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 告白するたびに「私の好きな人は天上人なので」という文句で振られるので、てっきり鬼籍に入った想い人でもいるのかとばかり思っていたが、彼女が岸辺隊長に声をかけられるなり顔を真っ赤にして黙り込むのを見て、どうやら答えは思っていたよりも単純らしいと知った。

「岸辺隊長のこと、好きなんだ?」

「どうしてですか?」

「さっき話してる時、顔が真っ赤だったから」

「……ダメですね、すぐ顔に出てしまって……お見苦しいものをお見せしました、ごめんなさい」

 すぐに謝るその仕草が、自覚があるにせよないにせよ残酷な人だなあと思う。

「天上人っていうくらいだから、死んだ人間だとばかり思ってた。でも、岸辺隊長なら、少しは望みがあるんじゃないの」

「私と岸辺隊長が?あり得ないですよ」

「そんなことないと思うけど。あの人、キミみたいなタイプの子は好きそうだし」

 興味本位でそう茶化してみると、彼女は困ったように目を伏せて

「さて、どうでしょう……分かりませんが、とにかく私と岸辺隊長は、絶対にありえないんです」

 といつになく強い口調で断言したので、どうやら何か深い事情があるんだろうということが察せられた。

「天上人、か」

 岸辺隊長のことをそんな風に呼ぶ彼女の心理を分析するのはそう難しくはないけれど、理解したところで納得できるかと言われれば別問題で、あのくたびれた中年男のどこが天上人なのかと小一時間問い詰めたい気持ちはあるけれど。

 それをしたところで彼女は「吉田くんには分かりませんよ」と困ったように笑うだけだろうし、その笑顔がまた悔しいくらいに綺麗なんだろうなと想像できてしまう自分が惨めだ。


 ある日の放課後、いつものように制服姿で公安に顔を出し、報告書を提出するために彼女のデスクに向かった。彼女は西日が差し込む窓際で何やら分厚いファイルを整理していてその横顔が妙にアンニュイというか儚げで、俺は提出するはずの書類を片手に持ったまましばらくその場に立ち尽くしてしまう。

「……吉田くん?どうされましたか」

 気配に気づいた彼女が顔を上げていつもの丁寧な、でもどこかよそよそしい笑顔を向けてきたので俺は我に返って「いや、何でも」と誤魔化しながらデスクに書類を置く。

 その拍子に彼女のデスクの端に置かれたマグカップが目に入って、それが以前俺が「これ使いやすいですよ」と適当に勧めた安物のマグカップだったことに気づいて少しだけ心拍数が上がったけれど、よく見ればその隣には岸辺隊長が愛飲している銘柄の缶コーヒーの空き缶がペン立てとして再利用されていて。

 俺の勧めなんていうのはただの実用品としての採用であって、岸辺隊長のそれはゴミでさえも宝物として手元に置いておきたいという信仰心の表れなのだと突きつけられた気がして、一気に現実に引き戻される。

「ありがとうございます。期限七日前……真面目ですね、いつも」

「他の奴らが不真面目なんだよ」

「そんなことないですよ、いつも皆さん毎日ぎりぎりの中で頑張ってくださってますから。ちゃんと期限内に出して下さるというだけでも有難いです」

 まあ、猶予があった方がありがたいというのは否定しませんけど。そう笑う口元が、かわいい。

「それなら……色んな仕事を兼任しながらいつも真面目にしている俺には、なにかご褒美があってもいいんじゃない?」

「ご褒美、ですか」

「そう。良かったら、俺とデートしてくれないかな」

 先程食らったカウンターパンチのような敗北感を誤魔化すように、そして半ばヤケクソ気味にそんな言葉を投げかけてみた。どうせまたやんわり断られるのがオチだろうと思っていながら彼女の反応を待っていたら、彼女はきょとんとした顔で瞬きをしてから意外な言葉を口にする。

「私とデートをすることが、あなたにとってのご褒美なんですか?」

 俺は一瞬言葉に詰まったけれど、すぐにいつもの調子を取り繕ってデスクに手をついて顔を近づけ、彼女の瞳に映る俺の顔が必死に見えないことを祈りながら答える。

「そうじゃなかったら誘わない」

 俺の言葉に彼女は少しだけ目を見開いてそれからふっと力を抜くように微笑んで、

「ふふ。褒美になるかは分かりませんが、それくらいなら構いませんよ」

 と答えたので、それだけで俺の口から心臓がこぼれ出てしまいそうだった。そこに男女の駆け引きが発生するなんて露ほども思っていないからこその承諾なのだということが痛いほど伝わってきたけれど、それでも俺は「じゃあ週末空けといて」と言質を取ることしかできなかったし、彼女は「はい、分かりました」と業務命令を受諾するように頷いて再び手元のファイルに視線を落としてしまった。



