人が多い表通りだったから。時刻は二一時を回って真っ暗。吐く息は白くて、正直これ以上外を歩くのは苦痛だった。足の痛さ的にも、スカートの下の生肌的にも。
「ならさ、少し休もうよ」
ピカピカ光るライトアップが照る。あー綺麗だなぁ。つまんない黒髪もなんだか輝いているみたいだった。だから頷く。「いいよ」って、いつも通りの声で。
「お、あれ。副隊長じゃん」
寒風と違う凍えが途端に背筋に走った。大きなモコモコしたコートの下で、肌が跳ねる。
「うわ、うわ、やば。油断した……」
大袈裟なくらいの猫背に金髪。だるっともたれかかりながら歩く長髪にちょこんと生えた角。
「で、デンジくーん、パワーちゃーん。ぐうぜーん!」
隣に立つ男を背に隠すようにしてくるっと半身を動かした。
「二人は何してるの? もうすっかり夜よ?」
「買い出しー。アキがよ、急にジュース買って来いって」
「あのチョンマゲは悪魔じゃ! 間違いない!」
君たちが悪魔でしょ。あはは、と目を細めて笑う。でもね私分かっちゃった。早川アキ。あのなんやかんやで世話焼きな男がこの二人を今夜、突然無理矢理にでも外に追い出す時間を作った理由。
「じゃあじゃあ、頑張り屋さんでサイコーに可愛い部下のお二人ちゃんにね、可愛い〜先輩からクリスマスプレゼントあーげるっ!」
ぱち、と財布を開いて指を一万円札に滑らせ……通り過ぎ、横のちょっと小さい千円札を二枚指先で摘む。
「ほら、これで好きなの買って来なさい!」
「え、エーっ! マジかこれ、すっげ、本物じゃん!」
「寄越せ! 両方ワシのじゃ! 二枚で最強になるんじゃぁ!!」
「こぉらこぉら駄目だよ。一枚ずつ、ね?」
それじゃそういうことで。小さい手をひらひら振って二人と別れる。さっさと離れないと。何事も先手必勝に決まってるもん。
ふわぁーー。大きな欠伸をして伸びをする。公安対魔特異課、本部。普通の会社みたいにオフィスがあって、デスクがあって、給湯室があって。窓辺で朝日を浴びていると自分がただの会社員になってみたい。まぁ、ただの会社員のことなんて生き方も死に方も知らないんだけど。
「んー?」
そこに呑気な声がした。視線を投げる。デンジくんだ。未だ着慣れないシャツとネクタイが見えた。
「なぁんか今日の副隊長よ、ちげーな」
「何がよ。んもー人の顔じろじろ見ちゃってさ」
「分かんねえけど、なんかちげー。あーなんだろ。もーちょっとで出そうなんだけど!」
手をメーターに見立ててデンジくんは自分の腹から頭のてっぺんぎりぎりにまで引き上げて。そこまで上ったならもう口から飛び出ていいところでしょ。とつい口角が上がる。眠くて怠くて、やる気なんてゼロだったけど彼のおかげだ。ちょっと元気出た。
「お、分かった! 顔がガキっぽい!」
「はぁー!? どー見ても私は大人の綺麗なお姉さんでしょ」
「俺ん目が間違うわけねーだろ。違うよ、今日の副隊長」
すん。鼻が鳴る。デンジくんって妙なところで鋭い。真っ直ぐな瞳から逃げるようにぐったり倒れ伏していた机に身を滑らせて立ち去る。
「仕事しろよー」と言い残して。
「今日が朝から会議だって分かってて、よく遊ぶよな」
じぃと見下ろす瞳は早川アキだ。
「え、私そんなに臭い?」
「別に」
「ならいーじゃん。遅刻もしてませんよ」
「居眠りはしてただろ」
それくらいさぁ、見逃してよ。どうせ会議なんて聞く必要ない。重要なことはこの書類に纏まっているし、悪魔を目の前にして律儀に方針など守る馬鹿は死ぬだけだから。
「あぁ〜勘違いないでくださいねー。私は! 世の子どもたちに夢を配るお仕事をしたから睡眠不足なのですよ」
「はぁ?」
あ、そうだ。今ので思い出す。ニヤニヤと口角を上げて、お堅い部下の肩をツンツンと指先で突いてあげた。
「そういえばさぁ、アキくん。偉いね。あの子たちにクリスマスプレゼント用意してあげたんでしょう?」
「なんの話ですか」
「昨日! あの夜の時間に、雑〜な言い訳作ってデンジくんとパワーちゃんを外に追い出したのは、プレゼントを仕込むため。私の目にかかればおみとーし」
「馬鹿言わないでください。アイツらは子どもじゃありません。プレゼント渡すわけないでしょ」
え、じゃあ。渡してないの? 尋ねると、アキくんは至極当然と顔をして頷いた。
「はぁーー!?」
信じられない。信じられない。握った拳を硬い肩元にポカリとぶつける。
「アキくんってなんなの、やっぱり悪魔!? あり得ないよ。あんなにかわゆい子が二人も家の中にいて、プレゼントあげずに寝ましたってわけ!? これは見過ごせない。退治! 退治してやるかんね!」
「年もそうだがいい子なわけないだろ、アイツらが!」
「子どもは生きてるだけで満点! そこから加点で点数稼ぎするの!」
見損なった。ちょー見損なった。どれくらいかと言えば応援していたアイドルが麻薬で逮捕された時くらい。通っていた定食屋の店主がいつの間にか変わって店の中から別物になった時くらい。
面倒くさそうに指を眉間に押し当てて、アキくんは胸ポケットから何かを取り出した。
「とりあえず、これ」
