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 アキくんとはじめて会ったのは、中学一年生のお正月のことだった。

 元旦は学園の子どもたち全員が本部に集まる日。ふだん私たちは学園の敷地内にある別々のグループホームでバラバラに暮らしているし、わざわざ重苦しい空気感の本部施設に寄り付くような子供も少ないから、全員が揃うのは年に数回しかない。なんかの式とか、クリスマス会とか、あとはこの元旦の新年挨拶くらいのものだ。

 でもそれも、別段強制ってわけじゃない。それじゃなぜわざわざ元旦に集まるかって言ったら、理由は単純で、学園長からお年玉がもらえるからだ。

 ポチ袋に千円。

 小学生も中学生も高校生もみんな一律千円。少ないと思うかもしれないけれど、バイトが出来ない影響で自分のお金なんてほとんど持てない中学生以下の子どもにとっては、一年で最大のイベントだった。

 担当の佐々木さんに「ちゃんとお辞儀してね」「あけましておめでとうございますって言うんだよ」と念押しされて、うるさいなあもう中学生だし分かってるよと思いつつ、でもやっぱりちょっとだけ緊張しながら学園長の前に立って、恭しく頭を下げて。

「はい、おめでとう。今年もがんばろうね」

 と、渡されたポチ袋を胸に抱えて、私はうきうきしながら廊下を歩いてた。やっぴやっぴ、これを貰ったらもうここに用なんてないもんねー。さっさと帰って寝ちゃおっと。現金だけど、まあ、考えることなんてそんなもん。

 ポチ袋を光に透かしてみる。

 おもて面に小さく「おとしだま」と筆ペンで書いてある。佐々木さんが「廊下で開けない! お家に帰ってから!」と後ろで言っているのが聞こえるけれど、もう中身は分かっている。千円だ。千円で何を買おうか。まず日用品費で落ちない、薬用じゃないリップ買うでしょ、あと、残りを貯金箱に入れて。

 そうやって脳内会議に夢中になっていたら、角を曲がったところで誰かと危うくぶつかりそうになった。

「わ、ごめんなさ~い……」

 ぶつかりそうになったのは、同い年くらいの男の子だった。

 黒い髪。すこし長めの前髪の隙間から覗く、印象的な青い目。整った顔立ち。それなのにものすごく不機嫌そうな顔をしていて、隣を歩く担当さんらしきなよなよ~っとした男性に腕を引かれて、半ば引きずられるようにして学園長室の方に向かっていた。

「あ……こちらこそごめんね。ほらアキくんも」

「いえいえ、お互い様ですよん」

「……」

 え、無視された!? ……まあこの施設、大概こんな奴らばっかだけどさあ。つーんとした顔のまま、ずるずると担当さんに引きずられていく。

「ほら、アキくんも謝りなさい! 会釈だけじゃなくて……参ったな、こりゃ」

 男の子──アキくんと呼ばれたその子は私にぺこりと頭を下げて、そのまま足早に立ち去って行った。

 やば、態度悪すぎ!と思ったけど、同時に

(へー……こんなカッコいい男の子でも、学園長にお年玉もらいに来るんだー)

 って考えたら、なんだかちょっとだけきゅんとした。

 そんなことを考えてたせいかすれ違いざまにほんの一瞬だけ目が合って、少しだけどきり。青い目がこちらを一瞥して、すぐに逸らされる。

 まあ、言ってしまえば、それだけ。

 会話もなければ、会釈もない。ただすれ違っただけ。

 でも、千円のポチ袋を握りしめた手が、なぜだかすこしだけ熱くなった。なんでかは、自分でも分からないけど。

 あとから佐々木さんに聞いた話では、彼は隣のグループホーム「たんぽぽ寮」の子で、同じ中学一年生らしい。名前は早川アキ。北海道の出身で──銃の悪魔の被害で家族を全員失って、この学園に来たのだという。ぷぷぷぷ、あんなにクールぶってるくせにたんぽぽ寮って、笑える。と思ったけど、「ひまわり寮」の私もあんまり人のことを笑えない。

「銃の悪魔かー……あんまり実感わかないなあ」

 あの日のことは、施設の子どもでなくても誰だって知っている。ニュースで何度も何度も流れた、あの映像。街が一瞬で消し飛ぶ光景。何万人という人間が、理由もなく、前触れもなくただ死んじゃったんだって。

 早川アキくんは、あの日に家族を全部なくしちゃったんだ。そう考えると、なんだか不思議だった。

 その前までは、普通の家の子だったんだな、あの子。

 部屋(あんまり気が合わない先輩と相部屋で、仕切りがあるとはいえ、毎日かなり気まずい)のベッドに座って、ポチ袋を開けて、千円札を一枚取り出す。結局、リップは買わずに貯金して、もっと欲しいものを買うことにした。ずばり、資生堂のビューラーを。今使ってる百均の奴は、瞼を挟んで痛いばっかりで、ちょっとも使ってて意味がない。

 無表情の野口英世がこっちを見ている。

 ……まあ、私にだって事情はある。言う程、人のことを憐れんで居られる身の上でもない。……私だけじゃなくって、ここにいる子どもは、みんな。親が死んだ子、親に捨てられた子、親に殴られた子、親に──。

 私の事情は、口に出すのも嫌な種類のものだ。家族は生きている。生きているけれど、二度と会いたくない。とくに父親には。

 それでも私はどうにか元気にやっているので、平気なのだ。担当の佐々木さんは優しいし、同じグループホームの子たちとは姉妹みたいに仲がいい……ってわけじゃないけど、まあ、ほどほどに付き合ってるし、学校では友達もそれなりにいる。暗い顔をしていたって何も変わらないとどこかの時点で割り切った。だから笑う。冗談を言う。おちゃらける。それが私なりの生存戦略。

 でも。

 あのつんとした男の子は、どうやって生きているんだろう。

 あんな不機嫌な顔をして、担当さんの手を振り払って、それってとってもそんな生き方だ。

 私たちは身寄りのない子供だから、せめて誰かに愛されなきゃいけないのに。愛してもらえるように、愛される存在として、振舞わないといけないのに。

 布団にもぐりこんで目を閉じる。

 あの青い目が、まぶたの裏にちらついた。

 彼と再会したのは、思いもよらない場所だった。

 冬休みが明けて一月の中旬。私が通う中学校は学園から少し離れた場所にあって、毎朝バスに乗って通学する。学園のグループホームは住宅街のあちこちに点在しているけれど、最寄りのバス停は同じだから、別のホームの子と乗り合わせることもある。

 その日、いつものバスに乗り込んで、いつも座ってる席に座った。窓の外は一面の雪景色。見飽きた一月の北海道。吐く息が白い。バスの暖房がガタガタと音を立てて頑張っている。

 次のバス停でドアが開いて、数人の乗客が乗り込んできた。そのなかに──どこか見覚えのある後ろ姿があった。

 黒い髪。学校指定のコートの襟を立てて、マフラーで顔の下半分を隠している。

 でも、あの目だけは隠せない。

「のああ……」

 思わず変な声が出た。

 お正月にすれ違った、あの男の子じゃん。早川アキくん、同じバスだったんだ。毎朝乗ってるのに全然気が付かなかった……と思ったけど、冷静に考えたらそれもそのはずだった。だって私、バスに乗ってる時、普段は本を読んでるし。冬休みの間は図書室の本が借りられないから、読んでなかっただけ。それがまさか、こんな出会いをもたらしてくれるとは、びっくりびっくり。

 アキくんは車内を見回して、空いている席を探していた。

 朝の通学時間帯はそこそこ混んでいて、空席はあまりない。彼の目が車内をさまよって──私の隣の空席に止まった。

 私の制服を見て、一瞬、ためらうような間があった。

 でも、他に席がなかったのだろう。彼はしぶしぶという感じで、私の隣に腰を下ろした。そりゃそうだ、ここから学校までは一時間もあるんだもん。立ちっぱなしは流石に辛いよね。

