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 最初に違和感に気が付いたのはパワーちゃんである。休日の平和な朝、当然のようにデンジくん用の教材を引っ提げて朝食を食べに来た私を指さして、彼女は開口一番心底嫌そうな顔で叫んだ。


「おい女! お前、やたらにけだもの臭いぞ。犬のようないやァ~~な匂いがずっとしておる。臭いから出ていけ!」


 トーストにバターを塗りたくっていた手が止まる。口を開くよりも先に、自分の袖口をクンクンと嗅いでみるが、漂うのは昨日特売で買った柔軟剤のフローラルな香りと、あとはまあ、二日酔いの残滓としてのアルコール臭くらいのものだ。


「ええ嘘、私じゃなくてデンジくんじゃないのぉ?」

「なァんですぐに俺になすりつけよーとすんだよ!」

「デンジではない、貴様じゃ。ワシが間違えるものか! 山奥の雨に濡れた犬のような匂いがプンプンしおるわ」


 パワーちゃんは心底嫌そうに鼻をつまみ、食卓の端へと逃げていく。犬、と聞いて、ふと数日前の記憶が蘇る。そういえば、と私はバターナイフを置いた。心当たりがないわけではなかったからだ。


「あー、もしかしてそれ、例の悪魔の残り香かも」

「あ?」

「いやね、数日前に変な悪魔に会ったんだよ。ほら、私と隊長で長野の方まで出張した日あったじゃん?」


 アキくんがコーヒーを啜りながら「ああ、お土産に蕎麦を買ってきた」と相槌を打つ。そうそう、と私は続けた。


「やたら強い悪魔が出たっていうんで、わざわざ岸辺隊長まで駆り出されてさ。現場に行ったら、それはもうデッカイのがいたわけですよ、イノシシの……それこそ、もののけ姫に出てくるあいつみたいな、巨大なのが」

「もののけ姫?」

「今丁度上映してるやつ、今度一緒に見に行こうね。……でさ、私がその大きさにビビってぼけーっとしてたら、隊長が一瞬で殺しちゃって」


 あの人の強さは相変わらず人間離れしている。ナイフ一本、瞬きする間の早業だった。けれど、奇妙だったのはその後だ。


「で。普通、死体って残るじゃん。でもそいつ、遺体も残さずにしゅわわわ~って、炭酸みたいに煙になって消えちゃってさ」

「へえ、珍しいな」

「でしょ? で、消える間際になんかごちゃごちゃ言われたんだよね。『お前のことを気に入った。嫁に来なさい』……とか、なんとか」


 その瞬間、食卓にぴたりと沈黙が落ちた。アキくんがコーヒーカップを持ったまま固まり、デンジくんが口を開けたまま私を見ている。パワーちゃんだけが「嫁! ウヌが嫁とな!」とケタケタ笑っていた。

 数秒の静寂の後、アキくんが恐ろしく低い声で唸る。


「どう考えてもまずいやつだろ、それ」


 アキくんの顔色が青ざめていくのが分かる。私はといえば、残りのトーストを齧りながらひらひらと手を振った。


「んーでも大丈夫でしょ。どうせ悪魔の戯言だし。それに、この件は隊長だってその場で聞いてて把握してるんだから」

「あの人が適当なのはいつものことだろ。もしそれが呪いの類だったらどうするつもりだ」

「やだなあ、呪いなら解けばいいし、殺しに来るなら返り討ちにするだけだよ。私だって腐っても4課の副隊長ですからねえ」


 心配性だなあ、アキくんは。そう軽口を叩いて笑ってみせたけれど、パワーちゃんが未だに鼻をつまんで私を胡乱な目で見ていることには、実は少しだけ背筋が冷えるような感覚を覚えていた。





 その日の晩のことである。

 ずる、ずる、と、何か重たいものを引きずるような音が、部屋のどこかでしきりにしていた。意識の覚醒よりも早く、体が反応する。長年のデビルハンター生活で染みついた条件反射というやつだ。私は寝たふりをしたまま、呼吸のリズムを整える。枕の下に忍ばせてある短刀の柄にそっと指をかけ、薄目を開けて周囲の様子を伺った。私の部屋は公安の寮の一室だ。セキュリティは万全とは言えないまでも、そこらのアパートよりはマシなはず。だというのに、その異様な気配は私のベッドを取り囲むようにして、すぐ間近に迫っていた。


 ずる、ずる、ずる。


 その音は、私のベッドの周囲をぐるぐると回っている。うっすらと目を開けた。月明かりすらない、遮光カーテンに閉ざされた闇の中。

 目が慣れるにつれて浮かび上がってきたシルエットに、背筋が粟立った。


 老人だ。それも一人や二人ではない。ざっと十人ほど。白装束とも死に装束ともつかない白い着物を着たしわくちゃの老人たちが、私のベッドをぐるりと取り囲んで、無表情に私を見下ろしていたのだ。


「……おおお」


 流石の私もこの光景には冷や汗が噴き出る。泥のような腐臭と、古いお香の匂いが混ざったような強烈な悪臭。老人たちの目は白濁しており、焦点が合っているようには見えない。なのに、全員が私の方を向いている。


「婚礼の用意が整いました」


 一人が、鈴を転がすような――その外見には全くそぐわない、妙に若い女の声でそう言った。


「主様がお待ちです」

「さあ、参りましょう」

「輿の用意が出来ております」


「はあ? なんて?」


 婚礼? 主様?

 状況が飲み込めない。けれど、本能が警鐘を鳴らしている。これは話が通じる相手ではないと。


「え、なに、きもい、マジやめて……あ」


 呟いた瞬間、足首に冷たい感触が走った。

 見れば、一番近くにいた老人が、枯れ木のような手で私の足首を掴んでいる。反射的に短刀を振り下ろす。狙うは老人の手首。躊躇いはない。一般人だろうがなんだろうが、夜中に寝室に侵入してくる輩には容赦しないのが私の流儀だ。

 鋭い刃が空を切り裂き、老人の腕を捉え――


 スカッ。


 手ごたえが、なかった。刃は老人の腕をすり抜け、そのまま布団に突き刺さる。まるで煙かホログラムでも斬ったかのような感触。

 けれど、足首を掴む力は強烈なままだ。


「あちゃあ、まいったな。そのタイプか」


 ずるっ。体が引きずられる。抵抗しようと足に力を入れるが、十人の老人たちが一斉に私の四肢に群がってきた。腕を、足を、パジャマの襟首を掴まれ、ベッドからずり落とされそうになる。


「離せ! 離せってば!」


 短刀を振り回すが、どれもこれも空を切るばかり。こちらの攻撃は当たらないのに、あちらの干渉は有効だなんて、そんな理不尽な話があるか。

 ずる、ずる、ずる。

 じりじりと、体が玄関の方へと引きずられていく。このまま連れていかれたら、二度と戻れない気がした。「嫁」なんてふざけた単語が、呪いのように脳裏をよぎる。


 ――どうする。どうする。

 攻撃が通じないなら、どうやってこいつらを止める?


 フローリングの床に爪を立てるが、滑って止まらない。連れていかれる。連れていかれる。その事実に恐怖を覚えそうになった時、ふと、自分の左手が目に入った。



「あー、もう! 最悪!!」


 逡巡は一瞬。私は右手に持った短刀を振り上げると、老人たちではなく――自分自身の、左手の甲へと狙いを定めた。ドスッ。肉を貫く鈍い音と、床板を穿つ硬い音が同時に響く。


「ぐ、ぅぅぅぅぅ――ッ!!!」


 熱い。痛いなんてものじゃない。神経が直接焼かれるような激痛が脳髄を駆け巡る。当然だ、自分の左手を短刀で床に縫い付けたのだから。


 ずる、と老人たちが私の体を引く。

 けれど、床に縫い付けられた左手が杭となり、私の体はその場に留まった。傷口が広がる激痛に、視界が明滅する。


 脂汗でぐしゃぐしゃになった顔で睨みつけると、老人たちはピタリと動きを止めた。

 無理やりにでも引きちぎって連れていく、という強硬手段には出ないらしい。あるいは、「花嫁」に傷をつけることを忌避しているのか。

 彼らは無表情のまま、ただじっと、串刺しになった私の左手を見つめている。


「うおおおおおおおおおおああああ…………」


 ズキズキと脈打つ左手の痛みだけが、今の私を現実に繋ぎとめる唯一の錨だった。悪魔との契約で、どうせ私の体はボロボロだ。左手のひとつくらい、どうってことない。どうってことない、はずだ。そう自分に言い聞かせながら、私は襲いくる睡魔と失神しそうな激痛、そして十人の老人に囲まれるという悪夢のような光景の中、白々と夜が明けるのをただひたすらに待ち続けることしかできない。






「てな訳なんですよ」


 包帯でぐるぐる巻きにされて痛々しい、というか自業自得でしかない左手を掲げて見せると、マキマさんは「ふうん」と興味深そうに目を細めた。場所は公安のデビルハンター本部、マキマさんの執務室。報告のため呼び出された私は、寝不足で隈だらけの顔で昨晩の顛末を語り終えたところ。


「困ったね。こちらの攻撃はすり抜けるのに向こうからの物理的干渉は有効だなんて、かなり高位の悪魔と言うことになるけど」

「でしょー? ほんと参っちゃいますよ。おかげでフローリングの張り替え費用まで請求されそうだし」

「むしろ僥倖ととらえるべきだろう」


 ソファで気だるげに煙草をふかしていた岸辺隊長が口を挟む。


「姿が見えなくて干渉も出来ない相手となれば、探す手間が省ける。付け狙われてるのがこいつならやりやすい。最悪、こいつを餌に誘き出せるしな」

「隊長酷い! パワハラで訴えますよ!」

「訴える前に死ぬなよ」


 相変わらず人の心がない。そんなこんなで、単身で寮に居るのは危険だろうという判断が下り(餌としての鮮度を保つためかもしれないけど)、私は一時的に早川家に泊まり込みで過ごすことになったのである。


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「今日はお泊り会だよ! イエーイ!」

「うおー! またゲームやろーぜ!」

「ワシはピザが食いたい! コーラもじゃあ!」


 昼間はそんな風に、まるで修学旅行の夜みたいにわちゃわちゃと遊んで過ごした。

 けれど夜の帳が下りると空気は一変する。早川家のリビング。電気を消して薄暗くなった部屋で、私たちは全員スーツ姿に着替え、じっと「敵」の訪れを待っていた。

 カチ、コチ、と時計の針の音だけが響く。


「来るかなぁ」


 沈黙に耐え切れずにぽつりと零した。

 左手の傷がズキズキと痛んで、嫌な予感ばかりが膨れ上がる。


「俺たちで対処出来ればいいが」

「隊長がいたら心強いのにねえ」

「いつまでもあの人たちに頼っても居られない。……俺はむしろ、チャンスだと捉えてる」

「チャンス?」

「成果を上げるためのな」


 アキくんが静かに刀の柄に手をかける。その横顔は、功名心というよりはもっと悲痛な、焦燥感のようなものに彩られていた。銃の悪魔に近づくため、少しでも実績が欲しいのだろう。でもそれって別に私の知ったことじゃないし。