「リップクリームじゃん」
「使え。唇だいぶ酷いぞ。朝帰りなの、もう少し隠せ」
「わぁー……。やっぱり訂正。アキくんって超絶優しいよね。凄く助かるよ」
だって昨日の男ったら。自宅にまで連れて行ったくせにやることやったらぐうすか寝込んで。出勤時間になるまでこっちのケアは何もしてくれなかった。メイク落としやらメイク道具、せめて下着くらい買って来いよね、そっちがさ。
「んもう。せっかくのクリスマスだったんだし。やっぱアキくんと寝ればよかった」
「気色悪い言葉で人の親切を汚すんじゃねぇ」
んふふ。本当に優しい。
「これってアキくんの?」
尋ねながら唇に走らせる。途端に潤いが戻った。気が向いていなかったけど確かに相当乾燥していたみたいだ。皮がベロンと剥がれた。
「そうだ。使い終わったら返せ」
「やーだよ。決めた、これは貰っちゃおう」
課の他の女の子たちからきっときゃあきゃあ憧れられるだろう。これ、アキくんから貰ったんだよねーと言いふらせばきっと、きっと……。あれ、なんだっけ。
リップクリームを自分のポケットに入れる。おい、と怒った声で取り返されそうになったから、今度はお尻のポケットに捩じ込んだ。うるうると瞳を潤ませるのも忘れずに。
「きゃあ、アキくんったら。私のお尻をそんなに触りたい?」
「この野郎……」
「ほらほら取り返してもいいよ。でも優しく、ね?」
お尻を振って煽り煽り。こうしてしまえばアキくんは絶対に力づくで行動しない。短くない付き合いだから分かる。それにもしもそんな男ならばきっと、姫野先輩だって彼を気に入ったりはしなかっただろうから。結局リップクリームの奪取は諦めたようだ。お尻のポケットに入ったまま。
「デンジくんさぁ、元気ないよね」
窓の外はどこもかしこも重機トラックとミキサー車ばかり。爆撃で壊れた街がちょっとずつ元通りになっていく。
デンジくんにも配られた書類に鮮やかなピンク色の蛍光ペンで線を引き、難しい漢字には読み仮名と意味を横に書き足す。こうすれば手間なし漢字プリントの完成だ。
「困り事があればこの副隊長に相談してごらんよ」
はい。漢字プリント基書類を机に滑らせ渡してデンジくんの表情をじっと伺った。ガサッとした肌、荒れ放題の唇。いつもより増して虚な視線。
まぁ聞いておいてなんだけど、本当はこの男の子が抱える悩みくらい分かっている。だって私も関わっていたし。
「……なァ副隊長。副隊長はさ、失恋ってしたことあんの?」
けれど正直に、どこまでも真っ直ぐデンジくんが心情を言葉にするとは思わなかった。ぴくりと心臓が跳ね上がる心地がする。これってどんな感情なんだろう。
「もちろんだよ。恋って叶わないことばっかりだからね」
「ふーん……」
あ、唇が尖ってる。ペン先をカツンカツンと机に叩き付けた。
「失恋したんだ」
瞳が動く。
「わっかんねぇ。でも、俺の思った通りになんなかった」
「そりゃ可哀想に。お菓子食べる?」
この子たちにはちょっとしたスナック菓子が効果的であることをアキくんに教えてもらっている。ポケットからなんだかグニュッとしている変な感触のチョコレートを取り出して机に置いた。
「あ、でもこれビターだった。カカオ80%だって。もうカカオそのものじゃんね」
「苦いのってことか?」
「そうよ。デンジくんは甘い方が好きだったね。これはやめとこうね」
でも、仕舞おうとする手を掴まれた。がしりと手首を覆うように。
「んや、それでいーよ」
「すんごく苦いよ?」
「いいんだって! 俺食えるぜそんくらい」
じゃあ、仕方ない。もしも床に吐かれたとして今ならティッシュがあるし、ここは木板だから掃除もしやすいだろう。包みを破って指先で摘む。どろどろに溶けていた。生肉の感触に似てる。
「はい、あーん」
デンジくんは何も拒むことなく雛鳥みたいに口を開けて、ギザギザの歯を覗かせながら舌を伸ばした。ぽとりと置いてあげる。
「ウゲ、ゲゲ、マジでにげーじゃん!」
ぶるぶる背筋を震わせオエッ、とえずくくせに、頑張って飲み込む。眉間が皺々になっていた。あぁそうだ。デンジくんって食べ物はなんでも飲み込める特技があるんだっけ? 便利だなぁ。
「でも偉いねデンジくん。ちゃんと自分の感情理解してる。認めるって、大人だね」
「だろ? 分かってんじゃん副タイチョー。俺ァ優秀だからあっという間に大人になっちまえるわけよ。あのオッサンを追い越すのもすぐだぜ、すぐ!」
「もしかして岸辺隊長のことなわけ? あははっ! 追い越せるといいねぇ」
凄いなぁデンジくん。駄目、笑い過ぎてちょっと目尻に涙が溜まっちゃった。
「デンジくんはさぁ、ほんと凄いよ。私なんて未だに自分のこと分かんないもんな。ずばり、コツは?」
「んー」
デンジくんは顎元に手を当てがった。拙い仕草で分かる。あぁこれマキマさんの真似をしているんだな。なんか嫌だな。なんでかな。
「俺嘘は吐かねぇからそれだろ。何事もしょーじきが一番なんだぜ!」
「そっか、そっか。うん、大切だね」
正直が一番だよね! 分かってるから余計に涙が溜まる。