 沈黙。バスが発車する。

 揺れるたびに、コートの肩が微かに触れそうになる。

「……あの」

 話しかけたのは私の方からだった。だって黙っているなんて、性格的に無理だから。

「きみさ、お正月にすれ違ったよね? 本部の廊下で」

「……は?」

「私、「ひまわり寮」の子。知らなかったー! 同じバスじゃん!」

 アキくんは怪訝な顔をした。もっと正確に言えば、「なんでこいつはいきなり馴れ馴れしく話しかけてくるんだ」という顔だ。まあ、そりゃそうだけど。

「……覚えてない」

「えーっ! お年玉もらいに行く途中で! 廊下で! ぶつかりそうになったじゃんか!」

「あそこで何人とすれ違ったと思ってんだよ。いちいち覚えてない」

「ひどーい」

 ぷう、と頬を膨らませてみせると、アキくんは面倒くさそうに窓の外に視線を向けた。会話終了。そっけないにもほどがあるぜ

 でも、それでめげる私じゃない。

 だって学校に着くまであと一時間もあるのだ。一時間もこの気まずい沈黙に耐えるくらいなら、多少嫌がられてもお喋りした方がマシだ。

「ねえ、きみも一年生でしょ? 何組?」

「……二組」

「えっ私三組! 隣じゃん! 学校でも会えるね!」

「同じ孤児院の子供と外でまで会いたくない」

「小さい子がそれ聞いたらショック受けるから外で学園のこと孤児院って言うのはやめて。絶対に。……ねねねねねね、名前は? アキくんでしょ? 佐々木さんに聞いた」

「…………はあ? 勝手に人の情報聞き出すなよ」

「私は███。よろしく!」

 問答無用だ。

 私に話が通じると思ったら、大間違いなのである。

 差し出した手をアキくんはしばらく睨んでいた。握手なんかするもんか、と顔に書いてあった。このつんつんボーイめ、さぞや生きづらかろう。

 でも私がにこにこしたまま手を引っ込めないでいると、やがてため息をついて、ぼそっと言った。

「誰とも、馴れ合う気はない」

「ぶえ。こ、この……素直じゃなし男! 天邪鬼!」

 握手は結局、してくれなかった。

 それから、毎朝のバスが私の楽しみになった。当然アキくんんは塩だけど、それにしたって顔が良い男の子と一緒に登校できるのはそれなりに気分が良い。

 アキくんはたいてい、私の一つ後のバス停から乗ってくる。空いていれば別の席に座るけれど、混んでいると私の隣に来る。最初のうちは無言だったけれど、私が一方的に話しかけ続けていたら、三日目くらいからぽつぽつと返事が返ってくるようになった。

「ねーねー、昨日の数学のテストどうだった?」

「普通」

「嘘だー! 普通って言う人だいたい良い点取ってるんだよ」

「……八十二点」

「やっぱり! 私は二十八点だったから丁度数字があべこべだね!」

「はああ!? 低すぎだろ、なんでそんなにヘラヘラしてられるんだ」

「えへへ」

「笑い事じゃない……」

 会話が成立している。

 しかも彼の方からツッコミが入った。私はそれだけで朝からハイテンションになって、隣の席でゆらゆら左右に揺れる。アキくんは「動きがうるさい」と眉をしかめたけれど、その声にはもう初日のような棘が無いのが、うれしい。

 とはいっても、結局はバスの中だけの関係だ。

 学校に着けばクラスが違うし、わざわざ廊下で声をかけに行くほどの仲でもない。放課後はそれぞれのグループホームに帰る。

 でも、毎朝約一時間のバスの時間だけは、隣同士だ。

 なんだかそれって、ただただ普通に仲が良いよりも、ずっとロマンチックなことな気がする。

 乙女趣味ってわけじゃないけど、これでも私は中学生。これだけ顔がいい男の子と毎朝喋っていると、時めくものもあるのである。

 私が一方的にしゃべって、アキくんが短く返して。

 たまに窓の外を指差して「あそこの家の犬太ったね」「よく気付いたなそれ」「だって毎朝観察してるもん」みたいなどうでもいい会話をして。

 ある朝、アキくんがバスに乗ってきた時、その目が赤いことに気づいた。泣いた跡、ではない。たぶん寝ていないのだ。目の下に薄い隈ができている。

「えと……おはよ」

「……」

 返事がなかった。今となっては、無視されることも珍しい。

 彼は私の隣に座って、リュックを膝の上に抱えて、黙って窓の外を見ていた。その横顔がお正月に見たときの不機嫌な顔とは違う、もっとずっと深いところにある疲労のようなものを滲ませていて、私は口をつぐんだ。なんだろう、なんだろう。……ぐるぐると頭の中でいろんなことを考えて、やがて一つの事件にたどり着く。

 ……ああ。今日、そう言えば、同じじゃん、下の日付が。銃の悪魔が出現した日と。ってことはつまり、アキくんの家族の月命日、ってことで。

 バスが揺れる。雪道だからいつもより揺れが大きい。

 五分。十分。沈黙が続く。

 施設の子ども同士には、暗黙のルールがある。

 相手の「事情」には触れない。聞かない。探らない。みんなそれぞれ、ここにいる理由がある。誰かに話したらちょっとは楽になるよ、なんて、そんなわけないし。

「ねーねー。アキくん」

「……なに」

「今度の土曜日、ヒマ?」

 アキくんがこちらを向いた。腫れぼったいのに切れ長の目が、怪訝そうに細められる。

「……なんで」

「あのねー」

 コートのポケットから、くしゃくしゃになったレシートの束を取り出して見せる。

「友達にもらったレシートで、おやつ代と被服費をちょっとガメるのだ!」

 ここで注釈。私たち中学生にはお小遣いは支給されないけれども、子どものおやつ代や被服費(服を買うためのお金)なんかは、施設から支給されることになっているのだ。おやつ代は1500円、被服費は5000円。あとは日用品費とかいろいろあるけど……これが結構、おっきい。

 うちの寮はレシートで精算する仕組みだから、子ども同士でレシートを融通して小遣いを浮かせるというのが、褒められた行為ではないけれども、施設あるあるのひとつだった。

「これでゲームセンター行こうよ!」

「はあ!? そんなことバレたら——」

「バレたらその時怒られる! ね、ね、いいでしょ?」

 両手を合わせて拝むポーズをしてみせる。アキくんは信じられないものを見る目をしていた。ここ数週間で気が付いたことだけれども、この子、結構真面目なんだよな。あんなに態度悪いくせしてさあ。

「お前……自分が何やってるか分かってんのか。それ、れっきとした横領だろ」

「分かってるよー。せこいことしてるなーって自分でも思う。でもさ、アキくん、なんか元気ないから。ゲーセン行ったら元気出るかなって」

「ならない」

「えー、なんでー。あ、もしかしてゲーセン行ったことない?」

「……」

「ないんだ! じゃあなおさら行こう! 世界変わるよ!」

 アキくんは口を開きかけて、閉じて、また開きかけて、閉じた。それから、ものすごく長い沈黙のあとに、ふて腐れたように言った。

「……バレても俺は知らないからな」

「やったあ!」

 思わず声を上げたら、バスの乗客が何人か振り返った。アキくんが「声でかい」と小さく言って、窓の方を向いた。

 でも、その耳がほんのすこし赤くなっていたのを、私は見逃さなかったのだ。

「……えへ」

 もしかしたらこの関係性になにかロマンチックなものを見出してるのは私だけじゃないのかなぁとか、そんなことを考えたら、ますます胸がどきどきする。

 学園最寄りのバス停で待ち合わせて、街の中心部まで出た。

 空気が肺を刺すほど冷たい。吐く息がもうもうと白い。アキくんはマフラーに顔を埋めて、寒さに肩をすくめていた。私はその隣小走りでついていく。彼の方が足が長いから、普通に歩くと置いていかれるのだ。傲慢傲慢傲慢、私にちょっとは合わせてよ!そう叫んではいるけど、この歩幅の合わなささえちょっぴり嬉しいのも、本音。

