「すご~い……デンジくん、逞しい……鍛えてるんですかぁ?♡」
「え? へへ、まあ……?」
あ、と思った時にはもう遅くて、胸の中をどす黒い感情が支配している。仕事終わりにデンジくんに構いに行こうと思ったらかなりかわいい感じの、おっぱいが大きい(おっぱいが大きい!!)ゆるふわ女子がまとわりついて話しかけていた。そのふくよかなお胸をデンジくんの腕に押し付けて、耳元で囁くようにして語り掛けている。
ふむ。
ふーーーむ。
ふーーーーー…………。
殺すぞ。
いいよ?許すよ、許してもいいよ、だってデンジくんは私だけのものじゃないしそれだけ豊満なものをお持ちだったらそうやって押し付けて構いたくなる気持ちもわかるしまさか私が16歳(16歳!!??自分で言ってびっくりしたわなんだそれ)の男の子にマジラブだとは思わないだろうし悪いのは100私なんだけどそれはそれとしててめぇマジで殺すぞ。
殺すぞ。
……ふう。怒らない、怒らない。
この嫉妬心を自分でも「下らね~~!」と思うが、そういう性質の人間なのだから仕方ない。開き直るわけではないけれど、そうやすやすと自分の悪い部分が直せるのなら苦労はしないのである。
そういう訳で、必要なのは傾向と対策。
私はこれでも大人ですからね、自分の行動を悪い方向に行かないようにコントロールすることくらい出来るんですよ。そういう訳でかかとをきゅる、と回して急旋回。後ろを向いて文字通り来た道を戻る。怒らない、怒らない、怒らない。平常心は絶対もう無理だけどそれが分かってんなら関わらない、姿を隠せばキチガイがバレるとこもないってね。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
普段はうるさいくらいに絡んでくる上司が今日に限ってはやたらに静かなので、十中八九何かがあるのだろうと冷や汗を垂らしているデンジである。心当たりは一つ。昨日仕事終わりにぼけーっと副隊長のことを待っていたら、とんでもなく胸がデカい美人に話しかけられて、ついついデレデレと話し込んでしまったことだろう。あの後、結局どれだけ待っても彼女は姿を現さなかったし、ということはあの現場を見られたのだろうということは、昨日の時点でデンジにも予想がついているのだ。
「なあ、フクタイチョーさんよー……」
「なぁに、デンジくん」
「……怒ってる、よな?」
おそるおそる、腫れ物に触るような声で尋ねたデンジに対し、副隊長はふわりと笑った。いつもの、目じりを下げて、口元を緩めた。とろけるような甘い笑顔で。
(ひええ……)
怖い。逆にマジで怖い。絶対作り笑いだしその作り笑いの精度がやたら高いのも怖いしそれでもなお絶対に怒ってるのが透けているのが怖い。怒鳴られるとか、殴られるとか、そういうのではない。なんというか、もっとこう、胃の腑が重たくなるような、じわじわと真綿で首を絞められるような怖さだ。デンジがビビり散らかして脂汗をダラダラ流していると、副隊長は手に持っていた書類をトントン、と机の上で揃えて、それからゆっくりと口を開いた。
「なんていうかさ」
「え、あ、おう!」
「あんまり困らせたくないからはっきり言葉にして伝えておくけど、なんていうか今すごく悶々としてて普通の感じじゃないから、話しかけないで欲しいかな。しばらく時間が欲しい」
淡々と、抑揚のない、事務的な声で彼女は言う。
「え、そ、そんなァ……!」
「ごめんね。大人げないって分かってるけど、私も自分の感情を完璧にコントロールできるほど大人じゃないからさ」
ぴしゃり。副隊長はそれだけ言うと、デンジの方を見ようともせずに「あー、頭冷やしてこよ」と独り言をこぼしながら喫煙所の方へと歩いて行ってしまった。ヒールの音が遠ざかっていく。あとに残されたのは、絶望のズンドコに突き落とされた少年一人。
マジかよ。いつも「デンジくんデンジくん」ってひっつき虫みたいに絡んできて、ウザいくらい世話焼いてきて、なんかあったらすぐ餌付けしてくるあの副隊長が、「話しかけるな」って。
これはつまり……絶縁宣言!?
俺、捨てられんの!? もう大判焼きもたこ焼きも食わせてもらえねぇの!? 義務教育のご褒美もナシ!?