「じゃあ傷心中のデンジくんを慰めてあげよう。何をしてほしい?」
「は? 俺傷心なんかしてねーぜ」
「あっそ。なら慰めはなし。今日の勉強会も終わり!」
ペンケースに手を伸ばす素振りをしたらデンジくんは両手を大きく振った。自分に注目を集める子どもみたいに。
「あぁ〜やっぱ胸が痛〜かも! すっげぇ痛い! 放っとくと爆発しちまう!」
それは可哀想にね。よしよし。心臓のあたりを手で撫でてあげる。
「デンジくんさぁ、マキマさんとデートしたんでしょ。いいなぁ、羨ましい。楽しかった?」
「んん……ま、あ」
「レゼちゃんともデートしたんだってね。モテモテだなぁ」
「そっちはわかんねぇ。最後まで遊んでねぇから」
「私ともデートする?」
ぼっかり口が開く。唇には少しだけチョコが付いている間抜けな姿だった。
「いろんなデートの形を知ってさ、比べられるようになってみようよ。そうしたら本当にデンジくんも楽しめるデートが何か分かるでしょ!」
綺麗になった指でピース。
「後輩くんの成長のためだもん。副隊長が一肌脱いであげましょう!」
「ま、マジで!? やったー!」
「でもこれは勉強だから、エッチなのは駄目!」
「エー!!」
大袈裟なくらい椅子がガタンと揺れ動いて、それが面白くてまた笑う。
「じゃあ日曜日の12時に集合。ばっちりお洒落もして来てね!」
それとそのシャツ、アキくんに謝っておいて。べったり胸元にチョコレートが付いているデンジくんのシャツを指差して笑った。
「お、デンジくんちゃんと時間守れて偉い!」
集合時間の五分前。走れるパンプスの踵を鳴らしながら走り寄る。
「どれくらい待ってた?」
「……二時間前」
「おーさすが」
デンジくんのことだ。きっとワクワクし過ぎて集合時間の何時間も前から来ていると思った。だからこそ今日は遅刻せずにしっかり五分前に到着できるよう目覚まし時計もセットしておいたのだ。計画通りだね。
「なァそれよりさぁ、なんで副隊長いつものスーツなんだよ」
三白眼の人相悪い瞳が下から順に黒いズボン、コート、シャツとなぞる。
「失礼な! いつもはフォーマル。今日はオフィスカジュアルだよ」
「確かにネクタイはしてねぇか……」
「髪も結んでないでしょ。どう、可愛い?」
「うん、マジで可愛い!」
しっかりと巻いた甲斐があった。そういうデンジくんは一応、お洒落を考えてくれたよう。まぁ中学生が頑張ってタンスの奥から普段着ない服を引っ張り出したようなパーカーとジーンズだけど、年相応な気がしてそれも可愛い。
「カワイーけどさぁ、もっと、こう、ちげー服見たかった。前ん時の夜に着てた足とか出てて胸がバーンって突き出てるやつ」
「今日はお勉強会の一環だぞ? 私までお洒落したらさ、本当のデートになっちゃうじゃんか。それは駄目だよ〜!」
手をぶらんと下げて猫背のまま、「えー!」と不服を漏らす男に手を絡めた。
「さ、それより早く行こう。ごーごー! 凍えて死んじゃうよー!」
ぐ、と喉が鳴るような音が聞こえる。顔を上げる。目が合った。
「こ、これも勉強なんスか……」
「そうだよ?」
「なら勉強も悪くねーな。うん、最高だ。俺、勉強好きになってきた」
「でしょう? エッチなのは駄目と言ったけど、手を繋ぐことって、親愛の証だから」
ね。指を絡めてぎゅうと握って。それだけでにんまり笑うデンジくんの笑顔が可愛かった。好きだなぁ、こういうところ。
「このキスも親愛だから」
固くてゴワゴワした頬っぺたに唇を押し付ける。デンジくんは思った通りの反応を見せてくれる。過度な要求もしない。気持ち悪いくらい謙ったりもしない。丁度良くて面白い。
「な、な、ナーンでキスしたんですかァ!」
「リップ塗り過ぎちゃったから、かな」
デートってすげぇ。副隊長が言った通りいろんな形があるんだ。開始早々にチューと密着手繋ぎまでできるデートが、ここにある。誘うようにいつもより上向き睫毛をふわふわ揺らして瞬きをする女に着いていく。コンビニに多く集ってる無駄に羽がデカい虫って、こんな感じなのかなぁ。
顔に全部書いてあるね、と擽る声で言う横で男はそう考えているに違いなかった。
「……いきなり飯?」
「そうだとも。腹が減ってはデートもできぬ! まずはカフェでケーキ食べようね」
どれがいいかなぁ。あ、このモンブラン美味しそう。デンジくんはこれね。私はコーヒーにしよう。ミルクも付けてもらおう。
「次はドーナッツ食べようね。デンジくんはチョコファッションにしてよ。雰囲気似てるし」
私はミルクティーかなぁ。ミルクを貰おう。色が可愛いから。
かちゃ、とお冷を置いた。偶然見つけた食堂みたいな中華屋では、厨房の奥、店主が中国語で何やら笑い合って大きな中華鍋で料理を転がしている。テレビの音、置かれた水槽のボコボコ泡を吐く音。全部がどこか懐かしい。まるでドラマのセットみたい。
「さ、食べて」
机に並んだ一個だけの担々麺。私の側には瓶の烏龍茶。割り箸を取ってあげたらデンジくんは慣れない手つきで大きさを無均等にして割った。ちょこんと割けた筋が飛び出している。
麺を啜った。唇がほんのり赤くなる。