「アキくん、歩くの速い!」

「普通だろ。お前が遅いんだ」

「短足って言いたいの!?」

「言ってない、勝手に意味を曲解して勝手にキレるな」

 ゲームセンターは、駅前の商業ビルの二階にあった。

 薄暗い照明に、けたたましい電子音。色とりどりの筐体がずらりと並んでいて、土曜日の昼間だから家族連れやカップルで賑わっている。

 アキくんは入り口で足を止めた。

「やかましいな、全部」

「そりゃゲーセンだもん。ほらほら、入って入って」

 今更になって嫌がるアキくんの袖を引っ張って中に入る。格ゲーのコーナー、メダルゲームのコーナー、プリクラのコーナーを通り過ぎて、私が目指したのはクレーンゲームの一角だった。

 入れ替わりの激しい景品たち。色んな層に向けて、ありとあらゆる景品が置いてある。ぬいぐるみ、よく分かんない電化製品、キャラグッズに、知らないアニメのえっちなフィギュア。あああとは、大きい箱のお菓子。でもこれって一回取ったことあるけど、中身は結構スカスカだった。得しそうなのは、見た目だけ。

「……あ。アキくん、これかわいいよ!」

 どれもこれも微妙だなあ、と思いながら眺めているうち、ふと足を止めたガラスケースの中に、ころんとしたキーホルダーが二つ並んでいる。白い犬と、黒い猫。どちらも手のひらサイズで、ボールチェーンがついていて。カバンとか携帯につけるタイプのやつだ。

「キーホルダーか」

「犬と猫! お揃いっぽくていーじゃん! ……よし、取る!」

「……取れそうに見えないけどな」

「ちっちっちっ、最初から諦めたらだめだよ、何事もやってみなきゃ」

 隣で茶々を入れてくる男のことなんて気にしないで、百円玉を入れる。クレーンが動く。ういいいいん、と頼りない音を立てて。アームが降りて、犬と猫の頭をかすめて、何も掴めずに戻っていく。

「あー! 惜しい!」

「惜しくないだろ……取れそうな兆し見えなかったぞ」

「うるさい! 継続は力なり、もう一回だっ」

 アキくんが露骨に呆れた顔をする。

 それでもいいからもう一回、もう一回。今度はアームの位置を少しずらして──するり。空振り。

「むむむ」

「やめとけ。これ以上は金の無駄だ」

「あと一回! あと一回だけ!」

 三回目。百円玉を入れる。これで今日の軍資金の半分が消えた。クレーンが動く。アームが降りる。そのふちに、ぎりぎりチェーンが引っかかって──

 ずるり。猫の方が持ち上がった。そしてその拍子に、隣に並んでいた白い犬が一緒にずり落ちて、二つまとめて取り出し口にぼとりと落ちた。

「…………わ」

 一瞬の沈黙。

「わーわーわーわーわー!! アキくん、取れた取れた取れたよ!!!! しかも二個!!!!」

 取り出し口に手を突っ込んで、二つのぬいぐるみを掲げてみせる。白い犬と、黒い猫。ボールチェーンがゲームセンターの下品な照明できらきら光っているのさえ、なんだか今は神々しい。

「取れるもんだな」

 アキくんの目が珍しく丸くなっている。クールな表情が崩れて、素直に驚いている顔。その顔がおかしくて、可愛くて、私は笑いながら黒い猫のぬいぐるみを彼に押しつけた。

 ああ、青春って感じだ!

「はい! アキくんの!」

「いらな──」

「お揃い! カバンにつけよ!」

「いらないって──」

「つけよ!!」

 押し問答。アキくんは後退り、私は追いかける。ゲームセンターの通路で、中学生二人がぬいぐるみを押しつけ合っている。通りすがりの大人カップルが「初々しくてかわいいねー」と笑っているのが聞こえて、なんだかまずます嬉しくなった。反対に、アキくんはすっごく恥ずかしそうだけど。

 ざまあみろ、私の努力を冷笑した天罰なのだ。

「頼むからやめ──」

「アキくんの目、猫っぽいからぴったりだよ! この猫そっくりだよ! 分身みたいだよ!」

「い、意味がわからない!」

「いいからいいから!」

 最終的に、根負けしたアキくんが猫を受け取った。ものすごく嫌そうな顔をしていたけれど、ポケットに押し込もうとしたので私が「ポケットじゃなくてカバンにつけて!」と叫んだら、彼は「……帰ったらな」とだけ言った。

 嬉しかった。

 「つけない」じゃなくて「帰ったらな」だ。つけてくれるんだ。

 帰りのバスで、私は白い犬の方をリュックのジッパーにつけた。ぶらぶら揺れるのが可愛い。アキくんは黒い猫を、まだ手の中で弄んでいた。

「ホームで他の奴らになんて言われるか……」

「えー、可愛いのに」

「可愛いのが問題なんだ。男が付けるデザインじゃない、十中八九女絡みだと思われる」

「じゃあ、中に隠してつければいいじゃん。リュックの内ポケットとか」

 アキくんは何か言いかけて、やめた。

 それから、無言でポケットに猫をしまった。

「……被服費のレシートの件、バレたらお前のせいだからな」

「うん! その時は一緒に怒られよう!」

「ああ」

 あ、否定しないんだ。……否定、しないんだ。

 どうしよう、それって、ちょっとっていうか、かなり……私の方が、よっぽど照れくさい、かもしれない。なんだか何を言ったらいいのか分からなくなって、もじもじと黙り込む。

 バスが揺れる。窓の外は、もう日が暮れかけていた。オレンジ色の街灯が、雪に反射してぼんやり光っている。とっても、きれい。

 リュックにぶら下がった白い犬を指先で揺らした。つんつん、つんつん、舌を出した表情が何だかばかっぽくてかわいい。

 ……アキくんのポケットに、黒い猫がいる。見えないけれど、いる。おそろいだ。

 バスがアキくんの最寄りについて、二人で降りた。私の降りる場所は一つ先だけど、これ位の距離なら、まあ、歩けなくはない。

「じゃあね、アキくん! また月曜日!」

「ああ」

 手を振る私にアキくんは振り返らなかった。でも、マフラーに埋もれた声が、ちゃんと私の耳には届いた、から。

「また、月曜日」

 わたしは、返事が出来なかった。

 アキくんの言葉を聞いたらなんだか胸の奥がぎゅ~ってして、もじもじもじもじ~~ってして、もうなんだか本当にどうしていいか分からなくなって、照れくさくって照れくさくって、スカートがめくれるのもいとわずに雪道を走って帰った。佐々木さんに門限ギリギリで怒られたけれど、そんなことはどうでもよかった。

 リュックの白い犬が、走るたびにぶらぶら揺れている。

「ねえアキくん、担当さんが作ってくれてる料理で何が一番好き?」

「特にこれっていうのはない」

「えっ。……それって担当さんに失礼じゃないの!」

「うるさい。全部嫌いじゃないから、優劣が決められないってだけだ」

「はわ! なるほどなるほど、尖りかと思ったらデレでしたか。じゃあ嫌いな食べ物は?」

「ピーマン」

「子供じゃん!」

「子供だろ」

 それもそうだ。私たちは中学一年生で、文字通りに子供なのだった。

「アキくんって将来の夢とかある?」

「夢というか……目標なら、ある」

「え! なに?」

「言わない」

「えーーー!」

「うるさい」

 一時間の通学路が、二十分くらいに感じるようになっていた。景色が一個ずつ色を変えていく。道端の雪が溶けかけて、灰色のシャーベットみたいになる。アスファルトが久しぶりに顔を出す。ゴム長靴がスニーカーに変わる。季節が動いている。