 週末の駅前はカップルや家族連れでごった返していて、制服ではなくて私服で来たことを少しだけ後悔しながら待ち合わせ場所のハチ公前で彼女を待っていた。約束の時間の五分前に現れた彼女は普段のスーツ姿とは打って変わってベージュのロングスカートに白いニットといういかにも当たり障りのない格好で、少し悔しい。

「お待たせしました、吉田くん」

「吉田くんはやめてって言ってるのに」

「癖なもので……では、吉田さん?」

「ヒロフミでいいよ」

「それは少し、馴れ馴れしい気がしますから」

「馴れ馴れしくていい」

「高校生を下の名前で呼び捨てにしたら、風紀にかかわります」

 結局彼女は俺の名前を呼ぶことを拒否して頑なに「吉田くん」と呼び続けるし俺もそれを訂正するのを諦めて「まあいいや行こうか」と歩き出したけれど、隣を歩く彼女との距離は物理的には近いのに精神的には何光年も離れているような気がしてならない。


 それから映画でも見ようかという話になり、俺たちは適当な映画のチケットを買って薄暗い館内に入った。これが大外れのつまらない映画で、けれどそれが幸いしたのか、観劇後の会話が存外盛り上がったのが意外だった。「あそこの恋愛の演出が生々しくて嫌でしたね」と笑う横顔から、存外彼女がロマンチストの理想家であることを知る。

 映画が終わって外に出るとすっかり日が暮れていた。俺たちは少し早い夕飯を食べようと雰囲気のいいイタリアンの店に入ったけれど、彼女はメニューを見ながら「高いですねここ」と困ったように笑って「俺が出すから気にしないで」と言っても「いえ自分の分は自分で払います」と頑として譲らない。

「そんなに頑なに断られると、借りを作りたくないと思われているみたいで、かえって傷付くな」

「そういう訳では……ごめんなさい。こういう場所にあまり男性と来ないので、どうしたらよいのか困ってしまって」

「意外だな。キミみたいな美人なら、しょっちゅうデートに誘われそうなものだけれど」

 お水を注いでくれたウェイターに会釈をしながらそんなことを言うと、彼女は困った顔で

「誘っていただけないという訳でもないのですが、基本的にはお断りさせていただいていて」

 と答える。

「じゃあなんで俺の誘いは断らなかったの」

「それは……」

 一口水を飲む間を置いてから、彼女は笑った。

「吉田くんは、なんというか、特別なので」

「トクベツ」

「はい。みるからに、やけくそになっていたので。断るのが可哀そうで」

 戯れにデートに付き合うのは、この人の中では「可哀想」ではないのか。それでも隣に座っていられるなら同情だろうが何だろうが利用してやろうと開き直って俺は「じゃあその可哀想な年下へのサービスだと思って」と赤ワインのボトルを注文して、彼女のグラスに注ぐ。机の上に並べられた料理は見事にバジル系のものだけ売れ残っていて。……彼女の食の好みが垣間見えて、胸の内にますます愛おしさが募る。

「キミはさ。……岸辺さんの、どこが好きなの」

「それは……どこもと言われても、全部なので答えようがありません」

「じゃあ全部の中の、特にどれ?」

「どれ……どれ……。……そうですね、強いて言うなら、顔、でしょうか」

「顔って」

「だめですか?」

「ジジイだよ、あの人」

「人の好みを馬鹿にしてはいけません。隊長は、とてもかっこいいお顔立ちですよ」

「顔だけなら俺だって負けてないと思うけど」

 気が付いた時にはそんな言葉が口をついて出ていた。

「俺じゃだめかな」

 彼女はそんな口説き文句に動揺した様子すら見せず、「んふふ」と柔らかく笑う。それが、たまらなく、悔しくて、情けない。

「俺じゃ、だめですか」

 ひねり出した声がかすれる。繰り返しの問いに今度は少したじろいだ様子を見せた彼女がゆっくり言葉を探しながら

「吉田くんは、まだ現世の人なので」

 とだけ言ったので、もはやどうしたらよいのかも分からなくなってしまった。



 店を出ると夜風が少し冷たくて、火照った頬にはちょうどよかったけれど彼女にとってはそうではなかったらしく小さく身震いをしている。俺はここぞとばかりにジャケットを脱いで彼女の肩にかけてやるというベタな彼氏ムーブをかましてみたのだが、彼女は「悪いですよ」と遠慮しようとするので「俺が見てて寒いから着てて」と訳の分からない理屈で強引に押し通す。

そうしてようやく彼女は観念したように、あるいは酒のせいで思考力が低下しているのか素直に俺の匂いの染みついた上着に包まって、その姿がなんだか彼氏のジャージを借りた彼女みたいでかわいかった。

