今度の休暇は結局大人になるまで一度も地元の北海道から出ることのなかった弟の就職祝いの為に地元に帰るのだというと「家族仲がいいんだね、いいね」と副隊長に人の好さそうな顔でにこにこ笑われたがそれもまた違う気がして、曖昧な笑みの他には返事を返せなかった。
仲がいいというのが具体的に何を指して言う言葉なのか、その手の話題になるたびにいつも考えあぐねる。電話を月に一度するくらいで仲がいいと言うのか、誕生日を覚えているのを仲がいいと言うのか。分からないので無難な笑みを浮かべて受け流す、というのが東京に出てきてからの俺のひとつの処世術になっていて、まあ、たぶん多くの場合それで成立してしまっているのだろう。
弟は昔からとにかく体が弱かった。
幼稚園に入る頃から発作を起こして親を呼ぶことが珍しくなく、小学校に上がっても体育の授業はほとんど見学で、季節の変わり目には毎度のように熱を出して学校を休んでいた。両親はそんな弟を案じるあまり、というか俺にはずっとそう見えていたから、おそらく事実そうだったのだろうが、目の届くところにはいつも弟がいた。リビングのソファでも車の後部座席でも、両親の視界の正面には常に弟がいて、俺はそのいくらか後ろの見えていなくはないが見えてもいない、そういう位置に座っていることが多かった気がする。気がするというのはこのあたりの記憶が断片的で、過去のことを子どもの解釈で固定してしまっている懸念があるからだ。だから推量で語るしかない。
ともかくも、物心ついたころから、両親に熱心に構って貰えた記憶がない。思えば両親の制止を振り切って東京に就職を決めたのも、それが遠因にある気がする。
とはいえ家族仲が特別に悪いという訳でもなく、なんとはなしに俺が居心地の悪さを感じている程度であって、実際はそれなりに帰省もするし弟とも連絡を取り合う仲である。となれば、姉妹仲が自分のそれ以上に拗れていてかつ険悪なものであるらしい副隊長の前では、おくびにも自分の家庭環境を卑下は出来ないのだった。
俺のいない間、両親にさぞ甘やかされていたのだろうと思っていた弟は俺が思うよりもずっと大人らしい大人に成長していて、ますます実家の中での居場所を失ったような気持ちになりながら帰路につく。
そんな心中のまま空港内の土産物屋を覗いて、目についた菓子をあれこれ買ったのが悪かった。チーズの入った焼き菓子の箱、白い包装のクッキー、缶に入ったキャラメル、生ものに近い感じの和菓子の小箱。一つ一つはたかが知れた値段ではあるが、公安でうろちょろしているガキ二人が寄ってたかって食う分量を計算して買い込んだら、レジで提示された合計金額は予想をかなり上回っていた。痛い。痛いが、まあいい、うちには遠慮なくこの手の菓子を箱ごとがさっと持っていく類のガキがいるから、明日の昼にはどうせ箱が空になっているだろう。
しかし予想に反して、帰宅して二日経っても、菓子の減り方は意外にも穏やかなのだった。
焼き菓子の箱を開けて給湯室に置いておく。一日経って覗くと、まあそれなりに減っている。クッキーの缶を開ける。半日経って覗くと、上の段から数枚減っているだけ。それから三日目の夕方に至っても、最初に開けた焼き菓子の箱はまだ半分以上中身が残っていて、何だ、こんなにちゃんと分け合って消費されることがあったか、何か俺のミスなのではないかと些か不安になった。たまたま給湯室で鉢合わせた『うちのガキ』筆頭であるところのデンジに
「土産、口に合わなかったか」
と、なるべく平坦な声で訊いた。詰問するつもりはなく、本当にただ減り方の理由を知りたかっただけだ。
「? 別に、すげー美味かったっすけど」
「その割には減りが遅いだろ」
「そんなことないっすよ。ひとりで三つくらい食べましたし」
デンジは眼帯をしていない左目だけで笑っている。蓋を開けたままの焼き菓子の箱の中に、半分以上残った中身。茶封筒に似た色の包装紙が几帳面に揃えて重ねられているのは、たぶんこいつではなく、別の誰かが手をつけたあとに整えたのだろう。
「三つ……パワーは?」
「パワーもうまいっつって四つくらい食ってましたよ。行儀悪いからって止めたんすけど、聞かなくて。明日出張から隊長が戻ってくるのまでに土産空にしたらマズいっしょ」
「……お前、昔なら箱ごと盗んでただろ」
言ってから、これは少し意地が悪い言い方だったかと思った。しかしデンジは怒るでもなく、吹き出すようにして笑っている。
「いつの話してんすか。俺もう19ですよ」
「……そうか」
「ガキじゃないんすから、その辺の分別くらいはあります」
そういうものか。……そういうものだろうかと内心で繰り返した。そういうもの、というのが何を指してそう言っているのか自分でもよく分からなかったが、あのデンジが19歳の大人になったという事実への違和感が脳にこびりついて離れない。