 三月の終わり、思い切ってアキくんに聞いてみたことがある。

「ねえ。私のこと、友達だと思ってる?」

 アキくんはしばらく黙っていた。窓の外をじっと見ていて、それからぼそっと言った。

「……知り合い」

「知り合い!? 毎朝一時間しゃべってるのに!?」

「しゃべってんのはお前だけだ。俺は聞いてるだけ」

「素直じゃなし男! 天邪鬼!」

 ぷう、と膨れてみせたけど、本気で怒ってはいなかった。

 だってここまで仲良くしてくれるくせに、今更そんな意地張っちゃってさ。そんなところもかわいいもん。そんなところをかわいいって受け入れてあげられる私の方が、アキくんより大人で精神年齢も高いんだもんね。

 始業式の日、新しいクラスの名簿が廊下に貼り出された。人だかりの中に突っ込んでいって、二年三組の欄を上から順に目で追う。あ行、か行、さ行──

「あ」

 は行。「早川アキ」の文字。

 続けて自分の名前を探す。——あった。同じ三組。

 バッと振り返ると、廊下の端に、見慣れた黒い髪が見えた。人混みを避けるように壁際に立っているアキくんとばちりと目が合う。

「わー! やったね、同じクラスだ!」

 駆け寄って両手を広げると、アキくんは露骨に半歩下がる。なんだよ、本当に素直じゃないなあ。

「……ああ」

「『ああ』って! もうちょっと喜んでくれてもいいんじゃない!?」

「別に。クラスが同じだろうが何だろうが関係ない」

「ちぇー」

 と、ぼやいていたら──。

「大福餅ーーーーーッ!!!」

 背後から、ものすっごい勢いで名前を呼ばれた。振り返る間もなく、背中にどすんと衝撃が走る。大福餅っていうのは、私のあだ名。頬っぺたがもちもちしてて人より柔らかいから、大福餅。ちょっと不本意だけど。

「同じクラスじゃん! やったー! ねえ聞いた!? マナカも一緒だって!」

 飛びついてきたのは、ミツコちゃんだった。一年の時からの親友。ショートカットで声がでかくて、教室にいるだけでなぜか周囲の気温が二度くらい上がる女の子。

「ミツコちゃん! やったー! えっ、マナカちゃんも!?」

「そう! 三人一緒! 最高じゃない!?」

 二人ではしゃいでいると、廊下の向こうから「……うるさいんですけど」と冷静な声が聞こえてきた。

 マナカちゃんだ。黒縁眼鏡に三つ編み、いつも文庫本を持っている。ミツコちゃんとは正反対のタイプで、クラスの中では一番おとなしい部類に入る。でも、たまに放つ毒舌は刃物みたいに鋭い。

「マナカちゃーん!」

「おはよう。……廊下で叫ばないで、うるさいから」

「相変わらず心配性だなー!」

「心配性なんじゃなくて、あんたたちが無頓着すぎるの」

 三人で名簿の前に集まって、きゃあきゃあ騒ぐ。一年間同じクラスで過ごして、なんだかんだ一番気が合ったのがこの二人だった。ミツコちゃんの豪快さと、マナカちゃんの冷静さ。私はその中間くらい──と自分では思ってるけど、二人に言わせると「一番うるさい」らしい。

「ねえねえ、大福餅ちゃん。あの黒髪の美青年と、さっき親し気に話してなかった?」

 ミツコちゃんが、こそっと囁いた。アキくんはいつのまにやら姿を消して、教室の自席に座っている。抜かりのない男だ。

「え、あー。うん、ちょっとだけ。バスが一緒なの」

「えっ。早川くん? やばくない? めっちゃカッコいいじゃん」

「ミツコの『めっちゃカッコいい』はだいたい週替わりだから信用できない」

 マナカちゃんが淡々と刺す。ミツコちゃんが「ひどい!」と叫ぶ。私は笑う。いつもの感じだ。この二人といると、なんだか安心する。

 というか。

 一緒のクラスになって、気がついたことがある。

 アキくんは、学校でびっくりするほど静かだ。

 だって誰ともつるんでいるところを見たことがない。昼休みはいつも一人で、担当さんに持たされたのであろうお弁当を教室の隅で黙々と食べている。話しかけてくる人間には最低限の返事だけして、それ以上の関係を作ろうとしない。バスの中で私に見せるあのぶっきらぼうだけどちゃんと会話してくれる感じとは、まるで別人……ってほどでもないけど、でもまさか、ここまでとは思わなかった。学校には仲のいい男の子とか属してるグループとか、そういうのがあるんじゃないかなって思ってたんだけど、どうやらそれさえなさそうだから。

 でも、だからって浮いてるとか、そういう訳でもなくって。

 アキくんは顔がいい。勉強もできる。体育の時間に見たら運動もできた。五十メートル走がクラスで二番目に速くて、球技大会ではバスケのシュートをばんばん決めていた。

 だから、周囲にはそれなりに尊敬されていた。「早川って何考えてるかわかんないけど、すげーよな」みたいな、ちょっと遠巻きの敬意。そして、言うまでもなく女子にモテた。

 孤高ではあるけれど、孤独という感じではない。自分から壁を作っているだけで、その壁の外側には人が集まっている。なるほどそりゃ、媚びなくても良い訳ですな。そう考えると、胸の奥が少しだけざわざわした。

 少し……気になることがなかったわけじゃないけど、学校でアキくんに話しかけることは、あんまりしなかった。

 理由は単純だ。

 関係性を聞かれたとき、「毎朝バスが一緒で」だけで誤魔化せるならいい。でも下手に深掘りされて、「え、なんで一緒のバスなの?」「近所なの?」「どこ住み?」ってな感じで……そこから芋づる式に、私たちが施設の子供だってバレるかもしれない。

 それは、お互いあんまり、望ましくないことだ。

 アキくんもたぶん、同じ考えだった。

 学校の中で偶然目が合っても、軽く視線を逸らすだけ。廊下ですれ違っても会釈もしない。教室の中では、まるでお互いの存在を知らないみたいに振る舞っている。

 でも、それでいいのだ。

 朝のバスの一時間だけが私たちの時間で、学校にいる間はそれぞれの世界を生きる。毎朝一時間だけの関係性なんて、とってもロマンチックじゃないか。

 リュックの白い犬が今日もぶらぶら揺れている。

 アキくんのリュックは、外からは何もついていない。でも、ストラップの黒い紐だけは、ちゃんとチャックについてるのが見えていて。

 その内ポケットに黒い猫がいることを、私だけが知っている。

 それで、じゅうぶん。

 家族が全員死んだアキくんや他の子に比べたら、私の境遇はまだましなんじゃないかなって思う。でもやっぱり、孤児院に居る時点で、マトモではないんだろうな。

 時折、その現実を痛いほど突きつけられる。

 事件が起きたのは、三時間目の途中。

 季節は六月のはじめ。雨で窓が閉め切られてて、不思議と教科書を読み上げる先生の声が大きく聞こえた。

 まだ三時間目だけど、ねむたくって。

 窓際の席でぼんやり教科書を眺めていたら、廊下がにわかに騒がしくなった。

 怒鳴り声。男の声だ。太くて、がらがらした、聞き覚えのある声。

 心臓がいきなり止まったみたいになった。

 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。

 なんで。どうして。冷や汗がだらだらと流れて止まらない。どうしようどうしようどうしようなんていいわけしよう、どうしてってどうにもならないってわかってるけど、あ、あ、ああ。