「みんなひどい! 私のことを餌にして~! デンジくん、私食べられちゃったらどうする?」

「んー? そん時は俺が腹の中から助け出してやんよ」

「きゃ! 頼もしー」


 なんて、軽口を叩いて緊張を紛らわせようとしていた、その時だ。


 ――ぷえー。


 どこか抜けたような、それでいて背筋が凍るような、古びた笛の音が響いた。雅楽?和楽器?知らないけど、年越しの時期によく聞くタイプの音楽。

 一気に空気が張り詰める。アキくん、デンジくん、パワーちゃんが即座に戦闘態勢に入る。私はと言えば、昨晩の影響で両手がボロボロなせいで何をすることも出来ない。


 どこだ。どこから来る。

 部屋の隅? 天井? それとも――

 ぞわり。足元に冷気が走った。気が付くと、私の足首に、白くて細い手首が一本、蛇のように巻き付いていたから。


「おあああああ!!」


 絶叫と共に、体が強い力で引かれる。視界が反転し、転びそうになったその瞬間。シッ、鋭い風切り音と共に、アキくんが抜き放った刀、私の足首を掴んでいた白い腕を真横から切り裂いた。

 ギャッ、と何かが潰れたような音がして、白い腕が霧散する。


「やべーなマジで。大丈夫かよ副隊長!」

「う、うえええ……」


 バランスを崩して倒れ込んだ私を、デンジくんがガシッと抱き留めてくれた。腰が抜けて力が入らない。私は恥も外聞もなくデンジくんの胸元に縋りついて、子供みたいにすりすりと顔を押し付けて震えた。


「きもすぎる……ねえデンジくん、食べないでって言っといて……」

「お、おう。……よしよし?」


 デンジくんが困ったように、私の頭をぎこちなく撫でる。

 その時だった。


「なるほど」


 昨晩聞いたあの声。

 老婆のような、あるいは若い女のような、不気味な声が部屋の四隅から反響した。きもい。


「かような事情であれば、また改めまする」


 ふっ、と。

 部屋に充満していた腐臭と湿度が、潮が引くように消えていく。気配が遠ざかっていくのが分かった。なんなんだそれ、意味が解らん。


「帰った、のか」


 アキくんが警戒を解かずに呟く。とりあえず助かった……らしい。安堵のため息を吐こうとして、ふと、部屋の隅でただ一人、微動だにしないパワーちゃんの姿に気が付いた。


「パワーちゃん?」


 彼女は青ざめた顔で、ガチガチと歯を鳴らして震えていた。いつもなら真っ先に飛び出して暴れるはずの彼女が、ただの一歩も動けずにいる。


「……匂いで分かった。まずいことになったの」

「え、何? そんなやばいやつなのあれ」

「あれは……あれは、『山の悪魔』じゃ。昔、一度だけ顔を合わせたことがある」

「はあ、山……あ。そういえば、パワーちゃん山から這い出てきたんだっけ」


 そうは言われてもそこまで山が恐ろしいという気もしないが、パワーちゃんがそれだけ恐れるのなら、それだけ恐ろしいということなのだろう、多分。


 彼女曰く、山の悪魔の性質は以下の通り。

 男の悪魔で、女が好き。

 かなりの高齢で、もう何百年現世で生きているかも分からない。

 大量の眷属が居て、そいつらがどーたらこうたら。


 そして最後に、大事なこと。


「ヤツは昔から、地獄に帰る時の伴侶を探しておる。それが今回、満を持して見つかったという訳じゃな」

「はあ。なんか日本昔ばなしの怖い回みたいな話だね」

「笑い事ではないわ!」


 パワーちゃんはガチガチと歯を鳴らしている。どうやら本能レベルで「格上」だと理解してしまっているらしい。

 しかし私は首を傾げざるを得ない。


「でも、なんで私なんだろうね。その手の神様的なのって、普通処女とか高潔な乙女を狙うもんなんじゃないの? 数百年粘った末に決めたのが、擦り切れてる中古のデビルハンターって、性癖どないよ」

「悪魔だし悪食なんじゃねーの」

「おげげ」


 デンジくんの遠慮のない一言に思わず変な声が出た。まあ、否定はしないけどさ。

 私は大きく伸びをして、スーツのジャケットを脱ぎ捨てる。もう身を守る必要もないだろう。


「でもまあ、今夜は乗り切れたんだしさ。また来るって言ってたし、今日はとりあえず寝て、また明日に備えようよ。ねっ」

「……はあ。しばらく見回りが出来なくなるな」

「その分可愛い後輩たちが頑張ってくれてるし、一日二日くらいなんとかなるなる」

「ワシは寝るぞ! 真ん中で寝る!」

「あ、ずるい! 俺が真ん中!」


 アキくんが渋々といった様子で刀を置くのを横目に、私たちはリビングに布団を敷き詰めた。徹夜明けの体に、畳の匂いが心地いい。

 四人分の布団を隙間なく並べて、川の字……というか、川の字に一本足したような状態で、泥のように眠りに落ちた。


---


 そしてやっぱり、夢を見た。


 ねっとりとした、湿度の高い夢だ。路地裏の暗闇の中で、無数の手が私の体を這いずり回っている。乾燥した老人の手、ごつごつした節くれだった手、ぬめりと湿った手。それが足首から太もも、腰、そして胸へと這い上がってくる。


「きもきもきもきもきもきも!」


 鳥肌が総立ちになり、私は必死でその手を払いのけて暴れた。

 何これ、金縛り? それともまたあいつらが来たの?半狂乱になりながら横を見ると、いつの間にか隣でデンジくんが寝ていた。けれど、何かがおかしい。


「はわ! デンジくん、何故! しかも子供だ!」


 そこに居たのは、いつもの高校生くらいのデンジくんではなかった。もっと幼い、栄養失調でガリガリに痩せた、目つきの悪い野良犬のような子供のデンジくん。ボロボロのシャツを着て、空ろな目で虚空を見つめている。


「そちらはあなたの伴侶です。……が、その精神性のなんて幼いこと。……そしてあなたも同様に」

「はぁ!? 伴侶!?」

「抱き合って睦合っておられた」

「あれはっ、違う違う違うって! ……はっ! あなたも!?」


 頭上から降ってきた声に、はっと自分の手を見る。

 小さい。節くれだってタコだらけの、大人の手じゃない。爪が割れて、ささくれ立って、あかぎれだらけの……

 15歳くらいの、あの頃の私の手だ。


「ってことはここは精神世界? 私、精神年齢こども!? まだ成長しきってないってこと!?」


 大混乱する私を置いて、闇の奥からしわがれた声が響く。


「美しい、ああ美しい、美しい」


 松島かよ。


「子供同士の性愛の、なんて美しいこと」

「っ、ペド死ね!!!」

「主様は、お二人を纏めて妻に迎えたいと」

「ああああああ!?」


 なんて一方的なやり取り、会話が成立していない。

 私の叫び声に反応したのか、隣で子供の姿のデンジくんが目を覚ました。


「あ……んだこれ、どこ……っておあ、山の神いんじゃん!」

「お二人を、まとめて、抱きたいと思し召しです」

「は?」

「あああデンジくん、山の悪魔がね、私たちまとめて妻にしたいって」

「はァ? 俺男なんだけど」


 デンジくんが心底嫌そうな顔で言うが、声の主は気にした様子もなく、ねっとりと粘着質な欲望を孕んだ声で告げた。


「子供に女も男もございませぬ。こどもはこども。我々がいただき、犯すもの」

「うわあああああああああきもしねしねしね!」


 生理的嫌悪感が限界を突破した。

 私は夢の中の足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げると、躊躇なく振りかぶった。狙うは悪魔――ではない。夢を覚ますには、強い衝撃が必要だ。


「起きろ私ッ!!」


 ガゴッ!

 私は全力で、自分の頭をぶん殴った。





「はっ!」


 ガバッ、と勢いよく上半身を起こすと、ズキズキと頭蓋骨の奥が痛んだ。夢の中で鉄パイプでぶん殴った箇所が、現実の肉体にまで幻痛として残っているらしい。荒い呼吸を整える間もなく、私は隣でいびきをかいているデンジくんの肩を揺さぶった。


「デンジくん! デンジくんッ! 起きて!」

「んあ……? んだよ、まだ朝じゃねえだろ……」

「いいから! ねえ、変な夢見なかった!?」

「あー……?」


 デンジくんは目をこすりながら、けだるそうにあくびをしている。


「なんか……めとる? とか言ってたやつ? まとめて抱くとか、キッショいこと言ってた……」

「やっぱり! 共有夢だ! 最悪!!」


 私は頭を抱えてその場にうずくまった。夢の中にまで干渉してくるなんて、ストーカー被害もここまできたら立派な災害だ。しかもターゲットは私だけじゃなく、未成年のデンジくんにまで及んでいる。これはもう、教育者(自称)としても、一人の女性としても、絶対に見過ごせない案件である!!


 私は隈だらけの顔のまま公安本部へと駆け込み、マキマさんのデスクに両手をついて訴えた。


「きも過ぎてかなり無理ですむりむりむり! マキマさん今すぐ滅してください、じゃなきゃ私が滅されちゃいます! 精神的に!」

「落ち着いて。副隊長が取り乱すと、下の者まで不安になるよ」


 マキマさんは書類から目を離さず、いつもの穏やかな口調でそう言った。

 私は必死で食い下がる。


「だって! 夢の中にまで出てくるんですよ!? しかも『子供は美味しくいただく』とか言ってました! 完全なるロリペド野郎ですよ! しね! しね! しね!」

「ふうん。夢にまで干渉できるとなると、思ったより根が深いね」


 マキマさんはペンを置き、少し考え込むような仕草を見せた。ああ、神よ仏よマキマ様。どうかこの哀れな子羊(とデンジくん)をお救いください。もう二度とあんな気色悪いジジイの声を聞かなくて済むように、物理的かつ社会的にもっていうか全部の意味で抹殺してください。


 祈るような気持ちで見つめる私に、マキマさんはニコリと微笑んで言った。


「うーん。じゃあ、行こうか」

「あう、どこに……?」

「山の悪魔のいるところ」

「ほえ! また長野行くんですか!」


 予想外の提案に、間の抜けた声が出る。長野。あの悪夢の始まりの地。トラウマの発生源。わざわざ敵の本拠地に乗り込むなんて、飛んで火に入る夏の虫、いや、飛んで布団に入る生贄の花嫁ではないか。


「う、うん……まあ、行けと言われれば行きますけど……。正直、嫌というか……気が重いです。ロリペドの巣窟に自ら出向くなんて」

「今度はデンジ君と二人だから、きっと怖くないよ」

「ほ!?」


 マキマさんは、まるでピクニックにでも誘うかのような軽やかさで告げた。


「狙われてる対象が分散するからね。二人でいれば、悪魔の意識も半分ずつになる。そうすれば、精神干渉のリスクも減るはずだよ」

「おおおお!!??!?」


 なるほど、一理ある! ……のか!?いや待て、冷静になれ。それはつまり、私とデンジくんの二人で「美味しそうな餌セット」として盛り合わせにされるということではなかろうか。