 だから、駅までの道すがら、ヒールの足元がおぼつかない彼女の手を自然な流れで取ってエスコートしながら、このまま何かの間違いでホテルにでも連れ込めないかななんていう下世話な期待が脳裏をよぎらなかったと言えば嘘になる。けれど、そんなことをすれば間違いなく彼女の中での俺の評価は地に落ちて二度と口を利いてもらえなくなるだろうし何より彼女が岸辺隊長に向けるような崇高な想いではないにしろ俺に向けられた「可哀想な年下」という慈悲の感情さえも失いたくはなかった。

「吉田君のことが、嫌いという訳ではないんですよ」

 ふわついた声でそんなことを言う。

「吉田君のことは、好きです。でも、私の心は、生涯ずっと岸辺先生のものなんです。そう決めたので」

「少女趣味的な考え方だね」

「けれど、こればかりは変えられません」

 いつのまにやら敬称が変わっていることには触れなかった。俺たちは駅のベンチに横並びになって、温かい柚子茶のボトルを握りしめている。

「どうしたら、私のことを好きでいるのをやめてくれますか」

 消え入りそうな声だった。俺に嫌いになってほしいの、だとか、それは俺の意志ではどうにもならない、だとか、きっと正解ではない答えばかりが頭の中に浮かんでくるので、俺はたっぷり考えて、何度も何度も選択肢を頭の中で反芻した後で、言葉を返す。

「死ぬか、魔人にでもなったら、その時はキミのことを好きじゃなくなると思う」

「ばか」

「本気だよ」

「冗談だとは言っていません。冗談にも、なっていません」

「冗談にもなっていませんか。……手厳しいな」

 俺はわざとらしく肩をすくめて、それから少しだけ視線を落として彼女の手に触れる。冷え切った指先を包み込むように握ると、彼女は抵抗することもなく、ただされるがままに俺の体温を受け入れていて、その無防備さがまた俺の劣情と庇護欲を同時に刺激してどうしようもなくなる。

「あるいは」

 彼女が震える声で繰り返す。

「一晩一緒に寝たら、諦めてくださいますか」

 一瞬にして、全身の血液が沸騰したような気がした。馬鹿にするな、と叫びたかった。みっともなく泣き出したかった。けれどそんなことをする元気も体力もなくて。

 出来たことと言えばただ一つ、

「それでキミが後悔しないなら」

 と泣き出しそうな声で唱えて、タクシーを止めることだけだった。




 行き先を告げたのはここからそう遠くない場所にある、以前任務で張り込みに使ったことのあるシティホテル。

 彼女は窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めたまま何も言わなかったけれど、その沈黙が肯定なのか、それとも抗う気力さえもないほどの諦めなのかは判然としなかったが、ホテルに着いてチェックインを済ませて部屋の鍵を受け取った時も彼女は俺の背中に幽霊みたいについてくるだけだったので、どうやら今日の彼女は俺の共犯者になってくれるらしい。

 部屋に入ると間接照明だけの薄暗い空間が広がっていて、空調の低い駆動音だけが響く静寂が俺たちの輪郭をあやふやにする。俺は彼女のコートを受け取ってハンガーにかけながら、さてどうしたものかと次の手を考えていた。一方振り返ると彼女はベッドの端に腰を下ろして、またあの困ったような、泣き出しそうな笑顔を俺に向けている。

「あなたこそ、後悔しませんか」

「聞かなくても分かるでしょ」

 俺は彼女の前に跪いて、彼女の履いているヒールを脱がせてやる。華奢な足首に触れると彼女はびくりと体を震わせたけれど足を引くことはなくて、俺はその白い足の甲に唇を寄せて、まるで信仰対象に祈りを捧げる信徒のようにうやうやしく口づけた。

「くすぐったいです」

「これからもっとくすぐったいことするけど、いい?」

 俺が見上げると彼女は少しだけ頬を染めて、やっぱり泣き出しそうな顔で笑った。

「優しくしてくれるなら、いいですよ」

「善処する」

 優しくなんてできる自信はなかったけれど、彼女がそう望むなら嘘でもそう答えるのが礼儀というものだろう。


 ベッドに押し倒すと彼女の髪がシーツに散らばって、その光景があまりにも扇情的で、俺は理性が焼き切れそうになるのを必死に繋ぎ止めながら彼女のトップスに手をかけた。彼女は抵抗しなかったけれど、俺が肌に触れるたびに小さく身を強張らせて、それが拒絶ではなく緊張であることを願って俺は彼女の耳朶を甘噛みしながら「力抜いて」と囁く。

