって、彼の顔をひっぱたきたかった。私のことを弄んで、この四年間一度だって連れ戻そうとしなかった癖に、どうして弱っているときにこんなマネをするのか。あの日はキスを拒んだくせに、今更特別扱いする気か。分かっている。やっぱり、分かっているのだ。全部全部勝手なことだって。デンジくんは何も悪くない。あの頃私たちは子供で、彼も、私も、選べなかった。逃げ出すようにしてコテージを出たこと自体、私の癇癪なのだ。なのに、彼が追いかけてこなかったことに、私はずっと腹を立てていた。……そのことに、彼と再会して初めて気が付いて、泣きたい気持ちになった。速足でセンターの廊下を歩いた。途中で転んで、とうとう耐えられなくなって、わんわん泣いた。

 朝の五時に起きる。

 街のパン屋へ寄り、パンを二つ買う。

 センターの受付で面会を申し込むと、昨日とは違う職員に、介護人の方ですよねと尋ねられた。違います、と答えた。彼の介護人になるつもりはありません。職員はおかしいなあという顔をしたけれど、深くは口を挟まなかった。

 デンジくんは昨日と同じで、自分の部屋にいた。昨日と違って、私を見るなり、少しだけ驚いた顔をしたけれど。

「……担当、なんの?」

「ならないよ。それは変わらない」

「じゃあなんで」

「会いに来たの。差し入れと一緒に」

 持ってきた紙袋をベッドの上へ置いた。

「パン二個」

 デンジくんは一瞬きょとんとしてから、声を上げて笑った。あまりに笑うので腹が立って、やっぱり一つしかあげないと言うと、慌てて紙袋を抱え込んだ。

 それから、担当になることこそなかったけれど、時折面会へ行くようになった。初めのうちは、何年の間に何をしていたのかを話した。私は介護人として各地のセンターを回っていたこと。デンジくんも三年ほど介護人をしていたけれど、少し前に辞めたこと。コテージにいた人たちが今どこにいるのか。誰が提供を始め、誰がもう終了したのか。私はエミちゃんの話をした。デンジくんは彼女のことを覚えていたみたいで、ふうんとだけ相槌をくれた。そのうちに話すことがなくなると、二人で黙った。

 昔と同じだ。

 私が窓際の椅子で書類を読んでいる間、デンジくんはベッドへ寝転んでいた。時々何を読んでいるのかと尋ねてきて、説明を始めるとすぐに飽きた。

「提供の直前でも外出れんのかな」

「検査のない日なら。体調に問題がなければ……知らなかったの?」

「おう。今まで外出たがるやつなんかいなかったから」

 そっか。短く言葉を返す。

「街行こうぜ」

「何を買うの?」

「何も」

「何も?」

「昔は何回も二人で行ったじゃん」

「あれは調べものだったでしょ」

「今度はデート」

 喉が詰まったように言葉が出て来なくなって、しばらくの間黙り込む。

「……デート?」

「嫌なの?」

「嫌じゃないけど……」

「じゃあ」

 デンジくんは有無を言わさずにサインペンをとって、私の手に自分の名前と日時を書いた。「あぁ……」否定しなきゃと思うのに、情けない声しか出ない。

 待ち合わせの三十分前に駅へ着いた。デンジくんは既に改札の横へ立っていて、私を見つけると、遅いと怒った。でも、自分が何時から待っていたのかは教えてくれなかった。

 洋服が欲しいと言うと、デンジくんは、私を高級ブティックに案内した。困惑する私を置き去りにして、誰が着るのか分からないほど大きな毛皮のコートや色の濃い眼鏡を次々に持ってきては押しつけてくる。

 似合うと言うので鏡を見てみるけれど、馬鹿にされているとしか思えない。

「絶対変だよ」

「似合ってるって」

「じゃあデンジくんが着てよ」

 コートを着せると、袖がちんちくりんになった。意趣返しに似合ってるよと言うとデンジくんはむきになって眼鏡までかけて、得意げになってポーズまで取った。

 それから適当に入った映画館で恋愛映画と怪獣映画のどちらを見るかで揉めて、結局怪獣映画を選んだけれど、これがまあ稀代のクソ映画で、始まって三十分もしないうちにデンジくんは眠そうにした。シアタールームに入った時、他に誰も人が居ないのを見て呑気に「貸し切りだ!」とはしゃいだ頃に戻りたいと百回は思ったはずだ。

 結局デンジくんは序盤で寝落ちて、隣で大きな音が鳴るたびに目を覚まし、今どこまで進んだのか尋ねた。私は小声で説明していたけれど、最後には面倒になり、怪獣が全部食べたと嘘をついた。それで、映画館を出たあとになって話が繋がらないと言われて、くだらない言い争いをした。十六歳のころはすごくかっこよく見えたけど……彼はもしかしたら、私が思うより馬鹿なのかもしれない。