 けれど、マキマさんのあの静かな瞳に見つめられると、「嫌です」なんて言葉は喉の奥に引っ込んで出てこない。


「……わ、分かりました。行ってきます……デンジくんと、長野へ……」






 そんなこんなで数時間後。

 私たちは車に揺られ、文明の光が届かない長野の山奥へと連行されていた。

 舗装されていないガタガタ道を抜け、鬱蒼とした杉林を抜け、もはや道と呼べるのかも怪しい獣道を進んだ先に、その「小屋」はあった。ボロボロの木造平屋。屋根には苔がむし、壁板は朽ちかけて隙間風が入り放題。軒先には誰が吊るしたのかも分からない、色あせた注連縄(しめなわ)のようなものがダラリと垂れ下がっている。


「うわあ~~」


 車を降りた瞬間、肌にまとわりつくような湿気と、あの夢の中で嗅いだのと同じ腐臭が鼻をついた。運転手役の黒服さんは「では、健闘を祈ります」とだけ言い残し逃げるように車を出して去っていった。取り残されたのは、私とデンジくんと、最低限の食料が入ったリュックサックのみ。


「なんか……こういうの、怖い話で読んだことあるし! 『ほん怖』とかでよくあるやつじゃん! 絶対入っちゃいけない立ち入り禁止の祠とか、そういうやつじゃん!」

「あ? なんだよそれ」


 私は小屋の前でガタガタと震えていたが、デンジくんは相変わらずマイペースだ。鼻をほじりながら、腐りかけた小屋を見上げている。


「怖いし! きもいし! ここに入るの!? 本当に!? ねえデンジくん、私たちここで神隠しに遭うんじゃない!?」

「おー……でもま、山の悪魔ぶっ殺したらすぐ帰れるんだろ?」


 デンジくんは私の背中をバンと叩くと、スタスタと小屋の中へ入っていってしまった。


「そんならさっさと殺して帰ろうぜ。俺、明日の朝メシは絶対鮭ご飯食いて―」

「おあああ……あんた、本当に肝が据わってるねえ……」


 嘆いていても仕方がない。私はおそるおそる、デンジくんの後を追って小屋へと足を踏み入れた。


 ギィィ……と、蝶番が錆びついた扉が悲鳴を上げる。中は薄暗く、カビ臭い。床板は踏むたびにミシミシと鳴り、いつ踏み抜いてもおかしくなさそうだ。部屋の中央には囲炉裏の跡があり、その周りにはなぜか、真新しい布団が二組、綺麗に並べて敷かれていた。


「……これ、マキマさんが用意した奴だよね? 気を使ってくれただけだよね? 山の悪魔が手回ししてきやがった的なそう言うのじゃないよね?」


 その光景にまたぞわぞわと鳥肌が立つ。あからさますぎる。ここでおとなしく寝て待て、ということか。デンジくんは「お、ふかふかじゃん!」と無邪気に布団へダイブしたが、私はとてもじゃないがそんな気分にはなれない。だって気圧と湿気で手もじくじく痛いし。



 窓の外は、すでに日が傾き始めていた。

 山の日暮れは早い。あっという間に世界は闇に包まれ、夜がやってくる。


「……デンジくん」

「あん?」

「今夜は、何があっても私のそばを離れないでね。トイレ行くときも一緒だよ」

「えー、ションベンくらい一人でさせろよ。変態かよ副隊長」

「変態で結構! 背に腹は代えられないの!」


 私はリュックからお守り代わりの短刀を取り出し、胸に抱きしめるようにして、布団の端にちょこんと座り込んだ。しんと静まり返った山奥。虫の声すら聞こえない静寂が、これから起こるであろう怪異の前触れのように思えてならない。



 あつい。

 当然だけれど、こんな廃屋同然の山小屋にクーラーなんて文明の利器があるわけもないから当然なんだけど、それにしたって、暑い。

 単に気温が高いという話ではない。湿度だ。空気がべっとりと肌に張り付くような、不快指数をカンストさせたような、むしむし、というか、むわむわ、というか。

 吐く息すら熱を帯びて、肺の中までカビが生えそうな感覚に、私はげっそりとその場にへたり込んだ。


「うう……なんか、蒸さない……?」

「んあ? そーかァ? わかんねー」

「あついよー、ここ……。デンジくん、なんで平気なの……」

「暑いっちゃ暑いけど、これくらいフツーじゃね?」


 デンジくんは心底不思議そうに首を傾げている。そのタフネスさが羨ましい。あるいは、私が神経質すぎるだけなのか。私は襟元をパタパタと仰ぎながら、壁のシミを睨みつけた。


「にしても、めずらしーじゃん」

「何が」

「そんなにビビってんの。副隊長、悪魔なんて見慣れてんだろ」

「ビビってるっていうか……無理なの、小児性愛者」


 言葉にするだけでおぞ気が走る。私は自身の二の腕をさすりながら、心底からの嫌悪を吐き捨てた。


「生理的に無理。存在が無理。殺されるとか食われるとかならまだ『仕事だしな』で割り切れるけど、そういう……子供を性的な目で見るやつ、ほんっとうに無理」

「ほーん……」


 デンジくんは興味なさそうに鼻をほじり、それから私の左手――包帯でぐるぐる巻きになった手を見た。


「自分の手は平気で床に縫い付けられんのに?」

「それとこれとは話が別! ジャンルが違うの! ……たとえばさ、デンジくん、痛いの大丈夫だからってゴキブリ食べれる!?」

「あ? ゴキブリ?」

「そう。平気でしょ、痛くないし」

「まあ……金もらえんなら」


 即答だった。

 私は仰け反り、そしてすぐさまその場に崩れ落ちた。


「おあああ間違えた! 例えを間違えた! そうだった君はそういう子だった! ああ……おいたわしやデンジくん……」


 目頭が熱くなる。なんて不憫な子なんだろう。大人が守ってあげなきゃいけない、社会の犠牲者だ。私はよよよ、と涙ぐみながらデンジくんにすり寄り、そのボサボサの金髪に手を伸ばした。


「よしよし、可哀想にねえ……帰ったら美味しいものいっぱい食べようねえ……」


 わしゃわしゃ。

 子供をあやすように、無造作に頭を撫でる。デンジくんは「やめろよガキ扱いすんな」と鬱陶しそうにしているが、本気で振り払おうとはしない。

 柔らかい髪の感触。掌に伝わる体温。

 なで、なで。なで……。


 ――ん?


 違和感があった。

 デンジくんの頭って、こんなに大きかったっけ?

 いや、違う。サイズ感がおかしい。私の手が、頭のてっぺんを覆いきれていない。

 ふと視線を落とす。デンジくんの頭に乗っている、私の手。


「…………はっ!!!」


 息を飲んだ。

 小さい。

 指が短い。皮膚に張りがある。節くれだってタコだらけだったはずの指先が、つるりと滑らかで、あどけない。

 これは、どう見ても――


「手が小さい!!! 子供の手だコレ!!!」

「あ? うおっ、マジだ! 俺の手も縮んでる!」


 デンジくんも慌てて自分の手を見比べる。私たち二人とも、いつの間にかサイズダウンしていた。着ている服がダボダボになっていることに、今の今まで気づかなかったなんて。というか私、この前より小さい!この前の私は15歳くらいだったのに、今度は8歳くらいになってる!!


「全然気づかなかった……! 思ったよりヤバイ、この手の精神操作は本当にまずいやつ!!」

「んあ、そんなやべーのかこれ」

「やばいよやばいよ! 認識阻害まで入ってる! これ、現実世界の私たちの身体どうなってるか……ぶ、無事だと良いけど……!」


 夢の中で子供になっていた、というレベルの話ではない。現実の認識すら書き換えられているのか、それとも肉体ごと変質させられているのか。どちらにせよ、事態は深刻だ。私は震える手で、近くにあった柱に頭突きをした。


 ガンッ!!


「いっ……いたあああい……」


 火花が散るような痛みが走る。涙目で額を押さえるが、視界は変わらない。子供のまま、山小屋の中だ。


「覚めない……! 痛いのに覚めない!」

「そりゃ頭ぶつけりゃ痛ぇだろ」

「違うの! 夢なら痛みで覚めるはずなの! なのに普通に痛いってことは……完全に精神世界に閉じ込められちゃってるのかもしれない! だとしたらまずい、まず過ぎる……!」


 冷や汗がだらだらと背中を伝う。

 このままここにいたら取り込まれる。あのおぞましいジジイ共の「花嫁」として、文字通り骨の髄までしゃぶり尽くされてしまう。ガタガタと震え、パニックに陥りかけた私を見て、デンジくんはあくびを噛み殺しながら言った。


「でもよー」

「ひえっ、な、なに!?」

「まだどーにもなってねーし、あのジジイ達も来てねーし。そんな焦ることねーんじゃねーの」

「……え?」

「とりあえず腹減ったし、山降りようぜ。ここにいてもどーしよーもねーだろ」


 そのあまりの能天気さに、私は一瞬言葉を失い――そして、ガクリと肩を落とした。

 肝が据わっているというか、なんというか。でも、確かに彼の言う通りだ。ここで震えて待っているよりは、動いたほうがいいというのは真理……となると、この思考回路自体は能天気と言うより、どこまでも冷静と称すべきな気もしてくる。


「……ううう~……そうだね、そうだよね……」

「ほら、行くぞ、ちびの副隊長。おんぶしてやろーか?」

「バカ言わないで、子供のデンジくんに背負えるわけないでしょ。……よし、行こう、徒歩で!」


 意を決して、私たちは山小屋を飛び出した。

 目指すは麓。文明のある場所へ。



 しかし、それは想像以上に過酷な道のりだった。

 何せ、今の私たちは子供だ。体感で言えば小学校低学年くらいだろうか。歩幅が狭い。筋力がない。すぐに息が切れる。


「はぁ、はぁ、っ、足……もつれる……!」

「おわっと!」


 木の根に躓いて、派手に転ぶ。膝を擦りむいた痛みに、生理的な涙がじわりと滲んだ。大人の精神を持っているはずなのに、体の幼さに引っ張られて、すぐに泣きそうになってしまう。


「大丈夫かよ、ほら手ぇ貸せ」

「うう、ありがとう……デンジくん、優しい……」


 小さな手同士を繋いで、よろよろと山道を下る。

 その光景は、側から見ればさぞかし微笑ましい「初めてのお使い」に見えるかもしれない。ただし、背景がドロドロとした怨念渦巻く心霊スポットでなければの話だが。


 どれくらい歩いただろうか。

 日が傾き、ひぐらしの声がカナカナと響き始めた頃、ようやく人工物が見えてきた。


「あ! お店だ!」


 山道にぽつんと佇む、古びた商店。

 看板には色あせた文字で『内田ストア』と書かれている。昭和の時代から時が止まったような、田舎によくある万屋だ。


「すいませーん……! 誰かいますかー……?」


 恐る恐る引き戸を開ける。

 カランカラン、と寂れたベルの音が響いたが、返事はない。


「……いない」


 店の中は薄暗い。商品は陳列されている。スナック菓子、カップ麺、洗剤、週刊誌。レジの奥には吸い殻が山盛りになった灰皿があり、ついさっきまで人がいたような生活感がある。

