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 女好きでチョロくて性的なことにだらしないという噂の割に、デンジくんからそういう視線を感じたことが一度もないなあ——と、思ったのは、確か昼下がりのことだった。

 公安本部の屋上。錆びたフェンスに背中を預けて、二人並んで座っている。デンジくんは足を投げ出して、私が持ってきたカップラーメンの汁を行儀悪くすすっていた。残暑の風がぬるくて、空は抜けるように高くて、蝉の声がうるさい。平和だ。こんな日は悪魔も出ない。出ないでほしい。


 横目でデンジくんの横顔を盗み見る。

 汗で貼りついた金髪。首筋の日焼けの境目。ラーメンをすする時のちょっと間抜けなつんつんって口の形。十六歳の男の子の横顔というのは、なんというか……眺めている分には悪くない。ちゃんと子供で、ちゃんと男の子で、ちゃんと生き物だなあ、と思わせるような瑞々しさがあって。

 だからというわけでもないのだけど、気まぐれに。

「ねえねえデンジくん、私のこと、どれくらい好き?」

 さながら面倒な彼女のような質問をしてみると、デンジくんは汁を飲む手を止めもしないで即答した。

「それなりに」

「それなり」

 なんだよ、それなりって。

 喜んでいいのか悲しんでいいのかさえ分からない、絶妙に掴みどころのない回答に一瞬固まってから、気を取り直して追撃する。

「えー。それってさ、恋愛的な意味で? それともお勉強の先生として?」

「アンタんことは死んでも好きになんねーよ。だってチビだしガリガリじゃん」

「はー!?」

 思わず抗議の声を上げた。声がフェンスに反響して、屋上に響いて、虚しく消えた。

 ……いや、待って。冷静になれ。冷静になって考えろ、私。

 思い返せば、マキマさんもパワーちゃんも、姫野先輩だって——出ている所はしっかり出ていて、背が高くて、すらりと手足が長くて、小顔で。デンジくんの横に立つととても絵になる人たちだった。

 翻って、私はどうか。

 ……ダメだ。めちゃくちゃチビだしちんちくりんで、お胸もお尻もちっちゃい。身長だって成人女性の平均を下回っている。ていうか中学生と間違われたことが今年だけで三回ある。三回。

 ぐぬぬ、と唇を噛む。分かっていたことだ。分かっていたけど、面と向かって言われると流石に凹む。

「ぐぬぬ。私のこのネオテニーな魅力が分かりませんか」

「は? オナニー?」

「ネオテニーね。小っちゃくてロリコン受けがいいってこと」

「……それって言う程いいことか?」

「ごめん、悪いことだね。デンジくんの趣向は正しいよ」

 それは本当のこと。

 小さくて幼い外見を武器にするなんて、よくよく考えなくてもあんまりいい戦略じゃない。自分で言っておいてなんだけど、言ってて悲しくなってきた。

 でもデンジくんは私のしょんぼりした空気をまるで読む気がないみたいに、ずずず、とラーメンの残りの汁を飲み干して、ぷはーっと一息ついている。少年漫画のワンシーンみたいな気持ちの良い飲みっぷり。……その呑気さが、今ばかりはちょっとだけ恨めしい。


 けれど実際のところ、彼の好みに私が適合していないというのは残念ながら事実らしかった。

 私が観測している限りにおいて、デンジくんはありとあらゆる女性に甘々な対応を見せる。マキマさんの前ではしっぽが生えているんじゃないかと思うくらいそわそわするし、コベニちゃん相手ですら、時と場合によってはまあまあ気のいい顔をして笑っているし、この前なんか本部の受付のお姉さんに話しかけられただけで顔を真っ赤にしていた。鼻の下を伸ばしているとも言う。

 一方で私に対する接し方はどうだろう。

 実に淡泊。素っ気ない、とまでは言わないけど、どっちかというと、パワーちゃんへの接し方に近い何かを感じる。仲間。戦友。あるいは、ちょっと小うるさい先輩。そのカテゴリ。

 抱きついても「おー」的な反応しか返ってこないし、ぺったんこの胸を二の腕にそっと押し付けてみても、そもそも当たっていることに気づいているのかすら怪しい。いや、私の胸がそれだけ薄いという可能性もあるけど。……あるけど。


 まあ誰しも人の好みはあるものだし。

 そもそも世の中の男性がプロポーションのいい姫野先輩のような女性を理想とすることは至極当然であるし。

 そこについて異を唱える気は、ない。ない。ないったらない。


 ない、けれども。

 それはそれとして人間、腹は立つのである。


 だってだって。彼、最初の頃はパワーちゃんにすらデレデレしてたって話じゃないか。それなのに、私は割と最序盤からずっとこんな感じの扱いだぞ。あれか。私はお風呂に入らない女の子と同列になるくらい魅力がないというのか。私は、こんなにも身を尽くして面倒を見てあげているというのに。ころもかたしきひとりかもねむ。百人一首だよ。私の教養を褒め称えなさい。

「まあ、見た目なんて些細なこと」

 ラーメンの空き容器をゴミ箱に投げ入れて(外した)(拾ってちゃんと入れ直して)、デンジくんの隣に腰を下ろし直す。さっきよりちょっとだけ近い距離。ほんのちょっとだけ。肩が触れるか触れないかの、絶妙な間合い。

「デンジくんもいつか、私の庇護欲をそそる可愛らしさが分かる日が来るであろう」

「自分で言うことかよそれ。そういうとこだろ」

「こういう高慢ちきなところも可愛いと受け止められるようになりたまえ」

「だる〜……」

 面倒くさそうにしているデンジくんの頬っぺたをつんつんと突く。指先に触れる肌は思ったよりも柔らかくて、少年特有の体温がじんわりと伝わってきて、ああ、生きてるなあ、とまた思った。

 言っておくが、初物食いは私にとって得意分野なのだ。

 これまでのデビルハンター人生で磨いてきた観察眼を以てすれば、男の子一人を振り向かせるくらい——いや、そうだ。それくらいは、朝飯前のはず。

 ……はず、なのだけど。


 それから一週間。

 私は持てる限りの手札を全て切った。

 名前を呼ぶ。とにかく頻繁に、やわらかく、「デンジくん」と呼ぶ。訓練の後に「お疲れ様、デンジくん」。昼食の時に「デンジくん、これ美味しいよ」。すれ違いざまに「デンジくーん」と手を振る。名前というのは魔法だ。自分の名前を嬉しそうに呼んでくれる女の存在は、大抵の男の子にとって致命傷になる。

 ボディタッチをする。肩をぽんぽん叩いて、腕にしがみついて、たまに袖をくいくい引っ張る。わざとらしくない程度に、でも確実に体温が伝わる距離で。

 ぽっとした顔で見つめてみせる。目が合った瞬間に、ふっと微笑んで、すぐに逸らす。追いかけたくなるような、焦れったいやつ。

 飴ちゃんを忍ばせる。

「んねんねデンジくん、あれ見て?」

「あ? 何が……っおい! 今服ん中になんか入れただろ!」

「んふふ、さてなんでしょ〜!」

 正解は小さな飴ちゃんの包みである。

 まあこのままズボンの中に入ったままだと袋のなかでべたべたになっちゃうな、と思いつつも、デンジくんがシャツを引っ張り出した拍子に地面に転がったそれを拾い上げる姿を見守って。

 彼は包み紙の色を確認して、嬉しそうに笑った。あ。笑った。無防備に、子供みたいに、嬉しそうに。

「苺味じゃん。やりぃ」

「んへへ……喜んでもらえて良かった」

 目を細めて、分かりやすく嬉しそうな顔を作って見せる。

 こういうのは得意だ。私だってこれまで伊達にモテてはいないわけで——モテていたのか? 正確には「寝てた」だけかもしれないけど——男の子に可愛いと思ってもらえる方法、好かれる方法なんてのは、もう十二分に知り尽くしている。

 名前を呼んで。

 ボディタッチをして。

 ポッとした顔で見つめてみせて。

 隙を見せて、でも全部は見せないで。

 プレゼントは高価なものじゃなくていい。飴ちゃんひとつで十分。大事なのは「あなたのことを考えていましたよ」というメッセージを、さりげなく、でも確実に伝えること。

 これでいい。これで、大丈夫なはず。

「ねーねっ、デンジくん。私にもその飴ちゃん、あーんってしてよ」

「えー? 自分で食えばいーだろ、我儘言うなよぉ」

 ……はい、響いてない。

 一ミリも響いてない。

 飴を口に放り込んだデンジくんは、こりこりと奥歯で噛み砕いて(飴は噛んじゃダメだと何度言ったら……)、「うめー」と呟いて、それきり。視線はもう別の方を向いている。空。雲。鳩。私のことは視界の端っこにすら入っていないみたいだった。

 このムーブを始めてから早くも一週間。

 声をかければ答えてくれるし、ほどほどに相手もしてくれる。デンジくんは基本的に素直ないい子なので、先輩である私が話しかければ無視はしない。それはいい。でも、そこに——恋愛の熱のようなものを感じたことは、今のところ、ただの一度も、ない。

 温度がない。

 手ごたえがないとか、脈がないとか、そういう次元の話じゃなくて。そもそも私のことを「女」として認識していない。目の前にいるのに、見えていない。透明人間にでもなったような気分だ。

 そんなに、おっぱいって大事だろうか。

 そんなにお尻って、大事だろうか。

 そりゃ見た目の好き嫌いはあるだろうけれども、私だって自分なりに綺麗にしてるし、肌だって荒れてないし、髪だっていつもちゃんとケアしてるし……流石に、悲しくなってきた。目の奥がじわっと熱くなる。泣くほどのことじゃないって分かってるのに。バカみたい。

 子供相手に何をムキになってるんだろう、私は。

 ……でも。ここまで来たら、意地だ。

 意地でもこの男の子に惚れさせてやる。落として、夢中にさせて、泣いて縋ってくるあどけない純情を——大人の余裕で、にっこり笑って、振り払ってやるのだ。

 問題は、その「大人の余裕」とやらが、既にちょっと怪しくなってきている、ということだけど。


 作戦を変更することにした。

 飴ちゃんとボディタッチでは駄目だった。遠回りな好意のサインでは、このバカ正直すぎる男の子には何も伝わらない。もっと直接的な方法が要る。

 ……と言っても、告白するとかそういうことじゃない。それは負けだ。何に対する負けなのかは自分でもよく分からないけど、とにかく私の方から「好き」とは言いたくない。言ったら最後、この関係の主導権が全部あっちに行ってしまう気がする。てか、それって本末転倒だし、別に私、デンジくんのこと好きとかじゃないし。

 だから私が選んだのは、もっとずるくて、もっとたちの悪い方法。

 距離を詰める。物理的に。逃げ場がないくらいに。

「デンジくーん。ちょっとこっちおいで」

「あ? なんだよ」

「いーからいーから」

 夕方の公安本部、薄暗い廊下の隅っこ。書類を取りに来たついでに、たまたますれ違ったデンジくんを捕まえた——というのは半分嘘で、彼がこの時間にここを通ることは事前に把握済みである。先輩をなめてもらっちゃ困る。

「はい、じっとして。動かないでね」

「は、なに」

「襟、曲がってるよ」

 デンジくんのシャツの襟に手を伸ばす。実際には別に曲がってなんかいないのだけど、そんなことは些細な問題だ。大事なのはこの距離。私の指先が彼の首筋に触れて、そこから伝わる体温。デンジくんの匂い。石鹸と、少しだけ汗と、あとなんだろう、お日様みたいな匂い。 そう。これは純粋に作戦なのだ。

 純粋に、作戦。

 心臓がどきどきしているのは、別にデンジくんのせいじゃない。演技の緊張。そう、それだ。

「……ん、よし。直った」

 襟を整えるふりをしてぱんと肩を叩く。少しだけ手を置いたまま。離さない。彼の肩は想像していたよりもしっかりしていて、骨の形がはっきり分かった。細いのに硬い。

「んふふ。はいおしまい」

 にっこり笑って手を離す。今だ。ここで、ちょっとだけ名残惜しそうに指先を滑らせて、それで、デンジくんの反応を窺う。

「おー、サンキュ」

 以上。

 デンジくんはぺこりと頭を下げて、何事もなかったかのように歩いていった。振り返りもしない。足取りに迷いもない。完全に、何も感じていない。何も。

 薄暗い廊下にひとり取り残される。

 窓の外では夕焼けが燃えている。蝉が鳴いている。世界は何ひとつ変わっていない。

「……んぁー」

 壁に背中をぶつけるように寄りかかって、ずるずるとしゃがみ込んだ。両手で顔を覆う。あっつい。顔が、熱い。

 ……あれ。

 おかしいな。

 こういうのは、私の方がどきどきしちゃ、だめなのに。ごん、と後頭部を壁にぶつけて、天井を仰ぐ。蛍光灯がちかちかと点滅している。替えなきゃな、これ。総務に言っとこう。