 ふらりと入ったカフェテリア。机の上に、ランチセットとパンを並べる。

「なに?」

「ちゃんと注文出来んじゃん」

「は……あのねえ。あれから何年経ったと思ってるの」

「パンニコ! ……って、言わねえかなと思って」

「もうその話しないでって昔から言ってるでしょ!」

 届いた肉は相変わらず堅くてしょっぱくて、パンだけは以前と同じように柔らかい。

「だけど、未だに分からないんだ」

「何が?」

「昔、デンジくんが……私がお皿洗いしてる時に声かけてきたことあったでしょ。一番最初に」

 本当に他愛のないことだったから、もしかしたら覚えていないかもしれない。けれどデンジくんはすぐに思い当たったようで、ああ、と小さく頷く。

「あの時、なんで声をかけてくれたの?」

「目に付いたから、じゃだめなのかよ」

「だめじゃないけど……少し驚いたから。それまで一度も話したことなかったのに」

 彼は少し悩んで、あたりをちらちらと見回して、それから……すこし間を置いてから、照れくさそうに

「俺のためにコテージに来たはずなのに、俺以外の世話ばっか焼いててイラッとしたから」

 と笑った。思わず肉を挟む時にソースを少しこぼして、何も変わっていないと言われた。

 何をするでもなく、ひたすら街を歩くだけの一日だった。

 ショーウィンドウに飾られた家具を見て、あの椅子は座りにくそうだとか、あの食器は洗うのが面倒そうだとか好き勝手に言った。普通の人たちがどんな家具を揃えて恋人と暮らし始めるのか、コテージの年長組はよく知ったふうに話していたけれど、私たちは結局今もよく知らない。デンジくんは、でかいベッドと冷蔵庫さえあればいいと言った。私は窓の大きな部屋がいいと言った。デンジくんの約束の人のことについてはどちらも口にしなかった。ただ、店先に置かれた家具を指差しながら、これは要る、これは要らないと決めていった。その時間がただただ楽しかった。今度はこの遊びを家具屋ではなく不動産屋でやろうとデンジくんが言うから、ハードルが高いよと笑い返した。

 今度。また。その次も。

 そういう言葉を聞く度、胸が温かくなる。それと同時に、今度とはいつまであるのだろうとも思う。デンジくんの一回目の提供日までもう時間がない。けれどそのことを口に出せば、今日一日が『提供前の思い出』になってしまう。私はそれが嫌で、何も言えないまま。

 駅前の店で安いクッキーを買い、停留所のそばにある石垣へ並んで座る。袋を開けると、砂糖とバターの甘い匂いがした。デンジくんは一度に二枚ずつ食べた。私が一枚食べ終える頃には袋の中身が半分ほど減っていて、あまりにも食べるのが早いから少し隠した。彼はすぐに気づき、私の手から袋を奪おうとした。私も渡すまいとして両手で抱え込んだ。そうしてしばらく馬鹿みたいに取り合ったあと、二人とも急に力を抜いた。デンジくんの手が、袋の上から私の指へ重なったままになった。ああいつかに見た光景だ。凄まじいノスタルジーと共に、一抹の恐怖が胸に湧き上がってくる。

「約束のひとのことは、いいの」

 ずっと聞こうと思っていた。言葉が口から出てしまったあとで、今じゃなくてもよかったのではないかと思った。デンジくんは私の手から手を離して前を向き、道路の向こうへ停まっている車を見ながら、

「介護人やってる間、探してたんだ。いろんなセンターに行けたから」

 と寂し気に呟く。

「……会えた?」

「見つけた時には、もう終了してた」

「そっか」

 私もそれだけ答えた。少しも気にかからない訳じゃない。だけど、今はただ、彼の中に私の知らない場所が残っていてもいいと思えた。私にヘールシャムの十六年間があるように、デンジくんにはデンジくんの十六年間がある。それを私のために言葉へ直してもらわなくてもいい。どうせ私たちの行く末は同じなのだから。

 風が吹いて、クッキーの袋が音を立てる。

 余った何枚かを、デンジくんが上着のポケットへ押し込んだ。バスはまだ来ない。沈黙が長くなるにつれて、さっきまであんなに楽しかった一日が、少しずつ遠ざかっていく。

「今日、楽しかった?」

「うん」

「そっか」

「デンジくんは?」

「楽しかったよ」

「これ、ちゃんとデートだったんだよね」

「……何。まだ怒ってんの?」

「怒ってないけど。確認したいだけ」

 デンジくんは少し考えてから、石垣を降りる。

「デートだよ。デートしたかったから誘った」

 ああ、十代の頃にそれを言ってほしかったなあ。出掛かった言葉を飲み込む。コテージを出る前に。私があの資料を読む前に。あの夜、私を突き飛ばす前に。そうすれば何かが違ったのだろうかと思ったけれど、たぶん、きっと違わない。あの頃の私たちには何を選んだって、後からそれを疑うだけの理由が幾らでもあったから。

 だから、やっぱり……今でよかったのかもしれない。

 立ち上がってデンジくんの上着を掴んだ。濡れてもいないのに、コテージの流しで水浸しの手を押しつけた時のことを思い出した。あの時、布には私の指の形がくっきり残った。今度はそれより強く握りしめて、そのまま胸へ顔を押しつける。また突き飛ばされたらどうしよう? そうされたら、今度こそ立ち直れないかもしれない。それでも離れなかった。恐怖より愛しさが勝ったから。両腕を背中へ回して、今まで会えなかった四年間を埋めるように抱きしめた。