というかこれ、成人のマジ怒りじゃん。
ギャーギャー喚くんじゃなくて、理詰めで「今お前と関わりたくないです」って線引きしてくるやつじゃん。大人の怒り方するじゃんめちゃめちゃ。……やっぱ昨日の巨乳女か。でれでれ話してたのがマズかったのか?デンジの頭の中を、色んな考えが駆け巡っては消えていく。
「んがああああああああああああ!!」
ドタバタドタバタ!!デンジは帰宅するなり、床の上に転がって手足をバタつかせて暴れまわった。
「うおおおおおあんまりだああああアア!!」
「うるせえぞデンジ」
「耳障りじゃ! 黙れい!」
「黙ってられっかよこれがよォ!!!」
「うるさい!」
台所で夕飯の支度をしていたアキが包丁を持ったまま顔を覗かせる。その顔にはありありと「邪魔くさい」と書いてあったが、今のデンジにはそんなのを気にする余裕はない。
「うるさくねぇよ! 俺はいま!! 人生の危機なんだよォ!!」
「なんじゃなんじゃ、マキマにでも振られたか?」
「ちっげーよ! 副隊長だよ! あの人が俺のこと無視すんだよォ!!」
「あの人が?」
アキが意外そうに目を瞬いた。ダン! と床を叩いて身を起こすデンジ。その目が血走っている。
「もう構うなって! 話しかけんなって!! ……なぁアキ、これってアレか!? いわゆる別れ話ってヤツか!?」
「いつの間に付き合ってることになってたんだよ」
「付き合ってなくても飯は食わせてもらってたんだよ! そういう関係性が終わるってコトだろ!? マジで? 俺そんな悪いことしたか? ちょっと知らねー女のデカい胸にデレデレしただけで!?」
「ぶははははは! ざまぁないのう!」
「……嫉妬するような性格の人じゃないけどな。色々ゆるゆるだし」
はたと不思議そうに考え込むアキも視界に入らず、デンジは頭を抱えてゴロゴロと転がりながら苦悩する。
どうしよう、嫌われた。もう二度と口きいてもらえないかもしれない。あの優しい笑顔じゃなくて、さっきみたいな冷たい顔を一生向けられるとしたら?
……それは、なんか、飯が食えなくなるとかそういうの抜きにして、すごく嫌だ。胸の奥がキュウっとなって、すごく居心地が悪い。
「んがあああああああ! わかんねぇ! 女心とか全然わかんねぇ!! あーもうクソ! クソッ!」
とにかく胸の中のもやもやを晴らすために騒音公害レベルの叫び声をまき散らす後頭部に、手刀が容赦なく振り下ろされる。
「痛って!!」
「うるさいと言ってるだろ。近所迷惑だ」
そうして呆れ果てたようにため息をつくと、キッチンに戻って味噌汁の味見をしながら冷ややかな視線を向けてきた。
「で、お前が何をやらかしたんだ」
「なっ、俺が悪い前提かよ!」
「十中八九そうだろうが。あの人がお前を無視するなんて、よっぽどのことだぞ」
アキの指摘に、デンジは口をへの字に曲げた。心当たりしかない。
「……てかよぉ、いい年した大人がよぉ! 16のガキ相手にムキになって無視とか、そっちのが大人げなくねぇ!?」
「まあ、それは否定できない」
というかそのあたりを一番に気にして気を遣うのが副隊長だし、それを考えればとことん「らしくない」事態である。となれば「デンジが余程読んでもないことをしでかした」という方向に思考が向かうのが自然であり、アキも当然そのように考えた。
「とにかく、明日ちゃんと謝ってこい。菓子折りでも持ってな」
「カシオリ……?」
「ポーズだけでも誠意を見せろってことだ」
「そういうもんか?」
「何もしないよりましだろ」
それはその通りではあるが。がくりとうなだれるデンジの腹に、パワーがパンチを食らわせた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
翌日になっても副隊長の機嫌は直っていない……どころか、むしろ悪化している。今日にいたっては目が合わないし、声をかけても「ん……」という返事が返ってくるだけだ。もはや、怒っているのかどうかすらも分からない。
アキに言われるがままに飼った菓子折りのチョコレートの包装紙が、デンジの手汗で皴になっている。どこからなにをどう切り出したものかとデンジが頭の中でぐるぐる考えていると、意外なことに、先に話を切り出したのは彼女の方からだった。
「あのさ」
「あっ。は、ハイ……」
「昨日はごめんね、突き放すようなこと言っちゃって。今日はもう大丈夫だよ」