 こんなにも手応えがないのは、思い返す限り、初めてかもしれなかった。私が本気で「落とす」と決めた相手に、ここまで通じなかったことは一度もない。私が公安に入りたてで、節操なくあれこれ荒らしまわってたころは、そりゃもう面白いように男が引っかかったもの。一週間で落ちなかった人間なんて、いない。

 まあ、元居た三課を追い出された原因がそれなんだけど。


 なのにデンジくんだけはびくともしない。

 鉄壁。要塞。あるいは——私のことなんか、最初から、眼中にないだけ。

 ……ほんとに、おっぱいって、そんなに大事かなあ。




「お前、副隊長に何したんだよ」


 唐突にアキが言い出したので、デンジは目を瞬いた。

 夜の早川家のリビング。テレビはつけっぱなしで、画面の中では知らないタレントが知らない芸人と知らないゲームをしている。先ほどまでそれを熱心に見ていたパワーは随分前に寝落ちして、今はすっかり夢の中だ。

 アキは鬼の居ぬ間にとばかりに、静かに洗濯物を畳んでいた。几帳面に角を揃えて、綺麗に一枚ずつ。ただしその視線だけが訝しげにデンジの方を向いている。

「なにもしてねーけど」

「何もしてなくてあんなにベタベタな距離感にならないだろ」

 あんな、というのが何を指しているのかは、デンジにだってちゃんとわかっている。

 今日の仕事中もそうだった。移動中も、待機中も、副隊長は常にデンジの半径一メートル以内にへばりついていた。まるで飼い主にじゃれつく子猫みたいに。

 とはいえ。

「何かやらかしたわけじゃないだろうな」

 そんなこと言われても困る。だって本当に何もしていないのだ。何もしていないのに勝手にくっついてくるのは向こうの方であって、デンジには一切の非がない。

「しらね。俺に惚れたんじゃねーの?」

 適当にそう言うと、テレビの前でうつぶせになっていたパワー(寝てなかったのか、あるいは会話を聞いて起きたのか)が、目を瞑ったまま盛大に吹き出した。

「なはは、めでたい頭じゃのう! どうせデンジをからかって遊んでおるだけじゃろうて」

「んなことねーって! アレはマジで俺んこと好きって顔だぜ」

「……まあ、そう思えてるなら幸せかもな。そのうち副隊長も飽きるだろうが」

 アキはどうでもよさそうな口調でそう言った。畳み終わったシャツを脇に置いて呆れたような顔をしている。けれども、デンジからすれば的外れなのはアキの方だった。

 あの女、どうせ明日も絡んでくるぜ。


 そうしてあくる日。デンジの予想通り、朝の集合場所に着くなり小さな影がすり寄ってきた。

「でーんじくんっ」

 副隊長だ。

 今日も今日とて彼女はデンジの二の腕に自分の体を押し付けてくる。すりすりと。まるでマーキングでもするみたいに頭をこすりつけて。シャンプーの甘い匂いがする。髪の毛が腕にくすぐったい。相変わらず、ちっちゃい。デンジの肩にも届かないくらいちっちゃくて、腕にくっついているというよりは、ぶら下がっているに近い。

「おはよー。今日もいい天気だねぇ」

「おー」

 ぶっきらぼうに返しても彼女はめげない。むしろ、その素っ気なさすら織り込み済みとばかりににこにこと愛想よく微笑んでいる。

 くっつかれること自体は別に何も思わない。嫌ではない。ただ、だからといって特別嬉しいかと言われると、それもまあ、正直よく分からない。副隊長が今何を思っているのかを考えると、絶妙な気持ちになるからだ。

 そうしていると、ふいに副隊長がデンジのシャツの裾を引っ張った。

「はい、今日もこれ」

 隙間から、するりと冷たい指先が侵入してくる。

 うなじのあたりをごそごそと弄られて、その感触はちょっとだけくすぐったくて、「うわ」と声が漏れそうになるのを飲み込んだ。ぽとり、と何かが服の中に落ちる。引っ張り出してみれば、昨日と同じ個包装された飴玉。今日はすっぱいレモン味だ。黄色い包み紙。

「またかよぉ」

「んふふ。糖分補給、大事でしょ?」

 じーっと上目遣いでデンジを見つめてくる顔は、確かにまあ、好みではないにせよ、かわいくて。長い睫毛をぱちぱちと瞬かせて、瞳をうるうるさせて。でっかい目。副隊長の目は体の大きさに対してやたらとでかいので、こういう顔をされると余計にでかく見える。少女漫画みたいだ。

 実際……チビだし、ガリガリだし、マキマさんみたいな色気はない。けど、こうまであからさまに好意を向けられて、悪い気はしなかった。

 悪い気はしないというのが正確なところで、それ以上でもそれ以下でもないのだが、まあ、飴は嬉しい。飴はいい。タダで貰える甘いものは正義だ。

「うま」

 デンジは包み紙を破りながら、まんざらでもない顔で口の中に放り込んだ。すっぺ。でもうまい。副隊長はそれを見届けてから、ぱあっと満面の笑みを浮かべた。誇らしげな、ちょっとだけ企んでるような笑み。

 なんだよその顔、と思ったけど、明日から飴がもらえなくなったら嫌だから、言わなかった。




 マジで、靡かなさ過ぎじゃないか。いくらなんでも。

 まあ好みじゃないんだろうなってのは前提にしてもさあ、いくらなんでも靡かなさすぎだって、ほんとうに。一週間どころか二週間。飴ちゃん作戦もボディタッチ作戦も襟直し作戦も、全部全部、のれんに腕押しぬかに釘だった。手応えのなさがすごい……というか、これなら多分、コベニちゃんがデンジくんを口説いた方がまだ話が早い。コベニちゃんは私よりちょっぴり背が高いし、まあ、私よりは胸もあるし、何より大人しくて健気なので……って、何でそんなことまで考えてるんだ、私は。

 なんでだ! なんでこんなに好かれてないんだ!

 私まだデンジくんのこと殺そうとしてないのに!


「ねーデンジくん、マキマさんのどこが好きなの?」

 聞いてどうするんだと自分でも思ったけど、口が勝手に動いた。

 放課後……あ、じゃなくて。デンジくんって普通に高校生の顔してる時あるから、感覚がマヒする。

 仕事終わりの公安本部の前。自販機でオレンジジュースを買ったデンジくんの隣に座って、私はゆず茶をちびちび飲んでいる。もはや恒例になった帰り際の立ち話。

 いつの間にかこういう関係性になってた。こうして二人で並ぶ時間を作るのを、今日は狙ったわけじゃない。……いや、最初は狙ってたんだけど、最初は。

「どこって言われても……全部としか言えねーよ」

「そりゃあそうだけどさあ」

「マキマさんに対抗心でもあんのかよ」

「ちょっぴりね。あのひとすっごいモテるから」

「…………ほーん」

 しかし全部ときた。全部。全部か……。

 別段それに突っ込むようなところはない。マキマさんは確かにすごい人だ。顔も、スタイルも、頭の良さも、声も、佇まいも。あの人の隣に立ったら私なんて……ああだめだ、この方向に考え出すとキリがない。

 やっぱりあの人がいる限り、私はアウトオブ眼中ということなのだろうか。


 そもそも論、デンジくんの好みは、最初から分かっているのだ。

 ちょっと意地悪で、可愛くって、からかってくれるような女の子が好き。褒められたい。甘やかされたい。でもちょっとだけ振り回されたい。そういう感じ。まあ、男の子としては平均的だよね。

 その点で言ったら、私の振る舞い方はまあまあ正解だと思うんだけどなあ。からかってるし、可愛くしてるし、飴ちゃんだってあげてる。

 なんだか悲しくなってきちゃったよ。

 平たい胸を自分の手でそっと撫でて、ぼーっと考える。うーん、ない。どこにもない。ため息をついて、今度はお尻に手を当ててみる。ない。ここにもない。骨盤のかたちがダイレクトに掌に伝わってきて、やっぱり問題は容姿にあるような気がしてならなかった。

 いっそカップでも仕込んで、ばばーんと胸を盛った方がいいのかもしれない。でもそれはそれでどうなんだって感じだし、なんならバレた時が地獄だし。コベニちゃんあたりに「副隊長、お胸の形が昨日と違う気がします……」とか言われたら、一生立ち直れない自信がある。


 ぐだぐだ悩んでいたって仕方がないので、手っ取り早くデンジくんをご飯に誘ってみることにした。

 ご飯と言いつつも目的地はご飯ではない。計画変更。もう小手先の駆け引きはやめだ。正面突破。二人で出かけて、二人で楽しい時間を過ごして、楽しかったなあって思い出を共有する。それが平均的ボーイミーツガールの恋の始まりでしょう。知らないけど。

「童顔ってのも結構得でね、普通高校生しか行かないような場所に入り浸っても、変な目で見られないんだよ」

 そう言ってデンジくんの手を引いて連れて行ったのは、ゲームセンターである。

 ボウリングやらカラオケやら他の候補も考えたけれど、やっぱり「高校生ならでは!」となると、ここかなぁと思ったから。

 まともな高校生活というものを経験したことのない私にとって、ゲームセンターは一種の憧れだった。放課後に友達と寄り道して、クレーンゲームでぬいぐるみを取って、プリクラを撮って。そういう、なんてことない青春の断片。

 まあ、いい年をした大人である私と、その正体がチェンソーマンであるデンジくんの二人の組み合わせが、「なんてことない青春」と呼べるかどうかは甚だ疑問だけど。


 入った瞬間に鳴り響くゲーム機の電子音。

 薄暗い店内にぱちぱちと瞬くランプの光。

 甘ったるい空気清浄機の匂い。

 制服姿の高校生がわいわいと群れている中を、私とデンジくんが堂々と歩く。……うん、溶け込めてる。たぶん。私はともかくデンジくんは実際に十六歳なので、完璧に溶け込んでいる。

「ね、ね、デンジくん。このぬいぐるみ取ってよ。お金は出すからさ」

 クレーンゲームの前で足を止めて、ガラスの向こうのもこもこしたハムスターのぬいぐるみを指さした。丸い。おっきい。つぶらな瞳がかわいい。両腕で抱えないと持てないくらいの、クレーンゲームサイズの特大ぬいぐるみ。

「えー……」

「ね、いいでしょ」

 ぬいぐるみが欲しいのは本心だけど、もちろんそれだけじゃなかった。

『デンジくんが取ってくれたぬいぐるみ』

 という事実が欲しいのだ。彼が私のために百円玉を入れて、レバーを操作して、取ってくれた、という体験。それが大事。

「俺やったことねぇよ……」

「そこをなんとかさー。デンジくんが取ってくれたという付加価値の付いたぬいぐるみが欲しいという副隊長さんの乙女心を分かってくれたまえよ」

「いくらかかっても知らねーかんな」

「あはは、そう来なくちゃ!」

 百円玉を投入して、デンジくんがレバーに手をかける。ぐぐぐ、と難しい顔。眉間にシワを寄せて、唇を尖らせて、ちょっと舌まで出ている。……子供じゃん。かわいいなあ。

 一回目、空振り。

 二回目、惜しい。

 三回目でアームがぬいぐるみの頭を掴んで、持ち上がって——落ちた。四回目。五回目。六回目。こうなるともう意地だ。デンジくんの目が据わってきている。クレーンゲームなんかに全力投入している横顔が、ばかばかしくて、愛おしい。