 少しして、肩の上へデンジくんの顔が落ちてくる。

 背中へ腕が回る。痛いくらいに強く引き寄せられて、息が苦しくなった。それでよかった。私は彼の上着へ顔を埋めた。何も言わなかった。デンジくんも何も言わなかった。街を出るバスが来るまで、私たちはずっと抱き合っていた。上着のポケットから、少し甘いクッキーの匂いがした。

 検査のない日は二人で外へ出た。帰り際には抱き合うようになった。初めのうちは、どちらから腕を伸ばせばいいのか分からず、顔を見合わせている時間の方が長かったけれど、そのうち何も言わずに出来るようになった。デンジくんは思っていたより抱く力が強くて、私は何度か苦しいと言った。それでも弱めると物足りないような気がして、もう少し強くてもいいよ、と言ったこともある。

……。

それで……。

 ……その日に何を話していたのかは覚えていない。デンジくんはベッドへ腰掛け、私はその横で、彼が脱ぎ散らかしていた靴下を丸めていた。そんなことをするから介護人みたいになるんだと思って途中でやめた。靴下を床へ放り顔を上げると、デンジくんがこちらを見ていた。

「何」

「別に」

「じゃあ見ないでよ」

「そっちだって見てんじゃん」

 それで互いに黙った。黙ったけれど、頭ではコテージの部屋で同じように顔が近づいた日のことを思い出していた。私はまた突き飛ばされるのではないかと今更また不安になった。多分、彼も同じことを考えていたと思う。お互いになかなか動かなかった。

 結局、先に顔を寄せたのはデンジくんの方で……歯が当たって、二人とも少し笑った。それからもう一度した。今度はさっきより長かった。終わったあと、何を言えばいいのか分からなくなって、私は床へ落とした靴下を拾い、デンジくんは急に喉が渇いたと言って水を飲んだ。

 提供の日が近づくにつれて、面会の数も自然と減っていく。

 検査の数が増え、食事や睡眠の時間まで細かく決められるようになるから。外出の許可も出なくなった。私が部屋へ行っても、職員が何度も様子を見に来た。デンジくんはその度に露骨に嫌な顔をした。これから提供を受けるのだから当然だと言いかけて、何度もその言葉を飲み込んだ。彼を宥め、決められた通りに行動させるのは私の仕事ではない。少なくとも、彼に対してはそうしたくなかったから。

 二人でベッドへ座り、窓の外を見ていた。明日は何時に起きるのかとか、手術はどのくらいかかるのかとか、そういう話もしなかった。デンジくんが時々私の手首へ巻かれたブレスレットを指で弾いて、その音がする度に、私は彼の肩へ頭を預けた。帰る時間になってもどちらも立ち上がらなかった。

「明日は来なくていい」

「……どうして?」

「みっともねーとこ見せたくねぇから」

「みっともないとは思わないよ」

「俺の気持ちの問題」

 だけど翌朝には電話がきた。結局終了センターに今すぐ来てくれ。彼が点滴を抜こうとしている。薬も拒んで、職員の話を聞かない。あなたから言ってもらえれば落ち着くかもしれない。だって、彼が何度もうわごとのように名前を呼んでいるから。

 ——そのくせ現場に駆けつけた私を見つけると、デンジくんはひどく嫌そうな顔をした。

「何で来たの」

「呼ばれたから。暴れてるからって」

「帰れよ」

「嫌だよ」

 ベッドのそばまで行き、倒れた椅子を起こす。デンジくんは苦しそうに息をしながら、私の顔を見ていた。直しながら……ふと、私を呼び出した職員が、「必死にうわごとのように名前を繰り返しているんです」と言っていたことを思い出す。何度も何度もそう言っていたけど、一度も「あなたの名前を」とは言わなかったな。今更どうでもいいとは思っていたけど、なんだか少しだけ自嘲的な気持ちになる。

「介護人としてじゃなくて……恋人だから、来たの」

 彼は驚いたように目を見開いたけれど、何も言わずにベッドへ身体を戻した。私の手を探すように腕を伸ばしたので、握った。力はほとんどなかった。デンジくんが力任せに薪を割るのを傍で見ていた、いつかの日に思いを馳せる。職員が新しい点滴を持って戻ってきても、デンジくんは私の手を離さなかった。空いている方の腕へ針を刺すのは難しいらしく、何度か頼まれて、ようやく指がほどける。代わりに毛布の上へ置いていた私の袖を掴んだ。

「これから手術室へ移ります。もう少ししたら、ご退室をお願いします」

 デンジくんはもう暴れる気力もないようだった。

「終わったあとも来る?」

「来るよ」

「いつ」

「面会していいって言われたら」

「ふうん」

 来てほしいのならそう言えばいいのにと思ったけれど、私だって似たようなものだ。恋人だから来たと言うまでに何年もかかったのだから、このくらいで腹を立てる資格はない。それから手術室へ向かうまで、デンジくんはほとんど喋らなかった。職員たちがベッドの周囲で忙しなく準備を進める中、袖を掴んだ指だけが時々動いた。やがて本当に離さなければならなくなった時、私は彼の手を毛布の中へ戻し、また来るからね、と言った。