「俺の娘を返せ!!  おい! ███はどこだ!!  俺の娘だぞ!!」

 廊下を、あの男が歩いていた。

——私の、父親だった。

 酒に焼けた声。よれよれのジャンパー。ふらつく足取り。完全に酔っている。平日の昼間から。

 不審者の侵入に教室がざわつく。

 担任の先生が慌てて廊下に出る。隣の教室からも先生が出てきて、必死に父親を取り押さえようとしている。

「お前ら国が勝手に連れて行ったんだろうが! 親権は俺にあんだぞ! ええ!?」

「落ち着いてください! ここは学校です!」

「うるせえ! ███! いるんだろ! 出てこい! パパだぞ!」

 パパ。

 その単語が耳に入った瞬間、胃の中身が全部せり上がってきた。口を押さえて机に突っ伏す。吐きそうだ。体の震えが止まらない。指先が冷たくなっていく。呼吸が、上手に、出来ない。

 教室中の視線が私に集まっているのが、顔を上げて居なくっても分かる。みんな気づいている。名前を叫ばれているのだから、気づかないわけがない。

 ミツコちゃんが私の肩をつかんだ。「だ……だいふくちゃん、大丈夫?」マナカちゃんが無言で私の前に立って、教室の視線から庇うように壁を作ってくれている。

 でも、そんなことで防げるものじゃなかった。

 結局、誰が通報したのか警察が来た。

 父親は取り押さえられて、連行された。先生たちは必死に事態を収拾しようとしてくれた。

 でも、ここは、中学校なのだ。

 百人以上の生徒がいて、あんな大声で名前を叫ばれて、「俺の娘を返せ」と騒がれて。隠しようがなかった。

 放課後には、もう噂になっていた。

 最初は「███のお父さんが学校に来て暴れた」くらいだった。それが翌日には「███って施設に入ってるらしい」になり、三日目には「親に虐待されてたらしいよ」になり。

 そして、一週間後。

 誰が言い出したのか分からない。でも、中学生の噂話というのは尾ひれがつくどころか、真実を容赦なくえぐり出すことがある。

「あいつ、父親にやられてたんだって」

「え……やられてたって、何を?」

「……だから、つまりさ」

 セックス。

 その生々しくて暴力的な四文字が、私の知らないところで、私の知らない口から、私の知らない数だけ囁かれていた。

 私が教室に入ると、さっきまで喋っていたグループが急に黙る。席に着くと、後ろの席の男子がくすくす笑う。移動教室の時、廊下ですれ違った知らない学年の女子に、じろじろ見られる。教科書を持つ手が震える。呼吸が上手くできなくなる。

 面と向かって何か言ってくるわけじゃない。

 だからこそ、辛かった。はっきり悪口を言われた方がまだマシだ。反論できるから。でも、空気で排除されると、戦いようがない。

 ……バレた。

 バレたバレたバレた、みんなに、バレた。あの男と、そういう関係性、だったこと。全部。それが一番、つらかった。

 最初に距離を置いたのは、マナカちゃんだった。

 ある朝、いつもの席に行ったら、マナカちゃんが一つ離れた席に座っていた。私と目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。マナカちゃん、と名前を読んだら、目も合わさずに一言。

「気持ち悪い」

 哀しいより先に、仕方ないと思った。マナカちゃんは性的なことに関して潔癖症な所のある子だから。

 噂がどんなふうに、彼女の耳に入ったのかは分からない。けれど、おおよそ良くない伝わり方をしたのは確実だろう。

「まな……」

「……ごめん。ちょっと、今日は……」

 その「ちょっと」が、二日になり、三日になり、一週間になった。「ちょっと」の先が初めから存在してないってことは、考えなくても明白だった。

 ミツコちゃんは、もう少し粘ってくれた。

 最初の数日は「気にすんな!」と肩を叩いてくれたし、一緒にお昼も食べてくれた。でも、ミツコちゃんの周りの友達が一人、また一人と離れていくのが見えた。ミツコちゃんと一緒にいると、自分も「あっち側」だと思われる。そういう計算が、中学生にだって働く。

「……ミツコ、ちゃん、無理しないでいいよ」

「は? 無理なんてしてないし」

「し、しっ……してる、よ。……いいの。ありがとう」

 ミツコちゃんは何か言いたそうに口を開いて、でも結局何も言わずに、俯いた。

 次の日から、彼女も別のグループと一緒にお昼を食べるようになった。

 一人になった。

 べつに。もともと、どっちみち、こんなもんだろう、とは思う。しんどい。しんどい。しんどいけど、こんなもんだろう、施設の子供なんてこんなもんだ。だって本当のことだから。本当のことを暴かれて、それで人が離れたんだから、仕方ないじゃないか、うん。そればっかりは、どうしようもない。どうしようもないから、考えるだけ無意味。

 お昼はトイレの個室で食べた。佐々木さんが作ってくれたお弁当を膝の上に広げて、一口食べて、吐きそうになって、蓋を閉めた。吐きたくない。嘔吐の音を誰かに聞かれるのが嫌だった。隣の個室に人がいるかもしれない。

 学校で、ごはんを食べられなくなった。

 申し訳なく思いながら、毎日お弁当をトイレに流した。

 それでもどうしてか分かっちゃうみたいで、佐々木さんが心配そうに「最近痩せたんじゃない?」と聞いてくる。「ダイエットしてるの!」と笑って誤魔化す。

 嘘をつく。笑う。おちゃらけて、ふざける。生存戦略。

 学校だけは休まなかった。

 休んだら負けだと思った。何に負けるのかは分からない。でも、布団の中に閉じこもって、佐々木さんに「学校行きたくない」と言ったら、そこから何もかもが崩れていく気がした。

 だから毎朝起きて、制服を着て、バスに乗って、学校に行って、八時間耐えて、バスで帰って、布団にもぐって、泣いた。泣くのだけは、布団の中でやった。

 小さいころからいつだってそうしてきたから、これは得意なのだ。……のだ。

 朝のバスで、アキくんは何も聞かなかった。噂を知っているのかいないのか……ううん、たぶん、知っている。同じクラスなのだから。教室の空気を読めない鈍感さは彼にはない。

 でも何も聞かなかったし、何も言わなかった。

 ただ、いつもと同じように隣に座って、いつもと同じように窓の外を見ていた。私がいつものように喋らないことにも、何もおかしくないみたいに、ただ黙って座っていた。それがなによりありがたかった。

 私がバスの中であんまりにもぐったりしていたら、アキくんが黙って缶のミルクティーを差し出してきたことがある。自販機で買えるようなやつで、とっくにぬるかった。

「……え」

「最近、痩せただろ。無理にでも飲んだ方が良い」

 それだけ言って、窓の外を向いた。

 私はそれを、アキくんが照れているときの癖だと知っている。

「うん……ありがとう」

 缶のプルタブを開けて、一口飲んだ。甘い。甘い液体が、空っぽのおなかに落ちていく。ここ数日で、初めてまともに何かを口にしたような、そんな感覚に陥る。

 抜いているのは昼御飯だけで、朝ごはんと夜ご飯はきっちり食べてたはずなのに、なんだか、初めてまともな栄養を取った気がした。

「……あ、りがと」

「別に」

 泣きそうになって、でも泣いたらアキくんが困るだろうから、必死に堪えた。缶を両手で握りしめて、ぬるい金属の温度にしがみついた。

 それでも普通にやることをやって普通に日常生活を送っている私って、実はすっごく真面目な女の子なんじゃないか、って思う。

 掃除当番が終わって教室に戻ろうとしたら、廊下の曲がり角の向こうから、笑い声が聞こえた。男子の声。三人か、四人。

「いやマジでさあ、███ちゃんだっけ? 父親とエッチしてたんだろ?」

 足が止まった。

「やめろよ、どっか聞こえたらどうすんだ」

「だって本当のことじゃん。施設の子なんだろ? なんかそーゆーのって遺伝すんのかな、やべえよな」

 げらげら笑う声。遺伝、って、何が。やばいってどういういみ、なんでやばいの。聞かなければいいのにぐるぐる思考が回るのを止められない。やめろ、やめろ、やめろ、聞くな。聞いちゃだめ、なのに。心臓がばくばくしている。逃げなきゃ。聞いちゃいけない。聞いたら壊れる。