殉職者の多い公安デビルハンターの中では年長ではあるものの世間的に見れば副隊長もまだまだ若輩者の部類であり、さらには聞いたところによると家の中では末っ子らしい。それを聞いてしまうと、なるほど普段の上長としての振舞いにもどことなく無理が滲むわけだとどこか納得してしまう部分もあった。
給湯室からすすり泣く声が聞こえてくるので恐る恐る中をのぞくと、副隊長が目元を真っ赤に腫らしてすすり泣いている。よくもこんな人に見つかるような場所でと思う反面、その手元に自分の持ってきた土産の袋が何個も握られているのを見て、何故だか体の中の血が一気に熱くなるような感じがした。
「こんな目立つ場所で泣くな。部下に見つかったらどうするんですか」
「あ、あ、あきく……」
ずびずび鼻をすするので自前のティッシュを差し出す。自分で持っていないのかと内心で思ったのを見透かされたのか「自分の、使い切っちゃったの」と副隊長が前置きし、確かにゴミ袋を見るとティッシュの山が既に出来ていた。
「ちがうとこで泣いてたんだけどね、お腹空いたから、アキくんのお菓子たべにきたの」
「……ひとりで何個食べたんですか」
「じゅっこくらいい……」
「20個入りの半分、一人で食べます? 普通」
「だって、アキくん、どうせデンジくんとかパワーちゃんとかがいっぱい食べるの見こして、沢山買ってるでしょ? でもあの二人、最近おとなだし、そういうことしなくなったし、だから私がたくさんたべる」
予想は当たっているが、その理屈はおかしい。それだとデンジとパワーよりあんたの方がガキだということになるがそれでいいのかと返しかけて、泣きっ面に蜂だと思ったのでやめた。代わりにというべきか妙に嬉しいような気持ちが胸の底からじわりと湧いてくる。面白いというのでもなく、笑えるというのでもなく、ただただ嬉しい。何故だかは自分でもよく分からない。
「……立てますか」
「……?」
「こんなとこで泣いてたら目につくから。出ますよ」
「ど、どこいくの……」
「腹減ってるんでしょ」
肘の辺りを軽く掴んで引っ張ると、副隊長は焼き菓子の包装紙を片手に握りしめたまま、ずるずると俺の後ろをついてきた。包装紙を取り上げようかとも思ったが、本人がぎゅっと握りしめているのだから態々捨てさせることもないだろう。ともかくこの顔を他人に見せるのが妙に惜しく思われたので、地下駐車場でタクシーを掴まえて自宅に連れ帰ることにした。
給湯室から駐車場、駐車場から後部座席、マンションの玄関先まで、副隊長はずっと自分の上着の袖を握っている。
「リビングのそこ、座ってて下さい」
「うん……」
冷蔵庫を開ける。残り物の鶏むね肉、賞味期限が今日までの卵、しなびかけたほうれん草、長ねぎ。米は炊飯器に保温で残っていたはず。鍋に湯を沸かして、肉とほうれん草を一口大に刻みながら、出汁を放り込む。手を動かしている間、リビングからは時折ずびっと鼻をすする音だけが聞こえている。卵でとじた雑炊を簡単に作り、茶碗に盛って、ソファの前のローテーブルに置く。レンゲも添える。
「食えます?」
「……たべる」
「そうですか」
彼女の隣に腰を下ろした。二口目、三口目、四口目あたりで、副隊長はようやく息をつくように肩の力を抜く。茶碗を膝の上に置いたままレンゲを握って、湯気が立つ雑炊の表面をじっと見ている。睫毛の先に光るものが引っかかったままだ。
よしよしと口に出すのは流石に気恥ずかしかったので、無言で頭を撫でてやった。最近はセクハラがどうだのとうるさいが、部下が上司にする場合も適用されるものだろうか。副隊長は歳の割に妙に幼い顔つきをしているから、ことさら不安になる。
「あのね、アキくん……」
副隊長は泣いていた事情を説明しなければと思ったのか口を開けて、しかし葛藤してやはり口を閉じて、代わりにあむあむと雑炊を食べている。少し考えてその小さい手からレンゲを取り上げて、雑炊を掬って口もとに運んでやった。これは俺なりの「言いたくないなら言わなくてもいい」の意思表示だったがあちらはそうは思わなかったらしく、かなりぎょっとした顔をされてしまっている。
最近、人との距離感を測り違えることが多い。
何となくシラフのままでは話しにくいだろうという気がしたので戸棚に押し込んであった日本酒の瓶と猪口を二つテーブルに出してきた。雑炊の茶碗を空にした副隊長は遠慮することもなく、目の前に置かれた小さい器の中身を律儀にちびちびと飲んでいる。
少しして酔いが回ってからようやく重い口を開いた副隊長の話は、仕事が大変だとか、副隊長という立場が思った以上に重くてもう辞めたいだとか、新人が言うことを聞かないだとか、その手の至極くだらない愚痴で大半を占められていた。そんなことだろうとはどこか白けたことを思ってはいたが表には出さずはあそうですかと適当な相槌を打ちながら聞いておく。空きかけた猪口にも酌をしてやる。
