もう三か月近く一緒に出掛けていないことに気が付いた。それでいて不満のひとつも寄越されないのは、半ば見限られているからなんじゃないかと不安になる。
付き合う前に「言っておくが、普通の男女みたいな付き合い方が出来ると思わない方がいい」と、わざわざ先に釘を刺したのは俺の方だ。彼女はそれを承知のうえで頷いた。だから俺に非はない――そう自分に言い聞かせるやり口が通用したのは最初の数か月だけだった。今はただ、何も言わずにただ穏やかな笑みを浮かべたまま朝飯を作っている恋人の背中が怖い。文句を言えばいい。行きたい所があるとか、たまには外に連れ出せとか、そのくらい詰め寄られた方が、よほど息がしやすい。なんて、放置している側の人間が言っていいことではないのだろうが。
「水族館に行こう」
目玉焼きを焼いていた彼女が菜箸を持ったままきょとんとした顔で振り返る。
「え?」
「どうしたの、急に」
「前から行きたがってただろ。行こう」
「でも、お仕事で疲れてるでしょ? 無理しなくていいよ。私、おうちデートも好きだよ?」
「違う、俺が行きたいんだ」
「どうしたの、急に。何かあった?」
喜びより先に心配が立ったことに自分の信頼のなさを感じた。何もない、大丈夫だから、と、必要以上に強い声で押し切って、着替えを取りに背を向けた。
それでもいつも以上に洒落こんで、普段は履かないような高いヒールを無理して履いている彼女を見ていると、言わないだけで相当無理をさせているのだろうな、と思う。
「夏物のサンダル、こんなに早く下ろすことになるとは思わなかった。ちょっとびっくりしたけど、うれしい」
「そうか。……よかった」
慣れないサンダルのせいだろう。普段なら俺の半歩前をずんずん行くくせに、今日はやけに大人しく水槽をひとつひとつ丁寧に覗き込んでいる。急かす気にはなれなかった。水族館の中は暗くてゆったりとした音楽が流れていて、眠たさに呑まれそうになるたび自分の肌をつねった。
「魚、綺麗だね」
「ああ」
「今日来てよかったね」
「……ああ」
「お昼はどうしよっか。さっきカフェテリアがあったけど……」
「ああ……」
「……あのさアキくん、やっぱ無理してるよね」
「そんなこと」
「してるよ」
「……」
「……私って、アキくんにとって負担かな」
もともと私が無理して付き合ったんだし。続ける彼女の顔に不穏さを感じて「してない」とうわごとのように続けるがそれに対しての返事はない。
「良い時間だしさ、ご飯食べようよ」
「……ああ。さっき言ってたカフェ、で、いいか」
「うん、そうしよう」
言葉がとぎれとぎれになる。かつかつというヒールの音を聞きながら、彼女の中でももう俺に対する愛想が尽きてきていることがどうしようもなく分かって苦しい。こうなるならデートになど誘わなければよかったのか。……そんなのはきっかけでしかないと分かっているが後悔が後を絶たない。
これから向かうカフェでされるのは別れ話だろうと思った。
そんな予感がある。あるが聞いたらいよいよ現実になってしまうような気がして言えなくて、ただとぼとぼと前を歩く彼女の後ろをついていく。
「アキくんと一緒にお出かけ出来るのは嬉しいけど、負担をかけたいわけじゃないの」
「……負担だと思ってない」
「だけど辛そうな顔してる」
「悪かった。直す」
「だから……直して欲しいわけじゃないの。無理されたって私も辛いから」
青い着色料を混ぜただけのソーダを意味もなく口に含む。味はまずいが喉が渇いて仕方なかった。
「……返事が雑だったか」
「ううん、だから、そうじゃなくて……ただ……アキくん、ただでさえお仕事で大変なのに。私が居たらお休みの日にもあれこれ気を遣わせちゃうんだなって思って、嫌になって」
「それは俺の都合だろ。……疲れが顔に滲んでたのが嫌なら改める」
「だから、そうじゃないってば。そういうところが……そういうところが、疲れちゃうの」
返事が思いつかなかった。ではどうすればいいと聞きたいが、やはりそれに関しても「そうじゃない」と返される気がした。永遠とも思えるような沈黙を経てから、一言
「別れたくない」
とだけ返す。
「どうして」
「……別れたくない」
「わたしアキくんになにもできないよ」
「そばにいてくれるだけでいいから」
「……」
水槽の中の銀色が、憎たらしいくらいに輝いて見えた。いっそ俺もあの中でぼうっと水に浮かべたらどれだけいいかと思う。こんな状況なのに、まだ眠気が隙を見ては俺の裾を引いている。
* * *