 けれど、誰もいない。

 まるで、店員もお客も、全員が神隠しにでも遭ったみたい。


「電話……電話借りよう」


 私はレジ横にあるピンク色の公衆電話に駆け寄り、受話器を取った。

 ――ツー、ツー。

 無機質な発信音すらない。完全に回線が死んでいる。


「ダメだ……繋がらない……」

「腹減ったー」


 デンジくんはそんな状況などお構いなしに、商品棚からおにぎりとカップ味噌汁を持ってきていた。


「これ食っていい?」

「泥棒はダメだよう」

「誰もいねーじゃん。ここが現実かもわかんねぇし」

「それでもダメ! ……一応、お金置いておこう」


 私はダボダボになったズボンのポケットを探り、財布を取り出した。子供の手には大きすぎる小銭入れから千円札を抜き出し、無人のレジカウンターに置く。重し代わりに、灰皿を乗せて。


「ポットのお湯は……あ、まだ熱い」


 電気ポットのランプは点灯していた。

 私たちは店の隅にある長椅子に並んで座り、おにぎりを齧り、フーフーと息を吹きかけながらインスタントの味噌汁を啜った。

 誰もいない店内で、ずるずると汁を啜る音だけが響く。


「……うまい」

「……うん。五臓六腑に染みるね」


 温かい出汁の味が、冷え切った体と心を少しだけ解凍してくれる。

 食後には、アイスの冷凍ケースから棒アイスを二本拝借した。ソーダ味と、チョコレート味。


「当たりが出たらもう一本食えるかな」

「こんな状況で当たり引いたら、運の無駄遣いだよ」


 シャリ、とアイスを齧る。

 甘くて、冷たくて。蝉の声と、得体の知れない静寂の中で、私たち二人の子供は、ただじっと夕暮れの山を見つめていた。そうして……最後のひとくち、ソーダ味の氷の塊をがりりと噛み砕いて飲み込んだ瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。


「……っ、う、うう……」

「ん? どした? 頭キーンとしたか?」

「ちが、ちがうぅ……」


 アイスの棒を握りしめたまま、私は堪えきれずに顔を歪めた。子供の身体というのは、どうしてこうも感情の制御が利かないのだろう。涙腺の蛇口がバカになっているとしか思えない。一度溢れ出した感情は、理性の堤防をあっけなく決壊させた。


「うええ゛え゛え゛~~!! もうあるげない~゛~゛!!! あしいたい~!! こわいよぉ~!!!」

「おわ! 泣くなよこんくらいのことで!」


 私が店中に響き渡るような大声で泣き出すと、デンジくんは食べ終わったチョコ味の棒をくわえたまま、ギョッとして飛びのいた。


「うっせえな! 悪魔が寄ってくんだろ!」

「だってぇ! だってぇ……! 靴擦れいたいし、お家かえりたいし……! マキマさんに会いたいよぉぉ……! ひめのしぇんぱああああああい!!! ひめのしぇんぱあああああああああああああい!!!!」

「うるせえ!! ガキかよテメーは!」

「ガキだよ今はぁ!!」


 鼻水を垂らして逆切れすると、デンジくんは「うぐ」と言葉を詰まらせ、乱暴に頭をかきむしった。


「あーもう! 分かった、分かったから泣き止めって! ……ほら、手ぇベタベタだろ。洗ってやるから」

「……ぐすっ、うぅ……」


 デンジくんは店の奥にあった手洗い場――これまた昭和の遺物のような、タイル張りの流し台――の蛇口をひねった。キュ、と音を立てて、水が出る。

 私の手首を掴んで、冷たい水にさらしてくれるその手つきは、口調とは裏腹に妙に慣れていて、そして優しかった。


「デンジくん、やさしい……」

「うるせー。ほっといて鼻水垂らされたら汚ねぇからだろ」


 ハンカチなんて気の利いたものはないから、デンジくんは私の手を自分の服の裾で雑に拭いた。



 外はもう完全に夜だった。

 ガラス戸の向こうには、墨汁を流したような深い闇が広がっている。街灯ひとつない山奥の闇は、都市部のそれとは密度が違う。まるで世界から切り離された孤島にいるような心細さだ。


「……今日はもう無理だな。ここで寝るぞ」

「うん……」


 異論はなかった。もう一歩も歩ける気がしない。私たちは「内田ストア」の探索を始めた。といっても、万引きをするわけではないと主張しておきたい。今夜を越すための巣作りなのだから。


 レジの奥、のれんのかかったスタッフルームらしき場所を覗くと、そこは四畳半ほどの狭い休憩室になっていた。ちゃぶ台に、座布団。壁にかかったカレンダーは、去年の日付のままで止まっている。


「誰も、いないね」

「おー、ここの押し入れに毛布あるぜ」


 デンジくんが押し入れをガサゴソと漁り、薄茶色の毛布を二枚引っ張り出してきた。

 広げると、ツンと鼻をつく匂いがした。


「くさっ」

「ナフタリンの匂いだね……おばあちゃん家のタンスの匂い……」


 防虫剤の匂い。懐かしくて、少しだけ寂しい匂いだ。私たちは休憩室ではなく、なんとなく店の方に戻って寝ることにした。奥の部屋は生活感がありすぎて、かえって「いなくなった誰か」の気配が濃くて怖かったから。


 商品棚と商品棚の間の狭い通路。そこに座布団を並べて、その上からナフタリン臭い毛布を被る。電気を消す勇気はなくて、チカチカと明滅しかけている蛍光灯の下、私たちは身を寄せ合った。


「……せまい」

「文句言うな。くっついてねーと寒いだろ」


 デンジくんの言う通りだった。夜の山は冷える。子供の小さな身体は蓄熱性が低くて、一人でいたら凍えてしまいそうだ。

 私はデンジくんの背中にぴたりとくっついて、団子虫のように丸まった。

 背中から伝わってくる体温。トクトクと脈打つ心臓の音。

 それが、この異界のような場所で唯一確かな「生」の証だった。


「……ねえ、デンジくん」

「あ?」

「もし私たちがこのまま戻れなくて、ずーっと子供のままだったらどうする?」

「……どうもしねーよ。腹減ったら何か食うし、眠くなったら寝るだけだろ」

「ふふ、デンジくんらしいや」

「あ、でもマキマさんに会えねぇのは困る! まだむ……」

「む?」

「なん、なんでもない」

「ほええ……」


 単純明快なその答えに、胸のつかえが少しだけ取れる。

 商品棚には、色とりどりのスナック菓子や缶詰が並んでいるのが見えた。子供の頃お菓子屋さんに住みたいと思った夢が、こんな歪な形で叶うなんて皮肉な話だ。


「でもさ」


 デンジくんが、ぽつりと呟いた。


「思った。副隊長がガキのままなら、俺が強くなった時、守ってやれるかもなって」

「え?」

「いつも偉そうに『守ってやる』とかなんとか言ってるけどよ。アンタ、ちっちゃくなったら弱っちくて、すぐ泣くし」

「うっ、反論できない」

「だからまあ、世話してやるよ。このまんまおんなじ歳の感じで成長したら、絶対俺のほうが強えし」


 背中越しに聞こえるその声は、ぶっきらぼうだけど、どこか誇らしげで。

 私は毛布の中で、ぎゅっと自分の膝を抱きしめた。


 ああ、なんだろう。この気持ち。山の悪魔に狙われて、体は縮んで、見知らぬ廃屋で震えているというのに。ここには上司としての責任も、デビルハンターとしての使命も、過去のしがらみもない。

 ただの無力な子供二人が、寄り添って夜を越そうとしているだけ。


 それがどうしようもなく――満たされているように感じてしまうのは、不健全だろうか。


「……ありがと、お兄ちゃん」

「おー……なんか、悪い気はしねぇな」

「えへへ」


 嫌がるデンジくんの背中に、私はぐりぐりと頭を押し付けた。

 ナフタリンの匂いと埃っぽい店の匂い。そして、デンジくんの少し汗ばんだ子供特有の匂い。それらに包まれていると、不思議と瞼が重くなってくる。



 翌朝、私たちは律儀に、借りた毛布を綺麗に畳んで元の押し入れに戻した。誰もいない店、誰も見ていない状況。それでも「片付けなきゃ」と思ってしまうのは、私の体に染みついた社会性の名残か、あるいは単に気が小さいからか。


「じゃあね、内田ストア。お世話になりました」

「パンもう一個もらっていい?」

「……一個だけだよ」


 朝食代わりのスティックパンを口にくわえ、私たちは再び歩き出した。

 昨日のようなパニックはもうない。あるのは、奇妙なほど静かな諦念と、どこか遠足のような浮足立った感覚だ。もそもそとパンを齧りながら、子供の足でひたすら坂道を下る。膝がガクガクになり始めた昼頃、ようやく視界が開けた。


 麓の街だ。

 アスファルトの道路、信号機、コンビニ、住宅街。見慣れた文明の景色がそこにはあった。

 けれど。


「だれもいないね」

「おー……マジで誰もいねえ」


 道路には車が走っていた――いや、「止まって」いた。

 信号待ちをしている軽トラックも、対向車線の乗用車も、まるでビデオを一時停止したみたいにピクリとも動かない。運転席を覗き込んでも、無人。

 コンビニの自動ドアは開きっぱなしで、店員も客もいない。風に揺れるのぼり旗の音だけが、パタパタと虚しく響いている。


「やっぱり、精神世界みたいだ」


 私は呆然と呟いた。


「物理的に人が消えたんじゃなくて、私たちが『誰もいない世界』に閉じ込められてるんだ。どうにか、はやく目を覚ます方法を見つけないと……」

「腹減った」

「……」


 デンジくんのブレなさには救われる。そうだね、悩んでてもお腹は空くもんね。

 ふと見上げると、ファミレスの看板が目に入った。オレンジと赤の、見慣れた看板。


「よし、あそこ入ろう」

「あ? いーのかよ、こんなことして。金持ってねーぞ」

「いいの。もう精神世界だってわかっちゃったから。ここは私たちの夢の中みたいなもんだし、だったらやりたい放題するの!」


 私はデンジくんの手を引いて、ファミレスのドアを押し開けた。

 「いらっしゃいませ」の声はない。広々とした店内は貸し切り状態だ。私たちは客席を素通りして、禁断の領域――キッチンへと足を踏み入れた。


「うわ、すげー! 肉だ! 肉あるぞ!」

「見て見てデンジくん! 業務用のコンロ! 火力すごそう!」


 子供の背丈では調理台が高いけれど、ビールケースを踏み台にしてよじ登る。

 冷蔵庫から食材を引っ張り出し、鉄板に火を入れた。ジュウウウ! と肉の焼けるいい音が響き、香ばしい匂いが立ち込める。


「みて! 若鳥のグリルケチャップがけ!」


 私がドヤ顔で披露したのは、焼いた鶏肉の上に、これでもかというほど大量のケチャップをぶちまけた代物だ。真っ赤なソースが鉄板の上でマグマのように煮えたぎっている。


「うげえ、まずそー! 血まみれじゃんかよ!」

「失敬な! ここからさらに、この卵を載せて……オムチキンにするの!」


 半熟に焼いた(というか形が崩れてグチャグチャになった)卵を、ケチャップの海の上にドサリと乗せる。黄色と赤のコントラスト。


「……お? なんかそれは美味そう!!」

「でしょでしょ! いただきまーす!」


 ナイフとフォークなんて上品なものは使わない。二人してスプーンでガツガツと頬張る。

 味は、濃い。めちゃくちゃ濃い。でも、美味しい。

 ドリンクバーのジュースも飲み放題。メロンソーダとカルピスを混ぜて「毒薬だー!」とはしゃいだり、ソフトクリームの機械の下に口を開けて直接食べようとして(寸前で理性が働いて止めたけど)笑い転げたり。