彼女はそう言うと、書類の束に視線を落としたまま無理やりに口角を持ち上げた。
……全然大丈夫って顔してねえ。
顔色は真っ白だし、目の下にはうっすらクマができてるし、何よりまとってる空気がどんよりと重い。怒ってるというよりは、なんだか落ち込んでいるみたいに見えた。
「ぜ、全然大丈夫って顔してねーけど……」
「とにかく大丈夫なの。気にしないで」
ひらひらと手を振る。
「なー、やっぱ怒ってる……っていうか、落ち込んでるんだろ、今。俺が悪いんなら怒ってくれていーって」
「いいから。そのあたりほじらないで」
副隊長は顔を背けた。その横顔があまりにも痛々しくて、お節介かもしれないと分かっていても、デンジは思わず一歩踏み出してしまう。
「だから、なんでそんな突き放すようなこと言うんだよォ……」
「突き放したいわけじゃ……っ!」
大きな声が出たことに自分で驚いたのか、彼女はハッとして口元を押さえた。そのままズルズルとその場にうずくまって、「うーーーー」と唸り始める。
「……だめだ、ホントごめんだけどしばらく距離とらせて。これ、このままだとろくなことにならない……デンジくんが悪いっていうか、私の問題なの……やなこととか、いろいろ、ぐわーーってなるから」
「そのぐわーってやつ、俺にはどーにか出来ねー……?」
「……」
それでもデンジが引き下がらないので、しばらくの間沈黙が走った。彼女はうずくまったまま、小さく首を振る。
「だめ。いま、あたま、オカシクなってるから、デンジくんのこと殺すか私が死ぬかしないと収まらない……」
「そんなら俺のこと殺してもいーぜ。生き返っちまうけど」
「いいわけないでしょ!」
顔を上げた彼女の目は潤んでいて、怒っているのか悲しんでいるのか、あるいはその両方なのか分からない複雑な色をしている。
「えー……」
ならどーしろってんだよ。副隊長はまた口ごもった。しばらくモゴモゴと言いよどんだ末、消え入りそうな声で呟く。
「こんなこと、子供に要求したくない……」
「だから、何を」
「やだ、いわない」
「何して欲しいのかわかんねーとどうしよーもねーだろ」
「ううう……」
そうしてしばらく葛藤していたようだったが、やがて意を決したように、けれど視線は逸らしたまま、ポツリと言った。
「デンジくんの、こと、殺したい」
「だから、殺していいって」
「でも、殺せないじゃん。生き返っちゃうから」
「それはそーだけど……あ! だからって俺が副隊長殺すってのはナシな!?」
「…………ぅ」
目を逸らす副隊長。図星かよぉ、デンジは心の中で畏怖に近い感情を覚える。
「でも、それがだめってのも分かってるから、違うこと考えてた」
「なに」
「なんでもするって約束してくれる?」
「おう、俺に出来ることなら」
「それなら」
彼女は震える手で懐を探り、一本のカッターナイフを取り出した。
刃先をほんの少しだけ出して、それを逆向きに、持ち手の方をデンジに向けて差し出す。
「これで私の肌にデンジくんの名前、書いて」
は。
あまりに突拍子もない要求に、思考が完全にフリーズした。
カッター? 名前? 肌に?
言っている単語の意味は分かるのに、それらが繋がって構成される文章の意味がこれっぽっちも理解できない。
「な……なんで……」
「トクベツなことして欲しいな、って、思ったから」
「だ、だからって、なァんでこんなバイオレンスな方法で……!」
「今後の人生で、絶対にデンジくんがだれともしないようなことが良いの」
おろおろと狼狽えるデンジになど構いもせず、副隊長はしっとりと体をすり寄せてくる。華奢な腕がデンジの腰に回り、薄い胸が腕に押し当てられる。見上げれば、大きなおめめをうるうると潤ませて、捨てられた子犬のような上目遣いでこちらを見つめていて。
かわいい。悔しいけれど、どうしようもなくかわいい。……言っていることが猟奇的でなければの話ではあるが。
彼女はぎゅう、とすがるようにデンジに抱き着くと、甘い声で囁いた。
「デンジくんのだって印、欲しいな」
「も、もっと穏便なのがあんだろ~!?」
「……してくれないんだ、じゃあ」
体温が下がるみたいに、声のトーンが冷え切ったものに変わる。
「じゃあいいよ、もう」
彼女は組んでいた腕をパッとほどくと、興味を失ったようにふいと顔を背けた。