 結局なんやかんやで千円くらいで取れた。ぬいぐるみを取り出し口から引っ張り出して、デンジくんがこちらに差し出す。

「どーよ」

 爽やかに笑った。汗まで一滴光っている。

「えへへ、ありがとうデンジくん。嬉しい」

 受け取ったハムスターのぬいぐるみは、思った通り私の両腕いっぱい。もこもこで、ふかふかで、あったかくて。デンジくんの体温がまだ残っているような気がして……いや、残ってるわけないか。クレーンが掴んだだけだし。

 でも嬉しいのは本当だった。作り笑いじゃない。

 それからイニシャルDをした。私は運転が壊滅的に下手なので案の定ガードレールに激突しまくったけれど、デンジくんはそこそこ上手くて悔しかった。

 ちなみにこれはこぼれ話なんだけど、アキくんはこの手のレースゲームがめちゃくちゃ上手いので、今度また四人で来たい。

 それで、そのあとマリオカートもした。

 私が赤甲羅を投げまくったらデンジくんが本気でキレた。

 湾岸にも付き合わせて、「副隊長は絶対に免許取らねぇ方が良いと思うぜ」という忠告を頂戴した。余計なお世話だ。


 最後に、デンジくんのおててを引いてプリクラを撮った。

 狭い撮影ブースの中、デンジくんはちょっとだけ緊張した顔をしていて——ああ、もしかしてプリクラ初めてなのかな。その可能性に気づいた途端、胸がちょっぴりぎゅっとした。

 私の惚れさせたい惚れさせたくないみたいな下心は別にしても、今日こうして普通のこどもらしく遊べる時間を彼の為に作ってあげられたのは、それなりに意味のあることだと思う。

「はいはい、もっと寄って寄って! くっつかないと切れちゃうからね!」

「お、おう……」

 肩をくっつけて、カメラに向かってピースサインを作る。カウントダウンが始まる。三、二、一。ぱしゃり。

 落書きコーナーで犬の耳と鼻をおそろいで描いた。デンジくんの頭にわんこ耳。私にもわんこ耳。鼻先にちょんと黒い丸。出来上がったプリクラを二人で覗き込むと、デンジくんがまんざらでもなさそうな顔をしているのが見えた。

 ……かわいい。ほんと、かわいいなあ、この子。


「ふへー、しっかし、ちゃんと遊んだねえ」

 ハムスターのぬいぐるみを抱えたまま伸びをする。腕がぬいぐるみに塞がれているので、伸びが中途半端になった。

 夕焼けがきれいだ。空がオレンジ色で、ビルの輪郭がくっきり黒い。風が気持ちいい。ゲーセンの中はちょっと空気が籠もっていたから、外の風が肺に沁みる。

「おう。なあ副隊長、そろそろ飯いこーぜ、オレ腹減ったぁ……」

「いいね……って、あ」

「ん?」

 ふと視線が引っかかった。ゲームセンターの入り口から少し離れた路地の手前。高校生くらいの男の子が柄の悪い連中に囲まれている。三人がかりだ。何やら言い争っているのが遠くからでも分かる。男の子の方は、明らかに萎縮していて……んでも、逃げずに踏ん張っている。

「絡まれてるね、可哀想に。ちょっと声かけに行こうか」

「ええ〜……いいけどさァ」

「なあに、不満ですか?」

「助けんのが野郎じゃテンション上がんねぇよ」

「あ、こらまた! それって女の子と遊んでる時に言うことかあ〜!?」

 とことん脈ナシだということを感じさせてくれる男である。

 なんて素直。裏表がない。つまり私のことを「女の子」と認識していないか、認識していても「一緒に遊んでる」止まりだということだ。恋愛の文脈が一切ない。清々しいくらいにない。なんだよ、もう。

 まあ、『大人』としては、それだけ信頼して甘えてくれていることの裏返しだ、って、捉えておきますけれども……そうも露骨だと、傷付かないわけじゃないんだぞ。ぷんぷん。

 ……ぐすん。


 二人で路地に近づくと、状況はすぐに把握できた。

 輩の方は三人。いかにもな格好をした、どこにでもいるタイプの柄の悪い青年たち。

 囲まれている男の子は、気崩さないできっちりと学ランを着ている。真面目そうな高校生だ。でも怯えながらも後ろ足を踏ん張っていて、なかなか見どころのある男だなあと思った。

 デンジくんが面倒くさそうに肩を鳴らして前に出る。私はハムスターのぬいぐるみを地面に置いて(汚れちゃうけど仕方ない)ポケットから公安の手帳を取り出す。

 まあ、このあたり詳細は割愛。

 大したことじゃない。

 手帳を見せたら輩は蜘蛛の子を散らすように消えたし、特段誰にも怪我はなし。実に平和的な解決、公権力っていいな。

 デンジくんなんか一発も殴ってないのに「チッ」って舌打ちしてた。まったくまったく、この暴力少年め。


 助けてあげた男の子は、十六歳の高校生だった。

 すらりと背が高い。長い前髪に、真っ直ぐな目。まだ少年の柔らかさが残った顔立ちだけど、睫毛が長くて目力が強くて、なんとなくしっかりした印象を受ける子だ。生徒会長とかやってそう。

 さっき三人の輩に囲まれても逃げずに踏ん張っていたあたり根性はある。

「僕は中田、中田サトシと言います! はは……すごい、流石はデビルハンターだ……他の大人たちは皆見て見ぬふりをしていたのに、こうして助けてくれた……!」

「わあ……?」

 手帳を見せた途端にぱあっと目を輝かせてる顔が、ちょっと可愛いなと思った。

 話を聞くと、将来デビルハンターを目指しているそうで、なんとも感激した様子ではしゃいでいる。その熱量がちょっと眩しくて、ちょっとだけ胸が痛い。こういうキラキラした目を見ると、反射的に「でもこの仕事ヤバいよ」って言いたくなる自分がいる。言わないけど。

「そんなに大したものでもないよう。まあまあ、なんともないなら良かった。それより、どうしてあんな奴らに絡まれてたの?」

「ああ、それは——」

 曰く、部活動の一環でパトロールをしている最中だったらしい。

 なんと、最近の高校にはデビルハンター部なるものがあるそうだ!

 高校の部活でデビルハンターの真似事をしているなんて……時代だなあ。あんまりよくない時代だ。

 ともかく、それでその一環で街を巡回していたところ、先ほどの輩に絡まれている女の子を見つけて、その子を逃がす代わりにこうなった、と。

 なんとも勇敢で素晴らしい子だ、と思う気持ち半分。

 だからってその勇気を無駄に活用することなんてないんじゃないの、という気持ち半分。

 ……そういえばアキくんが若い頃もこんな感じだったのかな、とふと思う。死に急ぎ野郎の原型。あのこの場合は復讐心が原動力だったけど、この子はもうちょっと純粋な正義感みたいなものが、目の奥にある。

「気ィ済んだだろ副隊長。さっさと飯行こうぜ」

「あ、うん。それじゃあ中田くん、気を付けてね。部活動もほどほどに——」

「あ、あのっ!」

 踵を返しかけた私の手をとっさに掴まれた。

「わっ、わあ」

 驚いて顔を上げると、中田くんが頬を少し染めてこちらを見下ろしている。

「電話番号を、お聞きしてもいいですか」

「あ……えっと」

「今度! あ……えっと。その、今度デビルハンター部でお話を聞かせていただきたくて……僕は、将来の部長候補で、だから……」

 しどろもどろだ。耳まで赤い。可愛いなあ。普通の十六歳の男の子が年上の女に電話番号を聞く時って、こういう顔をするんだ。

 がちがちに緊張して、でも一生懸命で、声が上ずって。そうだよね、普通そうだよね!?

 私って、そんなに子供みたいな見た目、してないよね?

 高校生くらいの子から見たら……ちゃ、ちゃんと、大人っぽくてきれいなお姉さんのはずだよね?

「ああ、そういうこと? それならいくらでも」

 にっこり笑ってポケットからペンを取り出す。中田くんの掌に、丁寧な字で番号を書いてあげた。汗ばんでいて、ペン先が滑る。くすぐったそうに指がぴくっと動くのがおかしくて、思わずクスクス笑ってしまう。

「うん……まあ、このお仕事を進めるかどうかは別として……将来の就職希望者としての質問や何やらにはちゃんと答えるつもりだから、いつでも連絡してね」

 これでも教育者としてのスタンスは根本にある、はずなので、後輩やデビルハンター志望の若い子にそういう風に頼まれると断れないのだ。

「いーって副隊長。んな世話焼いてる時間あんのかよ、ただでさえ私生活忙しいのに」

 後ろからデンジくんの声がして、振り返ると、ちょっと——ほんのちょっとだけ——不機嫌そうな顔をしている。口がへの字。眉がぎゅっと寄っている。

 ……あれ?

「それはどうにか調整するよ、未来の若人の為だもの」

「……あっそ」

「もう、お腹空いてるからってイライラしないでってば」

「そんなんじゃねぇよ! ……そんなんじゃねえって……」

 二回言った。……ふうん。へえ。

 いや、まだ分からない。分からないけど。ここでニヤニヤしたら負けだ。ぜったいに顔に出しちゃだめ。でも心臓がどくどくうるさい。ちがう、期待しない、期待しないよ、今更。

「あ……それではまた、連絡させていただきます」

「うん。待ってるね。帰り道、気を付けてね」

 手を振って中田くんを見送る。彼は何度も振り返りながら去っていった。ほんとに律儀な子。

 隣のデンジくんは、まだちょっとだけ口がへの字だった。

 ……あれ。でも、ちょっと待ってよ?

 こうして高校生二人に挟まれてる今の私の状況って、かなり犯罪者なんじゃなかろうか。




 デンジはイライラしていた。

 何にという訳でもない、と、自分に言い聞かせてみたものの、それが嘘だってことは自分が一番分かっている。

 本当はちゃんと理解している。何にイライラしているのかなんて、考えるまでもなく分かっている。分かっているからこそ余計に腹が立つ。

 早川家のリビング。夕飯の片付けはアキがとっくに終わらせていて、パワーはまたもやテレビの前で寝落ちしていた。いつもの夜。いつもの風景。

 違うのはデンジの隣に副隊長が座っていること。

 机の上には開きっぱなしの参考書。漢字の練習。これは副隊長に個人的にさせられている勉強で、「将来のためだよ」とか「読み書きできないと困るでしょ」とか、なんやかんや理由をつけて、定期的にこうして勉強を見てくれている。正直、勉強なんて面倒くさいしやりたくもない。でもちゃんとやった分だけ相応に褒めてもらえるし、時々ご褒美も出るので、まあ、やってやらなくもない。その程度だ。

 ……そういう感じで今までやってきた、のだが。


 今日の彼女はデンジの参考書なんかまるで見ていなかった。代わりに見ているのは、何やら小難しい資料の束。『高校 講演 原稿』と書かれたファイルの端には、見慣れない学校の名前がある。ボールペンをさらさらと走らせて、赤ペンでチェックを入れて、また書き直して。集中している。完全にこちらの方が片手間のおまけだ。

「……あの中田ってやつと会ってんの?」

 低い声が出た。自分でも思っていたより、ずっと低い声だった。

 副隊長は顔も上げずに声だけで答える。

「え、うん、まあ」

 さらさらととめどなくボールペンの音が続いている。

「デビルハンター部の顧問の先生と連絡がついてね。今度、特別講師としてお話をしに行くことになったの。中田くんが色々と根回ししてくれたみたいで」

「ふーん……」

「でもあくまで先人としてだよ、そんな変なことはしてないよ。安心して」

「してたら問題だろ?」

「ふふ、分かってるってば。……どうしたの、なんかイライラしてる?」

 小首を傾げて覗き込んでくる。丸い目。長い睫毛。いつもの、妙にあざとい顔。思わずふいと視線を逸らした。

 図星だったからだ。

 中田という男子高校生と連絡を取り合っていること。そいつのために資料を作っていること。俺の隣に座っているくせに、頭の中は別の男のことでいっぱいだということ。それが無性に面白くない。面白くないのだ。理由は分からない。分かりたくもない。

「あはは。やきもち妬いてるの? かわいい」

 余裕たっぷりの大人の女の声。いつもの、人をからかう時のあの声だ。

 いつもは多少からかわれても心地が良いと思えるのに、今日は無性にイライラする。

「でも大丈夫だよ、本当に何にもないから。あのね、私にとって一番かわいい生徒はデンジくんだよ?」

 頭を撫でようとする手が伸びてきた。子ども扱いするなとはたき落としてやろうかと思った。でも結局、そのままにされた。副隊長の手のひらは小さくて、指は細くて、でも撫で方だけは妙にしっかりしていて。くしゃくしゃと髪をかき回されると、腹が立っているはずなのに、なんだか力が抜ける。