 やりたい放題だった。これまでの人生で抑圧されてきた「子供らしい悪戯」を、全部ここで取り戻すみたいに。


 けれど。

 楽しい時間は、日が沈むと同時にあっけなく終わりを告げた。


 窓の外が暗くなると、店内の明かりがやけに白々しく感じられる。

 広い客席に、客は私たち二人だけ。

 窓ガラスに映るのは、ちんちくりんの子供になった自分たちの姿。


 ふと、賢者タイムのような静寂が訪れた。


「なー」

「ん?」

「目ェ覚ます方法、検討着いたか?」


 ドリンクバーのコップをいじりながら、デンジくんが低い声で聞いた。

 私は首を横に振る。


「……わかんない」

「頭ぶつけてもダメだったんだろ?」

「うん。痛いだけだった……」


 沈黙が落ちる。

 昼間はあんなに楽しかったのに、夜の静けさが、現実の重みを容赦なく突きつけてくる。

 ここは現実じゃない。でも、帰れない。

 誰もいない世界で、二人きり。


「……じゃあ、一生このまま?」

「……」

「ずっと、このままなのかな……」


 言葉にした瞬間、恐怖が喉元までせり上がってきた。

 公安の仕事も、アキくんも、パワーちゃんも、マキマさんも。全部、もう二度と会えないの?

 私はこのまま、この小さな体で、誰もいない世界で朽ちていくの?


「やだ……やだよう……」

「おい」

「わかんないよお……かえりたいよぉ……」


 ポロポロと、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 一度泣き出すともう止まらない。子供の感情は奔流だ。ドリンクバーのテーブルに突っ伏して、私は声を上げて泣いた。


「おあ、だから泣くなって……! お前、泣くとますますチビに見えんだろ!」

「だってぇ……でんじくんだってぇ……」

「俺は泣いてねーよ!」


 デンジくんは乱暴に頭をかきむしり、それから不器用に私の背中をポンポンと叩いた。


「大丈夫だって。なんとかなるって。……俺がついてんだからよ」

「うぅ……うぅ……」

「ほら、もう寝ろ。寝て起きたら、なんか変わってるかもしれねーし」


 根拠のない慰め。その温かい手のひらの感触だけが今の私には救いだった。


「……てか、あれ、待てよ」

「おあ……?」

「副隊長、なんかマジにちょっとチビになってね?」


 けれども。

 うとうとしていた意識が、デンジくんのその一言で急速に浮上する。

 私はごしごしと目をこすり、自分の手元を見た。ファミレスの照明の下、自分の手のひらをまじまじと見つめる。

 さっきまでは、確かに子供の手だった。けれど今は――


「あ」


 指が、さらに短くなっている。

 袖口が手の甲にかかるくらいだったパーカーが、今は指先まですっぽりと覆ってしまっている。逆に、向かいに座っているデンジくんを見ると、さっきまでは丸っこかった頬のラインが、少しだけシュッとして、肩幅もほんの数センチ広くなったような……?


「……手を見ると、確かに手が先ほどより少し小さい……ような気がする」

「だろ? 俺は逆になんか、視線が高くなった気がすんだよな」


 私はハッとして、ガバりと顔を上げた。


「もしかして……ここが精神世界だから、精神状態によって体の年齢が変わるのかも!」


 辻褄が合う。

 さっきまで私は、恐怖と絶望に打ちひしがれて「帰りたいよぉ」と泣きじゃくっていた。つまり、精神的に退行していたのだ。だから体もそれに引っ張られて幼くなったのだ。

 対してデンジくんは、「俺がついてる」「守ってやる」と、私を庇護する立場を取っていた。つまり、精神的にお兄さんとしての振る舞いをしていたから、体が成長したのではないか?

 少しだけ、真っ暗闇だった道に光が差した気がした。

 大人になれば、状況が変わるかもしれない。少なくとも、この無力感からは脱出できるはずだ!


「そうと決まったら、精神年齢を上げないと!」

「どーやって」

「それは……えっと、どうしよ」


 精神年齢を上げる。口で言うのは簡単だが、具体的にどうすればいいのか。

 私は腕組みをして(腕が短すぎて様にならないが)、必死に大人の階段を登る方法を模索した。


「形から入ろう! 大人がやってて、子供がやらないことをするの!」

「おー、タバコとか?」

「タバコはない! ここにあるもので……そうだ、コーヒーだ!」


 私たちはドリンクバーへと走った。

 ボタンを押すと、ジョボボボと黒い液体がカップに注がれる。湯気と共に立ち上る、焙煎された豆の苦い香り。これぞ大人の象徴、ブラックコーヒー。


「これを涼しい顔して飲めれば、きっと精神も大人に近づくはず!」

「なるほどな! いただき!」


 デンジくんが躊躇なくカップに口をつける。私も負けじと続いた。

 そして――


「「ぶへえぇぇぇぇッ!!!」」


 二人同時に噴き出した。

 苦い! なんだこれ、泥水か!? いや泥水の方がまだマシかもしれない、焦げた土の味がする!

 舌が痺れるような苦みに、私は涙目で舌を出した。


「に、にがい……! 無理、これ毒だよぉ……」

「うえぇ……ペッペッ! こんなん喜んで飲んでる大人、どうかしてんじゃねーの!?」


 ダメだ。味覚が完全に子供になっているせいで、ブラックコーヒーへの耐性がゼロだ。むしろ「苦いものを無理して飲んだ」という敗北感が、余計に幼児性を強調してしまった気がする。と言うかそもそもデンジくんは元の体でだってコーヒー飲めなかったじゃんか。


「つ、次! 次は知的な会話だ! 難しい話をすれば脳が大人になるはず!」

「おー! 例えば?」

「ええと……税金! 確定申告の話とか!」

「かくてーしんこく?」

「そう! 所得税の控除がどうとか、なんとか制度がどうとか……ううんと、つまり、お金を取られるのが嫌だなっていう……」


 説明しようとして、言葉に詰まる。

 あれ? 私、普段どうやって書類書いてたっけ? そもそも税金ってなんだっけ?

 子供の脳みそにスペックダウンしているせいで、難しい単語が右から左へ抜けていく。思考がまとまらない。


「……なんか、眠くなってきた」

「俺も……。てか、つまんねーよその話」

「うう、だよね……」


 失敗だ。難しいことを考えようとすればするほど、脳が拒否反応を起こして「わかんない!」とパニックになり、結果として「もういいもん!」と放り出したくなってしまう。これでは逆効果だ。


 それから色々なことを試した。お酒を飲んでみようとした。拒絶感ですぐ吐いた。

 制服を着てアルバイトさんごっこをした。恥ずかしくてすぐ辞めた。

 ピーマンを山盛り食べた。だからなんだという話になった。


「ダメだ……全然うまくいかない……」


 私はテーブルに突っ伏す。

 万策尽きた。コーヒーも飲めない、難しい話もできない。私はやっぱり、ただの無力な子供のまま、ここで一生を終えるんだ。

 ズブズブとネガティブな沼に沈んでいく私を見て、デンジくんも困ったように頬杖をついた。


「んー……むずかしいな、大人になるって」

「そうだね……難しいね……」


 体が、また少し縮んだ気がした。

 足が床に届かなくてぶらぶらしている。視界が低い。デンジくんが遠い。ああ、怖い。寂しい。誰か助けて。ママ、パパ……マキマさん……。


 その時。


「あ。オレ、いーこと思いついちゃったかも」


 デンジくんが、ポンと手を打った。その顔には、悪戯を思いついた子供のような、それでいてどこか獲物を狙う雄のような、奇妙な光が宿っている。


「え! なになに! 何かいい方法あった!?」


 私は藁にもすがる思いで食いついた。どんな方法でもいい、この縮小化を止められるなら!デンジくんはニヤリと笑うと、テーブル越しに身を乗り出した。


「大人はやってて、ガキはやんねーこと。一個だけ決定的なのがあるじゃん」

「えっ、なに? 運転とか?」

「ちげーよ」


 デンジくんの顔が近づいてくる。私は瞬きをした。近い。まつ毛の一本一本が見えるくらいに近い。心臓がトクン、と跳ねた。


「キスだけは、まだしてねーだろ」

「ほ、へ?」


 思考が停止した。

 目の前には、デンジくんの綺麗な瞳。

 鼻先が触れ合う距離。唇に感じる体温。そして、微かに香るチョコレートアイスの甘い匂い。


 キス。

 キス。きす、きず、鱚?ちがう、キス。


 全身の血液が沸騰して、頭のてっぺんから蒸気が出そうになった。心臓が高鳴る。ドクン、ドクン、ドクン!子供の体には刺激が強すぎる。いや、大人の私だってこんな不意打ち食らったら心臓止まるわ!


「する?」

「……したら、何か変わるんじゃねーの」

「そーかな」

「そーだろ」

「……じゃあ、しよっか」

「ん」


 恐る恐る、お互いの額を近づけた。ちゅ、軽く唇が触れ合う。数秒か、あるいは数分か。永遠にも感じられた時間が過ぎて、デンジくんがゆっくりと顔を離した。


「……ん、ぷはっ」

 唇を離して、互いの顔を見合わせる。

 確かに視界は高くなった。パーカーの袖も少し短くなった。けれど――


「……まだだ。まだ完全に大人じゃない」


 私は自分の体を見下ろして唸った。感覚としては、小学校高学年から中学生になりたてくらいだろうか。まだ骨格が未発達というか、体のラインが直線的だ。


「ちぇっ。一気に戻ると思ったのになー」

「……足りないんだよ、きっと。『大人成分』が」

「大人成分?」

「もっとこう……なんていうか、もっと踏み込んだやつじゃないとダメなのかも……!」


 私は意を決して、デンジくんの肩を掴んだ。中学生くらいのデンジくんは、まだ少し華奢で、でも骨っぽさは男の子のそれで。


「で、デンジくん。……舌、入れてみようか」

「マジ? ディープなやつ?」

「そう! 大人の階段を駆け上がるの!」


 恥ずかしさで爆発しそうなのを必死で抑え込み、再び顔を近づける。今度は、もっと深く。

 触れ合った唇の隙間から、おそるおそる舌を侵入させる。ぬるりとした感触と、相手の唾液の味。


「ん……、ぅ……」


 デンジくんの手が、私の腰に回る。私も彼の背中に腕を回して、確かめるようにペタペタと体を触りっこした。

「……胸、ぺったんこ」

「うあ……まだまだ子供だからねえ……デンジくんも腕、細いね……」

「ん……」


 互いの未熟な体を確かめ合いながら、熱を交換する。

 チュ、クチュ、と水音が響くたびに、体が内側から熱くなっていくのが分かる。血液が循環して、細胞が活性化していくような感覚。

 ──でも、待てよ?