「分かったって」

 ひどく眠そうな声だった。

 扉の外まで見送り、廊下の角を曲がるベッドへ手を振った。デンジくんはこちらを見ていなかったけれど、毛布の端から出ていた手が一度だけ持ち上がった。

 三日後、病室へ通された私を迎えたのは、食べかけですらない透明なスープ一杯。ベッド脇の机に置かれ、表面には薄い膜が張っている。デンジくんは窓の方を向いて眠っている。意地でもご飯だけは食べる人なのに。それだけでどこを提供したのか分かって、ああなんでよりにも寄ってと思うのと同じくらい強い気持ちで、胃で良かったとも思う。肝臓や小腸と違って、まるきり無くなってもすぐに支障は出ない。少し生きるのは大変になるけど。

 椅子へ座り、持ってきた紙袋を足元へ置く。パン屋の前を通った時、何となく二つ買ってしまった。提供部位に関わらず、すぐは食べられないと分かっていたし、食べられるようになる頃には固くなっている。それでも一つだけ買う気にはなれなかった。

「いつからいたの」

 目を覚ましているとは思わず、少し驚く。

「今来たところ」

「嘘つけ。パンの匂いする」

「匂いで時間は分からないでしょ」

 頬が少しこけ、唇は乾いていたけれど、思っていたより普通の顔をしていたので安心した。もっとも、身体の中から何かを取ったあとに普通であるはずもないのだけど。

「食いてえ」

「まだ駄目だよ。それに……」

「分かってるよ」

「デンジくんの胃を提供された人はラッキーだね。きっと強さに驚くよ」

「うるせえな」

 怒る声も優しい。もう少し当たってくれてもいいのに、デンジくんに限ってそれはありえない。

「いつからいいの」

「私に聞かないでよ」

「介護人だろ」

「違うってば」

「じゃあ、何?」

「だから……」

 言いかけて、彼の意図に気がつく。しまった。まんまと乗せられてしまった。顔を見るとにんまり笑っていて、悔しいけど私も笑ってしまった。

「……恋人」

 紙袋で顔を隠す。顔を見られたくなかっただけなのに、隠して食べるつもりだと思われたらしく、デンジくんが腕を伸ばそうとする。上体を起こしかけてすぐに顔を歪めたので、慌てて肩へ手を添えた。

「ほら、食べようと思っても食べられないでしょ、無理しないの」

「お前が隠すからだろ」

「隠してないよ。食べられるようになるまで取っておくの」

 面会へ行くたび、デンジくんは凄まじい速度で元の生活へ戻っていく。初めて廊下を歩いた日は、病室から給湯室まで行っただけで引き返したのに、次の週には食堂まで行けるようになり、さらに何日かすると、私のパンを半分奪って食べるようになった。

 けれど、まったく以前と同じという訳にもいかない。

 時折食べ物を残すようになったし、話の途中で眠ることも増えた。私がそれを気にしていると察すると不機嫌になるので、なるべく見ていないふりをした。

 センターの外へ出られたのは、提供からひと月ほど経ってからのこと。遠くへ行く許可は下りず、建物の裏にある小さな庭を一周して、入口のそばのベンチへ座った。季節はずれに暖かい日で、植え込みの中から虫の羽音が聞こえた。

 私たちの隣には、先に座っていた女性の提供者がいた。胸元から細い管が出ていて、その先に小さな袋が繋がっている。彼女はしばらく私の手首を見たあと、青と白のブレスレットを指差した。

「それ、ヘールシャムのもの?」

「私が作ったものです」

「じゃあ、あなたもヘールシャム?」

「はい」

 女の人は、それなら、とデンジくんへ視線を移して言葉を続ける。

「二人は恋人なの?」

「そうだけど」

「なら、延期を頼めるんでしょう。いいわね、ヘールシャムの人は」

 何のことか分からず聞き返すと、本当に愛し合っている二人なら、提供を三年ほど延期してもらえるのだという。ヘールシャムで作った作品を持ってマダムのところへ行き、自分たちが本物の恋人だと認めてもらえればいい。彼女自身も直接知っているわけではなく、以前同じセンターにいた提供者から聞いた話らしかった。

「そんな制度はありませんよ。聞いたこともない。ヘールシャムでも、外でも」

 延期を許された人なんて一人も見たことがない。女の人は少し気を悪くしたようで、でもヘールシャムの子がそう言っていたから、と繰り返した。

「マダムって、あの図録作った人?」

「多分」

「どこにいんの」

「知らないよ。もうヘールシャムもないし」

「……探せねえかな」

「何年も前の図録しかないから……」

「前はそれで工房見つけたじゃん」

 確かにそうだ。けれど、あの時はまだ子供で、デンジくんと街へ出かける理由が欲しかったからこそ頑張れたのだ。……あの時は、何週間かけても何も分からなくたって構わなかった。今度は、探した先に必ず答えがある。そして、その答えは多分、私たちの望むものではない。