 でも、と思う。

 副隊長にその気がなくても、中田ってやつは、違うかもしれない。

 あの時、ゲーセンの帰りに出くわした時。

 頬を赤くして副隊長を見上げていた目。電話番号を聞いた時の必死な声。あれは、ただの憧れだけじゃなかったと思う。馬鹿だけど、そのくらいは分かる。

 あいつはきっと副隊長のことを好きになる。あるいはもう、なってるかもしれない。

 そしたら、その先のことなんて、分からない。

 中田は俺と違って育ちがよさそうで、言葉遣いも綺麗で、女に好かれそうな顔をしていた。副隊長だって、俺みたいなバカより、ああいう真面目そうな奴の方が話が合うんじゃないのか。勉強だってできるだろうし、漢字だってたぶん全部読める。

 副隊長だって、今はその気がなくっても、その先がどうかなんて分からない。あいつが本気でアプローチをしたら、どうなるか、なんて。

 そう思うと胸の奥がざわざわして、胃のあたりが重たくなった。

 でも、おかしいじゃないか。

 今までは全部、逆だったのに。

 毎朝飴玉をくれて、隙あらばくっついてきて、好き好きオーラ全開なのはあっちの方で。そのはずなのに、なんで副隊長が他の奴といい感じになりかけて、俺がイライラしてんだよ。逆だろ逆。俺が余裕かまして、副隊長が必死になる。それが正しい構図のはずだ。

「なあ、副隊長さんよ〜」

 ペンを置いて、だらーっと机の上に突っ伏した。参考書のページが頬に当たって冷たい。

「なあに?」

「あんまよそ見してると、俺、副隊長のこと嫌いんなっちまうぜ」

 どうだ、これなら焦るだろ。「嫌い」なんて言われたら慌てるはずだ。もしかしたらぴーぴー泣きだすかもしれない。そしたら「冗談だって」って言って頭を撫でればいい。それでいい。それで、元通りになればいい。

 なのにそんな思惑とは裏腹に、副隊長はきょとんとした顔をして、それからまた、くすくすと笑い出した。

「あはは。デンジくん、まるで私の恋人みたいなこと言うね」

「……副隊長は俺にそーなって欲しいんじゃねぇの」

「まさかぁ」

 まるで聞き分けのない子供を諭すみたいな声だった。柔らかくて、優しくて、大人っぽい声。

「だってデンジくん、まだ十六歳だよ? 犯罪者になりたくないもんね」

「……」

「それに。好きでもない女の子を束縛するのは、ちょっと傲慢じゃないですかー? 私が誰と仲良くしようが、デンジくんには問題ないことのはずですよ」

 関係ないと言い切られてしまえば、確かにそうだ。俺は副隊長の彼氏じゃないし、好きってわけでも……ない。ない、はずだ。

 俺はマキマさんが好きだ。マキマさんに抱きしめられたい。マキマさんとデートしたい。それは嘘じゃない。嘘じゃないのに、今、目の前で他の男の所に行こうとしてる副隊長を引き留めたいこの気持ちは確かに本当で……。それはマキマさんに向けるものとはとは全然違う場所から湧き上がってきていて、名前のつけようがない。

「副隊長は俺んこと好きなんじゃねえの」

「むふふ、すごい自信だ」

 確信に迫ることを言ってみても、また笑われる。

 効いていない。全然効いていない。それからちょっと考え込むような仕草をして——

「デンジくんにはマキマさんが居るでしょ」

 と、あっさり切り捨てた。

 そうだけどそうじゃねえんだよ。そうなんだけど、今はその話してねえだろ。なんでそこでマキマさんの名前出すんだよ。今は俺の話してんのに、なんでマキマさんの話になんだよ。

 ずるいだろ、それ。

 気づいたら体が勝手に動いていた。

 参考書をばさっと押しのけて、副隊長の細い腰に腕を回して、ぎゅっと抱きついていた。「わ」小さい。あったかい。シャンプーの匂い。いつもの匂い。腕の中にすっぽり収まるくらいちっちゃくて、なんか、こう、離したくない。でもその意味が自分でも分からない。、

「ん〜、どうしたのデンジくん、甘えたい日ですか?」

 呆れるでもなく、ちょっとだけ困ったような、でも嬉しそうな声だ。背中にぽんぽんと手が触れた。赤ん坊をあやすみたいに。その手の温度が、今だけは妙に遠い。

「……なあ。副隊長って、なんで俺にそんなに構ってんの」

「うん? う〜ん……子供なのに公安でデビルハンターなんて危ない仕事してる子が居たら、嫌でも心配してあれこれ構いたくなるでしょ。……もちろん、デンジくんのことは大好きだよ? 大人として、先輩として」

「……あっそ。なら俺もう部屋戻る」

「え、お勉強は?」

「ここ居たくねぇ」

 立ち上がって参考書を乱暴に閉じた。パワーが「なんじゃ、痴話喧嘩かあ?」と寝ぼけたことを言ってるのが聞こえたが、気にならなかった。

「これからは俺の代わりにその中田ってやつとゲーセン行けばいいだろ」

「え、ええ〜……?」

 振り返らない。振り返ったら、たぶん、もっとみっともないことを言ってしまう。


 …………あー……。

 だっせえ……なにやってんだ俺。

 分かってる。分かってた。最初からそうだって、アキにも言われてた。パワーにも笑われてた。

 そもそも、期待してた俺が馬鹿なんだ。

 いやでも、ちょっと待てよ。

 期待ってなんだ。俺、何を期待してたんだ?

 副隊長に好かれること? チビでガリガリで胸もない、あの副隊長に?


 ……あー。

 あーーーーー…………。




 デンジくんがもうめちゃくちゃ拗ねている。

 誇張でもなんでもなく、本当にめちゃくちゃ。この前まで隣に座ったら「おー」くらいは返してくれたのに、今は私が構いに行っても、もう、つーん。話しかけても、つーん。飴ちゃんを渡そうとしても「いらね」の一言で終わり。いらねって何、あれだけ美味しそうに食べてたくせに。

 ちょっと気になって試しに腕にしがみついてみたら、無言で引き剥がされた。引き剥がされた。デンジくんに。もう一回言うけど、無言で、引き剥がされた。あのデンジくんに。女の子にくっつかれたら基本的に拒否しない男の子に。世界の終わりかと思った。

「デンジくん、今日のお昼何食べたい? 私が奢るよー」

「……別に」

「じゃあハンバーグは? この前美味しいって言ってた——」

「なんでもいい」

 なんでもいい。そうですか、そうですか。はあ……。

 原因はもちろん分かっている。要するに、中田くんのことだ。

 あの日、デンジくんが拗ねて部屋に帰った日からずっとこう。イヤイヤながらもお勉強だけは続けてるけど、ご褒美は受け取ってくれなくなった。

 う~~~ん。完全なる脈ナシだと思ってたんだけどなあ。

 ほんとに、ほんとに脈ナシだと思ってた。鉄壁で、要塞で、私のことなんか眼中にないはずだったのに、違う男に行かれるのは嫌なんだ。それは嫌なんだ。なんだそれ。面倒くさいなあ、あの子……なんでもいいですみたいな顔して、興味ありませんみたいな態度で散々スルーしておいて、蓋を開けてみたら意外とっていうか、普通にその辺に居る男の子じゃん。

 なんだよ、もう。

 じゃあ最初から素直にしてくれたらいいのに。

 飴ちゃんあげた時に「嬉しい」って言ってくれたらよかったのに。プリクラ撮った時に「楽しかった」って言ってくれたらよかったのに。

 ……なんて、それを十六歳の男の子に求めるのは酷か。私だってこの歳にもなって全然素直じゃないんだから、ひとのことを言えた義理ではない。


 それで、悩みはもう一つ。

 そんなこんなで頭を悩ませている最中に、中田くんからの連絡がめちゃくちゃ来るのだ。

 めちゃくちゃ、というのは比喩でもなんでも——ああ、それはもういいか。とにかく、かなり頻繁に来る。

 講演の準備に関する真面目な連絡は勿論のこと、それ以外にも。「今日学校でこんなことがありました」「部活で後輩が入りました」「お昼何を食べましたか」。最後のはもはやデビルハンター部とは一切関係ない。ただのお喋りじゃないか、かまちょだなあ。しかも家電と、おそらくは家族共有のものであろうパソコンで(高校生で自分用のパソコン持ってるとか、ないだろうしね)これをやってくるんだから大した度胸だと思う。親に聞かれるかもとか気にしな良いのかな?

 流石、輩三人に絡まれても引かないだけはあるよね。

 それでも高校生の子だし、それなりに節度のあるお付き合いはしている。つもり。講演の打ち合わせは学校でやるし、連絡はあくまで事務的な内容が中心、だった、最初は。でも最近はどう見ても事務的な範囲を超えている。

『今週末、もしお時間があれば、お食事にお誘いしたいのですが』

 携帯電話の画面を見つめたまま、ソファの上でうーんと唸る。

 嬉しい。それは、素直に、嬉しい。

 いや、中田くんにご飯に誘われたことそれ自体ではなくて。こんな風に丁寧にご飯に誘ってもらえることが、「飯行こーぜ」じゃなくて「お食事にお誘いしたいのですが」って、敬語だよ、敬語。丁寧語。大人の女性として扱ってもらえている感じがして、乾いた何かがじわっと潤うような心地がする。

 でも、やっぱり高校生の、しかも異性と、二人きりでご飯というのは流石にいただけない。


 うーん。

 うーーーん……。


 悩んだ末に、デンジくんに声をかけてみた。

「中田くんにご飯に誘われたんだけど、デンジくんも一緒に来ない? 三人で行こうよ」

 デンジくんの眉がぴくっと動いた。

「ああ? んで俺なんか誘うんだよ。二人っきりで飯でもなんでも行けばいいだろ」

「えー、いいの? 私と中田くんが、二人っきりでご飯行っても」

 デンジくんの表情が揺れた。口が開きかけて、閉じて。視線が泳いで、足元に落ちて。数秒の沈黙。眉間にシワが寄ってまた消えて。いつになく表情が忙しない。

「……いいよ、別に」

 そう言って、ふいと横を向いた。

 あ、そう。

 いいんだ。

 この期に及んで、別になんだ。

 大人げないとはおもうけど、ここまで来ると、ちょっとカチンとくる。

 いや、ちょっとどころじゃない。かなりカチンときた。なんなのその煮え切らない態度、嫌なら嫌って言えばいいじゃん。行くなって言えばいいじゃん。拗ねて距離置いて、でも止めもしないで、「いいよ別に」ってなんだよそれ。

 いいよ別に、って言葉は、全然よくない時に使う言葉だって、私は知ってるよ。知ってるけど、自分から汲み取りに行ってあげるほど、もう私も大人で居られなかった。

「そっか。うん、じゃあ中田くんと二人で行ってくるね」

 それでも平然とした声を作れるのが、年の候ってやつ。

 デンジくんが何か言いたそうな目でちらっとこっちを見たけど、なかなか口は開かないもので。……中田くんを巻き込みたいわけじゃない。あの子を当て馬にするつもりなんて毛頭ない。でも、別に、二人で普通にご飯行くだけだし。何かあるわけじゃないし。


「これでもあれこれ悩んで選んだんですけど……あなたのような大人の女性からしたら、つまらない店かもしれません」

 中田くんに連れていかれたのは、駅前のちょっとお洒落なイタリアンだった。個人経営のこぢんまりとした、でも清潔感のある店。テーブルにはちいさなキャンドルが灯っていて、壁にはモノクロの写真が飾ってあって、BGMはジャズ。十六歳の男の子がこういう店を選べるという事実に、素直に感心した。

 ああ、これが平均的な十六歳なのかな。

 ……うそ、やっぱり平均的じゃないかも。平均より、ずいぶん上だよねきっと。ちゃんとお店をリサーチして、予約して、服だってちょっとお洒落をしてきている。紺色のジャケットに白いシャツ。襟がぴしっとしている。ネクタイはしていないけど、第一ボタンをきちんと留めている。背筋が伸びている。