 ふと、冷水を浴びせられたように思考がクリアになった。子供の体。性的な接触。ここが精神世界であり、あの「山の悪魔」の領域であること。

 あのジジイ共はなんて言っていた?


 『子供同士の恋愛の、なんて美しいこと』

 『我々が美味しくいただき、犯すもの』


「――あ!!」


 私はバッと顔を離し、戦慄した。


「あいつら、そういえば子供同士がうんたらって言ってた!! こ、これ、あいつらの目的そのものかも!!」

「んあ?」

「だから、あいつら私たちが子供の姿でペタペタ触りっこしてるの見たくて、わざわざこんな状況に追い込んだんだよ! 私たち、まんまとあいつらの性癖のショーを見せつけてるだけじゃん! きもい! きもいい!!」


 最悪だ。これは罠だ。

 私たちが「大人になりたい」と足掻いてイチャつけばイチャつくほど、あのロリペド悪魔の欲望が満たされるシステムなんだ。なんて悪趣味な! マッチポンプにも程がある!


「やだやだ! こんなの見世物にするなんて! デンジくん、やめよう! 他の方法を……!」


 私がパニックになってわめき散らしていると、デンジくんはけだるそうに、でも真っ直ぐな瞳で私を見据えて言った。


「……いーだろ、別に」

「んあ、え?」

「いーじゃん。見られてても」


 私の腰を引き寄せて、逃がさないように強く抱きしめる。


「俺らが気持ちよくて、そんで元の姿に戻れるなら、ジジイ共が得しようが関係ねーよ。結果オーライだろ」

「よ、良くない、これはりっぱな性的搾取で、未成年の健全な育成に対する……あっ」


 御託を並べようとした口は、強引に塞がれた。今度は、さっきまでの確かめるようなキスじゃない。

 貪るような、有無を言わせない濃厚なキス。デンジくんの舌が強引に入り込んできて、口の中を蹂躙する。


「ん……ぁ、ふ……っ」


 抵抗しようとした手から力が抜ける。熱い。さっきよりずっと熱い。脳みそがとろとろに溶かされて、思考が白く塗りつぶされていく。キモいとか、見られてるとか、そんな理屈がどうでもよくなるくらい、目の前の快楽と熱量が圧倒的で。

 ちゅ、れる、と卑猥な音が響く。絡み合う舌先から、急速に「大人」の情報が流れ込んでくる。骨が伸びる音。筋肉がつく感覚。胸が膨らみ、腰がくびれ、少女の体が大人の女へと作り変えられていく。

 デンジくんの背中に回した腕の感触が変わる。細かった腕が太くなり、ゴツゴツとした筋肉の鎧をまとう。肩幅が広がり、私を包み込む力が強くなる。


「は、ぁ……んぅ……」


 息継ぎもさせてもらえないまま、蕩けるような口づけは続く。ファミレスの白い照明が、チカチカと明滅して。やがて、世界がぐにゃりと歪んで──


「あ……でもでもまって、冷静に、冷静に考えて……」

「ん、なに……」


 私はデンジくんの肩を押し返して、荒くなった息を整えようと必死に酸素を取り込む。ダメだ、流されちゃダメだ。いくらここが精神世界で、大人になるためとはいえ、越えてはいけない一線というものがある。日本の法律は精神世界でも適用されるべきだ、多分!


「わたし、まって、だって、デンジくんって、元の体でも、16歳じゃん……」

「おう?」

「じゃあ、だめじゃん……」

「何がだよ」

「えっちしちゃ、だめじゃん……というかデンジくん、私ともマキマさんともえっちしちゃ、め、じゃない? まだ子供なんだから……」


 真っ赤な顔でしどろもどろに説教をする私を、デンジくんは至近距離からじっと見つめている。

 じいいいい、っと。


「……でも、今のアンタ、16歳くらいに見えっけど」

「え? そんなこと……手とか、足とか、元の見た目くらいに見えるけど……」


 私は慌てて自分の体を見下ろした。確かにさっきより成長して、パーカーの胸元も緩いような気はするけれど、それでも──


「いーや、16歳に見える」

「ぅ、あ」

「今の副隊長は俺と同い年。だから問題ナシ!」

「っ、そんな、こと、ないってば」


 仮にそうだとして、も。詭弁にも程がある。

 今の私の肉体年齢が16歳だった、としてもだ。それはさっきのキスで精神年齢が程々にしか上がらなかったせい(あるいはデンジくんに合わせて下がった?)からであって、実年齢が若返ったわけじゃない。それにデンジくんは元から16歳なんだから、どう転んでもアウトな案件なのだ。けれど、そんな正論を口にする隙は与えられなかった。


「屁理屈こねてねーで、さっさと大人になろうぜ」


 デンジくんの手が伸びてきて、私のパーカーの裾をまくり上げる。


「ひゃっ……!」


 素肌に触れる指先が熱い。

 ファミレスの赤いソファの上で、私たちは絡み合うように倒れ込んだ。抵抗しようとする言葉は、再び重なった唇によって封じられる。


「ん、ぅ……っ! でん、じく……!」


 冷房の効いた店内の空気が肌を撫でる。それと同時に、デンジくんの体温が直に伝わってきて、寒さと熱さが入り混じった奇妙な感覚に襲われた。

 ダメだと思う理性と、早くここから出たい、大人になりたい、という生存本能。そして──心のどこかで、この状況を甘んじて受け入れている自分への嫌悪と快楽。


「……な、したい」

「ぁ、う」

「だめ?」


 上目遣いで、縋るように。けれど、断られることなんて微塵も考えていないような、獰猛な光を瞳に宿してデンジくんが問う。

 私は熱に浮いた頭で、その視線から逃れるように目を逸らした。


「……ずるい、分かってて聞いてる、それ」

「分かってねぇよ。俺、なーんも分かってねえ」


 デンジくんの手が、パーカーの下、素肌の背中を這い上がってくる。


「……だから、あんたに教えてくれって頼んでんだろ」


 教える。何を? 大人の階段の登り方を? それとも、堕ち方?もう、どっちでもいい。この閉塞感と、体を内側から焼くような疼きから解放されるなら。

 私は観念して、かすれるくらいの声で呟いた。


「……いいよ」

「ありがと」


 短く礼を言ったデンジくんの手が、裾にかかる。元々ブラなんてしてないから、あまりに簡単に布地が剥ぎ取られて、ファミレスの白い照明の下に私の胸がさらけ出される。


「……胸……胸だ……すげぇ……」

「ガキすぎる、感想が……」

「へへ、だって今はガキだし」


 悪びれもせずに笑って、デンジくんは両手で私の胸を鷲掴みにした。柔らかい肉が指の隙間から溢れる。揉みしだかれる感触と、熱い掌の温度。


「ん、ぁ……っ」

「は……やわらけー……」


 ちゅ、ちゅ。デンジくんが顔を埋めて、赤ちゃんみたいに乳首を吸い始める。くすぐったいような、痺れるような甘い電流が背筋を駆け抜けた。私は無意識にデンジくんの頭を抱き寄せて、その髪を梳く。母性本能と、性欲と、罪悪感。それらがミキサーにかけられたみたいにぐちゃぐちゃに混ざり合う。


「えへへへ、バブちゃんでちゅねぇデンジくん……」


 熱に浮かされた頭で、冗談めかしてそう囁いて──ふと、デンジくんの顔を覗き込んだ私は、息を呑んだ。


「……って、あ、ほんとにちょっと子供みたいな顔になってる!」

「んぐ? んえ、うそ」

「ほんと…………あは。やばいっ、これ、背徳感、頭おかしくなりそ……」


 私の胸に吸いついているデンジくんの顔つきが、さっきの青年から、また少し幼い少年のそれへと揺らいでいたのだ。

 一所懸命に母乳を求める赤子のような、無垢で必死な表情。なのに、やっていることは紛れもない性行為で。


「は、ぁ……っ、デンジ、くん……もっと、吸って……」

「ん、んむ……ッ」


 見てるんだろ、山の悪魔のやろー。あなたの性癖にはさぞかし刺さる光景でしょうね、子供が子供を貪って、大人のふりして交尾ごっこをしてるんだから。

 羞恥心なんてとっくに焼き切れている。残ってるのは、やけくその投げやりさだけ。


​ 可愛い。

 可愛くて、可愛くて、たまらない。


 無心に胸に吸い付くその顔は、庇護欲をそそる幼さそのもので、このまま頭を撫でて寝かしつけてしまいたい衝動に駆られる。けれど、それじゃあダメなのだ。私たちはここで「大人」にならなきゃいけない。退行している場合じゃない。


​「でも……あのね、デンジくん。あんまり子供になられると、困るんですよ」


​ 私は空いている片手を、下へと滑らせた。ズボンの上から、股間に手を這わせる。掌に伝わる感触は、まだ頼りない、少年のそれだった。柔らかくて、小さなふくらみ。これじゃあ、何もできない。


​「ん、ぁ……? ふく、たいちょ……?」


​ 不意な接触に、デンジくんが胸から顔を上げて、潤んだ瞳で私を見る。そのあどけない表情に罪悪感がチクリと刺さるけれど、私はそれを無視して、ベルトのバックルに指をかけた。


​「いつまでも子供でいちゃだめ、ですよ。ほら……」


​ カチャリ、と金具を外して、直に触れる。

 ビクッ、とデンジくんの小さな体が跳ねた。


​「大人になって?」


​ 言い聞かせるように囁いて、私は彼の下着の中に手を潜り込ませた。未成熟なそれを、指先で優しく、けれど促すようにまさぐる。

 

「ん、ぅ……ッ! や、あ……っ!」


​ デンジくんが私の肩をギュッと掴んだ。

 刺激を与えるたびに、彼の呼吸が荒くなる。

 手のひらの中で、熱が膨れ上がっていくのが分かった。ドクン、ドクンと脈打ちながら、その「モノ」が急速に硬度と大きさを増していく。

​ 物理的な成長だ。快楽が彼を強制的に大人へと引き上げている。


​「そう、いいこ、そのちょーし……」


​ 私は顔を近づけ、荒い息を吐く少年の唇を塞いだ。


​「んぅ……ッ!」


​ 舌を絡める。唾液を交換する。

 下の手を休めずに動かし続けながら、深く、深く口づけを落とす。

 すると、私の腕の中にいる彼の体が、ミシミシと音を立てて変化していくのが分かった。

​ 肩幅が広がり、私の視界を塞ぐほど大きくなる。

 首筋が太くなり、喉仏が隆起する。

 私の掌の中にあった未熟な果実は、瞬く間に凶暴な大人の雄のそれへと変貌し、指の隙間から溢れんばかりに張り詰めた。


​「は、ぁ……ッ! 副隊長、あんた、マジ……ッ!」

 唇が離れた時、そこにいたのはもう少年のデンジくんではなかった。

 ギラギラとした欲望を瞳に湛えた、一人の男。骨ばった大きな手が、私の腰を痛いほど強く掴んでいた。


​「……ほら、戻った。偉いね、デンジくん」


​ 熱っぽい息を吐きながら私が微笑むと、デンジくんは喉の奥で獣のように唸り、私をソファへと押し倒した。



┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


 クチュクチュと、ファミレスのボックス席に、水音と、私の甘い悲鳴だけが響いている。


「ゔー……♡ ん、ぁ、あっ……♡」


 私は右腕で目元を覆い隠して、必死に声を殺していた。けれど、下半身から突き上げてくる快感は容赦がない。デンジくんの指が、中の敏感なところを執拗に抉り、かき回すたびに、背骨に痺れるような電流が走る。