「私は、そんな話はないと思う」

「じゃあ、ねえって言われに行けばいいじゃん」

「そんなに簡単に言わないでよ……」

 私がこの話を切り上げようとしているのを察してか、それ以上はなにも言われなかった。

 次に病室へ行くと、ベッド脇の小さな棚に、見慣れた白い封筒が伏せてあるのを見つけた。裏返さなくても何なのか分かった。デンジくんは窓際で椅子へ座り、半分ほど開いた窓から入る風に当たっている。

「いつ来たの」

「さっき」

「見てもいい?」

「別に」

 封筒から通知書を出す。二回目の提供日は、三か月後に決まっていた。

「早くない?」

「普通だろ。一回目の次はこんなもんだって」

「でも、傷だってまだ治ってないのに」

 通知書を元通りに折り封筒へ戻す。何か言わなければと思ったけれど、延期してほしいとセンターへ頼んだところで、希望として記録されるだけだ。エミちゃんと同じ。

「だけどさ。三か月あれば、探せんじゃね~かな」

「……何を?」

「マダム」

 言葉に詰まった。忘れたふりをするには、白々しすぎた。

 家へ戻り、棚の奥へしまっていた図録を取り出す。何度も読み返したせいで背表紙は剥がれかけていた。巻末には展示会を主催した団体の名前と、今はもう使われていない電話番号が載っている。

 どうしよう。どうしよう、どうしよう。

 随分迷った。怖かった。だけどデンジくんの二回目の提供が迫っている。そんなことはありえない。分かってる。そんなこと分かってるってば。だけど、もし可能性があったら? これが私たちに垂らされた、一筋の蜘蛛の糸だったとしたら? 考えれば考えるほど色んな可能性が浮かんでは消えていく。

 結局、翌日から何件か電話をかけ、昔の住所を調べ、手紙を送った。返事が来ないまま一か月が過ぎた。もう駄目だろうと思い始めた頃、差出人の名前が書かれていない封筒が届いた。恐る恐る中を開くと、短い手紙と住所が入っていた。あなた方の求めている答えを差し上げられるとは思いません。ただ、どうしてもということなら、二人でいらしてください。

 最後には、かつてヘールシャムで校長を務めていた人の名前が書かれていた。

 マダムの家までは車で四時間ほど。出発して一時間もしないうちに、デンジくんは助手席で眠った。まだ長い時間同じ姿勢でいるのが辛いらしく、何度か身体を動かして、最後には窓へ頭をつけた。途中で休憩しようかと尋ねても、まだいい、としか言わない。道沿いの店へ寄った時、安いクッキーを一袋買った。デンジくんは昼食をほとんど食べなかったくせに、クッキーだけは次々食べて、何枚かはあとで食べると言って、上着のポケットへ押し込んだ。

「何持ってきたの」

「ブレスレットと図録。あと、コテージの配置記録を書き写したもの」

「そんないんの?」

「作品で判断するって話だったでしょ」

「オレらが一緒に行きゃそれでよくねぇ?」

「どうして?」

「見りゃ分かるじゃん」

 そう言ってキスをされて、少しだけ明るい気持ちになる。何が分かるのだろう。それでも、見れば分かると彼が思っているなら、それでいいような気がした。この小旅行だって結局は自己満足でしかないのだし。

 マダムの家の庭の植木は伸び放題で、表札には名字が一つだけ書かれている。到底、昔見た気品のある姿からは想像のつかない棲家だ。何度呼び鈴を押しても返事がなく、住所を間違えたのではないかと思った頃、玄関の向こうで鍵の開く音がした。

 中から姿を現したマダムは、十代の頃に遠くから見ていた姿より随分小さく見えた。

 髪はほとんど白くなり、背中も少し丸まっている。それでも、目元には面影があった。彼女は私の顔を見てもぼんやりとした顔をするばかりで何も言わなかったのに、手首へ視線を落とした途端、小さな悲鳴を零す。きゃあ。少女が虫を見つけたかのような声で。

「それは……」

「ヘールシャムで作りました。十歳の時に」

 見せるために一歩近づくと、連動して彼女の身体がわずかに後ろへ下がる。昔からそうだ。マダムが私たちの近くを歩く時、誰かが不意に走り寄ったり、腕へ触れそうになったりすると、いつも怯えたように身体を強張らせた。子供の頃は潔癖な人なのだと思っていた。今なら、そうではなかったと分かる。怖々と案内された居間には、手紙をくれた元校長先生もいた。以前よりずっと痩せていたけれど、背筋を伸ばして椅子へ座る姿は変わらない。私を見るなり名前を呼んだので驚いた。私は先生に名前を覚えてもらえるような生徒ではなかったと思っていたから。机を挟み、四人で向かい合う。お茶を出されたけれど、誰も手をつけなかった。代わりに鞄から図録を取り出して、その上へブレスレットを置いてみせる。

「あの……本当に愛し合っている二人なら、提供を延期してもらえると聞きました。三年くらい。ヘールシャムの生徒は、作ったものを見せれば……その、分かってもらえるって」