「美味しい?」
「んーまぁまぁ!」
「んはは、正直でよろしい」
机に肘を突いた。
「デンジくんは沢山食べられて凄いね」
「まぁな。食える時に食っとかないと損じゃんよ」
「んふふ」
「それに副隊長の奢りだもんね!」
「んはは」
もっといっぱい食べてほしいな。
「副隊長は何も……食べねーの?」
窓辺の席に座らせてもらった。机の上には偽物のキャンドルが置かれていて、白いテーブルクロスが見慣れないのか、デンジくんは皺の部分を指で潰して料理が届くのを待つ。
「自分が食べるより誰かが食べてるのを見る方が好きたんだぁ。でも、デンジくん見てたらさすがにお腹空いた。パスタ食べようかな」
トマトの匂い。バジルの匂い。それにチーズ。イタリアンは匂いが濃くて味に飽きない。だから好きだ。風味がある方が食べていて楽しい。
ピザの一切れを平らげてデンジくんは口を開く。指は油でギトギトだった。
「そんならよ、俺のことずっと見ててもいーぜ」
「え?」
「人数増やして一緒に食べたいってことだろ? 副隊長も人に甘えてーとかあんだな」
違うよ。乾燥したみたいに瞬きをする。私はもう胃が十分な大きさじゃないから食べられないだけ。
「寂しいわけじゃ……」
「でも俺を見てたら腹減んだろ。なら、ずっと見てていい。俺が副隊長の分も二倍食ってさ、食欲湧かせてやっから!」
だからこれからも飯奢ってくれよ。
あぁ、そこに落ち着くんだ。口元に手を当てて笑う。
「もうさぁ、デンジくんったら。私のこと好きなの?」
「ン、可愛いから好きだぜ」
「嘘マジで? ありがと〜」
じゃあ、これからはデンジくんと一緒にご飯を食べるよ。目を伏せる。睫毛が繊細な影を頬に落とした。
知ってた? 食事中にお喋りってマナーが悪いんだって。きっとどこかのマナー師が決めたんだよ。
でもさ。誰かとこうして笑いながら、ちょっとソースを溢しながら食べる料理が一番楽しくて大好きなんだよね。
気がつくと微笑んでいた。トマトソースがちょっとついた唇をにんまりと引き上げる対面の男の子と同じように。目がしっかりと合う。初めて、心が通じ合った気がする。本心を話せた気がした。
「あ! あそこのクレープ屋まだギリギリ開いてる! 閉まる前に買っちゃおう」
「お、おれ、さすがに腹いっぱい」
「何言ってるの。男の子は沢山食べないと駄目なんだぞ? まだ大丈夫だよね。さ、クリーム増し増しにしようね!」
壁にぐったり頭をつけて凭れるデンジくんに誰かが話しかけていた。右手にクレープ、左手にオレンジジュースを持ってゆっくり近づく。
若い子だった。服装から高校生の女の子だろう。あまりに体調悪そうにしているからか心配して声をかけたみたい。ナンパではないんだ。
「お待たせ、はいどうぞ」
クレープだけ差し出して女の子二人に振り向く。
「この子は大丈夫だからね、心配してくれてありがと〜! もう遅いぞ、早く帰んなさいね」
ちょっと訝しげ。疑われているかも。でもぺこりと律儀に頭を下げて二人はクレープ屋から駅の方へと歩いて行った。
「デンジくん」
んあ、と顔が上がる。その顔をパチンと平手で打った。
「い、い、イッテェ! エ、何、なになに!?」
「ん〜や、ごめんなんでだろ。なんかデンジくんの頬っぺた叩きたくなっちゃったや……」
「さすがに意味分かんねーんですけど!」
「私も意味分かんない! なんでだろ!?」
ごめんね。ちょっと赤くなった頬を摩る。しっかり力を込めて本気で叩いちゃったらしい。痛そうだ。可哀想だ。
「このオレンジジュースもあげるから元気出して、ね?」
「ハァ〜!? 無理無理、こえーよ!」
「ごめんってば!」
なんとかデンジくんのご機嫌を取る。頭を撫でたり背中を撫でたり頬をツンツン突いたり。
「ね、ね、それよりさ。折角買ったクレープ食べようよ」
「腹ァいっぱいだって……」
「もう、仕方ないな」
一口だけ食べてみた。クリームの舌触り。チョコの匂い、苺の酸味。
「美味しいよ。はい、デンジくんもあーんして!」
「ゔ、エ。アーン……」
あはは、ちゃんと食べた。やっぱりまだ食べられるじゃん。時間的に朝食べたケーキとドーナッツとフィナンシェにワッフルはもう消化が終わっているはずだから、胃は大丈夫だろう。
ささ、もう一口。差し出した瞬間だった。ガボーンと大きな音がして衝撃波に髪が揺れる。あ、前髪崩れた、最悪だ。
「ア? なんだ今のデッケー音」
「なんだろねぇ。花火かな?」
帰宅ラッシュで集まっていた人々が散り散りに逃げようと音の発生地とは反対方向へと走って行く。悪魔だ、悪魔が出た! 誰かが叫んでいた。悲鳴と共に。二人して群像劇を眺めるみたいに見つめている。
「デンジくんって携帯持ってたっけ」
「んや、ない」
「なら私が報告するね〜」
特異四課。駅周辺で悪魔騒動に出くわす。これよりデビルハンターとしての責務を遂行します。
「デンジくんはいつでも戦えるよね?」
「ウグ、グ、無理、今動いたらゼッテー吐く」
「なぁんだ吐くくらいいいよ。被害者の死体と一緒に処理してもらおう」
よし準備オッケーだね。突撃ー!