「副隊長、すげー濡れてる。とろとろじゃん」

「ん、ぅ……! 言わ、ないで……っ、恥ずかし……っ♡」

「かわいー」


 覆い隠した腕の隙間、露出したおでこに、熱い唇が落ちる。一度だけじゃない。チュ、チュ、チュッ、と。下では激しく指を動かしながら、上では愛しげに、啄むように何度も何度もキスを繰り返してくる。そのアンバランスな優しさと暴虐さが、私の理性をさらに溶かしていく。


 熱い。体が芯から熱い。

 目の前がチカチカする。

 私は腕の隙間から、目の前で荒い息を吐いているデンジくんを見上げた。汗ばんだ金髪と、ギラギラした瞳。そして、目の前にある私の胸。


「……おっぱい、すわないの……?」


 熱に浮かされた頭で、ふとそんな言葉が漏れた。

 さっきまであんなに貪りついていたのに、今は指での愛撫に集中しているのがなんだか焦れったくて。聞かれて、デンジくんは動きを止めずに笑った。


「またガキに戻ったら困るから、吸わねえ」

「あは、もったいない」


 私は涙目で笑って、挑発するように胸を反らせた。


「いいの? 今ならいくらでも吸い放題なのに」

「いーよ。元の世界戻ってら何回でも吸うし」

「えー? そんなのダメだよ? わたし、お子ちゃまじゃない子には吸わせてあげないし」

「エェ!? んだよそれ!」


 デンジくんの動きがピタリと止まる。


「じゃあ今のうちに舐めて吸って堪能しとくしかねーじゃん!」

「あはは、また子供なっちゃうよ?」

「そしたらまたチンチン触って戻して!」


 言うが早いか、デンジくんは私の胸に飛びついてきた。ガブリ、と食らいつくような勢いで、乳首を含み、強く吸い上げる。


「ふ、あ……♡」


 指の動きも再開する。下からの強烈な突き上げと、胸を吸われる甘い痺れ。ジュル、チュプ、と卑猥な音を立てて吸い付くデンジくんの顔は、やっぱり、少しずつ幼さを取り戻していくようで。

 赤ちゃんみたい。

 私のおっぱいを吸って、安心して、貪って。なのに指先だけは凶悪な大人の男のままで、私をイカせようとしてくる。


「っ、だめ、デンジくんっ、もう、むり、ぃっ……♡!」

「ん」


 離さない、とばかりに強く吸い上げられ、同時に一番奥を強く弾かれた瞬間。


「っっ〜〜〜ああああ〜〜〜〜〜………………♡♡!!!」


 目の前が真っ白に弾けた。全身が弓なりに反りあがり、痙攣する。頭の先から足の爪先まで、どうしようもない快楽に支配されて、私は彼を抱きしめたまま、ガクガクと震えて絶頂を迎えた。


 荒い呼吸だけが残る。私の胸には、まだデンジくんが顔を埋めている。ゆっくりと目を開けると、そこには──満足げに口の端を汚した、あどけない少年の顔があった。


「……あーあ……」


 全身から力が抜ける。未成年の部下相手に、精神世界とはいえこんなことをしてしまったという重たい罪悪感と。


​「……デンジくん、最後までしちゃおっか」


​ まだ快感の余韻で震える体を起こして、私は彼の耳元で囁いた。理性なんてものは、さっきの絶頂と一緒にどこかへ吹き飛んでしまっていた。残っているのは、この異常な世界から脱出したいという生存本能と、目の前の雄に対する疼くような渇望だけ。


​「ん。俺は最初っから、その気満々だけど」


​ デンジくんは獰猛に笑うと、私の体を軽々と持ち上げて、テーブルの端へと追いやった。

 ガチャガチャと食器が落ちる音がするけれど、そんなことを気にしている余裕はない。私は自らズボンを下ろし、下着を脱ぎ捨てて、無防備な秘所を彼に晒した。

​「すごい……本当に、大人の女だ……」


​ デンジくんの熱い視線が突き刺さる。気まずい。だいぶ気まずいし生々しいしいやらしいしもう色々。

 彼もまた、ズボンを蹴り捨てて、屹立した自身を露わにした。さっき手で触れた時よりもさらに凶悪に、血管を浮き上がらせて脈打っているそれは、間違いなく子供のサイズではない。


​「……おっきいね、デンジくん」

「まあ、大人だからな」


​ デンジくんが私の太腿を掴み、強引に割り込む。

 先端が、濡れた入り口に押し当てられた。


​「ん、ぁ……っ」


​ 熱い。焼けるように熱い。まさか、膜まで復活してるってことはないだろうけど。

 ゆっくりと、けれど容赦なく、彼が腰を沈めていく。


​「ぁ、ぅ……」


​ 異物感と、蜜のような充足感。内壁がこじ開けられ、彼を受け入れていく。精神世界の影響なのか、体の感度が異常に高い。擦れ合う粘膜のひだの一つ一つまでが、彼の形を認識して喜んでいるのが分かる。


​「は、ぁ……っ、デンジ、くん……」

「はー……きっっつ……」


​ 根元まで埋め込まれた瞬間、私たちは同時に息を吐き出して、互いの体を強く抱きしめ合った。繋がっている。誰もいないファミレスで、世界の理から外れた場所で、私たちは一つになっている。


 ずちゅ、ずちゅ。最初は探るように、やがて激しく、デンジくんが腰を動かし始めた。


​「あっ、あッ、あ」

「は……やば、っ、これ……」


​ 彼が突くたびに、脳髄が白く弾ける。テーブルクロスの摩擦で背中が痛いけれど、それすらも快感のスパイスになる。デンジくんの汗が私の胸に滴り落ちて、混ざり合う。獣のような匂い。

​ 気持ちいい。どうしようもなく気持ちいい。


 けれど――ふと、視界の端が滲んだ。


​ あまりにも激しすぎる快楽は、どこか暴力に似ていて。

 押し寄せる波に飲み込まれそうになるたび、心の奥底にあった弱さが顔を覗かせる。

​ なんだか今、とっても不安だ。

 こんなことしていいの?こんなことして、山の悪魔の思い通りに動いて、帰れなくなったらどうしよう。

 誰か、助けて。マキマさん、姫野先輩……ママ……。


​「う、ぅ……ぐすっ……」


​ 絶頂の波とは違う、心細さが胸を満たしていく。視界が涙で歪む。デンジくんの肩を掴んでいた私の指先が、スゥ……と力を失い、小さくなっていく。


​「ひぐっ、うえぇ……でんじくぅん……」


​ 泣き声が、幼くなる。私の体が、縮んでいく。結合している部分が緩くなり、デンジくんのサイズが相対的に巨大な凶器へと変わっていく。


​「──ッ!? おい待て、やべえ!!」


​ デンジくんが動きを止めた。彼が見下ろした先には、涙で顔をぐしゃぐしゃにして、急速に幼児退行を始めた私の姿。


​「いたい、くるしい……やだぁ、もうやだぁ……」


​ このままじゃ、体が裂ける。いや、それ以前に──子供に戻ってしまったら、あの「山の悪魔」の思うつぼだ。分かってるけど自分の意思じゃ止められない。


​「チッ! 泣くな! 戻って来い!!」


​ それに慌てた様子のデンジくんは、私の頬を両手でガシッと挟み込むと、そのまま──強引に、唇を重ねた。


​「んむッ!?」


​ 問答無用のディープキス。

 私の口の中に、彼の舌が乱暴に侵入してくる。

 幼い舌に絡みつき、吸い上げ、唾液を流し込み、強制的に「大人の味」を教え込む。


​「ん、んーーッ!!」


​ 苦しい。でも、熱い。

 唇から流し込まれる強烈な雄の刺激が、縮みかけていた私の精神を無理やり引きずり戻す。

 子供でなんていさせない。そんな意志が、舌を通じて直接脳に叩き込まれる。


​ ミシミシと音がして私の体が再び熱を持ち、骨格が伸び、肉付きが戻っていく。


​「は、ぁ……っ! ごほっ、げほっ!」


​ 唇が離れた時、私は元の――大人の女性の姿に戻っていた。

 デンジくんは荒い息を吐きながら、私の顔を覗き込む。


​「あっぶね! 犯罪回避!」

「……っ、はぁ、はぁ……」


​ 私は涙目のまま、でもおかしくて、ふにゃりと笑ってしまった。


​「あはは、もう犯罪は犯罪でしょ……私がデンジくんとえっちしちゃってる時点で……」

「いーんだよ、俺は副隊長のことキソしねーし! 逆は有り得るかもしんねーけど……」

「あはは、しないしない! ……んふ、起訴なんて言葉、デンジくんも大人になってきましたねぇ?」


​ 私の軽口に、デンジくんは不敵に笑う。その笑顔は、少年の無邪気さと、大人のふてぶてしさが混ざった、とても魅力的なもので。


​「ほら、続きすっぞ。もうガキに戻んなよ」

「うん……うん、もちろん」


​ 少し間が空いて、デンジくんが再び腰を動かし始める。

 さっきよりも深く、重く。









 翌朝。

 ファミレスの窓から差し込む白々しい朝日で目を覚ました私たちは、散乱したテーブルの上をそれなりに片付けた。誰が見ているわけでもないけれど、借りた場所は綺麗にする。それが昨夜、倫理観をかなぐり捨てて獣のように交わった私たちに残された、最後の人間性のような気がしたからだ。


 脱ぎ捨てた服を拾い集めて着る。

 私の体は、すっかり元の……まあ、それなりのプロポーションに戻っていた。デンジくんもまた、見慣れた16歳の体つきだ。


 私たちは店を出て、誰もいない大通りへと向かった。

 雲ひとつない青空。静止した信号機。私たちは示し合わせたように、アスファルトの道路のど真ん中、白いセンターラインの上に大の字になって寝そべった。背中に感じる地面の硬さと冷たさが、妙に心地いい。