その拒絶の動作が、昨日の無視の恐怖をデンジの脳裏にフラッシュバックさせる。またアレが始まるのか。またあの氷みたいな他人行儀な態度に戻るのか。それだけは、それだけは絶対にイヤだ。
「あー! あー! うそうそ、やるから! 機嫌直せって、な!?」
慌てて叫ぶと、彼女はぴたりと足を止める。けれどすぐには振り返らない。じろり、と横目で、拗ねた子供のようにじいっとデンジを睨みつけてくる。
「ほんと?」
「本当だって! やるよ、やればいーんだろ!」
「痛くしてね」
「うう……」
「途中でやめないでね」
「分かったよぉ……!」
半泣きになりながらデンジが頷くと、彼女はようやく満足したように小さく笑って、再びその白い腕が手を引いた。
連れ込まれたのは人通りが少ない位置にある仮眠室である。
鍵をカチャリと閉める音がやけに大きく響いた。薄暗い部屋の中で、副隊長は迷いなくパイプベッドに腰かけると、着ていたシャツをまくり上げた。
「ここ。わき腹のあたり、書いて」
すらりとした白い指先が、あばら骨が浮き出るほど華奢で、ぺったんこのお腹をなぞる。突き出されたカッターナイフの刃先が、蛍光灯の光を反射して冷たく光った。
「う~~、こえーよ、俺力加減とか出来ねぇぞ!? 内臓までいったらどうすんだよ!」
「しなくていいよ。……中まで、デンジくんのモノにして」
「ッ……い、言ってること滅茶苦茶だっつーの……!」
デンジはカッターを持ったまま、脂汗を垂らして後ずさりした。いや無理だろ。普通の神経してたら無理だろこんなの。いくらなんでもハードルが高すぎる。
なんとか回避する方法はないかと脳みそがフル回転した。そうしてやがて、ある考えにたどり着く。
「で、でもさァ~……あ! ギャ、逆じゃだめなの!? 俺が書かれる方! そっちのがまだいい!」
「デンジくんの傷、すぐ治っちゃうじゃん」
「治るたびに書き直せばいいじゃんよ! 毎日! そっちのが愛が深い感じしねぇ!?」
我ながら名案だと思った。それなら誰も傷つかない(俺は痛いけどすぐ治るし)。だが……副隊長はその提案を聞くと、すうっ、と表情を曇らせて、大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼし始めたのである!
「……ッ、う、うう……」
「えええエェ~~!? な、なんで泣くのォ!?!?」
「デンジくんは私の気持ちは独り占めする癖に、私そのものはほっぽっとくんだ……」
「はあ!?」
「私に自分の痕跡が残るのは嫌なんだ……私がどっか行っちゃってもいいんだ……どうせ代わりなんていくらでもいるもんね」
「エエ!? ちがっ、そういう訳じゃねえって!」
「違わないじゃん、それってそういう意味じゃん……っ、うう……」
わあわあと子供みたいに泣きじゃくる副隊長。正直に言ってクソ面倒である。けれどデンジはどこまで行っても(かわいい女の子相手に限っては)健気で誠実な男であるので、彼の罪悪感はゴリゴリと音をかけて削り取られていった。
ああもう、泣かせたとなれば俺が悪者だ。この人がこうなったらテコでも動かないのは知っている。
「あああああ、分かったよ~……! やる! やりゃいいんだろ!!」
デンジは覚悟を決めて、ベッドのふちに膝をついた。
震える手で、彼女の白いわき腹に刃を当てる。
「……動くなよ」
「ん……」
先程までの泣き顔はどこへやら。彼女は頬を桜色に染めて、ふわりと微笑んだ。つ、冷たい刃先を走らせる。
柔らかい皮膚が裂ける感触が、手ごたえとして伝わってくる。
じわり、と赤い血が滲みだして、白い肌を汚していく。
「……痛くねぇの?」
「痛い、けど、愛だとおもってるから」
うっとりとした声。正気とは思えない。
一文字書くたびに真っ赤な血があふれて、皮膚の上を垂れていく。
「あ、勿体ねぇ……」
デンジは無意識に呟くと、垂れた血に口を付けてぺろりと舐めとった。
「……っ、ふふ」
「な、なに笑ってんだよ」
「ううん。デンジくんだなあ、って」
書き終わるころには、デンジの顔は真っ青になっていた。冷や汗でシャツがじっとりと濡れている。対照的に、わき腹に赤々と『デンジ』という文字を刻まれた副隊長は、バラ色の頬で微笑んでいる。実際に血を失ったのは彼女の方だというのに、どういうからくりだろう、と、デンジはぼんやり思った。
Here’s looking at you.