「うわわ、見てよデンジくん! あの悪魔めっちゃ美形〜! 好みの顔」
「え、どっちが!?」
「両方!」
一本の首から二個の頭。異形の悪魔はしかし、取り付けた生首の造形がやけに美しい。堀が深くて目がパッチリ大きい。唇は苺みたいに赤くて小ぶり。髪の長さからして男女の生首なのだろうがどちらも正直イケる。剥製にしたいな。
「つか、デケーなこいつ!」
足元は根野菜の根本みたく螺旋状にぐるぐると絡み合って全体的に大きな木みたいなシルエット。なんの悪魔だろ植物とか?
もう少し早ければクリスマスツリーになれたのに。見上げてそう思った。タイミング悪いよねー。
「私は市民の避難優先に動くからさ、デンジくんはいつものチェンソーでざっくりばっさりやっちゃっててね!」
「リョーカイリョーカイ副隊長!」
そんじゃあ、と胸元から伸びるスターターロープに指をかけ口角吊り上げた男は、ニヤッと笑う。
「ド派手に暴れちゃうもんね〜ッ!」
血を吹き出させて頭を割り露出するチェンソーの刃。ギャハハ、とテンション高く声を上げながら駅前に沢山停まるタクシーを摘み上げている悪魔の腕に飛びかかってスパンと、細長い指を一本切り落とす。きゃあ、と甲高い悲鳴が悪魔の両方の口から上がった。
「いったああぁい!」
変な声だ。妙に上擦っているくせに凄く不機嫌そうで癪に障る。ぐぐ、と頭が下がってきた。綺麗な顔がキョロキョロ動いて手元を探す。それで、目がに、と細まった。女の顔の方が。
「なぁにこの子、変な頭ぁ。みてヨォ、ちょっとぉ」
「本当だ、可愛い頭、可愛い頭だねぇ」
悪魔はもう片方の手で指を切り落とした小さな子を摘む。「うぎゃ」と声がした。
「凄いねぇ、ちょっとだけ、ちゅうってしちゃおうかなぁ」
「なぁにそれ、なぁにそれ、浮気! 浮気!」
悪魔の顔が互いを罵り合って意地汚く言い合って。手の中のものなんて忘れたようだった。ブンと勢い良く振り翳すと中のものが飛んで行く。
「グゲええ!」
思いっきり建物に突っ込んだ。痛みに呻く声がする。
「おーいデンジくん、大丈夫ー?」
いつもならこれくらいの怪我はものともしないけど。土煙を巻き上げて破損した建物の入り口で四つん這いになっているデンジくんはなんだか、動かない。
「デンジくん?」
声をかけた。ぶるぶる体が震えている。瓦礫をけんけんぱして飛び越え後ろ手に腕を組み、覗き込む。デンジくーん。それとほぼ同時だった。オエええ、と酷い音がしたのは。パチパチ。目を見開く。
「あ、あはは」
デンジくんがゲロ吐いた。戦闘中に、悪魔の横で。あははと笑い声を上げてデンジくんの背を撫でてあげる。これはせめてもの情けというやつ。
「やっぱ吐いちゃったかぁ! 投げ飛ばされて胃がシェイクされたんだろね」
よしよし。一回吐いたらもう我慢する必要ないよ。全部吐いちゃおう。そうしたら仕事終わりにラーメンを食べに行ける。
「オゲエエエ!」
だけど、出てきたのはピザでも餃子でも炒飯でもない。肉だ。生々しくて、塊の。それもチェンソーマンとして形作られた乱杭歯の奥から溢れるようにポチャっと。さすがに距離を取る。一歩分くらい。だってキモいし汚いし。
「……えぇデンジくんこれ、何食べたの?」
結構ドン引き。人間の頭くらい大きな物なんだけど。これ食べてたの。これを胃に入れてデートしてたの……? さすが人間じゃないだけある。そんなデート相手は初めてだ。
「オエ、オエ、オエもこれ、知らねぇ……」
苦しそうに涙声で、ケロケロ胃液……かな。透明でサラサラした液体を口辺りから溢れさせるデンジくんをじぃと見ていると、後ろから耳障りな声がする。
「あぁ、あぁ」
まるで感嘆するみたいな声だ。いつか見たドラマで息子を出迎えた母親が、こんな声を出していた。巨大な悪魔の腕がこちらへ伸びる。警戒して飛び退いた私でもなく、まだ四つん這いのチェンソーマンでもなく、腕はその、吐瀉物に塗れた肉塊を優しく指先で摘み上げた。ん、綺麗に線を描いた眉が上がる。
「可愛い可愛いシットちゃん、ここにいたの! 思い出した! 思い出しまちたよォ!」
「しっ、と?」
あぁ、なんだっけそれ。あー分かる、分かるよ。忘れるわけないじゃん。
あーーーー。脳みそ、壊れそう。