「でもさあ──」

 一人が、声のトーンを落として、でも充分に聞こえる声で言った。

「確かにさあ、なんかアイツすげー色っぽいと思ってたんだよ。クラスの女子の中でいちばんエロいっていうか。やっぱ経験者は違うわけだ」

「確かに。ショジョじゃねーならまあ納得だわ、ぎゃはは!」

「頼ませたらヤラせてくれんじゃね!?」

「やべー! それやべーって!」

 下品な笑い声が廊下に反響した。

 その場に、立ち尽くしていた。足が動かない。手も動かない。息の仕方を忘れたみたいに、胸が苦しい。は、は、は、は、は。息が、上手に、出来ない。

 色っぽい。経験者。処女じゃない。

 違う。

 違う。違う。違う。

 あれは、そういうものじゃ、ない。ないのに、もう、そういう目で見られていて、それって、つまり。

 指の隙間から掃除用具が滑り落ちた、そのとき。

 背後から、誰かが私の横を走り抜けた。

 風が起きた。黒い髪。すらりとした背中。私と同じ、学園が業者からまとめ買いしている安い柔軟剤の匂い。

 アキくん——と思った次の瞬間、破裂音がした。

 ぱん、なんて軽い物じゃない、鈍くて重い音が、廊下に響いたのだ。

 殴った。

「あき、く」

 アキくんが、笑っていた男子の顔を、真正面から殴り飛ばしていた。

「ぐえっ!?」

 男子が壁に叩きつけられる。鼻から血が噴き出す。残りの三人が、呆然とアキくんを見上げて、でも怖くて動けないのか、その場で足踏みをするばかり。

「え? はやか」

 二発目。

 隣に立っていた男子の顎に、拳がめり込んだ。歯が折れる音がしたかもしれない。膝が崩れて、そいつはその場に崩れ落ちた。

「な、なんだよ急に!!」

 三人目が構える間もなかった。アキくんは無言のまま踏み込んで、みぞおちに膝を叩き込んだ。「ぐえっ」男子が蛙みたいな声を出して蹲る。

「お、おい早川! 何すんだよ!」

 四人目が叫んで、逃げようとした。「ヤラせてくれんじゃね」と言った男の子だった。アキくんは追いついて、後ろから襟を掴んで引き倒し、馬乗りになった。拳を振り下ろす。一発。二発。三発。あ、四発目——

「早川! やめなさい!!」

 先生の叫び声が聞こえる。

 ハッと顔を上げたら、あたりにはいつのまにやら人だかりが出来ていて、学年の入り混じった生徒たちが好奇心の目で一連の騒ぎを見ていた。

 おおかた、その中の誰かが呼んできたのだろう。駆けつけた男性教諭が二人がかりでアキくんを羽交い絞めにしたけれど、彼は暴れた。なりふり構わず、まるで手負いの犬みたいに暴れた。

「離せ!」

「落ち着け早川! まずはなにがあったのか……」

「離せっつってんだろ!!」

 先生の腕を振りほどこうとして、肘がもう一人の先生の顔に当たった。それでもアキくんは止まらなかった。

 目が据わっている。

 みたことない、顔だった。ここ数か月の間、一回も、あんなアキくんの顔を見たことはなかった。

 倒れた男子たちは全員血まみれだった。

 鼻血、口から出る血、額から流れる血。だくだく溢れて床に広がっていくのがまるでドラマの中の出来事みたいで、グロテスクなはずなのに、帰って冷静に見れた。特に重点的に殴られた四人目の男の子は完全に意識が飛んでいるみたいで、白目を剥いて動かない。

 結局、男の体育の先生が駆けつけて、ようやくアキくんは取り押さえられた。

 両腕をねじり上げられた状態で、アキくんは荒い息をついていた。拳が真っ赤だ。相手の血と、自分の血が混じっている。拳の皮が裂けている。それでもまだ、倒れている四人を睨みつけていた。どうして、そんなこと。

「なあ、だれか、事情を知ってるやつはいないのか! なんでこんなことになった!」

「……わたし、だと、思います」

「はあ!?」

「その男の子たちが、私のこと、色々言ってて、それをアキくんが聞いて」

 声を絞り出して、惨状の前に立つ。

 荒い息の体育教師が顔を上げて——私の顔を見た瞬間に、「ああ」と顔を伏せる。先生は生徒の事情を全部知ってる、らしい。生徒のことは、職員室で共有されるから。だからきっと、私のことも、アキくんの事情も、きちんと知ってる。

「ああ……なんとなく分かったよ。……とりあえず、残りの事情は当事者たちに聞こう。ほら、他の生徒は解散!」

「はいはいはい、皆さん自分の教室に戻ってください! このことは他言しないようにー!」

 いつのまにやら現れた神経質な家庭科の女の先生が声を張り上げながら生徒をしっしっと手で追い払うけど、その顔にはどこか諦観も滲んでいて。だって、無理だもん。これだけのことを噂にしないのって。

 それを先生も分かっているんだろう。

「アキくん」

 それでも私は周りの喧騒を気にせずに、真っすぐ彼の目を見た。アキくんの目がこちらを向く。

 先生に押さえ込まれた姿勢のまま、彼は私を見た。その顔の前にしゃがみ込む。アキくんの足を申し訳程度に抑えていたなよなよしい男の先生が何か言いたげな顔をしたけれど、でも、私を止めたりはしなかった。

「アキくん」

「お前の為じゃない」

「……アキくん」

「俺が殴りたかったから、殴った。それだけだ」

「そんなこと聞いてない」

「……」

「……ねえ、いいの? こんなことしたら、バレちゃうかもしれないんだよ」

 アキくんが、少しだけ口ごもる。

「アキくんも、バレちゃうよ。施設の子だって……」

「……別に、バレてもいい」

「なんで……」

「バレてもバレなくても、関係ない。元から、他の誰とも馴れ合うつもりはない」

「なにそれ……あは、あはは、なにそれ……っ」

 もう、なんだよそれ。どんだけ態度悪いんだよ、お前。

 それを聞いた途端、そんなつもりじゃなかったのに、ぽろぽろ涙がこぼれ出た。

「素直じゃなし男、天邪鬼」

 堪えていたのに。ずっと堪えていたのに。制服の袖で顔を拭って、でも全然追いつかなくて、しゃがみこんで、泣いた。

 アキくんが四人をぶちのめした事件は、当然ながら大問題になった。

 まず警察に呼び出されたのはアキくんで、次にぶちのめされた四人で、その次に私で、その次に担任の先生で、そのまた次に学年主任と教頭と校長。あとは担当さんと学園長。職員室の空気が数日にわたってぴりぴりしていたらしいということは、後から別の先生にこっそり教えてもらった。