 先生は私の話が終わる前から、悲しそうな顔をしていた。マダムはぼんやりと窓の外を見ている。

「そのような制度はありません」

「一度も?」

「一度もです」

 デンジくんが身を乗り出す。マダムの肩が小さく揺れた。

「じゃあ、絵を集めてたのは?」

「あなた方の内側にあるものを、外の人々へ見せるためでした」

「内側……」

「提供者にも感情がある。希望や恐怖があり、誰かを愛したり、何かを美しいと思ったりする。それを作品によって証明しようとしたのです」

「証明しなきゃ、そんなことさえ分からなかったんですか?」

 先生は答えない。代わりに、それまでぼんやりとするばかりだったマダムが言葉をつづけた。ヘールシャムが作られた頃、提供者は今より酷い環境で育てられていたのだと。臓器が健康に育ちさえすればよく、教育も娯楽も必要ないと思われていた。私たちはそれを変えようとした。子供たちの作品を集め、展示会を開き、提供者が人間と何も変わらないことを訴えた。一時期は、多くの人が耳を傾けたのだという。けれど、やがて社会は提供者の生活より、自分たちが病気になった時に確実に臓器を受け取れることの方を選んだ。いくつかの要因も重なって支援は減り、ヘールシャムは閉鎖された。延期の噂は、作品が愛情を見分けるために集められたのだという思い込みから生まれたもの。

「じゃあ、これを商品にしたのも、展示のためだったんですか」

 ブレスレットの載った頁を開く。写真の下には、昔と変わらず『女・十歳』とだけ書かれている。

「……幾つかの作品は、工房に図案として使わせたこともあります。その結果贋作が出回ったとも聞きました。全ては広くこの活動を知らしめるためです。あのブレスレットは、とても評判がよかった」

「私の名前は、どこにも書いてありませんでした」

「あなたたちを守るためだったのよ」

 乾いた笑いがこぼれた。

 そんな理屈があるか。私がいつそれを望んだと言うのだ。泣き叫んで糾弾してやろうかとも思った。だけど、私はそれが出来る程子供じゃない。声を震わせる二人の苦悩も、痛いくらいに分かった。この人たちを責めるのはお門違い。責めてはいけない。それは間違っている。じゃあ、この激情はどこへぶつければいい? 感情がないまぜになって、抑えようとしても声が揺れる。たっぷりの沈黙で息を整えて、デンジくんの手を強く強く握った。彼の顔が見れなかった。予感があった。彼がどんな顔をしていたとしても、私はきっと耐えられない。

「コテージの配置も、あなたたちが決めたんですか」

「全てを私たちが決めていたわけではありません。けれど、集めた記録を参考にしたことは事実です」

「私が誰かの頼みを断れないことも。介護人に向いていることも?」

「……保護官の集めた記録に含まれていたんでしょうね」

「彼を落ち着かせるために、私を同じコテージへ送ったことも……」

「以前、別の提供者と施設を離れようとしたことがあった。その後の状態を考えれば、安定した関係を築ける相手が必要だと判断されたのです。素行不良だからと見捨てるには彼は育ちすぎていたし、それに……」

「それに?」

「とても優秀だった」

 優秀とはどういう意味ですか。すかさず聞き返すと先生は言葉を濁す。分かり切ったことだ。提供者にとって何が『優秀』かなんて、ひとつしかないじゃないか。涙がぼろぼろとこぼれて止まらない。ざらざらしたコートで何度も目元を擦ったせいで、目元が酷く痛む。先生は、あれはあなた方を守るためだったのです、と同じことを続けた。デンジくんがもう一度逃げ出して回収されるより、誰かと穏やかに暮らした方がいい。私も、馴染みのない場所で役割を持った方が孤立しない。

「私がデンジくんを好きになることも、分かっていたんですか」

「いいえ」

「でも、そうなるように二人を」

「そこまで計画した者はいません。私たちに、人の感情を決めることは出来ません」

「じゃあ、本当に好き合ってんのは関係ねえの」

「提供の日程には、関係ありません」

 何度もこの問答を繰り返してきたのだろう。二人の言葉は慣れた響きで、対照的に私たちの言葉はなにもかもが拙い。

「お願いします。三年でいいんです」

 自分の声がひどく幼く聞こえた。

「ずっとじゃなくていいんです。三年だけ、二人で暮らせたら。それで、そのあとはちゃんと提供を受けます」

「私には許可する権限がありません。仮に愛し合っていると証明出来たとしても、何も変えられないのです」

「じゃあ、誰なら変えられるんですか」

「誰にも」

 はっと顔を上げる。マダムが泣いていた。声を上げるでもなく、膝の上へ置いた手を見つめて静かに涙を落としている。私たちのために泣いているのか。自分たちが失敗したことを悔やんでいるのか。それとも、昔のヘールシャムを懐かしんでいるだけなのか。何も分からない。小さなため息と共に、デンジくんが立ち上がる。その途端、マダムは椅子を引いて、私たちから離れた。デンジくんも気づいたと思う。

「帰ろう」

「でも」

「帰ろう、███。俺が悪かったから」

 図録とブレスレットを鞄へ戻す。マダムは動かなかったけれど、先生は玄関までついてきた。何度も謝られたけれど、どんな顔をしていいのか分からなかった。目の前の小さな老女が哀れにも思えて、慰めの言葉を掛けるか否か悩んで居るうちに、後ろから手を引かれる。