「かわゆい人間ちゃん、私たちのために、ありがとうねぇ、お礼に食べちゃいますからねェ。男一人、食べたら次は女! 女の次は男ォ!!」
でもちょっと気に入ってきたかも。シットちゃんのお友達として飼うのも悪くないかも! ゲボ、と口の気持ち悪さにまたえずく男が「またそういうやつかよぉ」と呟く。その横でパンプスがコンクリート片を踏みつけた。ガリ、と靴底が傷つく音が響く。
「誰が、デンジくんを飼うって?」
指を翳す。綺麗にネイルした指先がキラッと壊れかけの街灯に照らされて綺麗。
「アナタみたいなやつにはさぁ、デンジくん、あげたくないなぁ」
ハァ? 二つの口が同時に声を溢す。器用なことだ。脳みそは共有なの? 感情は共有? 聞きたいことは沢山ある。けど好奇心を覆うほどに今はただ、目の前の悪魔が憎たらしい。
「ブクブクになっちゃえよ」
悪性みたいにさ。悪魔のたった一つの喉が、途端にぶくと膨れ上がった。ゴム風船に似ていると思う。
「げ、げ、」
可愛い悲鳴だ。それに常に二つ響くから協奏曲みたい。カラオケで無理矢理ハモってくる友達の歌い声みたい。首を傾げる。そろそろカールが取れたただの私の髪が揺れた。
「悪魔は病気ってしたことないよね? だからアナタの初体験も、私が貰ったげる。任せて、素人食いならプロ級だから」
ぎぃ、ぎぃ。苦しそうな声だった。口から、デンジくんの次は悪魔が血を吐き出す。新鮮な鉄の匂いだ。それに饐えた甘い果物の匂い。あぁ、これが愛おしいよ。
「さてデンジくん、そろそろ無事?」
「副、隊長……悪魔の力、あんま使うなヨォ。俺ん獲物だぜ」
「おぉさすが若いね。もっと戦いたい感じ?」
パァン。今度こそ花火だった。双眸が異形を見下ろす。ぶうん、ぶうん、と機械的なエンジン音を吹かす男の子を。その背後でたった今肉塊が弾け飛ぼうが、血と臓物が駅前中に知ったことか。
「じゃあさデンジくん、私と遊んで」
指を差した。真っ直ぐ。デンジくんの胸元、たらりとシャツの間から垂れるスターターロープを。あ? と腑抜けた声がする。
「私ね、今ちょー気分最悪。思い出しちゃったよぉ。この感情。いらなかったのに。だから、デンジくんに食べてもらったのに」
かつて聞いた。岸辺隊長に。チェンソーマンは悪魔を殺す。チェンソーマンは悪魔を捕食する。捕食された悪魔は存在を消される。全てから。人間の記憶からも完璧に消しゴム使ったみたいに。
「本当だったんだね、噂って!」
マキマさんがその能力を利用して何を企てるのかなんて分からない。頭がいい人の考えなんて知らなくていい。
たださ、マキマさんが利用するなら私だって利用して、いいじゃん。チェンソーマンを使わせてよ。私は、デンジくんが好きなんだ。つまりチェンソーマンには興味がない。興味がないならどこまでも私欲に使い捨てられる。
「要らない感情だったのに。なーんで吐き出しちゃうかな。変なとこで使えないんだから。もう! 怒っちゃった。付き合って、くれるでしょ?」
ぼた、ぼた。今度は胃液じゃない。血が垂れる。
「ここで問題です」
ちらちら指を左右に揺らす。ちゃんと聞いてね。そう宣言するために。
「私の契約悪魔のお話はしたね。さ、復習のお時間ですよー。答えてデンジくん。どんな能力だったでしょーか!」
「ぐ、え、が。相手、んの、体、ボロボロにするぅ、やつぅ」
「んー惜しい! 三角あげる!」
正解は、自分の臓器犠牲にする代わりに対象の生物を遠隔だったとて腫瘍だらけにしちゃう怖ーい能力、でした。爛々、瞳が輝く。月みたいに。
「副隊長さんよォ、それ、俺に使ったろ〜……ッ!」
「わー凄い! 今度は正解じゃんデンジくん。その通り、今デンジくんの肺は腫瘍だらけ。肺胞は壊死して咳もできなくなるよ。だから喋れるのは今だけ。内側から死ぬんだぞ」
「なぁんで、俺に使っちまう、かなぁ」
「言ってるじゃん。あーそーぼ、デンジくん! 殺し合おうよ!」
私が勝ったらデンジくんを私の望み通りの人間に教育し直して、成長させて、結婚して。それが私の願い。
「デンジくんが勝ったら、私の命をあげる!」
私のことを悪魔ごと食べて。どうなるか知りたいの。あの世で見てみたいの。消えるのが悪魔だけなのか。人間がチェンソーマンに食べられたらどうなるのか。だって他でもない私自身が、私自身のこと、忘れたくて堪らないから!