 同い年でも、ある男の子とは大違いだ。名前は出さないけど。

「ううん、そんなことないよ。すっごくいいお店だと思う」

 それは本心だった。嘘じゃない。

 子供扱いじゃないことが嬉しかった。

 公安じゃいっつも子ども扱いだから。岸辺隊長には首根っこ掴まれて放り投げられるし、アキくんには中学生みたいな扱いをされるし、デンジくんに至ってはああ。嫌、ってほどではない。ないんだけど。なにかと、その扱いに溜まるものがあったのも確かで。

「本当ですか! よかった……こちらに遠慮せず、お酒も好きなように」

「あはは、流石に高校生の子の前じゃ飲めないよ。それに私、そもそも下戸だし」

「そうなんですか? 意外です」

「あはは、ビール六分の一で吐きそうになる女だよ私は」

 中田くんが目を丸くして、それから笑った。きれいな笑い方をする子だ。声を荒げない。歯を見せすぎない。育ちの良さがにじみ出ている。

 ほどほどに気を遣いながら、メニューを選ぶ。ピザとサラダと、デザートにティラミス。中田くんはぐつぐつのリゾットを頼んでいて、その絶妙に空気感を読めてない高校生らしいチョイスがかわいいなあ、と思った。

 でも、本当に……フォークの持ち方がちゃんとしている。ナプキンを膝に置いている。

 ……ほんと、ある男の子とは大違いだ。ラーメンを音立ててすするし、飴は奥歯で噛み砕くような、あの——あの子とは。


 いかん。そんなこと考えちゃだめだ、今は。

 目の前にいる子に失礼だから。


 それで、食事をしながら仕事の話をした。デビルハンターの日常。悪魔との戦い方。公安の組織構造。危険なこと。辛いこと。でもやりがいがあること……は、正直あんまりないけど、高校生相手にわざわざ夢を壊すこともない。適度にぼかして、適度に格好つけて。でも危険に関してはしっかり、しっかりすぎるくらい忠告した。他に選択肢が沢山あることも。

 デビルハンターは公安じゃなくったって出来るし、大学に行ってからでも遅くはない。大卒は採用枠が変わるとか、出世に関してとか、そのあたりの話もきっちりした。

 中田くんは真剣な目でメモを取りながら聞いていた。いい子だ。ほんとうにいい子。


 中田くんがトイレに立った隙に、さっと店員さんを呼んでお会計を済ませる。働いている大人が、高校生に払わせるわけにはいかない。

 戻ってきた中田くんが「あ、お会計——」と言いかけるのを、「もう済ませちゃった」とにっこり笑って遮った。

「そんな、申し訳ありません……!」

「いいのいいの。お姉さんに奢られるのも社会勉強だよ」

 お姉さんをやるのって、楽しいなあ。

 コベニちゃんにご飯を食べさせてあげる時の楽しさとはまた違う。あれは「守ってあげたい」だけど、これは「頼られたい」に近い。私を大人として見てくれる相手に、大人らしく振る舞えることの心地よさ。……ずるいかな。相手は子供なのに、私がいい気分になるために利用しているようなものだ。

 でも、楽しいものは楽しい。


 店を出ると、夜風が頬に冷たかった。

 もうすっかり日が短くなっていて、七時を過ぎたばかりなのに空は真っ暗。街灯がぽつぽつと道を照らしている。

 中田くんの家まで送り届けるつもりだったのだけど、「僕が送りますよ、女性をひとりで歩かせるわけには」と言い張るので、結局二人で並んで歩いた。どっちがどっちを送っているのか分からない。

「……あの」

 住宅街に入って人通りが少なくなった辺りで、中田くんが口を開いた。

 声のトーンが変わったのが分かった。さっきまでの快活な声じゃない。少しだけ低くて、少しだけ緊張した声。

「なあに?」

 返事をしながら、ああ……と思った。

 この空気は知っている。何度も浴びてきた空気だ。こんな感じの道端で、公安の廊下で、あるいは、いい雰囲気のお店の中で。男の子が覚悟を決めた時特有の、ぴんと張り詰めた沈黙。

「今度会う時は、講師と生徒以外の関係性になれませんか」

 立ち止まった。中田くんも立ち止まった。

 街灯の明かりが斜めに彼の顔を照らしている。頬が赤い。耳まで赤い。でも目は逸らさないで、真っ直ぐにこっちを見ている。講師と生徒以外の関係性かあ。高校生にしては渋いアプローチだ。「好きです付き合ってください」じゃなくて、「関係性を変えたい」と来た。言葉を選んでいる。私を子供扱いしないのと同じように、自分の感情も子供っぽくならないように、精一杯の背伸びで。

 ……かわいいなあ。頑張ってる所にこんなことを言うのは酷だけれども、そんな背伸びすら、子供らしくてかわいいよ。

「う〜ん……そうだなあ」

 少し考えるふりをした。本当はもう答えは決まっていたけど、即答したら失礼だと思ったから。

「あと二年経って君が十八歳になった時に、まだ私のことが好きで。それで……私がまだ生きてたら、いいよ」

 本気だよ。デビルハンターの平均寿命を考えたら、二年後に私が地上にいる保証なんてどこにもない。……まあ、それを言ったら暗くなるから言わないけど。

「……はい。待ちます。二年、待ちます。絶対に。だからあなたも、絶対に、生きていてください」

「んふふ。善処します」

 軽く受け止めてあげる。重くしない。深刻にしない。これが大人の役目だ。

 手を振って別れた。中田くんは何度も振り返りながら、住宅街の角を曲がって消えていった。

 ひとりになった途端、ふうっと大きな息が漏れた。

 夜風が冷たい。ちゃんとコートを着てくればよかった。


 これ以上変に気を持たせても可愛そうだ。

 もう中田くんに会うのは、やめよう。




 状況は悪くなる一方だ。


 いや、正確に言えば、悪くなっているのは状況じゃない。

 俺だ。

 俺の方がどんどんおかしくなってる、それだけ。

 別に副隊長は何も変わってない。いつも通り明るくて、いつも通りみんなに優しくて、いつも通り仕事をこなしている。あのチビ女にあれこれ構って、なんやかんやでパワーの面倒も見てて、ただ、俺に対してだけ距離が変わった。

 変わったというか、踏み込んで来なくなった、というか。

 前みたいにべたべたくっついてくることがなくなった。飴を襟に突っ込まれたりもしない。名前を呼ぶ回数が減った。呼ばれる時も「デンジくーん♡」じゃなくて「デンジくん」になった。大した事じゃないって思われるだろうけど、俺にとっては死活問題だ。

 少し声色が変わって、たったそれだけのことなのに、たったそれだけのことが、やたらと耳に残る。

 話しかければ答えてくれる。笑ってくれる。でもそれだけだ。以前のようにぐいぐい来ない。一メートル以内に入ってこない。腕にしがみつかないし、襟を直しに来ない。そりゃそうだ。最近の俺、くっつかれても引っぺがしてたし。


 夜、布団の中で天井を見つめる。

 壁越しでも聞こえてくるパワーのいびきがうるさい。アキがこまごまとした家事をしてる音が微かに聞こえる。

 眠れねえ。寝なきゃいけねえのに、あれこれ考えて寝れねえ。

 腹一杯なのに。ベットはすげーふかふかなのに。

 ここ最近ずっとこうだ。ベットに入ると副隊長のことを考える。考えたくないのに勝手に浮かんでくる。飴を渡す時のにこにこした顔とか、プリクラんとこで肩をくっつけた時の体温とか、「デンジくん」って名前を呼ぶ声とか。あれは、作り笑いじゃなかった。俺と一緒に居る時の副隊長は、確かに、本当に嬉しそうだった。


 本当は。


 アキやパワーにはあんなふうに言ったけど。

「俺に惚れたんじゃねーの」なんて胸を張ったけど、それでどうにか、自分のことを騙し騙しでここまで来たけど、本当は分かってたし、最初からちゃんと理解してた。

 副隊長が、俺のことを落として遊ぼうとしてたってこと。

 俺がマキマさんとか、受付のお姉さんとか、その辺の女にはデレデレするくせに副隊長にだけはデレデレしないのが気に食わなかっただけだろ。副隊長は自覚ねぇけど、あの人、あれで意外とプライドが高いから。自分に靡かない男がいるのが許せなかっただけ。

 だから色仕掛けで好きにさせて、靡いたところで「ふふん」って笑って、捨てるつもりだったんだろ。

 本当は、俺のことなんか少しも好きじゃないくせに。


 もちろんはじめっからそれに気付いてたわけじゃない。最初は本気で俺のこと好きなのかも知れねぇと思ってた、けど、ずっと一緒にいたら嫌でも気が付く。副隊長が俺のことを、ただ、可哀そうなガキとしか見てなくて、付き合う気なんてねーってこと。

 落として、好きにさせて、それで満足したら捨てる。別に俺のことを見てるわけじゃない。

 なんなら、きっと、あの人は俺越しにマキマさんのことを見てて。

 俺の中でマキマさんに勝てたら面白い、くらいのことを、きっと思ってて。


 別に、それ自体はいい。

 副隊長のそういうところを、知った上で、嫌いにはなれなかった。


 だって実際、面倒見はいいし、一緒にいて楽しいし、あの人はあの人なりに俺のことを気にかけてくれてたし。勉強も、まあ、楽しくはねぇけど、かなりこまめに見てくれてた。飯も食わせてくれて、普通の高校生がするようなことを一緒にやってくれた。

 それ自体は、いい。

 けど、問題はその先だ。

 俺が好きだって言ったら、きっと、副隊長は俺にもう優しくしてくれなくなる。

 だって目的は「落とす」ことだから、落とした得物には興味がなくなる。他の男たちが捨てられたみたいに、俺も捨てられる。「あはは、かわいー」って笑って、それきりになるのが目に見えてた。

 天井のシミを数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。数えても数えても眠れない。副隊長の顔が浮かぶ。消えない。

 みんなは副隊長のことを「優しくてかわいくていい人だ」って言う。 なんで塩対応にすんだよ、って、みんな思ってるんだろう。

 分かってない。

 全然分かってないから、そんなことが言えるんだろ。


 だって、ああいう態度にならなかったら。

 塩にしなかったら、副隊長は、俺のことを好きじゃなっちまう、のに。


 俺は俺のことを好きな人間が好きだ。

 当たり前だろ、誰だってそうだ。好きだって言ってくれる人のことは好きになる。好意を向けてくれる人の近くにいたくなる。

 だから副隊長のことを好きになった。

 食いもんをくれて、名前を呼んでくれて、くっついてきて、嬉しそうに笑ってくれる人のことを、好きになった。でもそれは、俺が副隊長に惚れてないからだ。俺がそっちを見たら、副隊長は満足してどっかに行っちまう。好きだって俺の方からすり寄ったら、副隊長は俺のことを見なくなる。なんだよそれ。意味わかんねぇよ。

 でも、確かに、俺たちの関係性は、それで成り立ってたのに。

 俺が塩対応をして、副隊長が追いかけてくる。

 俺が靡かないから、副隊長はやけになって俺に執着する。好きになれって、振り向いてくれって。歪んでて、最悪で、でもそれが唯一のバランスだった。

 なのに。


 公安の門を出たところで声をかけられた。

「すみません」

 聞き覚えのある声に足が止まる。振り返ると案の定、中田サトシが立っていた。学ランの下に、清潔感のある真っ白いシャツ。鞄を肩にかけて、息が少し上がっている。ここまで走ってきたのか。整った顔に困惑と焦りが滲んでいて、でもちゃんと背筋は伸びている。育ちのいい奴の姿勢だ。

「デンジさん……ですよね。この前はどうも」

「……おう」

 なんだよ。なんでこいつがここにいるんだよ。内心で舌打ちしながらも、表面上は素っ気なく返す。無視してもよかった。適当に無視して歩き去ってもよかったのに、足が動かない。

「あの……あの人のこと、なんですけど」

「……」

「最近、連絡しても、あまりいいお返事がなくて。お仕事がお忙しいのかもしれないんですけど……会ってもいただけなくなって」

 中田は言葉を選んでいた。慎重に、丁寧に。言葉遣いが綺麗で、それがいちいち癪に障る。

「理由はなんとなく、分かっているんです。僕のせいかもしれないってことは」

 ざわり、と胸の奥が騒いだ。

「でも、このまま自然消滅みたいな終わり方は、どうしてもやりきれなくて。……デンジさんは副隊長さんと近いですよね。どうにか、繋いでいただけませんか」

 繋ぐ? 俺が?