 顕になった彼女の肌は俺が想像していたよりもずっと白くて柔らかくて、そしてどこか冷たくて、俺は自分の体温を彼女に移すように、あるいは俺という存在を彼女の細胞ひとつひとつに刻み込むように、首筋から鎖骨、そして胸元へと唇を這わせていく。

「……ん、っ……よしだ、くん……」

「ヒロフミって呼んで」

「……ヒロフミ、くん……」

 その呼び名だけで俺の脳内麻薬がドバドバと分泌されるのが分かって、俺は彼女の言葉に応えるように更に深く、強く彼女を抱きしめた。

「すき」

「ぅ、」

「すき、すき、だいすき」

 彼女の身体は俺が触れる場所すべてが敏感になっているようで、少し強めに吸い上げると甘い声が漏れるし、腰のあたりを撫でると背中を逸らして俺にしがみついてくるので、普段のすました顔からは想像もできないその姿に俺は優越感と独占欲でどうにかなりそうで。

 ああ、今この時間が一生続いていたらいいのに、そうなんども本気で祈ってしまう。


 けれどふとした瞬間に彼女の瞳が揺れて、その視線の先に俺ではない誰かを見ているような気がしてしまうのも、また事実で。そのたびに俺は焦燥感に駆られて彼女の顎を掴んで強引にこちらを向かせる。

「俺を見て」

「見て、ますよ」

「嘘だ。……今、誰のこと考えてた?」

 彼女は何も言わずに目を伏せて、その沈黙が答え合わせみたいで俺は腹の底が煮えくり返るような嫉妬を覚える。

 それを怒りとしてぶつけるのはあまりにも子供じみているし何よりそんなことをすればこの甘美な時間は終わってしまうので、俺はその感情をすべて情欲に変換して彼女の中に叩きつけることにした。

「……いいよ、誰のこと考えてても。少なくとも今、キミの中にいるのは俺だから」

 俺は彼女の太ももを割り開いて、濡れた秘所に指を這わせる。彼女は「あ、っ」と短く声を上げてシーツを握りしめて、俺はその反応に満足しながらゆっくりと、焦らすように、そして確実に彼女の理性を溶かしていく。

 たまらなくむなしくて、でも愛おしい時間だった。

 彼女の中は熱くて、締め付けるような感覚が俺の思考を白く塗りつぶしていくけれど、それでも俺は彼女の顔から目を逸らせなくて、彼女もまた涙で潤んだ瞳で俺を見つめ返してきて、その時だけは、彼女の世界の全てが俺であればいいと、神にも悪魔にも縋るような気持ちで願った。


 行為そのものは、彼女が望んだ通りに優しいものではなかった、と思う。それでも彼女は俺の背中に爪を立てて、何度も俺の名前を呼んでくれて、それがたとえ罪悪感や情けからくるものであったとしても、その瞬間、彼女の声帯を震わせて紡がれた言葉が俺の名であったという事実だけで、今後数十年は生きていける気がした。

 事後、泥のように重たくなった体を彼女の横に投げ出して、荒い呼吸を整えながら天井を見上げると、隣から規則正しい寝息が聞こえてきて、見れば彼女は事後の倦怠感に身を任せて既に微睡の中に落ちていて、その無防備な寝顔があまりにも幼くて、俺は込み上げてくる愛おしさに胸が締め付けられる思いになる。

「……好き」

 俺はそっと彼女の髪を撫でて、汗で張り付いた前髪を払ってやる。彼女は夢現に「ん……」と小さく声を漏らして俺の胸に顔を擦り寄せてきて、その体温の温かさに、俺もまた引きずり込まれるように深い眠りへと落ちていく。






 翌朝。シャワーの音で目が覚めた。隣を見ればもぬけの殻で、俺はのろのろと起き上がって水を煽る。昨夜の余韻に浸る間もなく、身支度を整えた彼女がバスルームから出てきた。

「おはようございます」

「おはよう」

 あんなに乱れたのが嘘みたいに、いつもの顔だ。彼女は鞄を持って、ベッドの端に腰掛けた俺をじっと見下ろしてくる。

「あのね、吉田くん。私、ひとつ謝らなければいけません」

「なあに」

「昨日の夜、私はあなたにとても酷いことを言いました」

「……どれのことだろう」

 心当たりがありすぎて絞れない。俺がとぼけると、彼女は真っ直ぐに俺を見て言った。

「『どうしたら、私のことを好きでいるのをやめてくれますか』って、言いましたよね」

「ああ」

 言った。俺は「死ぬか魔人になったら」と答えた。それがどうかしたのか。

「あれ、撤回します。私にはそんなこと言う資格、ありませんでした」

「なんで」

「だって」

 彼女は少しだけ自嘲気味に笑って、

「私だって、どうあがいても、岸辺先生のことを好きでいるのをやめられない人間なのに」


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