綺麗に皺なく洗濯された自分の可愛い水色のシャツに手を置き笑う。げへ、げへ、とまるで品なんてない声がした。下から。
「言っちまったなぁ副隊長。馬鹿をよ、言っちまったナァ!」
んはは。小さくて真っ白い歯を見せつけるみたいに笑った。
「アンタ気づいてねェぜ。その条件、負けた方が俺んメリットがでけーってことをヨォ!」
「あはは、はは、は。デンジくん、デンジくんって、本当。最高なんだね!」
デンジくんは手繰り手繰り這いずって、それから爆心地にポトリと落ちる己の吐き出したばかりの肉塊、『嫉妬の悪魔』を両手で掴むと上を向いて……オレンジ、みたいにぎゅうーと絞った。ごく、ごく。血が喉を伝い落ちる芳しい音がここにまで聞こえる。
そしてまたエンジン音。
「あーあ、回復されちゃった」
「ダァからさぁ、それ、俺に使うのやめた方がいーぜ! 無駄! 無駄だから!」
「生徒の指示は受けませーん!」
悪魔の力を使って近くの電柱を引き抜き投げつけた。「おい!」と不意打ちへの抗議の囀りがする。さすが、チェンソーの刃はこれくらいのブロック真っ二つにしてしまうか。
「今のはガンの悪魔じゃねーな!」
「またもや正解! 私の悪魔は癌だけじゃないんだ」
「教わってねーんだけど!」
「ごめんね〜。大人は狡い生き物なんだ」
だから子どもは騙される。搾取される。デンジくんって賢いからさ、一度味わったら覚えるでしょう。
指を通した髪がずると数十本抜け落ちた。せっかく伸びたんだけどな。長髪は男受けいいからまた整えないといけない。怠い。
沢山の破壊音がする。手当たり次第に瓦礫、車、人間の死体、なんかの臓物。どっかの肉片を投げつけて投げつけて。全部真っ二つにされて。誰が見たって分かる。完璧に手を抜かれていると。
「いいのかなー、油断して」
正面に立てば私の物だ。人差し指を向けてぱち、とウィンクまでしちゃう。致命傷へ愛のサービス。
「あー!! また使いやがった!」
ぐ、グルジィ、と胃を抑えつけ天に向かって長ーい舌を突き出すチェンソーマン。
「マージでさァ……!」
地面にチェンソーの右手を突き刺し震える体を支えて男は言う。
「俺の、未来のお嫁さん候補ん体にィ、無茶働くんじゃネーよ!!」
「は?」
呆気に取られてしまう。あ、と思った時にはもう遅かった。一気に距離を詰められてブゥンとすぐ近くから音がする。まずい。咄嗟に手をクロスさせて受け身を、取ろうと、して。体の前に差し出したその左腕にガブリ。鋭い痛みが走ったのだ。唇が戦慄く。な、え?
「い、い、た」
痛い! 痛い! 何!?
「ちょ、ちょっとデンジくん、何してんのマジで! 馬鹿、や、やだやめて!」
「わりぃーな副隊長。アンタの血、貰っちゃったぜ〜!」
私の腕を噛んだ。何かに頼ることも忘れたただの女の力で肩を押し突き飛ばす。体は玩具みたいに簡単に離れた。左腕を抑える。血がシャツに、コートに滲んで垂れ落ちて。
「やってくれるじゃんか」
ふん。気丈に鼻を鳴らす。
「じゃあ私だってもう出し惜しみしないかんねー!」
指を構えて、またデンジくんが血を吐いて。「俺が忠告してやってんのに!」と文句を聞いて。気持ちが悪い。立ち眩みみたいに足元から頭が遠のく感覚がした。
「勿体ねぇ、勿体ねぇ! カワイー子の中身が俺んせいで無駄になる!」
「は、はは」
「なァ、そろそろ遊びじゃ収まんねぇだろーが」
だってさぁ。ずず。鼻を鳴らしてなんとか立つ。
「ムカつくんだもん。デンジくんの周りって女の人ばっかりだよ。みんな、デンジくんを狙ってる」
「え、そう? へへ」
「照れるなよぉ、そこで……」
頭が重たい。夜なのに、眩しい。街灯が目に刺さるみたいだった。今すぐにベッドで横になりたい。楽になりたい。助けてほしい。でも恨み辛みの言葉が止まらない。
「けど結局、みんなはチェンソーマンの心臓を狙ってる。デンジくんのことなんか、本当は見てないかもしれないんだよ」
それって可哀想だ。悲惨すぎる。悲しい。なのに、デンジくんは拒まない。どんな罠でも喜んでかかる。手足が千切れても別にいいって考えている。
「私はこんなにデンジくんの幸せを、願って、るのに」
我慢していたけどやっぱり垂れた。涙じゃなくて、鼻血。だらりと伝う感覚が気持ち悪い。手の腹で擦る。
「あぁ嫌になるなぁ。嫉妬で、頭が馬鹿になっちゃう。ねぇどうにかしてよデンジくん。もう一回この搾りかすみたいな悪魔食べてよ」
摘んで、死体を差し出した。醜い嫉妬の悪魔の肉塊を。
「へぇ、副隊長。俺の幸せ願ってんだ。いいこと知っちゃったぜ」
「ふふふ。んふ。うん、教えちゃった。私の大切な本音」
「仕方ねぇーなぁー」
じわりと右腕の輪郭が蕩ける。みるみるうちに人間の腕が露出していた。出会った頃より太く筋肉がついた、デンジくんの腕だ。それが私に向かってピースをする。
「じゃあ副隊長の幸せは俺が代わりに願っておいてやるよ! これで相子! どうよ!」
「でも、私の内臓、もうボロボロだからさ」
「俺ァ詳しいんだぜ。人間の内臓って交換できんだろ? それしたら大丈夫だって。あと五百年くらい生きれるだろ」
変なの。変、なの。震える右手を動かす。