 行きにはあれだけ食べていたクッキーも、残りは上着のポケットへ入れたまま。デンジくんは窓の外を流れる畑や家を見ている。私はラジオをつけようか迷ったけれど、何か楽しそうな音楽が流れたら嫌だったのでやめた。

 そうして二時間ほど走った頃、急に車を停めろと言われた。周囲には店も家もない。道路の片側には金網が続き、その向こうに背の高い草が生えた野原が広がっている。

「気持ち悪いの?」

「いいから停めて」

 道の脇へ車を寄せる。完全に停まりきるより先に、デンジくんは扉を開けて外へ出た。金網の切れ目を抜け、野原の中へ入っていく。上着を掴もうとして間に合わなかった。車の鍵だけを持ち、私もあとを追った。昨日まで雨が降っていたのか、地面はぬかるんでいた。靴が何度も泥へ沈み、歩くたびに足を取られた。

「デンジくん」

 呼んでも振り返らない。

 野原の真ん中まで行ったところで、ようやく立ち止まった。肩が大きく上下している。走ったせいなのか、怒っているからなのか分からなかった。

「何でだよ」

 小さく聞こえた。

「何で三年も駄目なんだよ。ずっとじゃねえじゃん。十年寄越せって言ってるわけでもねえじゃん、ジジイまで生きたいとか、んなこと言ってねえじゃん」

 声が次第に大きくなっていく。

「ちゃんとそのあと提供すんのに。逃げねえのに。三年だけでいいって言ってんのに」

 デンジくんは両手で頭を抱え、その場へしゃがみ込んだ。すぐに立ち上がり、今度は何もない野原へ向かって叫ぶ。

「三年くらい、くれたっていいだろ」

 何度も同じことを言った。三年くらい。三年でいい。どうしてそれも駄目なんだ。なにか慰めを言おうとして、何も言えなくて、後ろから彼を抱いた。二人とも体に力が入らなくて、そのまま地面に倒れこむ。泥のついた上着へ頬を押しつけると、ポケットの中で砕けたクッキーの甘い匂いがした。

「なあ。もう、どうにもならねえのかなあ」

「うん」

「三年じゃなくてもいい。一年だっていいから」

「うん」

「それが許されんなら、どんな地獄でだって死ぬ気で生きんのに!」

「うん」

 何度も答えた。涙声のまま。そのうちデンジくんは叫ぶのをやめて、風が草を揺らす音と、彼が息をする音だけが聞こえるようになった。私たちは随分長いこと、野原の真ん中に寝そべっていた。

 靴と服の裾を泥だらけにして車に戻る。

 デンジくんは上着のポケットから割れたクッキーを取り出し、まだ食べられる部分を選んで口へ入れた。

「だめだよ! もう前までの体じゃないんだよ!?」

「別に腹壊さねえよ」

「だからってっ」

「好きにさせてくれよ、これくらい」

 それきり会話は無くなった。私にも一つ差し出したので受け取った。砂糖の味より、土の味の方が強かった。

「ここがいいな」

「何が?」

「住むとこ」

 病室の中でふたり、不動産屋さんのチラシをみながら話している。いつか家具屋さんでした遊びを不動産屋さんでもしようとしたのを思い出して、私が車であちこちからかき集めてきたのだ。これならさほど、不動産屋さんに迷惑はかけないはずだから。

「台所が狭いよ」

「冷蔵庫置けりゃいいじゃん」

「洗濯機を置くところもない」

「外は?」

「そういう物件もあるらしいけど、やだ」

 結局、そこは駄目だということになった。もう一枚の広告には、少し大きな家が載っていた。今度は家賃が高すぎる。こっちはいいけど街から遠すぎ。こっちはほとんど完璧だけど、なんだか隣人が変な人そうだからやだ。デンジくんが良いと言う場所に、私が次々ケチをつけていく。

「んじゃあ何処に住むんだよ! こんままだと俺らホームレスだぞ!」

 たらればの話だということも忘れてデンジくんが本気で怒るから、おかしくなってまたお腹をかかえて笑った。私たちが住める家は、最後まで見つからなかった。二回目の提供へ向かう朝にさえ、広告は四つ折りになってデンジくんの鞄へ入っていた。必要なものではないから置いていけばいいのにと言うと、手術中暇になるかもだから、と言う。デンジくんならありえなくもない話だねえと、私も同調した。

 そして手術の翌々日には、本当にチラシに丸が何個か増えていたので心底驚いた。これどうしたの。いつ書いたの。聞きたいのにデンジくんはずっと眠っていて、呼んでもなかなか目を開けない。目を覚ましたあとも、話している途中で何度も意識が途切れた。水を飲ませようと身体を起こすと、以前なら自分で出来ると怒ったのに、その時は何も言わず私へ寄りかかった。

「……ねえ。これ、もう募集終わってるよ」

 広告を見せると、薄く目を開けた。

「ああ……じゃあ、次探すか」

「次も古いやつかも」

「じゃあ不動産屋行ったほーが早いかなァ……」

「うん……うん。行こうよ、不動産屋さん。退院したら、一緒に」

「おう」

 退院という言葉を使ってから、終了センターに退院があるのだろうかと思った。提供と提供の間に別の施設へ移る人もいるけれど、デンジくんは二回目の回復が遅く、そのままセンターへ残ることになった。もう二度と、外出の許可は出なくなった。少しでも元気になって欲しくて、休みの日になるたびに新聞やお菓子を持っていった。デンジくんは不動産広告だけを抜き取り、お菓子は少し食べて残した。見つけた家に勝手な文句をつける遊びは続けたけれど、二人とも以前ほど真剣には選ばなくなった。