 こいつと副隊長を?

「な……」

 なんでだよ。

 なんで、なんで……。

「なんで……」

 なんでお前みたいな、品が良くて育ちもよさそうで、苦労なんて全然してなさそうな奴が、よりにもよって副隊長のことを好きになるんだよ。

 お前だったら他にいくらでも選択肢あるだろ。

 同級生の可愛い女とか、先輩とか、普通の相手がいくらでもいるんじゃねぇの。というか、そんだけ綺麗な顔してたら、芸能人だって狙えるだろ。

 なのに、なんでよりにもよって、あの、チビで、嘘つきで、人たらしで、平気で男を使い捨てるような性格で……可愛くて、優しくて、ふわふわしてて、暖かいあの人に行くんだよ。

 他にもっと、もっとあっただろ。

 もっと居るだろ、お前には。もっと普通で、俺なんかじゃ手が届かないような、そういう人も、お前ならいくらでも手を出せるだろ。なのになんで、なんで、本当に、よりにもよって!

「あの人最近クソ忙しいから無理じゃね」

「えっ」

「書類とか、任務とか、色々……だから連絡返せないんだろ。お前のせいとかじゃねぇよ、たぶん」

 全然そんなことない。副隊長は今、普通に暇だ。というか副隊長が書類の忙しさで連絡を返さないなんてことは絶対にない。あの人はどんなに忙しくても人からの連絡だけはマメに返す。それくらい知ってる。大嘘だ。

「そう、ですか……。でも、もし機会があれば——」

「じゃ」

 遮るように背を向けて歩き出した。中田が何か言いかけたのが背中越しに聞こえたけど、振り返らなかった。早足で角を曲がって、中田の視線が届かない路地に入って、そこでようやく立ち止まる。壁に手をついて、はあ、はあ、と息を吐いた。走ったわけでもないのに息が上がっている。

 最悪だ。

 嘘をついた。

 副隊長を守るためでも中田を思いやってでもない。ただ自分が嫌だったから。自分が怖かったから。あいつと副隊長が繋がるのが怖かったから。

 最悪だ。俺、最悪だ。


 それでも中田はしつこかった。

 俺が適当に、すげー適当に撒いた日の翌日も、懲りずに公安の門の前にいた。「すみません、昨日の件なんですけど」。背筋がぴんと伸びていて、目が真剣で、声が丁寧で、そのどれもがいちいち腹に来る。

 「だから、俺も副隊長も忙しいって。毎日暇なガクセーとは違うんだよ」と突っぱねた。

 翌々日もいた。

「少しだけお時間を——」

「無理だっつの」

 足早に通り過ぎた。

 その次の日も。その次の次の日も。

 雨の日は傘も差さずに待ってた。制服がびしょ濡れで、前髪が額に張り付いていて、それでも「デンジさん」と声をかけてくる。何なんだこいつ。何なんだよ。なんでそこまでするんだよ。でも、気持ちは泣きたいほどに分かった。俺だって、同じ立場なら、きっとそうしたと思う。

 毎日毎日顔を合わせるうちに、苛立ちがどんどん膨らんでいった。

 こいつは副隊長のことが好きで、好きだから会いたくて、会いたいから毎日ここに来る。シンプルで、正直で、何も後ろ暗いところがない。

 それは、遊ばれてるだけだって分かってて、それでもだらだら関係性を引き延ばしてた俺には、天地がひっくり返ってもできないことで。

 うらやましかった。

 真っすぐに気持ちを伝えられることが、気持ちを伝えても関係が壊れるのを怯えずに居られるその姿が、腹が立つほどうらやましかった。




 最近、中田くんからの連絡が切羽詰まってきている。

 最初のうちは「お忙しいところすみません」から始まる丁寧なメッセージだったのが、日を追うごとに「お返事いただけませんか」「一度だけでもお会いしたいです」と切迫した調子に変わっていった。電話もかかってくる。出ないと、また翌日にかかってくる。着信履歴が中田くんの名前で埋まっていくのを見るたびに、胸の奥がちくりと痛んだ。

 やんわりとお誘いを断って、少しずつ連絡を返す回数を減らしていく作業に、心が全く痛まないわけじゃない。

 三通に一通。五通に一通。電話には極力出ない。下手に柔和な会話をしたら、期待を持たせてしまうかもしれないし。それは、中田くんのためにならない。

 それでも時折は出て、簡単な会話をしたりすることもあるけれど。この前に至っては、受話器の向こうから

『——相手のお姉さんも迷惑だろうから、そのへんにしなさい』

 なんて声が聞こえた。低くて落ち着いた男の人の声で、たぶんきっと、彼のお父さん。

 中田くんが「あ、っちょっと……」と慌てて受話器を押さえる音がして、くぐもったやり取りが数秒続いて、それから「すみません、また連絡します」と電話が切れた。

 可哀想だけど、これが青春だぜ、青年。

 ……ふふ。なんだかちょっと、ほんとに大人っぽい感じだ。今回に限っては妙に冷静というか、ちゃんと一歩引いた所から物事を見られている気がする。

 年上としての責任のせい、ってやつなのかな。

 あるいは単に、中田くんに対しては恋愛感情がないから冷静でいられるだけか。……うん、たぶん後者だ。残念ながら。

 ごめんね、中田くん。君はいい子だよ。


 ……さて、それでは閑話休題。

 冷静でいられない方の男の子の話をしよう。

 デンジくんは相変わらずのもので、未だに絶妙な距離を取られたまんまだ。

 拗ねているにしても長い。あまりにも長い。もう何週間経ったんだっけ。飴を受け取ってくれなくなった日から数えたら考えるのをやめた。数えると悲しくなるから。

 勉強は一応続けている。

 でも以前のように隣に座って和気藹々とはいかなくなった。デンジくんは参考書を開いて黙々と漢字を書いて、私が丸をつけて、「よくできました」と言うと「おう」とだけ返して、それで終わり。会話はないし温度だってない。あの頃みたいに頬をつんつんしたり、飴ちゃんを服に忍ばせたりする勇気が、今の私にはない。

 だって、踏み込んだら、もっと引かれる気がするから。


 仕事終わり、公安本部の廊下でたまたまアキくんと二人きりになった。アキくんは缶コーヒー、私はゆず茶。並んでベンチに座って、しばらく無言でそれぞれの飲み物をすする。

「ねえアキくん、ちょっと仲取り持ってくれない?」

 唐突に切り出したせいで、アキくんが怪訝な顔をする。

「はあ? 何の」

「デンジくんとの。拗ねられてるにしたってさ、このままだとお勉強を教えにくいんだよぅ」

「なんで俺が。前みたいに恥も外聞もなくべたべたくっつきに行けばいいだろ。どうせあいつなら喜ぶぞ」

「ないない。あの子、私に対してだけは塩だから」

「弄んでるのを見透かされてるのかもな」

「なんだよ、その言い草……」

 アキくんは缶コーヒーを一口飲んで、実に何でもないことみたいに言う。弄んでるだなんて……あながち、完全には否定できない自分が嫌だ。最初はたしかに、そういう気持ちがなかったとは言い切れないから。

「まさか。私、結構本気でデンジくんのことが好きだよ?」

 声に出してみると、思ったより素直な響きだった。嘘じゃない。だって実際、いつの間にか嘘じゃなくなっていたから。

「へえ」

 心底どうでもよさそうにアキくん。缶コーヒーの方が大事みたいな顔をしている。なんだよ。もうちょっとくらい、関心持ってくれたっていいのにさ。

「デレデレしてくれとは言わないけどさ、もう少し、私に優しくしてくれてもいいと思うんだよね」

「でも付き合う気はないんだろ」

「もちろん。だってあっちは子供だし、付き合いたいなんて言ったら犯罪だもん」

「そういう考え方の癖にべたべたして、デンジに少しは申し訳ないと思わないのかよ」

 思わず口が閉じた。

「まさかアキくんデンジくんの味方なの!?」

「お前とデンジだったら、誰だってデンジの味方に付くだろ」

「それはデンジくんを知らないからだよ! だってあの子、私のことぜんっっっぜん好きじゃないよ!? 私とパワーちゃんだったら、まだパワーちゃんの方が女として見られるって感じだよ!?」

 アキくんの切れ長の目が、一瞬見開かれる。

「はあ? それ、本気で言ってんのか」

「本気も本気。……というか、見てたら普通に分かりそうなもんだけど」

「はあ?」

 アキくんが長い長いため息をついた。缶コーヒーをベンチの横に置いて、眉間を揉んでいる。何かを咀嚼するように数秒黙ってから、ぽつりと呟いた。

「……ああ、いや、そうか。……お前って、本命相手にそういう感じなのか」

「は? 本命って?」

「いい」

 視線を逸らされた。缶コーヒーを拾い上げて一口飲んで、また眉間を揉む。

「……俺は今、悲しいモンスターを見た気分だ」

「なんだよ、失礼だな!」

 悲しいモンスターって何。私のことか。私のことだよね。ひどくない?

「でも、悲しいってどういう——」

 それを聞こうとした声を、第三者に遮られる。




 毎日毎日副隊長を求めて付きまとわれるようになってから、既に一週間が経っている。そろそろ諦めろ、毎日のように そう思うのに、そんな気配はまるでない。

 だから、堪忍袋の緒が切れるのも、多分時間の問題だった。たまたまそれが今日だったというだけで。

「おい」

「はい」

「お前、副隊長のこと好きなんだろ」

 夕暮れの公安本部前。退勤する職員がちらほらと通り過ぎていく中で、中田の正面に立つ。

 周囲を通り過ぎる公安の職員たちがちらちらとこちらを見ているのが視界の端で見えて、でも、そんなの知ったことじゃない。

「……はい」

「あっそ」

 鼻で笑った。笑ったつもりだったのに声がちょっと震えた。

「気持ちは分かるぜ。俺もあの人のこと好きだし」

「それは、見ていれば分かります」

「はあ? 知っててこういうことしてたのかよ。いいいい性格してんなァ」

「恋敵がいるとしたら、きっとあなただと思ったので」

 ああ、くそ、こいつ。よくもまあ、いけしゃあしゃあと。

「はは……」

 なにもおかしい事があるわけじゃないのに、何故だか妙にこの状況が笑えた。だって、おかしいだろ。つい最近まで副隊長のことなんか好きじゃないって自分に言い聞かせてたのに、気が付いたら、こんなことになってて。

 ああ、クソ、馬鹿馬鹿しい。

「それで、デンジさ——」

 中田の声が途切れるのと同時に、右手に衝撃が走る。少し遅れて鈍い痛みと、生暖かい液体の感触。


 気が付いたら、中田の頬に、思いっきり右ストレートが入っていた。


 中田の体がよろけて門の横の塀にぶつかる。

 通りかかっていた公安の事務員が「えっ!?」と声を上げた。別の職員が足を止める。「おい、何やってんだあいつら」「四課の金髪じゃん」「喧嘩!?」目立つ場所でもめてるせいで、どんどんギャラリーが集まってくる。別にそれは気にならない。というかむしろ、もっともっと大事になったっていい。どうせ俺は困らないから。困るのは、副隊長だけだから。

 自体が大騒ぎになって、俺と中田が副隊長を巡って殴り合いをしてたことが公安中に広まって、そのせいで副隊長がおあたふたしているところを想像したら、妙に気分がよくなった。

 俺の好意のせいであの人が心の底から困ったら、どれだけ気分がいいだろう。

「いいぜ、中田! その勝負、受けてやるよ」

 殴った拳をぶらぶら振る。ちょっと痛い。中田の顔は見た目より硬かった。

「ただし、オレに殴り合いで勝てたらだけどなァ~!?」

 中田が顔を上げた。殴られた頬が赤い。唇の端が切れて血が一筋垂れている。

 それでも、そのまま倒れ込んだりはしなかった。

 塀に手をついて体を起こして、制服の裾で口元の血を拭って。

 目つきが変わったのが分かる。さっきまでの丁寧で礼儀正しい優等生の目じゃない。

「っ——望むところだ、このチンピラ!」

「おっ! やっと素っぽい口調出たな!」

 そっちの方が絶対いいぜ! そう叫んだら、中田は今までで一番気持ちのいい笑顔で笑った。

 門の前に人だかりができ始めている。

 仕事帰りの公安職員たちが足を止めて、何事かとこちらを見ている。誰かが「止めた方がいいんじゃ」と言って、別の誰かが「四課のだろ、放っとけ」と返しているのが聞こえて、笑えた。