もともと酒に強い方ではなかったはずだ。
二時間と経たないうちに副隊長はソファの背もたれに頭を預けるような格好になりそのままこてんと寝てしまった。肩を軽く揺さぶってみたが、むにゃむにゃと寝言のような声を漏らすばかりで、起きる気配がない。どこまでいっても世話の焼ける人だ。仕方がないので、ジャケットだけを脱がせて、抱え上げて、自分のベッドまで運んでやることにする。
そうして抱え上げた瞬間に、妙な既視感が走った。なんだろうかと少し考える。考えて、いつかの実家の夜、熱を出した弟のタイヨウを子供部屋まで運んでやったあの感触に酷似していることに気がついた。副隊長の背格好と当時のタイヨウのそれがほとんど同じだ。あの頃のタイヨウはたしか小学生かそこらだったはずだが、確かに小柄な彼女は時折小学生と見分けがつかない時もある。
寝ている女性にこういうことをするのは流石に倫理的にどうかと思う気持ちは当然あるのだが好奇心の方が勝った。膝をベッドの縁につくようにして、そっとその小さな体ごと抱きかかえるようにして腕の中に収めてみる。酒のせいで上がっているのか、いつもより少しだけ高い体温が、子供特有の妙に熱っぽい体温にやけに似ていて、その瞬間、形容しがたいノスタルジーが脳を走った。ああたしかに、あの頃のタイヨウは俺が部屋を出れば俺の後ろをちょこちょこついてきて、台所に行けば「何してんの」と訊いて、トイレに行けば扉の前で律儀に待っていて、布団に潜れば袖を引いて、可愛かった、のに。
膝の力が抜けて、彼女を抱えたままベッドに横倒しになった。寝込みを襲って何か変なことをしようというような気はない( こうして抱きしめていること自体がそもそも「変なこと」に該当するかどうかはこの際別問題として)ものの、どちらにしてもこの状況が本人に見つかったらまずいことになるという意識はあり、今にでも部屋を出よう出ようと思うが体が動かない。
その代わり胸元からずっと聞こえていた微かな寝息が止まっていて、ふと下を見ると副隊長が潤んだ目で俺を見上げていた。
「アキくん」
「はい」
「おしごとやめたい」
「……はい」
「つらい……」
ぎゅっと抱きつかれてくらりと来るものがなかったといえば嘘になる。彼女の良くない噂は知っているし、どうせこうして都合よく甘えられるのなら相手は俺でなくても良いのだろうと冷静に分析している自分もいるが、それでも。
母親から弟が会社で表彰されたから云々というメールが届き、要するにまた実家に帰ってこいという旨の連絡だったが適当な返事であしらった。副隊長は小さくて柔らかくて、酒を飲んでいない時でも素の体温が高くて、胸の中に抱いているとまるで小さな子供を抱きしめている時のような暖かかな気持ちになる。
そもそも酒の勢いで越えたようなあやふやで不確かな一線ではあったが、あの夜一晩中宥めて甘やかしてやったにも関わらず副隊長はなおも仕事が辛いもう辞めたいと定期的に給湯室でこれみよがしにグズっているし、俺は俺で目敏くそれを見付けた上で無視しないので、いつの間にか定期的に体を重ねる仲になっていた。
小学生の頃の弟とさほど変わらないこんなに小さな体で俺を根元まで飲み込めるものなのだろうか。毎回そう思うが、しかし確かに副隊長はちゃんと全部咥え込んでくれるし、あまり挿入で苦労した覚えもない。女性の体はよく出来ているなあと他人事に考える。この小さな体で、妊娠出産も、理屈の上では出来るのだから。
「あっ、あっ、うう、ぅ」
「ん」
「いく、いくから、よしよし、あたまよしよしってして……」
「よしよし」
泣きじゃくるみたいな喘ぎ方が耳に心地いい。言われた通りに頭を耳を指先で撫でてやると、心地よさそうに目を細めて「あきおにいちゃん……」と何回目かの夜に教え込んだ呼び名を口にするので、罪悪感と興奮の狭間で気が狂いそうで、「もっと呼んでください」と囁いた。
「んっ、おにいちゃん、おにいちゃん、っ……」
「気持ちいいですか」
「うんっ……」
今際の際にはこの必死に俺を呼ぶ甘えた声を聞きながら死にたい。
いっそ俺に子供でも居ればこの渇きも少しは癒えるのだろうか。
であればこのまま彼女を孕ませてしまってもいいかもしれないとも思ったが、目の前でぐずぐず泣いて居るこれが一丁前に赤子を抱いて母親の顔をしているところを想像すると、それだけで吐き気がした。
「うっ、ううっ……」
薄い腹筋の上に吐き出したものを指で掬って小さい口の中に突っ込むと、分かりやすく嫌そうな顔をして唾と一緒に吐き出したので声を出して笑ってしまう。
この甘ったれを一生甘ったれのままにするために、俺は何をすれば良いのだろう。
Here’s looking at you.