「……なァんかオレ、エッチしてスッキリした頭で色々考えてたんだけどさぁ」


 空を見上げたままで、デンジくんがぽつりと言った。


「ここから抜け出す方法、わかったかもしんねぇ」

「えっ、どんなの?」

「ほら、これ。ガキん時はなかったけど、副隊長とエッチして成長したらいつの間にか復活してた」


 私は期待を込めて横を向く。彼は自分の服を捲り上げていた。裾の下から、黒いスターターロープが覗いている。


「わあ、ほんとだ。でもそれが何の──」


 精神的な成長が鍵じゃなかったとしたら、次はなんだろう。この世界の主を見つけ出すとか? それとも──

 ブォン。

 聞き慣れた、エンジンの始動音が響いた。

 見れば、デンジくんの手が胸元のスターターロープを引いている。


「ふえ?」


 間の抜けた声が出た。

 次の瞬間、視界がぐるりと回った。

 痛みはなかった。ただ、世界が上下にズレて、赤い噴水が視界を埋め尽くして――

 あ、私、真っ二つにされたんだ。

 そう理解した時にはもう、意識は闇へと落ちていた。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

「――はっ!!!」


 ガバッ、と上半身を跳ね起こす。ばくばくばく。激しい心臓の音。ヒュッ、ヒュッ、と過呼吸気味に息を吸い込みながら、自分の体をまさぐる。ある。胴体がある。血も出ていない。真っ二つじゃない。


「夢……夢オチ……!?」


 周囲を見渡す。そこは薄暗くカビ臭い、あの山小屋の中だった。窓の外はまだ暗い。そして真隣には、デンジくんが布団の上で大の字になって、気持ちよさそうにスヤスヤと眠っている。


「……っ、この!!」


 私はデンジくんの肩を掴んで、力任せに揺すった。


「起きて! ちょっと、起きてってば!!」

「んあ……? んだよォ、朝飯かぁ……?」

「朝飯じゃない! なんで殺したの!?」

「あ?」

「なんで私をチェーンソーで真っ二つにしたのって聞いてんの! ここから出る方法って言ったじゃん!」


 デンジくんは寝ぼけ眼をこすりながら、あくび混じりに答えた。


「あー……なんとなく?」

「はあ!?」

「夢から覚めるにゃ死ぬのが一番かなーって。直感?」

「直感で上司を殺すな! 心臓止まるかと思ったでしょ!」


 文句を言おうと口を開きかけた、その時だ。

 シャン、シャン、シャン……。

 窓の外から、涼やかな鈴の音が聞こえてきた。続いて聞こえてくるのは、ヒョーという笛の音と、鼓の音。雅楽だ。神前式で流れるような、厳かで、けれどこの状況では不気味極まりない旋律が、山小屋を取り囲んでいる。


「お目覚めですか」


 あの声だ。

 夢の中で聞いた、あの老婆のような声が、今度は現実の空気を震わせて響いた。


「婚礼の用意を」

「主様はもう待ちきれぬと」

「白無垢よりも美しい、赤裸の愛……」


 小屋の隙間から、白い着物を着た何者かの影が無数に見え隠れしている。


「新妻2人の美しい睦みあいに、大変満足されておられます」


 その言葉の意味を理解した瞬間、胃液が逆流した。


「――お、げぇぇッ!!」


 私はたまらずその場にうずくまり、胃の中身をぶちまけた。

 見ていたのだ。私たちが「精神世界」だと思って逃げ込んだあの場所での行為を。必死に、恥も外聞も捨てて貪り合ったあの痴態を、こいつらは特等席で鑑賞して……キモキモキモキモ!


「うぇっ、はぁ、はぁ……っ! きもい、無理、死んで……!」


 生理的嫌悪感で涙目になりながら喚く私の横で、デンジくんが立ち上がる気配がした。


「ほーん」


 低い声。

 見上げると、デンジくんは一切の動揺も見せずに、胸元のスターターロープに手を掛けていた。


「ま、満足したなら、あとは死ぬだけだよなァ?」


 ブォン!!

 山小屋の静寂を切り裂いて、悪魔のエンジンが唸りを上げた。

ブォン、ブォン!!エンジンの唸りが最高潮に達し、デンジくんの腕からチェンソーの刃が飛び出す――かと思いきや。


 彼はふいに、スターターから手を離した。


 そして、ニヤリと口の端を吊り上げ、小屋を取り囲む白い影たちに向かって仁王立ちになった。


「アンタ、ガキが好きなんだろ? 副隊長は大人なのに毛も生えてねーガキみてぇな見た目で、俺はまだ16歳。……でも、ポチタはどーかなァ!!?」


 予想外の挑発に、老婆のような声が素っ頓狂に裏返る。


「……は?」

「俺さァ、チェンソーマンになるとすっげー体成長すんだよね! 大人みてぇに!」


 カチャ、カチャ。

 デンジくんの手が、ズボンのベルトに掛かる。

 え、待って。今、何しようとしてる? 戦闘態勢じゃないの?

 私の思考が追いつくよりも早く、彼はズボンと下着を勢いよく引きずり下ろした。

 ボロン。

 朝の冷たい空気の中に、デンジくんの、その、一物が、堂々と解き放たれる。


「どーよ! ポチタパワーでボーボーのデンジくんジュニアだぜ!!」


 シーン……。

 一瞬、山小屋の時が止まった。

 雅楽の音すらピタリと止んだ。

 そして次の瞬間。


「ぎゃ、ぎゃあああああああああああああ! 汚らわしい! 目が、目が潰れるゥゥゥ!!!」


 白い着物の影たちが、一斉に目元を押さえて絶叫した。

 まるで聖なる光……ではなく、とてつもなく汚らわしいものを見てしまったかのように、のたうち回って苦しみ始めたのだ。


「おっ、効いてる効いてる! やっぱジジイババアには刺激が強すぎたかァ!?」

「ひぃぃぃ! 成体など見とうない! 薄汚い雄の成体などぉぉぉ!」

「ギャハハハハ!! 見たくねぇなら見れねぇよーに目ン玉ごと切り刻んでやるよ!」


 ブォン!!

 デンジくんはズボンを足首に引っかけたまま(というかすぐに蹴り飛ばして)、あろうことかフルチンの状態でチェンソーを起動させた。全裸のチェンソーマンが、けたたましいエンジン音と共に白い影の集団へ突っ込んでいく。


「ヒャハハハハ! 逃げんなァ! 俺の大人なジュニアをよーく目に焼き付けろオラァ!!」

「ギャアアアアア!!」


 肉片が飛び散り悲鳴が上がる。

 普段なら「頼もしい」と思うはずの戦闘シーンが、今日ばかりはただひたすらに、絵面が最悪だった。下半身丸出しのデンジくんが、性癖の偏った悪魔を追いかけまわして虐殺している。地獄絵図だ。いや、地獄の悪魔も裸足で逃げ出すレベルの痴態だ。


「…………」


 私は布団の上に座り込んだまま、その光景を虚無の表情で見つめていた。昨晩、あんなにドラマチックに、背徳的に交わった相手が。今は股間をぶらつかせて「どうだ!」と暴れ回っている。

 ドン引き、という言葉では足りない。百年の恋も冷めるどころか、急速冷凍されて粉々に砕け散る音が聞こえた気がした。





「……てなわけで。結論としましては、デンジくんがチンチン出しながら戦ってどうにかしました」

「耳が潰れそうじゃ」

「ハァ……」


 公安対魔特異4課、マキマさんの執務室。

 私の報告を聞き終えたアキくんが、こめかみを親指で強く揉みながら呻いた。その顔色は土気色で、まるで数日寝込んでいた病人のようだ。まあ、無理もない。彼にとっては可愛い弟分(?)が、白昼堂々、しかも伝説級の怪異相手に下半身丸出しでチェンソーを振り回したとあっては、保護者としての心労はいかばかりか。


「いやー、でもねアキくん。これは新たな発見ですよ」


 私は報告書の束(大半が『検閲削除』の黒塗りだらけだ)をデスクに置きながら力説した。


「あの山の悪魔は『未成熟な子供』を好む変質者だった。つまり、その対極にある『汚らしい大人の男』が弱点だったわけです。……ということはですよ?」

「……なんだ」

「最初から岸辺隊長がフルチンで戦ってくれてたら、秒で解決した話じゃんね」

「ヴォエ!気色の悪い話じゃの〜……」

「…………」

「あるいはあの日の晩、アキくんがフルチンになって寝てれば、あんなホラー展開にはならなかったのでは」

「ふざけるな!!」


 アキくんの怒声が響く。マキマさんは我関せずといった様子で、涼しい顔で書類にハンコを押している。この人は本当に、部下が全裸になろうが悪魔に求婚されようが動じないな。


「ま、何はともあれオレの手柄ってことですね!」


 ソファでふんぞり返っているデンジくんが、鼻の下をこすりながら得意げに胸を張った。


「あのジジイども、チェンソーマンのチンチン見て腰抜かしてたし!」

「はいはい、すごいですすごいですよ」


 私はため息交じりに棒読みで称賛を送る。すごいのは認める。認めるけれど、あの精神世界での背徳的なロマンスの後に現実世界であのあられもない姿を見せつけられた私の乙女心(まだ残っていればの話だが)は、複雑骨折して全治三か月といったところだ。


「デンジくんには特別ボーナスを出しておくよ。精神的苦痛への慰謝料も含めてね」

「っしゃあ! マキマさん、ありがとうございます!」

「副隊長も、お疲れ様。……なんというかその、大変だったね」

「マキマさんのその『大変』に、どの程度のニュアンスが含まれてるのか想像するのが怖いです」


 マキマさんの目が、すうっと細められる。

 ああ、この人には全部バレてるんだろうな。なんかわかないけど、なんかそんな気がする。精神世界で私たちが何をしていたか。子供の姿で、大人のふりをして、どんなことをして一夜を明かしたか。私は背筋に冷や汗が流れるのを感じながら、逃げるように「し、失礼しましたー」と執務室を飛び出した。




 本部の廊下を歩きながら、自販機で買った冷たい缶コーヒーを頬に当てる。火照りが、まだ冷めない。


「あーあーあ」


 ため息が漏れる。

 デンジくんはケロッとしていた。「夢の中の出来事」として処理しているのか、それとも彼なりの優しさなのか、あるいは単にバカなのか。精神世界での情事について、彼は一言も触れてこない。ただ、あそこで交わした熱も、言葉も、感触も。私の体は確かに覚えているわけで。


「副隊長~」


 後ろから声を掛けられて、ビクッと肩が跳ねた。

 振り返ると、デンジくんがポケットに手を突っ込んで歩いてくるところだった。

「……なに」

「今日ん飯、ハンバーグだってよ。副隊長も食ってく?」

「……え、いいの?」

「まあ、昨日は俺の活躍で助けてやったわけだし? 感謝の気持ちを込めて俺の分も皿洗いするなら、呼んでやってもいいけど」


 ふわりと笑う顔が、夢の中で見た、あの色気を孕んだ青年の顔と重なって──そしてまた、いつものクソガキの顔に戻る。


「……ふふ。それなら喜んで、お皿くらい洗わせていただきますとも」

「おっしゃ! じゃあ早く帰ろうぜ!」


 けれどもそう言って私の手を取った彼の手付きが妙にどろりとした熱っぽさを孕んでいたので、私は少しだけ頬の内側を噛んだ。


* * *

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