 私が心配していたのは、アキくんの処分のことだった。

 一方的に四人を殴ったのは事実だし、一人は前歯が折れて、もう一人は鼻の骨にヒビが入っていた。普通に考えたら停学だ。下手したら退学もあり得る。

 ……そうしたら、アキくん、転校かな。今は義務教育だからまだいいけど、グループホームは自立が前提の施設だから、高校に入らなかったら容赦なく追い出される。そしたらアキくん、中卒で働くの? それってちょっと、っていうか大分きついって。

 でも——結果から言うと、アキくんへの処分は「厳重注意」だけだった。

 理由は、殴られた側の四人の親御さんだった。

 学校から連絡を受けて事情を聞いた四人の親御さんたちが、これがまた、揃いも揃って良い人たちだったのだ。

 子どもが殴られたのに、怒鳴り込んでくるどころか、全員が全員「うちの息子が申し訳ないことを言った」「許されることじゃない」という反応だったらしい。

 特に、一番ひどく殴られた四人目——「ヤラせてくれんじゃね」と言った男の子のお父さんは、学校に菓子折りを持ってきたとか。校長先生が「いや、殴った側はうちの生徒ですので……」と困惑したという話を、後日アキくんから聞いた。

「で。あいつらの親から小遣い貰った」

「えっ」

「一万円」

「い、いちまんえん!?」

 朝のバス。いつもの席。私は目を丸くした。一万円。一万円だ。中学生にとっての一万円がどれだけの大金か、普通の家庭の子にはたぶん分からないだろうけれど、施設の子供にとっては天文学的な数字だ。お年玉、十年分。

「すごい……すごすぎる……」

「あと、お前にも渡しておけって」

 アキくんはポケットから封筒を取り出して、ぞんざいに私に押しつけた。中を開けたら、お札と、それから便箋が数枚入っていた。

 丁寧な字で書かれた謝罪文だった。

 四人の親御さんそれぞれから一通ずつ。「息子が大変なご迷惑をおかけしました」「深くお詫び申し上げます」「どうか今後とも健やかに」──大人の、ちゃんとした、まっとうな言葉が並んでいた。

 ……ああ。

 世の中にはこういう親もいるんだなあ、と思ったら、なんだか泣けてきた。泣けてきたけど、今ここで泣いたらアキくんがまた困った顔をするから、ぐっと堪えて封筒を胸に抱えた。涙がこぼれないように「みて! コロッケ! モノマネ芸人のさらにそのモノマネ!」と変顔をしたら、アキくんが不思議そうな顔をしてた。後から知ったけど、アキくんは普段テレビを見ないらしい。

「んでも、どうしよう。返信とか書いた方がいいよね。私、手紙の書き方とか分からないんだけど……はいけー? とか書くの? 時候の挨拶とか要る? なんて書くの? どうしよう佐々木さんに聞いた方がいい? でもそしたら事情を説明しなきゃいけないしい……」

「お前、落ち着けって」

 アキくんがため息をついた。

「所詮加害者の自己満足なんだから、返事をするかどうかはお前の勝手だろ」

 ……なるほど。アキくんは、いちいち言うことが大人びてる。

 加害者の、自己満足かあ。そういう見方もあるのかも。

 確かに、謝罪文を送ってくるのは親御さんたちの良心の問題であって、私がそれに応じる義務はない。のかも、しれない。なんか、これだけ丁寧に書いてくれてるのに、申し訳ないような気がするけど……。

 結構迷ったけど、結局、何も書かなかった。

 でもお小遣いはきっちり頂戴した。だって貰えるものは貰う主義なので。お小遣いに飢えた中学生を舐めてはいけない。

 そのお金で、ずっとずっと前から欲しかった、資生堂のビューラーを買った。

 百均のへなへなのやつじゃない。ちゃんとしたやつ。ゴムが二段構えになっていて、目の形にフィットするカーブがついていて、根元からばっちり睫毛を上げてくれる優れもの。何度か使って、鏡の前で何度も何度もキメ顔をした。うん、とってもかわいい。同室の先輩に「いいの買ったね! でもお金どしたの」と聞かれたから、少し考えてから「友達にもらった!」と答えた。

 嘘はついてない。

 嘘じゃ、ない。

 確かに、アキくんに貰ったもので買ったビューラーだもん。

 あの事件のあと、教室の空気は少しだけ変わった。少しだけ、だけど。劇的に何かが好転したわけじゃない。でも、四人の男子がボコボコにされたという事実は、

「███のことを面白おかしく噂すると、早川アキにぶん殴られる」

 という認識を学年中に植え付けたらしい。抑止力として、これ以上のものはなかった。

 ついでに言うと、アキくんにも色々な噂が付いたそうだ。噂を流したのは殴られた男のうちの一人で、「アキはキレたらすぐに手が出る施設育ちだ」とか、「あいつ███のこと好きなんだぜ」とかなんとか。

 でもアキくんの普段の人柄もあって、そんな噂はすぐに消えて行った。むしろ「アキは普段は静かだけど、性根が真っすぐで良いヤツ」という見方の方が今は強くて、殴られた四人の方が、よっぽど居心地が悪そうにしている。

 アキくんはいつも通り、堂々と自分の席に座って、クールな表情で窓の外を眺めてるだけ。

「大福餅ー!!!」

 翌日、教室に入った瞬間、ミツコちゃんが突進してきた。いつもの勢いで。いつものテンションで。でもその顔は、いつもよりちょっとだけ必死に見えた。

「見てた! 昨日の! 早川のあの凄まじいパンチ! やばかったね!? あれ格闘技でもやってんのって感じ!」

「え……あ、うん……見てたの?」

「見てたよ廊下にいたもん! いやーーー、あれ見て認識改めてさあ」

 ミツコちゃんは、ぐっと拳を握りしめた。

「今までの私、めちゃめちゃ卑怯だった!」

 声がでかい。教室中に響いている。周りの生徒がぎょっとしてこっちを見ているけれど、ミツコちゃんはお構いなしだった。……というかむしろ、それを狙ってるみたいに見えた。ミツコちゃんの真ん丸な目が、時折きょろきょろと周りを確認するように動いているから。

「だってさあ、あの男子たちがあんなこと言ってるの、薄々知ってたんだよ私。知ってたのに何もしなかった。『巻き込まれたくない』とか思ってた。最低じゃん。私がやるべきだったのに、早川にやらせちゃった。マジで恥ずかしい。ほんとごめん!」

 深々と頭を下げられた。勢いよく下げすぎて、おでこが私のおでこにごちんとぶつかった。

「いった!」

「いたっ! ごめん!」

「ミツコちゃん勢いつけすぎ……」

「勢いしか取り柄がないからさあ!」

 笑ってしまった。

 久しぶりに、声を出して笑った。ミツコちゃんもつられて笑って、それから「ほんとにごめんね」ともう一度、今度は静かに言った。

 その日の昼休み、ミツコちゃんは当然のように私の隣に座ってお弁当を広げた。それを見て、他の女の子が数人、おそるおそる近づいてきた。

「あの……███、ちゃん。今まで避けるような感じになっちゃって、ごめんね……」

「私も……なんか、どう接したらいいか分かんなくて……」

「ごめんなさい」

 三人の女子が、それぞれに頭を下げた。

 知ってる子たちだ。

 一年のときに同じ班だった子とか、体育の時間にペアを組んだことがある子とか。すごく仲が良かったわけじゃないけれど、でも、顔を合わせれば挨拶をする程度の——ふつうの、クラスメートだった子たち。

「……ううん。ありがとう」

 精一杯お茶らけた感じで返そうとしたけど……どうしてか言葉が出なくて、それだけ言うのが精一杯だった。嬉しいとか、許すとか、そういう言葉もすぐには出てこなかった。なんだか、どうしたらいいのか、分からなくって。