 三回目の通知が来た日も、机の上には広告が広がっていた。

「今度はいつ?」

 尋ねると、デンジくんは日付だけ答えた。ひと月もなかった。

「早いね」

「検査平気だって」

「そう」

 マダムをもう一度訪ねようとも、ほかの人へ頼もうとも思わない。出来ることがないと知ってしまったあとでは、通知書は以前より鮮明に見えた。たった一枚の紙なのに、それに書かれた日付を誰も動かせない。そうして三回目の提供も簡単に終わる。デンジくんは右目に眼帯を付けるようになって、ほとんどベッドを出なくなった。面会へ行くと、窓の外を見ているか、眠っている。私が話しかければ返事はしたし、時々はつまらないことで笑った。食べ物も、気が向けば少しは口にした。状態が悪いのかと職員へ聞くことはしなかった。聞いたところで基準の範囲内だとか、経過を観察しているとか、そういう言葉が返ってくるだけ。

 四回目という言葉を聞いたのも、それからまたすぐのことだった。

「俺さ、四回目もいけそうなんだって。すげえよな」

「……うん」

「あれこれ振り回した分くらいは、社会貢献できたかな」

「社会貢献なんて……社会貢献なんて、なんでしなきゃいけないの」

「提供者が言う事じゃねーだろ」

 笑おうとしたけれど、上手くいかなかった。理解している。私たちが生まれた意味ならずっと。私もいずれ提供を受けるし、誰かのために身体を差し出す。自分だけは嫌だと言うつもりはなかった。それでもデンジくんが誰かのためになる必要なんてないと思った。彼がこれまでに何を振り回し、誰へ迷惑をかけたのだとしても、身体を四つに分けて返さなければならないほどのことではない。

 お願いします。お願いします。

 彼はもう十分に頑張りました。沢山沢山耐えました。だからどうかもう彼から何も奪わないでください。私たちから、もう何も奪わないで。なにも与えられなくてもいいんです。ただ、奪わないでくれたらそれでいいんです。どうしてそれさえ許されないの。必死に祈っても時間は過ぎていく。いつのまにやら日は沈み、面会時間が終わる前に職員が一度様子を見に来て、薬の時間を告げた。デンジくんは返事をせず、私の手首にあるブレスレットを指で触った。もう弾くほどの力はないらしく、ビーズの上をゆっくりなぞるだけだった。

「あのさ。もう面会はこなくていいよ」

「……うん」

「俺が今まで看取ったやつらも、全員怖かったはずなんだ。だから受け入れるよ。何回も逃げようとしたけど……逃げる先なんてねぇって、分かっちまったし」

 それから少しだけ、二人で窓の外を見ていた。何か話した方がいい気もしたけれど、最後になるかもしれない時に話すべきことなんて、私には分からなかった。楽しかったことも、好きだったことも、もう何度も伝えた気がする。伝えていないことも沢山あったと思う。でも、どれがそうなのか思いつかない。

「じゃあね」

「おう」

 扉を閉める直前に振り返る。デンジくんは薄く笑って、ひらひらとやさしく手を振っていた。

 そうして、私の一回目の提供の日が決まった。

 通知を助手席へ置いて、マダムの家から帰る途中で立ち寄った野原まで車を走らせた。金網には、色褪せたリボンやビニール袋が絡まっている。秋風の中へ立つと、あの日の匂いがした。湿った草と泥。それから、少し甘いクッキーの匂い。

 少し息を吸って、また吐いて。

 何度も瞬きをした。もしかしたら二人で倒れ込んだあたりがどこだか分かるかもしれないと期待して、顎を上げて辺りを探した。けれどあの日作った窪みは年月とともに草に覆われてついぞ見つけられなかった。

 デンジくんのその後を、私はまだ知らない。彼は四回目の提供を耐え抜いただろうか。デンジくんの事だから「案外平気だった」と笑って、そのうちにみるみる回復して、今日も元気に薪割りをしているかもしれない。

 色んなことをつらつらと考えた。あの日、ストーブに使うための薪割りをしていたデンジくんのこと。力強さそのもののような手に腕に抱きしめられて、酷く安心した日のこと。そう……例えば、彼がまるでチェンソーのようだったらいいのに。チェンソーの実物を見たことなど一度だってないのに、何故だか直観的にそう思った。胸から生えたスターターロープを引っ張ると、たちまちに無くした臓器が復活するのだ。まるでエンジンをかけ直すように。

 原っぱの向こうに立つデンジくんが、へらへらと舌を出して笑いながら私に手を振る姿を空想する。取り外した眼帯を右手に持って笑ってくれたら。彼を抱きしめたい。同じくらい強く抱きしめられたい。涙が溢れたけれど、今度は拭わなかった。

* * *

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