「どうせダチの前じゃいっつもそうなんだろ!? 副隊長の前でだけあーだのこーだの敬語なんか使いやがって!」

 中田が突っ込んできた。学ランの裾がばさっと翻る。思ったより速い。真っ直ぐなストレート——ちゃんとしたフォームだ。避けた。風圧が頬をかすめる。

「カマトトぶってんじゃ、ねえ!」

 避けた勢いのまま——思いっきり金的を蹴り上げる。

「がっ——————!!」

 中田が声にならない悲鳴を上げて、その場でくの字に折れ曲がった。両手で股間を押さえて顔が真っ白になっている。ギャラリーから「うわあ……」という同情の声が漏れた。男の声ばっかり。そりゃそうだ。

「て、っめ……っ!!!」

 けれど中田は倒れなかった。白い顔のまま歯を食いしばって、よろよろと体勢を立て直して——

 負けじと蹴り返してきた。同じところを。思いっきり。

「ぶっ——!!!!」

 こっちは避けきれなかった。つま先がもろに食い込んで、視界がばちんと白くなった。膝から崩れそうになる。吐きそう。マジで吐きそう。ギャラリーからまた「おおおお……」という別種の同情が漏れて、今度は自分事なので、普通にイラっとする。

「っ……お前、やっぱ見た目のわりにやるな……!」

 痛みに耐えながら笑う。涙目だけど笑う。

「そっちこそ……公安のデビルハンターがこんな喧嘩してていいのかよ!」

 中田も涙目だった。二人して股間を押さえて前かがみになりながら睨み合っている。傍から見たら相当間抜けな絵面だろう。実際、ギャラリーの一部がもう笑っている。

「るせぇ!今は勤務時間外だからセーフなんだよ!」

「どんな理屈だ、不良公務員!」

「あァ!? んならてテメーは優等生だってかァ!? 言っとくけど、こんなとこでオレと殴り合いしてる時点で、アンタも同じ穴の狢だぜェ~!!」

 中田の胸倉を掴んで引き寄せる。鼻先がぶつかりそうな距離。学ランの布がぎちぎち鳴っている。

「僕とお前は違う!! お前っ、見てると、イライラすんだよ!!」

 中田が叫んだ。掴まれた胸倉の中からこっちを睨み上げて。もう敬語の欠片もない。

「好きなら好きって言えよ! あの人の前で! 僕はちゃんと言った! ちゃんと面と向かって言った! なのにお前はなんだ、いつまでもぐちぐちぐちぐち——!」

 殴り返された。顎に。がつん。視界がぐらついて、口の中に鉄の味が広がった。舌噛んだ。いい殴り方だった。腰が入ってる。

「っぶ——!」

 よろけた背中を門の柵に預けて踏みとどまる。ギャラリーが「おお」とどよめいた。でも、止めに入る奴は誰もいない。公安の人間は基本的に喧嘩慣れしてるから、ガキの殴り合いくらいじゃ動かないらしかった。

「っせえな! お前に何が分かんだよ!」

「分からないよ! 分かりたくもない!」

 お互い、泣き出しそうな声で。

「あの人に好かれてるからって、胡坐かいて余裕ぶっこきやがって!」

「はア!? なに訳分かんねーこと言ってんだオメー!!」

「あの人に惚れられてるって分かってるから、付き合わないでずるずるずるずる引きずって、あれこれ熱心に構ってもらえんのを楽しんでるんだろ!?」

「ッーー!」

 脳みそが沸騰したような感覚に陥る。

 なにも……なにもわかってねぇくせに!

 表面だけしか見てねェくせに、よくもそんなことを!!

 感情のままに伸ばした手が、そのまま服の下のスターターロープに伸びて——


「だめ!!!」


 副隊長に抱き着かれて、そのまま腕ごと倒れ込む。




「でも、悲しいってどういう——」

 それを聞こうとした声が、第三者に遮られた。

 廊下の向こうから、事務方の職員が血相を変えて走ってくる。知ってる顔だった。革靴の音がばたばたと反響して、普段は物静かな顔に明らかな焦りが浮かんでいる。

「やばいですよ! 早川さん! 特異課のあの問題児金髪の……男の方が今、本部の正門前で一般人の高校生と殴り合いしてます!!」

 ばっ、とアキくんがこっちを見た。

 目が合った。

「ええええええええ!?」

 。ゆず茶のペットボトルが手からすっぽ抜けて床に転がったけど、拾ってる場合じゃない。

 金髪の問題児。男の方。一般人の高校生。殴り合い。正門前。

 デンジくんが——中田くんと——正門前で——殴り合い!!!!

「な、なんで!?」

「いや知りませんけど、とにかく結構な人だかりになってて」

「アキくん行ってくる!!」

 返事を聞く前にもう走り出していた。ヒールの音をがんがん鳴らして階段を駆け降りて、正面玄関を突っ切って、門に向かう。走りながら頭の中は真っ白だ。いやいやいやいや。なんで。なんで。なんでこの二人が、私を飛び越えて接点を持ってるの。いつの間に。どういう経緯で。

 門が見えた。

 人だかりができている。退勤途中の公安職員が十人以上、半円形に取り囲むようにして何かを見ている。まるで路上ファイトのリングサイドだ。その輪の隙間から覗くと——

 いた。

 デンジくんと中田くんが、胸倉を掴み合って怒鳴り合っている。二人とも顔に血がついている。制服はぐしゃぐしゃで、デンジくんの口の端が切れていて、中田くんの頬が腫れている。地面に唾と血が飛び散っていて、なかなかに酷い光景だ。

「っせえな! お前に何が分かんだよ!」

「分からないよ! 分かりたくもない!」

 中田くんの声が敬語じゃない。タメ口だ。あの品行方正な子が、声を荒げて、涙目で、デンジくんの胸倉を掴んでいる。

「あの人に好かれてるからって、胡坐かいて余裕ぶっこきやがって!」

「なに訳分かんねーこと言ってんだオメー!!」

「あの人に惚れられてるって分かってるから、付き合わないでずるずるずるずる引きずって、あれこれ構ってもらえんのを楽しんでるんだろ!?」

 あ。

 あ、あ。

 顔が熱い。

 耳の先まで、一気に血が昇っていく。心臓がばくばくうるさい。バレてたのか。バレてたのか、中田くんに!!

 周りのギャラリーの視線が痛い。今この場にいる全員が、この会話を聞いている。あの人、って。好かれてる、って。構ってもらえるのを楽しんでる、って。

 私のことだ。

 どこからどう聞いても、私のことだ!!

「好きなら好きって言えよ! あの人の前で!」

 中田くんが叫んだ。

「僕はちゃんと言った! ちゃんと面と向かって!!」

 デンジくんが、私のことを。好き。そ、そんなわけない! そんなわけないのに!!

「あ、あー……あー……っ!!」

 両手で顔を覆った。熱い。顔面が燃えている。なんだこれ。なんなのこれ。公安本部の正門前で、ギャラリー付きで、こんな——こんなこと!!!!!!!

「あら~……あんた、今度は高校生に手を出したの? ちょっとそれはまずいと思うよ~……」

 通りすがりの女性職員、たしか総務の人が、ひそひそと声をかけてきた。同情と好奇心が半々の顔で。

「違う!! 今回に限っては何にもしてない!!!」

 涙目で叫んだ。今回に限って、今回に限っては、だけど、私は本当に何もしてない!!

 何もしてないのに。何もしてないはずなのに、なんでこんなことになってるんだ。


 ばっと振り返ると、デンジくんの手がシャツの下——スターターロープのあたりに伸びかけているのが見えて、全身から血の気が引いた。

 考えるより先に体が動いた。

 人だかりを掻き分けて飛び出して、デンジくんの背中に思いっきり抱きついた。

「だめ!!!」

 腕ごと押さえ込むようにしがみついて、そのまま二人して前のめりに倒れそうになる。デンジくんの体が硬直した。ロープに伸びかけていた手が、止まった。

「ふく、たいちょ」

「だめだめだめ!! チェンソー出したらだめ!! ここ公安の前!! 一般人いっぱい見てる!!」

 背中にしがみついたまま必死に叫ぶ。デンジくんの背中があったかい。心臓がばくばくしてるのが伝わってくる。私のも、だけど。

 しばらくそうしていたら、デンジくんの体から力が抜けた。ロープから手が離れる。

「離せよ」

「離さない。離したらまた殴るでしょ」

「殴んねぇよ」

「信用できないんですけど!!」

 背中にしがみついたまま、中田くんの方をぐるりと見る。

 中田くんが、あの中田くんが、ぼろぼろの学ランで、頬を腫らして、でも目をきらきらさせてこっちを見ていた。

「あっ……お、お久しぶりです……!」

 嬉しそうに。それはもう、嬉しそうに。殴られて血が出てるくせに、目がお星さまみたいにきらきらしている。顔はぐしゃぐしゃなのに、表情だけが子犬みたいに輝いている。

 ……この子、やっぱりちょっとおかしいよ。

 ぐ、と。奥歯を噛み締める。


 そうして。

 覚悟を決めて、デンジくんの背中から離れた。

 一歩前に出る。

 二人の中間地点に立つ。


 すう、と息を吸った。

 まずデンジくんからにしよう。こっちの方が、痛みに体勢は強いはずだから。ちょっと、アレだけど……。

 振り向いて、タレ目のかわいい顔を見下ろして。


 そのまま、思いっきり股間を蹴り上げた。

「ギャアアアアアアアア!!!!!!!」

 すっかり油断していたらしいデンジくんが、がっくりとその場に崩れ落ちる。両手で股間を押さえて、顔が真っ白になって、声にならない悲鳴が漏れている。ギャラリーから男性陣の「あああああ……」という同情のどよめきが波のように広がった。

 次。

 くるりと踵を返して、中田くんの方を向く。

 中田くんはお目目をきらきらさせたまま(まだきらきらしてるのか、この子)、こっちを見ている。

「あっ……副隊長さ——」

 思いっきり股間を蹴り上げた。

「はぎゃ!!!!」

 中田くんも崩れ落ちた。膝から崩れて、そのまま地面に突っ伏して、えびのように丸まって痙攣している。ギャラリーから二度目の「あああああ……」が漏れた。今度は女性の声も混じっている。

 私の足もじんじんする。二回連続で蹴ると足の甲が痛い。ヒールで蹴るもんじゃないな、これ。

 二人が地面で悶絶しているのを見下ろして、腕を組んだ。

「……場所、変えるよ。二人とも、ついてきて」

 低い声で言った。いつもの明るい声じゃない。岸辺隊長の真似をしてるわけじゃないけど、結果的にちょっと似てしまったかもしれない。


 タバコ臭くて照明が暗い、おっさん向けの駅前の喫茶店。メニューにナポリタンとクリームソーダしかないような、レトロを通り越してもはや遺跡みたいな喫茶店だ。

 奥のボックス席、私が真ん中の椅子に座って、左にデンジくん、右に中田くん。向かい合わせじゃなくて、私を挟んで横並び。こうしないとまた殴り合いを始めかねない。

 おばちゃんが水を三つ持ってきた。

「コーヒー三つ」と私が言って、それから両側の男の子たちを順番に見た。

 デンジくんは口の端が切れていて、中田くんは左頬が腫れていて、唇から血が出ている。学ランのボタンが一つ取れている。

 二人とも股間を庇うように微妙にもぞもぞしていて、なんだか少し居た堪れない。

 はあ、と大きなため息をついた。

「……さて」

 コーヒーが来た。三つ並んだカップから湯気が立ち上る。

「まず確認。……中田くん」

「は、はい」

「デンジくんに殴られたの?」

「はい。でも僕も殴り返しました」

 うん、なんというか……どこまで行っても、誠実な子だ。

 さっきギャラリー越しに見ていたので知ってる。

「デンジくん」

「……なに」

「一般人を殴った件、始末書ね」

「……ちぇ」

「それと、なんでスターターロープに手をかけたの」

「……」

「答えて」

「……頭に血が昇った」

 こっちもこっちで、正直だ。正直なのはいいことだけど、今回ばかりは正直さが恐ろしい。あのまま私が止めなかったら、公安本部の正門前でチェンソーマンに変身するところだった。一般人の高校生相手に。考えただけで胃が痛い。

 岸辺隊長が知ったら?