「じゃあ知ってるよねデンジくん。二個ある内臓のうち一個くらい腐っても、人間って死ねないんだって」
「へー、まだやんだ。ならお仕置き! 悪い子にはお仕置きだよな!」
指を、伸ばそうとした。あ、と目を見開く。近くで血の匂いがした。あと機械特有の焦げる匂いと、そして、デンジくんの匂い。指を掴まれる。ぱき、とそれを板チョコみたいにデンジくんが折った。
「う、あっ……」
「治るまで、俺がしっかり面倒見てやんよ、副隊長」
目が合った。ちゃんと人間のデンジくんの、目だ。これがやっぱり好きだ。虚ろなのにしっかり視線が合う感じ。視線が合うと、なかなか離せない、感じ。
「俺の内臓をやる。なんでもいーぜ。好きなのをやる! 俺ァすぐ治るし」
「は、はは。ありがとぉ」
その言葉だけで十分だよ。嬉しい。顔を寄せた。カサカサの唇に、同じく乾燥したカサカサの唇を押し付ける。ちゅ。血の音がして体温がちょっと上がる。なんか私、初恋した高校生みたいじゃん。恥ずかしい。
「これでデートに、なっちゃったね」
重たい瞼が落ちて。小さな体がだらんと脱力をするものだから地面に落ちる前にぎゅうと二本の腕が支える。確かに、支えた。
「報告は以上かな」
机に座り書類に目を通す女性が顔を上げた。
「推定浮気の悪魔、嫉妬の悪魔を無事に討伐。よくやったね二人とも」
「えへへ、マキマさんに褒められちゃった」
「俺もー! ゲヘヘ」
ふわり。柔らかそうな色の髪を揺らして女性は微笑みを形作る。
「二人ってなんだか最近、似ているね」
「上司と部下、先輩の後輩、先生と生徒……うちらすんごく仲良しだからですかねぇ」
飼い主と犬は似ると言う。なるほど、とマキマさんは組んだ指を解き椅子から立ち上がった。
「では報告書を受け取りました。二人は、今日くらいゆっくりしていいよ。特に副隊長ちゃんはね」
怪我が結構酷いし、また内臓にダメージを与えたせいで今はすっかり病院通いだ。それに利き手の人差し指が折れているせいでろくな机仕事もできない。字が上手く書けないせいで今じゃ一日コーヒーを飲んでいる始末。我ながら給料泥棒かも。
「はぁ、マキマさんいい匂いだった」
「やっぱマキマさんってカワイー……」
ぱち。それまでニマニマ細めていた瞳が見開きデンジくんをじっと見る。
「ふーん、そーなんだ。私だけじゃなくてマキマさんもかわいーんだ?」
「そりゃ事実だからしょーがねーじゃん!」
あぁ最悪。嫉妬嫉妬。ツンツン男の頬をつつく。
「私に長生きしてほしい?」
「そりゃもちろんよ」
「なら嫉妬させないで。メンタルケアもしてくれるよね?」
え、それってどうすりゃいいの? 他人を妬んだことのほぼないデンジくんには感覚的に分からないらしい。まぁ、でも、この我儘に付き合わせる気はないからいい。説明はしない。決して面倒なわけじゃないよ。
「副隊長ってけっこー嫉妬深いんだな! やっぱガキっぽいとこあんじゃん」
「むー……」
そりゃあ、嫉妬して、嫉妬されるばかりの人生でしたよ。我ながら人が悪いことくらい分かってるもん。もん!
「だって私の欲しいもの、みんなは持ってるじゃんか。狡いよ、そんなのさ」
普通の恋をして、普通に生きて、普通の家庭を持って。普通ってなんだよそれ。普通すら持ってない私って何? 持ってる人って何。狡いじゃんか。
「ちげーよ、それ」
デンジくんが手を引いた。怪我をしている右手の方を。だからズキンと痛む。やめて、と言うより先に目が、合った。
「それ、嫉妬じゃなくて羨ましーって言うんだって。羨んでんだろ」
罪悪感抱えなくてもいい言い換えなんていくらでもある。ほら、とポケットから差し出されたのは、ぐしゃぐしゃになった書類だった。なんとか左手だけで紙を伸ばして中を覗く。漢字プリントだった。私が、デンジくんに渡したやつ。そこに私の字で「羨む」と書かれた横に読み仮名と意味が書き込まれている。あ。声が漏れる。
「で、もっといい言い換えが憧れ、だろ。これならそこら辺のガキだって言うフツーの感情だよな? ほら、別に、いいんだよ。それ変じゃねぇから!」
「励ましてくれてるの」
「お、分かっちまったか? そーよ。これが俺のメンタルケア! どうよ」
反応ができない。表情が固まっちゃったみたい。でもデンジくんはどこまでも表情豊かだった。
「俺ァいい生徒だろ? せんせ」
にぃと歯が見えて、長い前髪の下から私の機嫌を伺うように瞳が向いて。
「デンジくん、好き」
我慢ができなかった。言葉が、勝手に口から出る。
「私はデンジくんが好きだよ。デートしてよ、明日」
「んえ、明日!?」
「私はね、オムライスが好きなの。それが食べたかった。それ以外はあんまり好きじゃなくってさ」
「へー……全部?」
「うん。明日食べよう。美味しいやつ」
食べる。いっぱい食べる。デンジくんは頷く。私も、それでようやく息ができるみたいだった。
次の日。ちゃんと時間通りに来たデンジくんに、少し遅れた私が手を振る。
「おーいお待たせ!」
今日はね、ちゃんとセクシーな服を着てきたんだ。デンジくんはそれぞれ体のラインが出たパツパツのアウターと晒された足を眺めてから、「エロカワイー!」と、そう叫んだ。