 でも、お弁当の蓋を開けて、佐々木さんが作ってくれた卵焼きを口に入れたら、久しぶりにちゃんと味がした。甘い。佐々木さんの卵焼きは、いつもちょっと甘すぎる。

 でも、マナカちゃんだけは、戻ってこなかった。

 廊下ですれ違うと、さっと目を逸らされる。教室の中でも、私がいる方向を見ないようにしているのが分かる。避けているというよりは、どう接したらいいか分からなくて固まっている、という感じに近いんじゃないかなぁ、と思った。勝手な私の考えだけど。

 マナカちゃんは真面目な子だから。真面目すぎるから、一度「気持ち悪い」と言ってしまった自分を許せないのかも。それとも今でも本当にそう思っているのか。たぶん、両方なんだろうな。わかんないけど、なんとなくそう思う。

 ミツコちゃんが「私からマナカに話そうか?」と言ってくれたこともある。でも、私は黙って首を振った。

 だって、マナカちゃんの気持ちも分かるもん。

 性的なことに対する嫌悪感は、理屈でどうにかなるものじゃない、って。それはマナカちゃんのせいじゃないし、私のせいでもない。

 ただ、噛み合わなかった。

 それだけのことだ。

 ——それだけのことだ、って本当に割り切れたら、どんなに楽だろな。

 現実は、最善を分かってたってどうしても気にすることを辞められないから……だからこそ、辛いのである。これ、中学生の辛いとこね。

 帰りのバスでぼーっと窓の外を見ていたら、アキくんが「あの眼鏡の女と、まだ話してないのか」と聞いてきた。最近私が部活を休んでるから、時々はこうして帰りのバスでも一緒になる。

 見てたんだ、と思った。私がマナカちゃんと最近話してなかったのもそうだけど……もともと仲良しだったこととか、アキくんはいつの間にか知ってたんだな。

「うん。マナカちゃんはたぶん、もう無理だと思う」

「そうか」

「でも、仕方ないよ。マナカちゃんが悪いわけじゃないし」

「お前が悪いわけでもない」

「……うむ。そうじゃのう。うむ、うむ……。……うん、そうだね」

 目頭が熱くなったけど、泣かなかった。

 窓の外には夕焼けが広がっていた。日の光がバスの中に入ってきて、座席も床もアキくんの髪もぜんぶオレンジ色に染まっていた。久しぶりに見た夕方の晴れ間だぁ、と思った。

 もうじき、梅雨が明ける。

 私の隣にはミツコちゃんがいるし、あのとき謝ってくれた女の子たちとも、少しずつだけど普通に話せるようになってきた。アキくんは相変わらず教室では孤高を貫いていたけれど、廊下ですれ違うときに、ほんの一瞬だけ目が合うようになった。私は結構単純だから、それだけで、その日一日をやっていける。

 朝のバスは、いつも通り。

 私が先に乗って、隣の停留所でアキくんが乗ってきて、空いていればまっすぐ私の隣に——最近は、空いていても私の隣に座ってくれるようになった。たぶん、私の、勘違いじゃなかったら。

 私はそのことに自分でも気づいているくせに、気づいていないふりをしている。だってそうしないと、心臓がうるさくてしょうがなくなっちゃうから。

「おはよアキくん! ねえねえ、私の顔、何かいつもと違うと思わない?」

 アキくんは私の顔を一瞥して、ちょっと考えるような間を置いて、

「髪切った?」

「うわっ全然考えなかったでしょ今! あてずっぽうすぎ!」

「じゃあ何だよ」

「違うよう、睫毛! 睫毛が今日は上がってるの! この前のお小遣いでビューラー買ったから!」

 ぱちぱち、と瞬きをして見せる。自分で言うのもなんだけど、今朝の仕上がりはかなり良い。根元からくるんとカールがかかっていて、目がいつもより三割増しで大きく見える。自画自賛。百点満点。

「ね、ね、かわいい?」

 聞くと、アキくんは露骨に嫌そうな顔をした。褒めてほしい相手からその反応をされると結構くるものがあるんだけど、まあ、想定の範囲内。

「……あー……」

 窓の外に目を逸らしながら、ぼそっと。

「いつもより、目が開いてて……まあ、ちょっとは、利口そうに見える」

「それって褒めてるの? 利口そうって、褒め言葉?」

「知らない。自分で判断しろ」

「もうちょっと素直な感想はないの!?」

「ない」

 ぷう、と膨れてみせるけど、内心はにまにましている。よく分かんないけど、褒め言葉だって思っていいんだよね。

 それに。「いつもより」ってことは、いつもの私の顔をちゃんと見てるってことだ。比較対象がある、ってことだ。

「んふふ……睫毛をあげるだけなら、何も塗ってないからね。校則にぎりぎりセーフなの」

「そういう抜け道を探すエネルギーを勉強に使え」

「やだ」

 バスが揺れる。

 いつもの朝。いつもの一時間。早朝の空はいつも少し冷たくて、窓から入る光がまぶしくて、となりにはアキくんがいて。それだけで私、幸せだもん。

 そうしてしばらく他愛もない話をしていたら、ふいにアキくんが私の手を小突いた。

「ん? なになに」

 下を見る。自分からつついてきたくせにアキくんは何にも言いださないし、目を合わせようともしない。窓の外を見たまま、そっぽを向いたまま、私の手の中にぐいぐいと何かをねじ込んでくる。なんだよもう、今日はいつにもまして態度悪いな。

 するりと、なにか冷たいものが指に当たった。

 金属……チェーンの感触。だ。小さくって、ごちゃっとしてる。

 手のひらを開いた。

 ストラップが二つ。

 犬と、猫。

 前に取ったのとは別の種類だった。今度は猫の方が舌をべろんと出していて、犬の方がきりっと真面目な顔をしている。前にとったのとは反対だ。

「な……なんで、これ」

「新しいのが出てるのを見かけたから、取ってきた」

 取ってきた。ゲームセンターで。クレーンゲームで?

 あのアキくんが。あのやかましい場所に、一人で行ったのか。

「なんで……い、いくら使ったの」

 目を合わせようとしないアキくん。窓の外を見たまま、ぼそっと。

「……四千円くらい」

「あれで四千円!? どんだけ才能なかったの!」

「うるさい」

「一回百円だから……よ、四十回もやったの!?」

「猫の方はすぐに取れた! 犬の方が取れなかったんだよ!」

「あはは、あはははは! 四十回! アキくん! 四十回だよ!」

「うるさい!要らないなら返せ!」

「いるいるいるいるいる超いる、要りまくるよ! 返せって言われても返さない!」

 バスの運転手がミラー越しにこちらを見て苦笑いしてるのが見えたけど、ごめんなさい。ちょっと今は、声が抑えられないです。

 手の中のストラップをぎゅっと握りしめた。金属の角がちょっと痛い。でも痛いくらいがいい。夢じゃないって、分かるから。

「……絶対に、返してあげないもんね」

 手が震えた。

 嬉しすぎて。嬉しすぎて震えるなんて、漫画の中だけの話だと思っていた。でもほんとうに震えるんだ。指先がぶるぶるして、止まらない。

 犬と猫を見比べた。

 前のやつは、犬が舌を出してておバカっぽくて、猫が真面目な顔をしてた。

 でも今度は逆。猫が舌を出していて、犬が真面目。

 ちょっと迷って、猫の方を取った。

 舌を出した猫。おバカみたいな顔。前にアキくんが持って帰った、真面目な顔の猫と正反対。でも、どっちも猫だもん。

 そして犬の方を、アキくんに押しつけた。

「ねえ、これもお揃いにしようよ。猫のやつと一緒に、つけてよ」

「……ん」

 受け取ってくれた。

 目も合わさずに、そっぽを向いたまま、犬のキーホルダーを手に取った。

 アキくんの耳が、リンゴみたいに赤い。

* * *

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