 あんまり考えたくない。

 じゃあ、マキマさんが知ったら——もっと考えたくない。

「二人とも、全部、喋って」

 コーヒーを一口飲んだ。苦い。砂糖を入れたい。でも今は甘い顔をしている場合じゃない。

「何を話してたの。全部、最初から」

 二人が同時にちらりとこっちを見て、それからお互いの顔を見て、また私を見た。気まずそうに。ものすごく気まずそうに。

 隣のデンジくんの耳が赤い。

 反対側の中田くんの耳も赤い。

 私の耳も、たぶん赤い。


 中田くんが毎日毎日公安の門前に通い詰めていたこと。

 デンジくんがそれを嘘ついて追い払っていたこと。

 中田くんが、私に告白したことを、内心では後悔していたこと——これはもう知ってたけど、デンジくんの前で改めて確認される羽目になった。

 それで。

 それで……デンジくんが、最初から私の意図を見抜いていたこと。

 玩具にされてるって、分かっていたこと。

分かっていた上で、好きにならないように線を引いていたこと。

 好きだと言ったら、もう優しくしてもらえなくなると思っていたこと。


「…………」

 テーブルに肘をついて、両手で頭を抱えた。

 コーヒーはもうぬるくなっている。おばちゃんが遠くのカウンターで不審そうにこちらを見ているのが分かる。傷だらけの高校生二人と、顔を真っ赤にしたスーツ姿の成人女性が一人。そりゃ不審だろう。

 ……なんてことだ。

 デンジくんの読みは——半分合っていて、半分間違っていた。

 最初は確かに、落として遊ぶつもりだった。それは否定できない。靡かないデンジくんのことが気に食わなくて、意地になって、色仕掛けで——そこまでは、合ってる。

 でも途中から変わった。いつからかは分からない。ゲーセンでぬいぐるみを取ってもらった時かもしれないし、プリクラを撮った時かもしれないし、もっと前、屋上でラーメンをすすってる、少し汗をかいた横顔を見た時かもしれない。

 いつの間にか、落としたいんじゃなくて、ただ一緒にいたくなってて、なのにそれを認められなくて——「大人として、先輩として」なんて、自分にも嘘をついて。

 アキくんが言ってた「悲しいモンスター」の意味が、今やっと分かった。

 悲しいモンスターは、二匹いたのだ。

 お互いのことが好きなのに、お互いが「相手は自分のことが好きじゃない」と思い込んでいる、救いようのない二匹の悲しいモンスター。

 ……はあ。

 頭を上げた。目の奥がじわっと熱い。泣くな。ここで泣いたら、二人とも困る、よね。

「事情は分かった。」

 すこしずつ、ゆっくりと言葉を連ねる。

「まず——どっちとも、付き合わないよ」

 左右の男の子が同時にぴくっとした。

「だって二人とも子供でしょ。そこだけは、譲れない」

 これだけは、本当に、絶対に、揺るがない。

 十六歳と付き合うわけにはいかない。

 デビルハンターとして、大人として、先輩として……というか、もうそういう肩書きの問題じゃなくて、単純に。二人はまだ子供だ。これから先、いくらでも変わる。変われる。私なんかに今ここで縛られていい歳じゃない。

 右側でしゅん、と肩を落とす気配。中田くんだ。でもすぐに顔を上げて、真っ直ぐな目でこっちを見た。

「二年、ちゃんと待ちます。二年待って、十八歳になったら、もう一度」

「うん。……だから中田くん、二年後まで、もう連絡は最低限しかしないようにしよう」

 きっぱり返すと、中田くんの目がちょっとだけ揺れた。でも——小さく頷いたのが見えた。

 分かっている子だ。本当に。一瞬、あの時聞いた男性の諭すような声のことが脳裏をよぎった。相手のお姉さんも迷惑だろうから、って。

 もちろん、実際のところは迷惑じゃない。迷惑じゃないけど——今は、距離を置くのが正しい。

「講演のこととかで必要な連絡は、顧問の先生を通してね。それでいいかな」

「はい」

 中田くんが唇を噛んで、でも、こくりと頷いた。大人だ。十六歳なのに、大人だ。ちゃんと線を引ける子だ。

 それで、問題は左側。金髪問題児の方だ。

 デンジくんは黙ったまま、じいいいいいい、とこっちを睨んでいた。

 タレ目が据わっている。怒っているのか拗ねているのか泣きそうなのか、全部がぐちゃぐちゃに混ざった顔。子供の顔。どこまでも、子供の顔。

 ああ、もう、私のことを誑かそうとしてるなら、正しいよ。私はそういう子供っぽい顔に弱いんだ。だって自認はお姉さんだもの。

「……なら、なんで俺にあんなに優しくしたんだよ」

 いうことまで、いちいち子供っぽい。

「飴くれて、勉強見てくれて、ゲーセン連れてってくれて、プリクラ撮って……全部、なんだったんだよ。好きでもねぇのに。付き合う気もねぇのに」

「……それは」

 言葉が詰まった。何て言えばいい。何て言えば、この子が納得するかな。

「ほんと、ごめん。私が悪かったね」

「謝って済む問題じゃねーぞ」

 デンジくんの声が震えた。怒りなのか悲しみなのか分からない。たぶん本人にも分かっていない。

「責任とれよぉ……」

 最後の方は消え入りそうな声で。拳がテーブルの下でぎゅっと握られているのが見える。

 ちょっと考えた。

 考えて、考えて。

 それから——ふっと、力を抜いた。

 右を向いて、中田くんの頬に、そっとくちびるを寄せた。

 腫れていない方の頬。柔らかい少年の肌だ。中田くんの体がびくんと固まるのが分かった。

 それですぐに左を向いて、デンジくんの頬にも、同じようにキスをする

 擦り傷がある方の頬だから、ちょっとだけ、血の匂いがした。デンジくんの息が止まったのが分かった。

「今はこれで、許してくれる?」

 疑問の形を取っておきながら、その実答えは求めてない。

「……二年って、君たちが思うよりあっという間だから」

 声がちょっとだけ震えた。震えないようにしたかったのに。

「だから、もう少しだけ考えて。……それから、頭が冷えたら」

 左右を見る。

 デンジくんが耳まで真っ赤にして俯いている。口がもごもご動いているけど、言葉になっていない。

 中田くんも耳まで真っ赤にして、俯いている。さっきまでの威勢はどこへやら、コーヒーカップを両手で包み込んで、指先がぷるぷる震えている。

 ……かわいいなあ。

 ほんとに、かわいい。二人とも。

 こんな私なんかのために殴り合って、泣きそうになって、赤くなって。

 私にはもったいないくらい、まっすぐで、かわいい子たちだと思った。


 喫茶店を出た。

 夜風が頬に冷たくて、三人ともちょっとだけ正気に戻って。

 中田くんと別れる時、彼は一度だけ振り返って、きれいにお辞儀をした。深くて、丁寧なお辞儀。「二年後に必ず」と言い残して、それから、まっすぐ歩いていった。

 背筋が伸びていた。学ランはぼろぼろだったけど、歩き方だけは、いつも通りきれいだった。さよなら、少年。そのまま私のことは忘れてね。

 ……さて、さてさて。

「キミは帰れると思うなよ」

「へ?」

「デンジくんはこのまま本部に戻って、私と一緒に始末書! いいね!」

「はああ!? 今からかよ!?」

「今からだよ! 一般人殴った始末書は当日中に提出がルール! 隊長に見つかる前に終わらせるの」

「マジかよ~~……」

 首根っこを掴んだまま、ずるずると本部に引きずっていく。文句を言いながらもついてくるあたり、やっぱりこの子は素直だ。


 ほとんどの職員が帰った後のオフィスは静かで、蛍光灯の明かりだけが白々と広がっている。

 机の上に始末書のフォーマットを広げて、デンジくんの横に座る。ボールペンを渡す。

「はい、ここに日付。こっちに名前。書けるよね、自分の名前」

「書けるっつの……馬鹿にしすぎだろ」

「ここが経緯の欄。『一般人と口論になり殴打した』って書いて」

「殴打のおーってどう書くの」

「コの逆の奴にメを入れて、投げるの右っかわ」

「説明下手か」

「はいはい、今辞書持ってくるから」

 教えながら、デンジくんの字を見守る。角ばっていて、ちょっと大きくて、でも最近は随分読める字を書くようになった。毎日の課外授業の中で、その変化にはちゃんと気づいてる。

 ペンの走る音だけが、静かな部屋に響いている。

「……ね、デンジくん」

 声が出た。自分でも思っていなかったタイミングで。

「私のこと好きって、ほんと?」

 デンジくんのペンが止まった。

「おーおー、マジもマジだぜ、超大マジ」

 ペンを止めたまま、ぶっきらぼうに吐き捨てる。でも声は震えていない。さっきまでの拗ねた声でも、怒った声でもない。

「この傷に誓ってやるっての」

 顎の擦り傷をちょいと指差して。中田くんに殴られた痕だ。

「……そっか」

 二年。二年間。その間に私が死ぬ可能性。デンジくんの気持ちが変わる可能性。あるいは、マキマさんのこと。あるいは、チェンソーマンとしてのこの子の未来。中田くんのこと。全部全部、頭の中をぐるぐる回って——

 でも、今は。

 今だけは。正直になっても、いいよね?

「デンジくん」

 ペンを持つ手にそっと自分の手を重ねた。小さくて、薄い、私の手。デンジくんの手の方がずっとずっと大きい。

「私もキミのことが好きだよ」

 デンジくんの手がぴくっと跳ねた。たじろいだ様子で私のことを見上げて、怯えた子犬みたいなたれ目と視線が合う。

「だから、少しだけ、贔屓させてね」

 手を引いてそっと体を寄せた。

 デンジくんの顔が近づく。タレ目がまん丸に見開かれている。睫毛が長い。汗と石鹸の匂い。さっきの血の鉄の匂い。この距離は——さっき背中に抱きついた時より、ずっと近い。

 頬っぺたじゃなくて、唇にキスをした。

 触れるだけの、息がかかるくらいの。蝶がとまるくらいのかすかな力で。

 それから少しだけ、彼の下唇を、噛んだ。

 少しだけ、ほんの少しだけえっちな大人のキスだよ、デンジくん。


 ちゅ。

 小さな音が響く。

 デンジくんの体が石みたいに硬直して、耳が、首が、見えている肌の全部が真っ赤になっていくのが分かった。目が泳いでいる。口が半開きのまま固まっている。処理落ちしている。完全に。

「この続きはまた二年後に」

 にっこり笑って、ぱん、とデンジくんの頬を軽く叩いた。

「さ、始末書の続き書いて。『今後このようなことがないよう——』」

 デンジくんは数秒の間、口をぱくぱくさせて、それから、がばっと机に突っ伏した。耳まで真っ赤なまま。始末書のフォーマットがくしゃっと潰れた。

「……やべ」

「ん?」

「やべぇ……心臓やべぇ……死ぬかもしんねぇ……」

「あはは。チェンソーマンは心臓が頑丈なんじゃないの?」

「それとこれとは話が別だっつの!!」

 顔を上げない。上げられないらしい。耳の先までゆでだこみたいに赤くなっている男の子を横目で見ながら、買いなおしたゆず茶を一口飲んだ。

くしゃくしゃになった始末書のフォーマットを新しいものに取り替えてあげる。書いた部分はもったいないけど、あんなぐしゃぐしゃの、出せないもの。

 そんなことは一切気にせず。

 デンジくんはまだ突っ伏したままだ。

「ほら、書き直し。ちゃんと丁寧に書いてね」

「……うっせ」

「上手に書けたら飴ちゃんあげるよ」

「……」

「苺味」

「……書く」

 ペンを握り直す指先が、まだ震えている。



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